麻生首相に解散の気配なし 解散日程を勝手に捏造したマスコミの困惑(ダイヤモンド・オンライン)
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10月1日、新聞・テレビは一斉に解散・総選挙の日程が「先送り」されたと報じた。
わずか1日前、TBSと産経新聞は「10月3日の解散が確定した」と報じたばかり。思えば、当初、総選挙は10月26日で決まった、と報じられていたはずだ。9月18日付の朝日新聞一面トップ記事によれば、「3日解散」で与党合意が為されたとある。
〈来月26日 総選挙へ 3日解散 自公合意〉(朝日新聞/9月18日)
前日には、読売新聞が観測的な記事を書いていたが、この朝日新聞の報道を受けて、他紙、及びテレビメディアも一気に後追いを開始した。この瞬間、マスコミによって作られた「解散風」は突風になったのである。
与野党問わず、多くの衆議院議員が走り出す。選対事務所の賃貸契約を結ぶ議員が続出し、永田町は解散モードに突入した。
それにしても、まだ総裁選の最中である。麻生首相誕生を見込んだとしても、あまりにも気の早い話だ。
朝日新聞にこうした記事が載った日、たまたま、まったく間逆の記事が世に出た。
〈麻生「新総理」解散せず〉(週刊文春/9月25日号)
手前味噌だが、これは筆者の記事である。何も特別な記事を書いたわけではない。またそれを誇っているわけではない。政治のルールと永田町の常識からすれば、じつに当たり前の記事なのである。
――補正予算案の提出、給油継続法の成立、党首討論などでの小沢民主党との対決。
麻生首相が解散しない根拠として、筆者の挙げた根拠はこのようなものだった。ついでに言うならば、少しでも麻生陣営を取材していれば、これらは、当然に行き着く結論なのである。
現在、日本での解散権の行使は、内閣総理大臣をおいて他にできないことになっている。憲法(第三条第七項)によればそうある。
にもかかわらず、首相が誕生する前から、あたかも新しい首相は、就任直後に「解散しなければならない」というような「流れ」ができてしまっていた。
麻生首相は一度も解散日を明言していない
9月24日、麻生首相が誕生した。
だが、解散を打つ気配はない。それもそのはず、麻生首相はただの一度も解散日について言及したことはない。繰り返すが、ただの一度もだ。
困り果てた新聞・テレビの政治部は、「解散」の流れを止めないために、再び「先送り」論を展開する。
〈11月2日投開票 衆院選 首相意向〉(読売新聞/9月25日)
まったくもって麻生首相が気の毒に思えてくる。決めてもいない解散日程を勝手に作られた挙句、今度は勝手に「先送り」されるのであるから。
なんのことはない、マスコミは自分たちで捏造した「解散日」を勝手に動かして、麻生首相の解散への意欲がぶれている、と言っているだけなのだ。
思い出すことがある。昨年暮れ、福田前首相が中国に外遊した時のことだ。内政懇(外遊した首相が国政について同行記者団と懇談すること)で、内閣改造を問われた福田前首相は、「年明けに改造をするかどうするか考える」と答えた。
翌日、新聞各紙には「年明け内閣改造へ」という文字が躍る。福田首相はぶら下がり会見で否定する。だがもはや「流れ」は止まらない。
結果、新年になっても内閣改造をしなかった福田首相に対して、新聞・テレビは次のように書いたのだ。
「首相、内閣改造、断念へ」
考えてもいない内閣改造を報じられ、勝手に「断念」させられた福田前首相も気の毒だが、麻生首相の場合はもっとひどい。なにしろ、首相になる前から「新聞辞令」を出されていたのだ。しかもそれは執拗に続いている。
いずれにせよ、最初の「新聞辞令」を誤報に終わらせた新聞・テレビの報道は、次の辞令である「11月2日総選挙」で一斉に走り出したのだ。
そして今回の「先送り」である。
自らの誤報をごまかすマスコミ
新聞とテレビによれば、今回の「先送り」の理由は、世界同時株安と米下院議会の金融安定化法案否決だそうである。
ついに、日本の衆議院の解散・総選挙は、米議会の法案成立の是非に連動するようになってしまったようだ。これはあまりに見え透いた言い訳ではないか。
繰り返し書くが、麻生首相の度重なる「方針転換」の背景にはそもそも、そのような理由はない。なぜなら、麻生首相はただの一度も解散日を特定したことがないからだ。
これまで、新聞・テレビなどの政治部は、自らの誤報を他者に転嫁することでその責任を免れてきた。だが、もはやそうした手段は通用しないだろう。
一週間毎に解散日を延ばすごまかしはそろそろ止めた方がいいのではないか。
言い訳がなくなったとき、果たして、新聞・テレビはどうするつもりだろうか。
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どうやら、今回の「解散・総選挙」騒ぎは、マスコミの暴走で幕が閉じられようとしているようだ。事態は案外、この上杉氏の論評が真実に最も近いのかもしれない。
しかし、それならば麻生首相にも言いたいことがある。どうせ今の自民党に国民の信を問う力がないのはわかっている。総選挙をやるつもりがないなら、「やらない」とハッキリ宣言したらどうか。曖昧な態度を取るからいつまでも憶測報道をされるのだ。
今回の一連の「解散騒ぎ」から見えてきたことがある。
1.マスコミの「取材能力」が見る影もなく崩壊している。記者クラブという特権を与えられる中で、ぶら下がり取材というもたれ合いの構図の中ですら何も真実を引き出す力がない。
2.やはり自民党の「選挙恐怖症」は深い。それと同時に、自民党の終わりもやはり近い。
3.自民党、公明党、民主党のいずれにも「決め手」がない。
1については説明は不要だろう。大手新聞は、自分で取材もせず、ネットのニュースをコピペして記事を作るだけの「サラリーマン記者による剽窃大会」に堕した。ぶら下がりという特権を与えられていながら、彼ら「番記者」たちは何を取材し、書いているのか。「大本営発表」もまともに書けない記者など、戦前の御用新聞以下である。自分のことを言うのもなんだが、当ブログのほうがよほど社会の真実を見通し、正確に予測しているという自信がある。
次に2について。
自分を麻生首相の立場に置き換えれば、解散したくない気持ちはよくわかる。何せ、今の「衆院与党3分の2」は、自民公認・推薦がついていればサルでも当選しかねない勢いだった、あの「100年に1度の異常な選挙」の結果もたらされたものだ。どんな首相がどんな政治状況で選挙をやっても今より議席が増えるなどあり得ないし、3分の2を失えば再議決という最終奥義も使えなくなる。自民党政権があと1年の命かもしれないことをわかっていても、すべての法律を60日待てば再議決で通せる今の状況を自ら捨てたいとは思わないだろう。
このままの状態であれば総選挙は大幅にずれ込む。補正予算、2次補正と来てその後に来年度予算審議が来れば、早くても選挙は来年4月以降ではないか。過去の実例を見ても、選挙は秋から冬には少なく、春から夏に多い。東北、北海道が雪に閉ざされる冬は、そもそも選挙向きの季節ではない。
同時に、やはりここ数年の政治状況は「自民党の耐用年数切れ」を感じさせるに十分である。今回のねじれ国会は、自公与党の参院選大敗が原因だが、いつ解散があるかわからない衆院と比べ、参院はいつ選挙があるか予測できるから、政権与党であれば、選挙の時期に合わせて国民に「リップサービス」ができるはずだ。
時期がわかっているのに対処できないというのは、言うなれば「文化祭は2学期にあるのが1学期の初めからわかっているのに、2学期に体制が作れない」というのと同じことだ。このような状態にある学級は、普通「学級崩壊」と言われる。自公政権の政権担当能力は、やはり崩壊したと見るべきだろう。
次に3について。
(1)自民党は首相を通じて間接的に解散権を持っているが、選挙をやれる自信がない。
(2)公明党は、都議選と総選挙が重なるのは嫌だから早めに選挙をしてほしいが、あまり自民党を追い詰め過ぎれば、自民党が民主党の切り崩しに走り、仮にそれが参院で成功した場合、公明党は与党からはじき出されかねない。
(3)民主党は、自公政権の評判が悪いうちに公明党を攻撃して自公政権崩壊を早めたいが、自分たちに解散権があるわけではない。
以上3つの理由により、どの党にも「決め手」がない。いわばグーチョキパーのような関係で3すくみになっている。このことも解散時期が決まらない理由のひとつである。
このような場合、気もそぞろの議員たちはどう対処するのがよいか。
「解散があろうとなかろうと、(任期満了で)1年後までに選挙は来る。自分たちはできることをやっていくだけ」と諦観し、できることから準備を進める、が正しい対応になる。と言うより、それ以外に対処のしようがない。
<最後にまとめ>
以上、政局的な観点からいろいろ書いてきたが、選挙の時期は政治の本質にはそれほど関係がない。政局的な観点を抜きにし、国民側の視点に立てば、全く別の本質が見えてくる。
誰がどう考えても、国民は解散総選挙を望んでいる。望んでいるなどという生ぬるいレベルでなく、渇望していると言ってもよいだろう。2005年の郵政選挙は間違いであり、他人の意見に聞く耳を持たなくなった自公政権を変えたいと今や誰もが考え始めている。
「衆議院の優越」を憲法が保障しているのは、社会科の教科書的な考えに立てば「参議院より任期が短いため選挙の間隔が短く、またいつでも解散で国民の信を問うことができる衆院のほうがそのときどきの国民の意思を反映している」からだということになっている。
しかし、衆院の解散権を持っているのは日本人でただひとり内閣総理大臣だけである。内閣不信任案可決または内閣信任案否決の場合、首相は自分が辞めたくなければ嫌でも解散するしかないが、議院内閣制は多数派が内閣を構成し、国会に対して責任を持つ仕組みだから、多数派が多数派であり続ける限り(大規模な与党からの造反がない限り)不信任案可決などという事態は起こりようがない。
多数派が内閣を構成して国会に責任を持ち、しかも解散権は多数派の頂点に立つただひとりの日本人の手に握られているということは、つまり衆院の解散権は多数派(与党と言い換えてもよい)によって専断的、独裁的に行使されるということを意味する。もっと端的に言えば、与党は常に自分が最も有利な時を狙って選挙ができるわけだ。「参議院より任期が短いため選挙の間隔が短く、またいつでも解散で国民の信を問うことができる衆院のほうがそのときどきの国民の意思を反映している」などという教科書的俗説がいかにデタラメかわかるだろう。与党ではなく国民が真に望んでいる時期を選んで衆院解散が行われていれば、日本はこんなに悪くはならなかったはずである。
そろそろまとめよう。
「参議院より任期が短いため選挙の間隔が短く、またいつでも解散で国民の信を問うことができる衆院のほうがそのときどきの国民の意思を反映している」から「衆院の優越」を与える、という考え方は間違っている。どうしても衆院に、第1院としての優越的地位を与えたいと考えるなら、与党ではなく国民が真に望む時期に解散ができるよう制度を改めるべきである。
地方議会のように、衆議院に「解散請求」(リコール)制度を設けてはどうだろうか。国民の50分の1の署名を集め、集まったら選管に提出。選管は厳正に審査し、50分の1を超えていると認めた場合はリコール投票を実施。投票の結果、解散賛成が有効投票数の過半数となった場合、衆院は即日解散し、出直し総選挙を行う。日本の人口が1億3千万人、未成年者を除けば約1億人のうち、50分の1は200万人。決して非現実的な数字ではないし、今の日本の社会状況なら、この程度の署名数は2~3週間で集まるだろう。
「日本国にはカネもないのに、そんなばかげたコストがかけられるか」という人もいるかもしれない。しかし、後期高齢者医療制度のように、国民のためにならない制度がどんどん作られ、国民が変革を望んでいるのに、野党にも国民にも衆議院の議席構成を変える手段がないという状況(まさに今のような状況)になったとき、それによって国民が被る不利益を考えれば、決して高いコストとはいえない。
国会改革といえば、これまで「衆院のカーボンコピー」といわれる参院の改革ばかりが論じられてきたように思う。しかし、今のこの状況を考察すれば、あまりにもすべてが与党と多数派に都合よくできている衆院こそ改革が必要ではないだろうか。