「16日に解散をします」。安倍晋三・自民党総裁と国会で党首討論に臨んだ野田首相は突然、何の前触れもなくこう宣言したが、その言葉通り、16日に衆院解散を断行した。民主党首相として解散権を行使するのは初めてだが、おそらくこれが最初で最後となるだろう。
総選挙の日程は12月16日に決まった。東京では都知事選とダブル選挙。都議補選とのトリプル選挙となる地域もある。衆院総選挙は選挙区と比例区の2票。これに加え、最高裁裁判官国民審査も行われる。都知事選、都議補選と重なる地域では、1つの投票所で5つの投票箱が必要となる地域もあるという。
それにしても、民主党政権の統治能力のなさは今さら指摘するまでもないが、去っていくときまで迷惑な政権だ。そもそも国の予算は8月に各省庁からの概算要求が締め切られ、9~11月にかけて財務省による査定、12月中旬頃に財務省原案の内示、復活折衝を経て予算案がクリスマス前後に決定するというのが通常の流れだ。この流れを断ち切り、予算要求、査定のやり直しにつながる12月総選挙は、国民生活に大きな影響を与えかねないため、歴代政権は極力避けるように努めてきた。最後に12月総選挙が行われたのは三木政権当時の1976年12月9日。ただしこれは任期満了による総選挙だから、解散による12月総選挙となると佐藤栄作政権当時の1969年12月2日まで歴史をさかのぼらなければならない。
今度の総選挙は、実に14もの政党が乱立する群雄割拠状態となる。さながら戦国時代の様相だが、これだけ政党ばかりたくさんあるのに投票したい政党はひとつもないのだから事態は相当深刻だ。どれもこれも似たり寄ったりで、魅力的な商品が何もない場末のジャンク品専門店のようだ。
そして、自民党以外のほとんどの政党は「形式的には」脱原発を掲げている。脱原発のバーゲンセール状態だが、私たちはこんな時代だからこそ彼らが「何を言ったか」ではなく「何を実行したか」を見なければならないと思うのだ。
「最低でも国外・県外」と言ったのに県内だったり、高速道路無料化をやると言ってやらなかったり、高校無償化をやると言ったのに朝鮮学校でやらなかったり、子ども手当を支給すると言ったのに児童手当に戻してしまったり、コンクリートから人へと言ったのに福島の子どもたちを放射能汚染の中に見捨てる一方、大間原発も整備新幹線も八ツ場ダムも建設を再開したりするような連中は論外だ。
彼らを批判しているように見える連中にしたって、大飯原発を夏が過ぎたら停止要請すると言っていたのにやらなかったり、太陽の党を結党してたったの4日で解党したりしている。こんな奴らに議員歳費を払うために増税なんて悪い冗談としか思えない。
公示日以降は、公選法により選挙がらみの話は書けなくなってしまうので、今のうちに書いておこう。今回の選挙は「脱原発か原発推進か」「TPP反対か推進か」「消費増税凍結か推進か」を争点にすべきである。心ある人なら、3つとも推進してはならないことは明らかであろう。口先だけの反対ではなく、真に反対を貫ける人を1人でも多く擁立し、国会に送ることが必要だ。
当ブログが見るところ、原発、TPP、消費増税ともに反対を貫き、選挙後も変節の心配がなさそうなのは日本共産党、社民党、「みどりの風」などごく一部にとどまる。これに次ぐのが「国民の生活が第一」で、当ブログが投票先として許容できるのはここまで。後はほとんど同じ穴のムジナだと思っている。
まだ総選挙が公示もされていないのに選挙後のことを予測することは難しいが、おそらく単独過半数を制する政党はない。自民+公明、民主、「第3極」のいずれも過半数に遠く及ばない「分極的多党制」が出現する。
分極的多党制というのは、少なくとも戦後では最も有能だったイタリア人政治学者、ジョヴァンニ・サルトーリが「政党制の類型」のひとつとして提唱したものだ。サルトーリによれば、政党制は以下のようにいくつかに分類できる。
・1党独裁制…制度的に1政党しか存在を許されない。(旧ソ連など)
・ヘゲモニー政党制…複数政党が存在を許されるが、制度上特定の1政党に支配的立場が与えられており、他の政党(衛星政党)が支配政党に挑戦したり、交代することが許されない。(8つの衛星政党(民主諸党派)が存在するが、共産党の支配が保障されている中国、2つの衛星政党が存在するが、朝鮮労働党の支配が保障されている北朝鮮など。スハルト政権時代のインドネシアも、与党「ゴルカル」に支配権が保障されていたという点で、これに該当する)
・1党優位政党制…制度上、特定の政党に支配権が保障されておらず、政党間の自由な競争、交代が許されているにもかかわらず、特定の1つの政党が長期間政権を担当し、政権交代が起こらない。(サルトーリは、インドの国民会議派政権と並んで、日本の自民党政権をこの典型的な例とした)
・2大政党制…2つの主要な政党が議席を分け合い、競争・交代を繰り返す。(米国、英国など)
・穏健な多党制…イデオロギー的に大きな差のない3~5の政党が競争しながら、時には単独で、時には連立で政権を担当する。(日米英以外の主要先進国)
そして、これらと並んでサルトーリが定義づけたのが「分極的多党制」である。これは、左右両極に強力な反体制政党が存在し、このどちらにも与しない「真ん中」の穏健な政党が離合集散しながら政権を担当する、というものだ。左右両極に位置する反体制政党は、極端なイデオロギーを持っているため、どちらも政権に関与できないというところが穏健な多党制と異なる。穏健な多党制か分極的多党制かは、政党グループが「右・左・真ん中」で3つに分けられるか、そうでないかで決まる。3つにきれいに分かれる場合が分極的多党制、そうでない場合が穏健な多党制である。
サルトーリは、1党優位政党制の崩壊直後に分極的多党制が生まれやすい、と説明している。
サルトーリのこの考察を日本の現在の政治状況に当てはめると、1党優位政党制として長期間自民党政権が続いた後、票の変動が極端な形に振れやすい小選挙区制のいたずらで「1党優位」の立場が一瞬だけ自民党から民主党に移動したのが現在の状態だということができる。今回の総選挙で民主党が1党優位を失うことはほぼ確実であり、自民党も1党優位に復帰できない可能性が高いから、1党優位政党制の典型例だった日本でその時代は終わり、多党制に移行する。
その際、政党グループが「右・左・真ん中」の3つにきれいに割れれば分極的多党制に、そうならなければ「穏健な多党制」に移行するが、現在、日本では真ん中(自民・民主)から見て右に強力な反体制政党(維新・太陽・みんなの党)が存在し、左にもそれほど強力ではないが反体制政党(共産・社民)が存在する(この場合の反体制とは、国民感情のレベルではなく、大企業・官僚などの支配階級から見て、彼らの利益に反するものを指す。「右」の3党は新自由主義政党だから大企業にとっては仲間であり反体制ではないが、官僚にとっては規制緩和主義者であるため、一部「反体制」となる。逆に「左」の2党は規制強化論者であるため官僚とは一部共闘できるが、大企業にとって完全な「反体制」となる)。
サルトーリは、分極的多党制が成立した場合、左右両極の反体制政党は「真ん中」の国民政党グループとの協力・連立を拒むことが多いので、その場合は多少のイデオロギーの差異に目をつぶり、中道右派・中道左派政党による「大連立」にならざるを得ないと分析している。実際、シュレーダー政権末期のドイツでは、中道右派のキリスト教民主同盟、中道左派の社会民主党が両方とも単独過半数を制しなかったにもかかわらず、左右両極の反体制政党(ネオナチ政党、左翼党)がどちらとも協力を拒んだため、キリスト教民主同盟と社会民主党の大連立政権が生まれた。
今度の総選挙後、民主、自公、第3極のどれも過半数に遠く及ばず、考え得るどのような政党の組み合わせによっても過半数を制する勢力がない場合、左右両極の反体制政党を除いた形での大連立にならざるを得ないだろう。自公に民主、場合によっては「国民の生活が第一」までも加えた、4~5党の連立政権という形にならざるを得ないかもしれない。そして、実際、当ブログはこのシナリオの可能性が最も高いと思っている。
ただし、このシナリオ通りになるには前提条件がある。
(1)自公+民主で180~200議席程度
(2)「国民の生活が第一」が自公、民主に次ぐ第3勢力となる
(3)第3極は全部合わせても100議席に満たない
具体的には、この3条件がそろえば上記のシナリオ通りになると思う。この前提条件の通りにならない場合は…神のみぞ知る、としか言いようがない。
いずれにせよ、今回の総選挙をめぐる事態は混沌としている。どのような結果になろうとも「勝者なき選挙」であることに変わりない。そして、どのような組み合わせの政権になろうとも、その先にはかつてない困難が待ち受けている。不安定な新政権は遠からず進退窮まるだろう。