彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『水戸天狗党敦賀に散る』

2018年10月08日 | イベント
ネットニュースで、敦賀市立博物館において『水戸天狗党敦賀に散る』と題した特別展が行われていることを知り、観に行ってきました。

…というのも、幕末維新の彦根藩を調べているなかで天狗党も彦根藩に関わってくるからです。
そもそも、桜田門外の変で井伊直弼を襲った水戸浪士は天狗党の中の過激派だったわけですので、その四年後に起こった天狗党の乱に対して彦根藩が過剰反応してしまうのも無理はありません。
ましてや天狗党が挙兵した年は京都で禁門の変も起こっていて、彦根藩のみならず中山道の諸藩にとっては東西に兵乱を抱えている状態でもあったのです。
水戸藩は、徳川光圀が勤王の志を示して以来、藩内で佐幕派と勤王派が存在し、互いに政権争いと粛清を繰り返していました。
幕末になると、勤王派のなかにも過激派と穏健派が現れ、過激派をとくに「天狗党」と呼んだのです。
元治元年、田丸稲之衛門を大将に立て、藤田東湖の息子小四郎のカリスマも武器に天狗党は筑波山で攘夷を訴えて挙兵しました。それは佐幕派との内乱となり水戸支藩の宍戸藩主松平頼徳などは自らの意思に反して佐幕派と戦い騙されて捕らえられ切腹させられる悲劇も生みます。
やがて、幕府は若年寄田沼意尊(意次の子孫)に討伐を命じました。
この段階で武田耕雲斎が天狗党の大将になり、耕雲斎の発案で京都に居る一橋慶喜に訴えることが決定し、中山道を西に進むことになったのです。
途中和田山峠で高崎藩、松本藩と戦う他は、間道を進むことで戦闘を回避していましたが、大垣藩領に入る目前で、大垣、彦根、桑名藩に阻まれ北陸に出て加賀藩に降伏。
加賀藩から天狗党の身柄を預かった田沼意尊は、敦賀の狭い鰊蔵に閉じ込めて裁判らしい裁判もないままに天狗党のほとんどを処刑したのです。
この時に、一番処刑に積極的だったのが直弼の敵討ちと張り切った彦根藩だったのです。

そんな救いが無い人々の資料ですが、敦賀では積極的に天狗党資料を集めていた感もあり、しっかりと見せてくれる展示でした。
天狗党の評価は難しいところで、水戸藩内の長い粛清の歴史のなかでは佐幕派に対しての攻撃もやむないところもあるとしながらも栃木町で行った田中愿蔵の横暴も天狗党の一部であることも事実として受け止めねばなりません。
そもそも、水戸藩はこれらの争いが常に粛清になったことで、明治を迎えたときにほとんど人材が残らなかったという問題も抱えてしまいます。

そんな歴史の裏を垣間見た気もします。
図録の他に天狗党資料を集めた物もあり、訪問した価値はありました。

この後に松原神社によって、武田耕雲斎ら天狗党の墓参り。



境内にある天狗党が閉じ込められた蔵の一棟を移築した資料館も見学しました。


彦根市民であり、井伊家の研究者としては重い空気が漂っている場合のひとつです。

(追記)
この記事を書いた時は彦根藩の復讐について仕方ないと思っていましたが、この場で購入した史料を調べると『第貮號』(水戸天狗党一件日記)には処刑が決まり三藩に斬人を出すように命じても「諸士之内斬人望無之哉」と斬る役を希望した者がいなかったと記していて、彦根藩は私怨ではなく公務として処刑を執行しただけであったことがわかりました。

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