出雲大社から、宍道湖を挟んだほぼ反対側に位置するのが松江城です。
戦国時代に尼子氏が拠点としていた月山富田城は、守るには堅固な城だったのですが山城だったために内政には不向きでした。
関ヶ原の戦いののち、24万石でこの地に入った堀尾吉晴は、港に近い亀田山に城を築くことを決めるのです。これが松江城でした。
浜松城普請の実績から「堀尾普請」と称された吉晴は松江城築城に心血を注いだのです。
慶長7年(1602)年から始まった築城は、慶長11年(1606)に完成します。
松江城築城にあたり、さまざまな出来事が堀尾家を襲います。
まずは、吉晴の次女が婦人病(子宮癌か?)に冒されて、その苦しみから入水自殺してしまったこと、そして藩主の座に就いていた息子忠氏が、松江城築城途中で27歳で急死したこと。この死は一説には築城の実地検分中にマムシに咬まれたとも言われています。
そして、吉晴が急いで忠氏の嫡男の三之介(6歳)に三代藩主を継がせようとすると、吉晴の長女が夫の堀尾河内守との間に産んだ掃部を三代藩主に立てようちしてお家騒動を起こしてしまうのです。
結局、河内守と掃部は流罪・切腹となりますが、松江藩はこの時点で幼い藩主とそれを後見する祖父によって何とか保たれた状態が続きました。
慶長16年(1611)6月17日に吉晴が亡くなりますが、その時にも三之介は13歳でしかなかったのです。三之介は急いで元服し忠晴と名乗り、藩主自らの藩政を行いましたが、福島正則が改易になった時に広島城を受け取りに行ったこと以外はあまり業績が残されていません。
そして寛永10年9月24日に亡くなってしまうのです。忠晴には実子がいなかったので、死を察した時点で従兄弟の堀尾宗十郎を養子にする願いを幕府に提出しますが、当時は死の直前の養子願を末期養子といってこれを認めませんでいたので、堀尾家は後継ぎがないままに断絶してしまいます。
こうして松江藩24万石は三代で改易となったのです。
ちなみに吉晴は松江城完成直前に亡くなっています。
こののち、京極氏を経て松平氏が入城し、明治維新を迎えます。
天守は江戸期のまま残されている現存天守の1基で、重要文化財です。
そんな松江城を訪れたのは雪の残る日でした。
お濠では屋形船が楽しめるのですが、時間の都合で行けませんでした。
高い石垣と豊臣政権下の影響が強い下見塀が城を重層に見せます。
復元された太鼓櫓では、太鼓が叩けます。
石落としもあり、
開けてみるとこんな感じ
見えてくる天守はなかなか美男子です。
二の丸にある松江神社
松江松平氏初代松平直政の手水石を囲う手水舎は結構貴重な文化財なんだそうです。
いよいよ天守へ
松江城は角のない鬼瓦にも注目
外は美男子でしたが、内装は柱が多く武骨です。
イメージ的には優男の剣豪という城でしょうか。
中には秀吉の書状や
後藤又兵衛の甲冑が展示されています。
また、松江城を築城した責任者の竹内有兵衛が創った雛形も残っています。
細かい仕事ですね。
天守から下を見ると雪景色
馬洗池も冷たそうです。
こうして松江城を堪能しました。
戦国時代に尼子氏が拠点としていた月山富田城は、守るには堅固な城だったのですが山城だったために内政には不向きでした。
関ヶ原の戦いののち、24万石でこの地に入った堀尾吉晴は、港に近い亀田山に城を築くことを決めるのです。これが松江城でした。
浜松城普請の実績から「堀尾普請」と称された吉晴は松江城築城に心血を注いだのです。
慶長7年(1602)年から始まった築城は、慶長11年(1606)に完成します。
松江城築城にあたり、さまざまな出来事が堀尾家を襲います。
まずは、吉晴の次女が婦人病(子宮癌か?)に冒されて、その苦しみから入水自殺してしまったこと、そして藩主の座に就いていた息子忠氏が、松江城築城途中で27歳で急死したこと。この死は一説には築城の実地検分中にマムシに咬まれたとも言われています。
そして、吉晴が急いで忠氏の嫡男の三之介(6歳)に三代藩主を継がせようとすると、吉晴の長女が夫の堀尾河内守との間に産んだ掃部を三代藩主に立てようちしてお家騒動を起こしてしまうのです。
結局、河内守と掃部は流罪・切腹となりますが、松江藩はこの時点で幼い藩主とそれを後見する祖父によって何とか保たれた状態が続きました。
慶長16年(1611)6月17日に吉晴が亡くなりますが、その時にも三之介は13歳でしかなかったのです。三之介は急いで元服し忠晴と名乗り、藩主自らの藩政を行いましたが、福島正則が改易になった時に広島城を受け取りに行ったこと以外はあまり業績が残されていません。
そして寛永10年9月24日に亡くなってしまうのです。忠晴には実子がいなかったので、死を察した時点で従兄弟の堀尾宗十郎を養子にする願いを幕府に提出しますが、当時は死の直前の養子願を末期養子といってこれを認めませんでいたので、堀尾家は後継ぎがないままに断絶してしまいます。
こうして松江藩24万石は三代で改易となったのです。
ちなみに吉晴は松江城完成直前に亡くなっています。
こののち、京極氏を経て松平氏が入城し、明治維新を迎えます。
天守は江戸期のまま残されている現存天守の1基で、重要文化財です。
そんな松江城を訪れたのは雪の残る日でした。
お濠では屋形船が楽しめるのですが、時間の都合で行けませんでした。
高い石垣と豊臣政権下の影響が強い下見塀が城を重層に見せます。
復元された太鼓櫓では、太鼓が叩けます。
石落としもあり、
開けてみるとこんな感じ
見えてくる天守はなかなか美男子です。
二の丸にある松江神社
松江松平氏初代松平直政の手水石を囲う手水舎は結構貴重な文化財なんだそうです。
いよいよ天守へ
松江城は角のない鬼瓦にも注目
外は美男子でしたが、内装は柱が多く武骨です。
イメージ的には優男の剣豪という城でしょうか。
中には秀吉の書状や
後藤又兵衛の甲冑が展示されています。
また、松江城を築城した責任者の竹内有兵衛が創った雛形も残っています。
細かい仕事ですね。
天守から下を見ると雪景色
馬洗池も冷たそうです。
こうして松江城を堪能しました。