彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

龍光寺訪問

2020年10月13日 | 史跡
神戸城のすぐ近くにある大きなお寺が龍光寺です。

記録としては応永30年(1420)11月29日深夜、伊勢湾に霊光が飛ぶことが15日続いたため、伊勢国司北畠満雅が称光天皇から勅を受けて沢城主神戸実重に普請を任せたとされていますが、『鈴鹿市史』には文明17年(1485)に新造をしている記録もあるので、長い時間をかけて建築していた可能性もあります。

臨済宗の中でも高い寺格を持っていて、神戸氏が神戸城に居城を移したときに、龍光寺も現在の地に移動したとされています。
江戸時代に紫衣事件が起こるまで、歴代住職は天皇から直接紫衣を許されていました。

神戸城の時にも書きました通り、松平広忠(徳川家康の父)の父清康が阿部正豊に暗殺された森山崩れが起こると、広忠は大叔父松平信定に三河国を追われ、阿部定吉(正豊の父という皮肉)に守られて伊勢に逃れ龍光寺に匿われたのです。
たぶん木俣守時は、ここで広忠の世話役か何かに任じられて縁ができたのではないか?とも考えています。
また、広忠の縁で龍光寺住職は江戸時代になると将軍の慶弔や住職代替わりには江戸に赴くことになっていたのです。

大きな山門から寺格が伺えます。





本堂も立派です。






本堂隣の数寄屋風書院「坐忘亭」は熊本藩細川氏から贈られたものです。
徳川吉宗が将軍だったとき、神戸藩主本多忠統は若年寄の任に就いていました。
延享4年(1747)8月15日、熊本藩主細川宗孝は殿中で厠に立ったところをいきなり旗本板倉勝該に刺され絶命したのです。勝該は身内の板倉勝清(安中藩主)を逆恨みしていて板倉氏と細川氏が同じ九曜紋の家紋だったために間違えて殺されたのでした。
しかし、宗孝はまだ若く後継ぎが決まっていなかったためこのままでは熊本藩が改易になる可能性もあり、忠統は細川氏がそのまま続くように差配したのでした。
宗孝の後を継いだ弟重賢の感謝を深く示す逸話ですが、史料としての確証はないそうです。







また、本堂裏には江戸初期の神戸藩主一柳直盛が転封先に向かう途中で病没したあと、旧領に送られた遺髪塚が残っています。










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