安全問題研究会(旧・人生チャレンジ20000km)~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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こんなにおかしい!ニッポンの鉄道政策
私たちは根室線をなくしてはならないと考えます
国は今こそ貨物列車迂回対策を!

新聞購読をやめてみた~やめても全く困らず驚く

2011-10-01 23:25:42 | その他社会・時事
福島に住むようになって以来、4年以上購読してきた「河北新報」を9月限りで打ち切った。宮城を基点に、東北の視点に徹する報道がすばらしくて購読してきたが、3.11以降この新聞もすっかりダメになった。それも、肝心の震災・原発事故報道が全くダメ。8月頃から、購読打ち切りの話を妻としていたが、10月がひとつの区切りと思った。

震災・原発報道に関し、東北のメディアで合格点をつけられるところは残念ながら全くない。原発爆発の映像をネット掲載した独ZDFに対し、自らの著作権をたてに削除を要求し、片っ端から「抹殺」したFCT(福島中央テレビ)、山下俊一をたびたび登場させ、安全デマを垂れ流した福島民報、福島民友の地元メディアは論外。河北新報に関しても、私たちが最も掲載してほしかった記事はことごとく不掲載だった。

本当にありがたいことだが、私には名古屋時代、JR東海の安全問題などに一緒に取り組んでいた仲間がいる。浜岡原発廃止運動にも熱心に取り組んでいる人で、今も中日新聞の切り抜きを送ってくれている。送られてきた記事の中には、例えば「被ばく不安 苦悩の親~鼻血 放射線被害では?」(「中日新聞」6月22日付け)や、「南相馬 振り回される教育~窓閉め切り冷房なし」(「中日新聞」6月24日付け)といった記事があるが、こうした記事は東京新聞など他の系列紙には掲載されているのに東北地域だけ不掲載だったのである。

ネットがなかったとしても、通信手段が発達した現在ではこのように地方紙同士の記事の比較もできるし、どの新聞がどんな記事を重視しているかの比較も比較的容易である。こうした中で、6月頃から、福島の人々の健康状態に関する記事が、それを最も必要としている地元では隠され、中日新聞を読んでいる愛知県民や、東京新聞を読んでいる東京都民のほうがそれをよく知っているという状況が次第にわかってきた。こうしたことは、地元メディアがどのように言い繕おうとも明白な情報操作であり、この頃から地元メディアに対する不信感が募っていた。

震災に関しても、現実に半年経っても多くの人が失業したまま再就職の当てがないという事態に対し、どうしたら新たな仕事作りができるのか無能な政府に代わって提言すべきなのに、東北は被害者だという意識ばかりで代案も何もない。阪神・淡路大震災の時、京都新聞の施設・設備を借りながら1日も欠かさず新聞発行を続け、地元にとって都合の悪いニュースも臆せず掲載した神戸新聞のような報道を期待していたが、全く期待はずれだった。テレビ放送が地デジ化されて以降、番組表はテレビで拾えるようになったし、拾うほど価値のあるテレビ番組があるとも思えない。

東北の視点に立つのであれば、東京の植民地として機能させられてきた明治維新以降100年の東北のあり方そのものをこの機会に問い直さなければならなかったと思う。東北差別は何も今に始まったことではない。白河以北一山百文(白河以北の東北では山ひとつがたったの百文で買える、の意)とか、勿来(なこそ)の関(「なこそ」は「な来そ」=来るなの意)などの表現はまさに東北への蔑視が込められている。金融恐慌と飢饉に襲われた昭和10年代も、農村で娘の身売りのような悲しい事件が起きたのは東北だったし、東京都民が豊かな消費生活を送るために原発という重荷を背負わされたのも東北だった。沖縄と同じ植民地経済で、働いても働いても豊かになることがない。そのことは、他媒体から転載した原稿アーカイブの中で当ブログは何度か指摘してきたはずだ。

本来、このような未曾有の大災害で多くの被災者が苦しんでいる中で言うべきことではないかもしれないが、東北が真の意味での「復興」を果たしたければ、植民地経済からの脱却の要求と奴隷根性からの自らの解放を併せて進めなければならない。鎖につながれたままで復興を叫んでも、それは東京主導、被災者不在のプランテーション型復興にしかならないと私は思う。その役目を放棄し、惰眠をむさぼりながら「都合の悪い情報は伝えなければいい」とばかりに東北の民衆を愚民扱いし、情報操作に荷担する地元メディアは、地元民への裏切りに対して高い代償を払うことになるだろう。私の地方紙購読中止も、その「代償」のひとつだと理解していただきたいと思う。

しかし、新聞購読を中止して何か不都合があるかと思ったら、拍子抜けするほど何もない。私より年齢が上の世代には「まともな社会人なら新聞くらい購読していないと」というステータス意識があり、これまでの新聞購読はステータス意識だけが動機だったのだと改めて思い知らされる。20代以下の若手世代は、新聞を読むなんて格好悪いとすら思っているだろう。変化への要求が抑えつけられ、一見すると何も変わっていないように見える日本社会も、底流では若者からの激しい変化が起こりつつある。再販制度に守られた紙媒体としての新聞が、今のまま20~30年後も存続しているかどうかは、かなり怪しくなったと思う。

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