私は昭和58年(1983年)の初当選以来、自民党の田中派に属し、竹下元総理が経世会を旗揚げした時から小沢さんのことを見てきた。その政治家が本物の政治家かどうかは、少なくとも、ここ五年間その人が何を言い、どう行動してきたかを見ればわかる。そのように小沢一郎のことを俯瞰してみると、小沢一郎の言いだした「政治改革」と、実は、自分の身を守る便法にすぎなかったことがわかってくる。(文庫版p.81、以下同じ)
この時の経世会は派閥の会長の金丸さんの庇護をバックに小沢さんのグループが、経世会自体を乗っ取ろうとしていた。それに対抗していたのが、梶山静六さんであり、私であった。金丸さんを自民党本部に連れてきた派閥事務総長の佐藤守良さんは、小沢さんの一の側近で、あれこれと経世会を分断しようと様々な工作をしていた。(p.83)
小沢さんは金丸問題の処理を独占するためにあらゆる手段を遣った。金丸邸に来ては「私に任せてください」と言いながらさめざめと泣いたり、号泣したりした。大の大人が本当にこれをやったのである。(中略)
小沢さんは金丸問題の処理を独占していくことによって派内の抗争を勝ち抜こうとしていた。突然の「五億円授受を認め、副総裁を辞任する金丸会見」も、経世会の反小沢派がすべて出払っている夏休みの時期をねらって、強行したのである。(中略)
この金丸副総裁辞任は、小沢派が主導権を派内で握っていくという意味でも重要だったが、世論、検察、国会の佐川急便疑惑の追及をかわそうという狙いもあった。つまりあの時佐川急便の献金名簿を公表するかいなかが、大きな焦点になっていた。おそらく、佐川急便側の献金名簿には沢山の議員の名前があったはずだ。そこを金丸さん一人で事態を収めようとしたと私は見ている。(中略)
小沢さんは、宇野政権までは、権力を掌握し、得意の絶頂にいたと思う。総裁候補の宮澤、渡部、三塚の各氏を十全ビルの個人事務所に呼びつけ、個々面接を行う。その映像を見ながら、私は小沢一郎という政治家の恐ろしい一面を見せつけられたと思った。と同時にその思いあがりに強い憤りを感じていた。(pp.84-87)
「あんたほどの人が弁護士の名前を知らんて、どういうことですか」と言ったら、金丸さんは「それは小沢にみんな任せている。だから、知らん」と言うだけだった。しかし、肝心の小沢一郎は9月に入ると外部との連絡を一切断ち隠密行動。派の重鎮である梶山さんが電話を掛けても電話口にも出ない状態だった。(pp.88-89)
小沢さんたちのグループは自民党内でもたいへんな批判をうけた。われわれ竹下派の小沢さんグループ以外の人間はもちろん、他派閥を横断する広範な反小沢連合ができた。その広範な反小沢連合が、それまで実権を握ってきた小沢さんの責任を追及しようとしていた。
世間の批判と竹下派内、いや自民党内の批判、この包囲網の中、小沢一郎のグループが持ち出してきたのが「政治改革」だった。(中略)
つまり、自分たちのやってきたことの責任をシステムの問題にすり替えようとしたのである。(pp.95-96)
小沢一郎という政治家を端倪すべからざる人物だと思い、一時期は彼の力量を買っていたこともある。ところが、そうではなくて全く逆の油断ならない政治家だと思うようになったのは平成3年(1991年)12月末のある出来事がきっかけだった。
熱海の知人の別荘で静養している経世会会長の金丸自民党副総裁を訪ねた時に、金丸さんが打ち明けてくれた。
金丸さんによると、伊豆の旅館・三養荘に小沢さんが、当時小沢側近と呼ばれた熊谷弘さんと杉山憲夫さん(いずれも後に新進党)を伴い訪ねてきて「何とか小沢を天下人にしてください」と懇願して帰ったのだという。手にした派閥の議員名簿の上には「○×△」の印がついていたのを見たと言っていた。○は小沢支持、×は反小沢、△は中間派という意味だったようだ。ある意味では疑い深い、猜疑心の強い人なのだろう。
さすがの金丸さんも、「お前ら今からこんなことをしていていいのか」とたしなめたらしい。(中略)
金丸問題の途中でも小沢さんが会長代行の辞表を出したことがあった。本人は「行動する時に瑕疵なし」と立派なことを言っていたようだが、その実、側近で経世会事務総長だった佐藤守良さんは、マスコミに包囲されて家から出られない金丸邸に来てはこんな言を繰り返していた。
「経世会の会長だけは小沢に譲ってほしい」
さすがの金丸さんも、
「もう辞めていく人間が、その後の会長まで俺が指名することはできない。できる話ではない」
と答えた。(pp.98-99)
「新進党の姿勢や責任がはっきりしてええ」
平成7年(1995年)の暮れに新進党の党首選で小沢一郎さんが党首に選ばれた時の私のマスコミ取材に対するコメントだ。
本当の意味で政治家同士の争いができると思ったので、こうコメントしたのである。1月の通常国会召集前に開いた自民党の全国幹事長会議でも私は出席者に檄を飛ばしておいた。
「小沢さんが党首になったことについては、いささかも怖がっていないし、恐れてもいない。小沢神話に怯えるな、そんな幻に怯えたらあかん」
この気持ちは今も全く変わっていない。小沢一郎は常に陰に隠れ、後ろからあれこれ指図して政治を動かしてきた。しかし、外から見ても新進党内では小沢一郎が表に出なくてはならないところまで追い詰められたと私は理解しているからだ。(p.107)
新進党でも船田元・元経済企画庁長官は、経世会分裂の時には小沢さんと一緒にトップ会談に臨んで、橋本龍太郎さんや小淵恵三さんと渡り合い、さらに小沢調査会で国際貢献についての考えをまとめた小沢さんにとっては大恩人の一人だった。その船田さんが今や新進党内の「反小沢」の急先鋒らしい。
小沢さんと二人で細川政権を牛耳り、「一・一コンビ」と言われてきた元公明党の市川雄一さんとの関係はこんと聞こえてこなくなった。現在は私たちの仲間になっている村岡兼造国対委員長や中村喜四郎元建設大臣もかつては小沢さんの側近中の側近だった。
毎晩のように付き合い、支えになった人が離れていく。
党首選が終わって一カ月足らずで羽田孜さんを中心にした新しい派閥が新進党内にできたというのも、結局みな同じ流れなのである。
経世会分裂の時は私らと激しくやりあった「小沢側近」の熊谷弘さん(元官房長官)、杉山憲夫さん、北村直人さんらも羽田グループに入ってしまっている。
「小沢さんのためによかれ」と思って進言し、忠告しても、素直に受け入れない。疑心暗鬼になり、ある日突然、排除される。私も過去にそういう経験があるが、これはある意味で小沢一郎が政治家として危険な体質を持っていることでもある。(p.107-108)
宗教法人法の改正法案を平成7年(1995年)9月29日に召集された臨時国会に提出すると、こちらが想像してもいなかったような反応を新進党は示した。
「宗教法人法をぶっ潰してやる」
と小沢さんはぶち上げたのである。
つまり、いきなり「廃案でいくぞ」と来たのだ。
この小沢発言がなければ、政府・与党の基本方針は慎重審議だった。つまり、「人の心」に関わる問題だから、地方公聴会、中央公聴会を開いて粛々、厳正な審議を行うというのがスタート時点の考えだった。平たく言えば、次の通常国会に継続審議になってもやむをえないということだ。実際に衆議院で慎重審議をやっていたら、改正法案は通常国会に先送りされていたのは間違いなかったし、成立できたかどうかも分からない。
つまり、先に送ってそこで勝負しようという考えだったわけだ。
ところが、相手が「廃案」を言ってくると、こちらも構えが違ってくる。つまり一度廃案になった法案は、二度と浮かびあがれないのが普通だ。
○か×か、今国会で勝負を決しなければならなったのである。
その結果、衆院の公聴会での参考人事情聴取などすべての手続きを外して11月13日に法案は衆院を通過してしまった。さらに会期も延長して、衆院でやれなかったものは参議院でやってもらうことになった。
つまり、ここで改正法案を通したくないという学会の希望はひとつ潰れたのである。(中略)
そのあと、元公明党の市川雄衆議院議員が、小沢さんに食ってかかったのは、こうした背景があったのだ。市川さんにしたら、「なぜ、こんな馬鹿なことをしたんだ」という思いだったのだろう。それにたいして小沢さんは涙を流しながら、「それなら元に戻そうか」と言い返したと報道される。
これはあの金丸切りの時の構図とそっくりなのである。(pp.117-120)
とりわけ村山総理の「小沢一郎嫌い」は一年余り側で仕事をさせてもらって、私と同様、筋金入りだ。村山さんの「反小沢」の原点は言うまでもなく細川連立時代の国民福祉税構想などに代表される小沢さんの「独断専行・秘密主義」「唯我独尊・側近政治」、さらに強権的な行動だった。
だから、総理大臣になっても、それは徹底していた。新進党と創価学会の関係でも世間一般の見方は小沢一郎さんは創価学会に利用されているということだろうが、村山さんは逆だ。「創価学会という宗教団体を手玉に取るような政治家とは一緒になれない」
これが村山さんの真意だ。何度か裏切られた話、何も知らされないままボーンと国民福祉税のようにやられた話。そんなことが雑談の中で胸中からこぼれ出してきた。(p.122)
小沢さんは選挙の神様だと思われている。「あの人だから万事怠りない」とか「あの人のやる選挙は必ず勝つ」とか言われている。いわゆる「小沢神話」である。
が、こうした「神話」は常に小沢さんが、海部さんなり、羽田さんなりを前面に押し出して、自分が幹事長として陰に隠れていたからこそ作られたものだ。
彼が党首になった今、果たしてかつてのような神通力が通じるものか。
私は「小沢神話」は幻にしかすぎないと思っている。小沢さんが新進党のトップに立ったことで、やがてそれは明らかになってくると思う。
小沢一郎という政治家は非常に優れた感覚と政策を持っている。しかし、その半面、その手法に陰湿なものがあるのは見てきたとおりである。(pp.129-130)
小沢さんのやり方は、実はこうした官僚の考え方と非常に良く似ている。一種の愚民思想である。リーダシップ、決断する政治家と言えば聞こえがいいが、その実態は、一部の人間が前衛として国家の施策を決めていくという方法だ。これは共産主義と似ている。側近と呼ばれていた人々が小沢さんの疑心暗鬼のなか、次々と切られていくというのも組織のあり方として大変似ている。(p.159)
【参考】野中広義『私は闘う』(文藝春秋、1996。後に文春文庫、1999)
↓クリック、プリーズ。↓

この時の経世会は派閥の会長の金丸さんの庇護をバックに小沢さんのグループが、経世会自体を乗っ取ろうとしていた。それに対抗していたのが、梶山静六さんであり、私であった。金丸さんを自民党本部に連れてきた派閥事務総長の佐藤守良さんは、小沢さんの一の側近で、あれこれと経世会を分断しようと様々な工作をしていた。(p.83)
小沢さんは金丸問題の処理を独占するためにあらゆる手段を遣った。金丸邸に来ては「私に任せてください」と言いながらさめざめと泣いたり、号泣したりした。大の大人が本当にこれをやったのである。(中略)
小沢さんは金丸問題の処理を独占していくことによって派内の抗争を勝ち抜こうとしていた。突然の「五億円授受を認め、副総裁を辞任する金丸会見」も、経世会の反小沢派がすべて出払っている夏休みの時期をねらって、強行したのである。(中略)
この金丸副総裁辞任は、小沢派が主導権を派内で握っていくという意味でも重要だったが、世論、検察、国会の佐川急便疑惑の追及をかわそうという狙いもあった。つまりあの時佐川急便の献金名簿を公表するかいなかが、大きな焦点になっていた。おそらく、佐川急便側の献金名簿には沢山の議員の名前があったはずだ。そこを金丸さん一人で事態を収めようとしたと私は見ている。(中略)
小沢さんは、宇野政権までは、権力を掌握し、得意の絶頂にいたと思う。総裁候補の宮澤、渡部、三塚の各氏を十全ビルの個人事務所に呼びつけ、個々面接を行う。その映像を見ながら、私は小沢一郎という政治家の恐ろしい一面を見せつけられたと思った。と同時にその思いあがりに強い憤りを感じていた。(pp.84-87)
「あんたほどの人が弁護士の名前を知らんて、どういうことですか」と言ったら、金丸さんは「それは小沢にみんな任せている。だから、知らん」と言うだけだった。しかし、肝心の小沢一郎は9月に入ると外部との連絡を一切断ち隠密行動。派の重鎮である梶山さんが電話を掛けても電話口にも出ない状態だった。(pp.88-89)
小沢さんたちのグループは自民党内でもたいへんな批判をうけた。われわれ竹下派の小沢さんグループ以外の人間はもちろん、他派閥を横断する広範な反小沢連合ができた。その広範な反小沢連合が、それまで実権を握ってきた小沢さんの責任を追及しようとしていた。
世間の批判と竹下派内、いや自民党内の批判、この包囲網の中、小沢一郎のグループが持ち出してきたのが「政治改革」だった。(中略)
つまり、自分たちのやってきたことの責任をシステムの問題にすり替えようとしたのである。(pp.95-96)
小沢一郎という政治家を端倪すべからざる人物だと思い、一時期は彼の力量を買っていたこともある。ところが、そうではなくて全く逆の油断ならない政治家だと思うようになったのは平成3年(1991年)12月末のある出来事がきっかけだった。
熱海の知人の別荘で静養している経世会会長の金丸自民党副総裁を訪ねた時に、金丸さんが打ち明けてくれた。
金丸さんによると、伊豆の旅館・三養荘に小沢さんが、当時小沢側近と呼ばれた熊谷弘さんと杉山憲夫さん(いずれも後に新進党)を伴い訪ねてきて「何とか小沢を天下人にしてください」と懇願して帰ったのだという。手にした派閥の議員名簿の上には「○×△」の印がついていたのを見たと言っていた。○は小沢支持、×は反小沢、△は中間派という意味だったようだ。ある意味では疑い深い、猜疑心の強い人なのだろう。
さすがの金丸さんも、「お前ら今からこんなことをしていていいのか」とたしなめたらしい。(中略)
金丸問題の途中でも小沢さんが会長代行の辞表を出したことがあった。本人は「行動する時に瑕疵なし」と立派なことを言っていたようだが、その実、側近で経世会事務総長だった佐藤守良さんは、マスコミに包囲されて家から出られない金丸邸に来てはこんな言を繰り返していた。
「経世会の会長だけは小沢に譲ってほしい」
さすがの金丸さんも、
「もう辞めていく人間が、その後の会長まで俺が指名することはできない。できる話ではない」
と答えた。(pp.98-99)
「新進党の姿勢や責任がはっきりしてええ」
平成7年(1995年)の暮れに新進党の党首選で小沢一郎さんが党首に選ばれた時の私のマスコミ取材に対するコメントだ。
本当の意味で政治家同士の争いができると思ったので、こうコメントしたのである。1月の通常国会召集前に開いた自民党の全国幹事長会議でも私は出席者に檄を飛ばしておいた。
「小沢さんが党首になったことについては、いささかも怖がっていないし、恐れてもいない。小沢神話に怯えるな、そんな幻に怯えたらあかん」
この気持ちは今も全く変わっていない。小沢一郎は常に陰に隠れ、後ろからあれこれ指図して政治を動かしてきた。しかし、外から見ても新進党内では小沢一郎が表に出なくてはならないところまで追い詰められたと私は理解しているからだ。(p.107)
新進党でも船田元・元経済企画庁長官は、経世会分裂の時には小沢さんと一緒にトップ会談に臨んで、橋本龍太郎さんや小淵恵三さんと渡り合い、さらに小沢調査会で国際貢献についての考えをまとめた小沢さんにとっては大恩人の一人だった。その船田さんが今や新進党内の「反小沢」の急先鋒らしい。
小沢さんと二人で細川政権を牛耳り、「一・一コンビ」と言われてきた元公明党の市川雄一さんとの関係はこんと聞こえてこなくなった。現在は私たちの仲間になっている村岡兼造国対委員長や中村喜四郎元建設大臣もかつては小沢さんの側近中の側近だった。
毎晩のように付き合い、支えになった人が離れていく。
党首選が終わって一カ月足らずで羽田孜さんを中心にした新しい派閥が新進党内にできたというのも、結局みな同じ流れなのである。
経世会分裂の時は私らと激しくやりあった「小沢側近」の熊谷弘さん(元官房長官)、杉山憲夫さん、北村直人さんらも羽田グループに入ってしまっている。
「小沢さんのためによかれ」と思って進言し、忠告しても、素直に受け入れない。疑心暗鬼になり、ある日突然、排除される。私も過去にそういう経験があるが、これはある意味で小沢一郎が政治家として危険な体質を持っていることでもある。(p.107-108)
宗教法人法の改正法案を平成7年(1995年)9月29日に召集された臨時国会に提出すると、こちらが想像してもいなかったような反応を新進党は示した。
「宗教法人法をぶっ潰してやる」
と小沢さんはぶち上げたのである。
つまり、いきなり「廃案でいくぞ」と来たのだ。
この小沢発言がなければ、政府・与党の基本方針は慎重審議だった。つまり、「人の心」に関わる問題だから、地方公聴会、中央公聴会を開いて粛々、厳正な審議を行うというのがスタート時点の考えだった。平たく言えば、次の通常国会に継続審議になってもやむをえないということだ。実際に衆議院で慎重審議をやっていたら、改正法案は通常国会に先送りされていたのは間違いなかったし、成立できたかどうかも分からない。
つまり、先に送ってそこで勝負しようという考えだったわけだ。
ところが、相手が「廃案」を言ってくると、こちらも構えが違ってくる。つまり一度廃案になった法案は、二度と浮かびあがれないのが普通だ。
○か×か、今国会で勝負を決しなければならなったのである。
その結果、衆院の公聴会での参考人事情聴取などすべての手続きを外して11月13日に法案は衆院を通過してしまった。さらに会期も延長して、衆院でやれなかったものは参議院でやってもらうことになった。
つまり、ここで改正法案を通したくないという学会の希望はひとつ潰れたのである。(中略)
そのあと、元公明党の市川雄衆議院議員が、小沢さんに食ってかかったのは、こうした背景があったのだ。市川さんにしたら、「なぜ、こんな馬鹿なことをしたんだ」という思いだったのだろう。それにたいして小沢さんは涙を流しながら、「それなら元に戻そうか」と言い返したと報道される。
これはあの金丸切りの時の構図とそっくりなのである。(pp.117-120)
とりわけ村山総理の「小沢一郎嫌い」は一年余り側で仕事をさせてもらって、私と同様、筋金入りだ。村山さんの「反小沢」の原点は言うまでもなく細川連立時代の国民福祉税構想などに代表される小沢さんの「独断専行・秘密主義」「唯我独尊・側近政治」、さらに強権的な行動だった。
だから、総理大臣になっても、それは徹底していた。新進党と創価学会の関係でも世間一般の見方は小沢一郎さんは創価学会に利用されているということだろうが、村山さんは逆だ。「創価学会という宗教団体を手玉に取るような政治家とは一緒になれない」
これが村山さんの真意だ。何度か裏切られた話、何も知らされないままボーンと国民福祉税のようにやられた話。そんなことが雑談の中で胸中からこぼれ出してきた。(p.122)
小沢さんは選挙の神様だと思われている。「あの人だから万事怠りない」とか「あの人のやる選挙は必ず勝つ」とか言われている。いわゆる「小沢神話」である。
が、こうした「神話」は常に小沢さんが、海部さんなり、羽田さんなりを前面に押し出して、自分が幹事長として陰に隠れていたからこそ作られたものだ。
彼が党首になった今、果たしてかつてのような神通力が通じるものか。
私は「小沢神話」は幻にしかすぎないと思っている。小沢さんが新進党のトップに立ったことで、やがてそれは明らかになってくると思う。
小沢一郎という政治家は非常に優れた感覚と政策を持っている。しかし、その半面、その手法に陰湿なものがあるのは見てきたとおりである。(pp.129-130)
小沢さんのやり方は、実はこうした官僚の考え方と非常に良く似ている。一種の愚民思想である。リーダシップ、決断する政治家と言えば聞こえがいいが、その実態は、一部の人間が前衛として国家の施策を決めていくという方法だ。これは共産主義と似ている。側近と呼ばれていた人々が小沢さんの疑心暗鬼のなか、次々と切られていくというのも組織のあり方として大変似ている。(p.159)
【参考】野中広義『私は闘う』(文藝春秋、1996。後に文春文庫、1999)
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