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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

10月13日、一言坂の戦い

2016年10月13日 | 何の日?
元亀3年(1572)10月13日、遠江国一言坂で徳川軍の本多忠勝と、武田軍の山県昌景が戦いました。
三方ヶ原の戦いの前哨戦の一つでもある戦いで、二俣城での戦いに敗れた徳川家康が天竜川の東である一言坂に本多忠勝ら3000の兵を抑えとして派兵します。
しかし坂の上にはすでに山県昌景5000が陣取っていて、忠勝は家康が逃げるまでの間に坂の下で上からの敵を防ぐという難しい戦いを強いられるのです。
しかも、本多軍の後方に小杉左近を進ませて鉄砲を撃たせ挟み撃ちにするという武田軍必勝の策が実行されました。

陣も安定せず、地形や人数も不利だった忠勝でしたが後方の小杉隊に突っ込むことで死地を脱したのです。
このときに小杉は道を開けさせて、忠勝は感謝の言葉を述べて去っていったのでした。

この戦いの後、小杉左近は
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」
との落首を書き、本多忠勝の武勇を賞したのです。


現在は国道一号線が通り道が整備されていますが、それでも浜松市から磐田市への移動で一言坂の落差がよくわかります。
磐田警察署の少し西に古戦場跡があり、ここに立つと落差が顕著です。




一言坂から1キロほど西へ向かうと、徳川家康が提灯の光で武田軍をだまして打ち取ったという伝承がある挑燈野という場所があります。



三方ヶ原の後の犀ヶ崖でも同じような伝承がありますが、これらは家康がただ負けただけではないとの神君伝説の一つなのかもしれませんね。


・所在地 静岡県磐田市(国道一号線沿い)
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ひこにゃん10歳

2016年04月13日 | 何の日?
2016年4月13日で彦根市のゆるきゃらである、ひこにゃんが10歳の誕生日を迎えました。

残念ながら平日のため、管理人はお祝いに行けず昔のひこにゃんの写真をアップします。

ひこにゃん誕生の翌年には『国宝彦根城築城400年祭』で大活躍し、その可愛さからゆるキャラの代名詞ともなったひこにゃん。
先日紹介しました地域通貨のデザインなど、彦根市内の多くの場所で活躍してくれています。

今後の活躍にも期待します。
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150年前:河合耆三郎切腹(2月12日)

2016年02月12日 | 何の日?
慶応2年(1866)2月12日、新選組会計方の河合耆三郎が切腹しました。

播州(兵庫県)高砂の米問屋の息子・河合耆三郎は、新選組がまだ壬生浪士隊と名乗っていた頃に参加した古株の一人です。商人の息子なので愛嬌もよく、時には隊士にポケットマネーからお金を貸し出したりもしていて、新選組の中でも人望があったと言われています。
芹沢鴨が暗殺されて、新選組の全権を握った土方歳三は、河合の人柄と商人出身らしいそろばん勘定の巧みさを信頼して新選組の金を直接扱う会計方第二席に任命し、幾度かの隊務変更改革の時も河合の仕事だけは絶対に変えなかったくらいだったのです。
耆三郎の父・信兵衛はそんな息子の出世に喜び、時々京都まで様子を見に来ていたといわれています。


慶応2年2月2日朝、河合が隊の金を数えてみると50両の金がなくなっている事に気がつきます。
この時、近藤勇は広島に出張していて、隊の事は土方がみているので、この事が発覚すれば只では済まないことは目に見えています。河合は、実家の信兵衛のもとへ早飛脚を出し50両の補填をしようと考えたのです。


タイミングが悪い時はあるモノで、河合耆三郎が父に宛てて早飛脚を出した日に、土方歳三が河合を呼び出し、隊の金が500両必要となったので金を出すように指示したのです。
この金が、なぜ必要な金だったのかは判っていません。一説には近藤勇が深雪太夫を身請けする為に必要だったとも言われているのですが、この時、近藤は広島に出張中なのでそれは考え難く、もしかしたら土方が河合に対して何らかの黒い疑惑を持っていたのかもしれません。

とにかく、隊の金は50両が無かった為に500両より足りなかったのです。


土方は会計方が金の管理を怠った事の責任を問い、河合に切腹の沙汰を下したのです。
河合は「5.6日の内には実家から50両が届く」と話し、金を補填する事で切腹を取り消して貰う特約を受けます。
土方としても河合を殺す気は無かったらしく(試しただけか?)、10日間の余裕を持たせたといわれています。
しかし、10日が過ぎた2月12日になっても金は届かず、同日、河合は切腹したのでした。
切腹の直前、河合は自分が切腹になるのか斬首になるのかを気にしていたとも伝わっています。



河合耆三郎が切腹して3日後、河合が待ち焦がれた飛脚が到着。
父・信兵衛が商いの為に他所へ出かけていたために手紙を読むのが遅た為だったらしい。
この辺りの予測が出来なかった事は河合の見識の甘さだったとも言えなくは無いですね。。
息子の切腹を知った信兵衛は親族を引き連れて京に上り近藤や土方に会いに西本願寺の屯所を何度も訪れたのだとか。
その度に門前で追い出されたのです。そして度々騒がれてどうにもならないのできつく脅すと来なくなったそうです。
しかし、屯所の周りには怪しい浪人がウロウロしたり、ボーと屯所の方を覗く信兵衛の姿が何度も目撃されたらしい(らしいとしか言えませんが)。
ちなみに、河合切腹の3日後に届いた金を土方歳三が受け取ったのか否かは調査不足で解からりませんが、土方の事だから受け取ったと思っています。
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150年前:壬生心中(9月2日)

2015年09月02日 | 何の日?
慶応元年(1865)9月2日、新選組四番隊組長松原忠司が亡くなりました。享年31歳。
松原は「新選組の親切者は山南と松原」といわれるくらいに温厚な人物でしたが、その死には悲しい逸話が残っています。


新選組の中で、涙をさそう物語として語られる『壬生心中』。
この物語の主人公は新選組の中でも古参に位置する松原忠司でした。


慶応元年、松原は新選組四番隊組長で柔術師範という重職を勤めていたのです。

ある日、四条大橋を歩いていた松原は前からくる浪人に不審を感じ、一騒動の末に斬り捨ててしまったのでした。
斬られたのは紀州藩浪人安西某、安西の今際の頼みで、妻おせんに遺体を届けるために安西の家を探し、そしておせんに遺体を渡したのです。
おせんは凄い取り乱しようで、松原は自分が斬ったとも言えず、慰めるしかできなかったのです。
少しずつ落ち着いたおせんに対し松原は、
「こうなったのも不思議な縁、及ばずながら力になります」
と言って、多少の金を置いて一先ず屯所に帰ったのでした。
おせんはこの時25歳くらい、安西との間に一人の子どもがいたのですが、とても美しくて近所の評判も良かったたともいわれています。
ともかく、こうして松原は自分が斬った男の妻をその責任感から面倒を見るようになり、隊務の空き時間におせんを訊ねるようになったのです。
やがて、子どもが病に倒れ、松原忠司の必死の介護の甲斐もなく、ついには帰らぬ人となってしまったのです。
こうして、家族を続けて失い女一人になったおせんが松原をますます頼るようになり、松原の方もしげしげとおせんの家に通い隊務が疎かになったのでした。

このような出来事は面白おかしく噂され、近藤勇や土方歳三の耳に入ってしまいます。
土方は松原を呼び出し、「君は妻女に横恋慕してその主人を騙し討ちにしたうえに、巧に誤魔化して親切面で妻女を自分のものにしたのではないのかね?」と厳しく問いただすのです。
松原は、「そんな疑いをかけられては武士として不名誉」と言って、安西を斬った事を報告した上でおせんは関係無い事を言い切り、別室で切腹を試みたのでした。
別室に籠った松原忠司は腹に刀を突き立てたのですが、同じ柔術師範の篠原泰之進に止められて死に至らなかったのです。
生き残った松原は平隊士に降格されます。

腹の傷の事と土方の疑いで隊務を疎かにし始めた松原が、ある日屯所に帰って来なかったのです。
事情をある程度知る林信太郎が気になって、篠原と共に安西の長屋を訪ねて行ったのです。
戸を何度叩いても返事が無いので裏口から侵入すると、きちんと敷かれた布団の上に女が仰向けに寝ていて、松原はうつ伏せていました。
林と篠原が声をかけても返事が無いので掛布団を捲ってみると、中は血の海。
松原がおせんの首を自らの手で締め殺してから、切腹していたのです。
おせんの荷物は綺麗に整理されていて、着物に乱れもなく、その枕もとには線香が立っていたのです。
松原の方は刀の先が背中から突き出ていて、勢いよく突き刺したと推測されています。
『壬生心中』は新選組の中のこの悲しい物語を伝えているのです。

でも、ここまで書いてきた壬生心中ですが、実はこの物語は子母澤寛の創作だと言われています。
この話は、八木為三郎が五稜郭での箱館戦争から帰ってきた林信太郎に聴いた話を、後年子母澤に伝え、それを子母澤が本にして出版した事になっているのですが、林は箱館に行かなかったばかりか八木に会う事も無く戦死しています。
また、当時は心中した男女は晒し者になり遺体もちゃんと葬ってもらえないのですが、松原の遺体が晒された記録も無いし、忠司は以前に出てきた光縁寺に墓が残っているのです。
子母澤寛は小説家な訳ですから多少の演出があって当然なんですがね。


松原の死を元治2年9月2日にしていることに不思議さを感じるかもしれませんが、元治2年は4月7日に慶応に改元しています。
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150年前:リンカーン暗殺事件(4月14日)

2015年04月14日 | 何の日?
1865年4月14日、アメリカの大統領エブラハム・リンカーンが暗殺されました。享年56歳。

彼の就任が、南北戦争の引き金となり、南部連合が優位に進んでいた戦争を奴隷解放という武器を使って北部連邦の勝利に導いた立役者でもあります。
そのようなイメージから、アメリカの身分差別撤廃に力を尽くしたように思われがちですが、ネイティブアメリカンに対しては常に厳しく当り、ネイティブアメリカンの大量虐殺を指揮しています。

そんな両極端な印象のあるリンカーンが暗殺されたのは、南北戦争が終結した6日後のことでした。


1865年4月14日夜、ワシントンD.C.のフォード劇場で妻と従者そして二人の客と共に演劇を観戦していたリンカーンの背後から、俳優であるジョン・ウィルクス・ブースが近付きました。そしてわずか1.2mの近距離から後頭部左耳付近を拳銃で撃たれたのです。
この時ブースは「専制君主は常にこのようになる!」と叫んだと言われています。時刻は10時13分説と11時17分説とあります。

リンカーンは翌朝午前7時22分に亡くなりました。これが現役大統領が暗殺される最初の例となったのです。


ブースはそのまま逃走しますが4月26日発見され警官隊に射殺されてしまうので、動機ははっきりとはわかっていますんが、一説にはブースがリンカーンに対して共和制を廃止して専制君主になろうとしているとの不安を抱いていたともいわれているのです。
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150年前:佐久間象山暗殺(7月11日)

2014年07月11日 | 何の日?
元治元年(1864)7月11日、佐久間象山が河上彦斎らに暗殺されました。
 
以前に書いていますので、こちらを参照
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150年前:久世広周死去(6月25日)

2014年06月25日 | 何の日?
元治元年(1864)6月25日、前関宿藩主の久世広周が亡くなりました。享年46歳。

いやいや、そんなこといわれても誰?という人物の一人ですね。
しかし、幕末を描いた大河ドラマなどでは出演率が高い政治家の一人なのです。

久世広周ほど、井伊直弼政権の割りを食った人物は珍しいかもしれません。

阿部正弘政権では、老中として阿部政権を支え、そのまま堀田正睦政権でも職務を続けていました。この間の重大な政治的動きは異国船来航でしたが、阿部・堀田共々そのかじ取りの一端を担ったのです。

安政5年(1858)4月23日、井伊直弼が大老に就任。
この時には、将軍継嗣問題が大きな政治問題になっていました。久世は一橋派ではなかったのですが、将軍継嗣問題で一橋派に対して直弼が行った安政の大獄に対し、厳しすぎるとの諫言を行ったために、直弼の怒りを買って老中の座を追われたのです。

万延元年(安政7年)桜田門外の変で直弼が暗殺されると、井伊政権の方針を引き継いだ安藤信正からの要請を受けて閏3月1日に老中として復職し、公武合体を進め、4月28日には老中首座になったのです。

2年後、坂下門外の変で安藤信正が罷免されると、その連座を受ける形で失職します。この際に安藤久世政権の罪として大きく摂り立たされたのが「桜田門外の変で井伊直弼が亡くなっていたことを知りながら、彦根藩から出された直弼が生きているかのような届を受理したこと」でした。

広周は、井伊直弼自身によって最初の老中職を追われ、死後の処理によって二度目の老中職を追われたのです。その両方とも広周の責任とは言い難い理由によってでした。


このような理不尽な失脚をし、隠居と永蟄居そして計2万石の減封を受けその罪が許されないままに失意のうちに失脚から2年後に亡くなったのです。
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150年前:池田屋事件(6月5日)

2014年06月06日 | 何の日?
元治元年(1864)6月5日、祇園祭の宵山で賑わう京都の町で幕末史を彩る池田屋事件が起ります。
 
そもそも池田屋事件とは一般的に《前年の“八月十八日の政変”で京から追い出された長州の起死回生の手段として京都に火を放ち、混乱に乗じて天皇を奪回し長州に連れ去る》と言う計画を立てていた過激志士達を新撰組が急襲し志士達を惨殺した事件と言われていますが、新撰組は人斬り集団ではなく現在の京都府警の仕事をしていたので、この時も惨殺ではなく捕縛を一番の目的としていたのです。

池田屋事件は、最後まで会合の場所が特定できなかった新撰組が、池田屋襲撃組と四国屋襲撃組に分かれて、四国屋は会合がなかったためにこの組を引きいていた土方歳三らが慌てて池田屋に向い、この間に池田屋では近藤勇や沖田総司・藤堂平助らによって斬り合いが始まっていたといわれています。
池田屋では、近藤が駆け上がって二階の踊り場に居た北添佶麿を斬り(池田屋階段落ち)、そのまま二階へ踏み込んで新撰組の一方的な強さに尊王攘夷の志士たちが斬られていったというイメージがあります。

しかしよく記録を見てみると、近藤は簡単に階段を駆けあがれず、二階に5.6人の志士が居て、上からの攻撃を近藤が階段途中の下から受け止めていた防戦一方の様子でした。
その間に、永倉新八の刀が折れ、藤堂平助は額を斬られ、沖田総司は近藤周平を守る事で精一杯だったのです。
土方たちがやって来て初めて新撰組有利となったのですが、現代では考えられないくらいの闇の中の斬り合いであり(この日、事件の時間には月が沈んでいた)今解っている状況はイメージでしかないのです。
何もわからないままに斬り合いが行われ、気が付けば宮部鼎蔵や北添佶麿らの遺体があった。というのが真相のようです。
また吉田稔麿と望月亀弥太も池田屋で亡くなった事になっているが、どうも長州藩邸近くで自害したそうです(それぞれ場所は違う)。
長州藩邸は事件が起こったともしばらく門を開けていたようで、早い段階で稔麿や亀弥太が長州藩邸に入っていれば保護されたのですが、たぶん最初は志士たちが有利だったために逃げ遅れたのでしょう。会津・桑名・彦根藩の藩兵が新撰組の連絡を受けて池田屋周辺を警護しはじめた辺りで長州藩邸の門が閉じられたのでした。


池田屋事件の時には有名な逸話も生まれています。その中の一つ“沖田総司の喀血”
これは史実的には全くのフィクションであることが最近明らかになってきました。
その証拠に永倉新八の手記には、
《沖田総司病気ニテ会所江引取》
としか書かれておらず、更に近藤勇の手紙にも、
《沖田総司昏倒》
としか書かれていないのです。

沖田総司と言えば労咳と喀血なのですが、労咳に冒され始めたのは3年後の慶応3年(1867)の事だったそうで、池田屋事件の時はただの貧血だったとか・・・
その時の養生で、5月30日に書いた女性と会うんですね~。


さて池田屋事件の時に、危うくその難を逃れた人物に桂小五郎が居ます。
彼は《予定よりも少し早めに池田屋に行ってしまったために志士達がまだ誰もおらず、少しずらして来ようと思って対馬藩邸に行き難を逃れた》と自分の回顧録に書いている。
しかし、対馬藩の記録の中に《桂小五郎は池田屋事件の時に屋根伝いに一番に逃げてきた》との記録が見つかったのです。
桂小五郎の回顧録が池田屋関係者の殆ど居なくなった明治に書かれた事から、一番最初に逃げた自分の不名誉を取り繕ったモノだと解釈されているのです。
桂小五郎がこの会合に参加すれば、その立場から会合同志の頭に祀り上げられる事は明白だったために、その煩わしさから逃げ出すつもりだったが、まったく顔を出さないのも変なので、誰も着ていない時間に顔を出し、池田屋主人に自分が来た事だけを印象付けたのではないか?との考え方もあります。

また、池田屋事件は桂小五郎が黒幕だったとの説もあります。
長州藩の起死回生としては過激すぎる“京都大火”に恐れをなした桂はこれを利用する事で長州藩の名実共に実力者になろうとしたのです。
まずは幕府方の役人に知れるように情報を流す。これに新撰組が乗っかってきたとか…。
そして、長州の実力者・吉田稔麿や維新後に生き残っていれば必ず首相になれたと言われる宮部鼎蔵等の邪魔者を始末したのです。
現に池田屋事件を知った桂は長州藩邸に行き救援の禁止を命令、その後にやって来た吉田稔麿は池田屋に戻る破目にもなってしまったのという物語はここから生まれます。
情報操作の元だったからこそ新撰組の池田屋襲撃を事前に知りえた桂。だから桂は一番に逃げられたとも考えられるのです。

≪長州藩邸跡≫



幕末史を語るには欠かせない池田屋事件。
「池田屋事件で明治維新が一年遅れた」と俗に言われていますが、この後に続く佐久間象山暗殺事件の方がもっと維新を遅らす原因になったと思います。
その後長州は池田屋事件の報復に“禁門の変”を起こし望み通り京を丸焼きにします。
そしてこの事により長州征伐の口実を幕府に与え屈服した事で長州の保守派は消え去り倒幕への進みは速くなったのではないでしょうか?
「池田屋事件は倒幕を十年早めた」と書いた人もいるが、もしかしたらこっちの方が正しいのかもしれませんね。
でも当の新撰組隊士達は、この後に給金が増えて女性を囲えるようになった事が一番嬉しかったという事ですから、歴史の転換期って知らない内に起るモノなんですね。


最後に池田屋事件で悲劇的な運命に遭った人をご存知でしょうか?
その人は、“まさ”
河原町御池の酒房近江屋女将で、池田屋事件の時に長州藩士吉岡庄助と会津藩兵の斬りあいにまき込まれ死んでしまった女性なのです。
宿の主人・池田屋惣兵衛の悲劇や多くの志士達の死を惜しみ現在でも墓参りをする人もいますが、こんな女性こそが本当に知らなければならない人なのかもしれませんね。
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150年前:内山彦次郎暗殺事件(5月20日)

2014年05月20日 | 何の日?
元治元年(1864)5月20日、大坂西町奉行所与力・内山彦次郎が天満橋で暗殺されました。

夜五ツ頃(午後8時頃)に駕籠に乗った彦次郎は天満橋を渡るときに左右から複数の暗殺者に襲われ、まずは槍で突かれて両腕を落されその後に首を落されたとも、土方歳三が駕籠を刺して外にお逃げ出した彦次郎を近藤勇が首を落したとも言われています。
暗殺には、近藤・土方・沖田総司・原田左之助・井上源三郎・島田魁ら十名ほどが関わったとされています。

内山彦次郎は、新選組に暗殺され、その斬奸状によって悪名だけが世の中に残ってしまったのですが、実は地方奉行所の一与力でありながらちょっと詳しい日本史の人物辞典に名前が残るくらい有名な人物なのです。
その大きな功績は大塩平八郎の乱において、大塩平八郎を追い詰めて自殺に追い込んだ事でした。そして大坂の奉行所の風紀改善に力を尽した事なのです。

内山暗殺後に遺体と主に張り出された斬奸状には内山が商人から賄賂を巻き上げていたような記述があるが、これは史実としては考え難いともされています。
また、近年の研究では新選組が実行犯かどうかも疑わしいものとなっているのです。
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150年前:京都見廻組編成(4月26日)

2014年04月26日 | 何の日?
元治元年(1864)4月26日、江戸幕府は京都見廻組を編成しました。

既に京都では新撰組が組織されていて、京都市中の巡回や治安維持に努めていましたが、十四代将軍徳川家茂の上洛にあたって、将軍警護と、情勢が乱れつつある京都での新たな治安維持組織として京都見廻組が作られたのです。
新撰組の時は、浪人を集めて組織を作る計画を実行し、発案者の清河八郎によって幕府の考えとは正反対の方向に行きかけたものを、何とか新撰組という小さな治安維持組織が誕生したのでした。

この失敗を教訓に、見廻組は最初から京都守護職の配下で京都市中警護の仕事を任され、浅尾藩主蒔田相模守広孝の配下となる相模守組200名、旗本松平出雲守康正の配下となる出雲守組200名が、幕臣や幕臣に近い部屋住などから選ばれました。そして両組には旗本出身の見廻組与頭と御家人出身の見廻組与頭勤方が二名ずつ選出され、勤方に任命されると御家人から旗本に身分が上がったのでした。
この制度で、御家人から見廻組与頭勤方に抜擢されたのが佐々木只三郎です。

ちなみに、ほとんど自藩の藩士で組織した相模守組は5月に上京し、6月5日の池田屋事件にも関わってきますが、幕臣から組織した出雲守組はなかなか人が集まらずに、新撰組隊士を組み込もうとして拒否されています。
禁門の変の後にやっと出雲守組が上京して、8月1日から京都市中見廻が始まったのです。


新撰組を題材にしたドラマなどでは、同じように市中見廻りをしていた新撰組と見廻組がはち合わせて、旗本出身の見廻組が浪人集団の新撰組を見下すエピソードが登場しますが、基本的には見廻組の巡回領域は二条城や御所周辺などの武士や公家が住む今でいう官庁街がメインであり、新撰組は祇園などの歓楽地や町人の住居エリアがメインだったために関わることも少なかったのです。

そんな中で、佐々木只三郎は組内で重要視されるようになり、いつの間にか見廻組の実質的な責任者になっていました。組内の事件で松平康正が離れ二つの隊が混ざり、蒔田広孝も辞任すると、その後継者たちでは見廻組が抑えきれなくなったので、実質的に只三郎が責任者となるのです。
そして、坂本龍馬暗殺の実行犯として歴史に縄残すのです。
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