今を遡ること約40年前、ある少年が一人の医師を知った。デパートで開かれた「蛇展」の案内パンフレットに、医師の名が記されていたのである。
少年は長じて毒蛇に対する関心を再燃させ、明治薬科大学に入学する。
だが、こと志と異なる教育環境に飽きたらず、群馬県にある日本蛇族学術研究所をたびたび訪れた。少年時代にその名を知った医師から、じかに教えを請うためである。
少年は、すなわち小林照幸である。医師は、蛇毒研究の第一人者、沢井芳男である。
小林は、私淑した沢井の業績を世に伝えようと、「ある咬症伝」と題するレポートをものする。レポートには第1回開高健賞奨励賞が授与された。
爾来、小林は旺盛な執筆活動に入り、『朱鷺の遺言』で第30回大宅ノンフィクション賞を史上最年少で受賞した。
「ある咬症伝」は、公刊にあたって『毒蛇』と改題された。『毒蛇』及びその後を描いた『続 毒蛇』を一本化したものが本書『完本 毒蛇』である。
陽光あふれる南国、奄美大島の場面で幕はあがる。
奄美は、漁猟資源にめぐまれた土地である。その奄美の発展を阻害してきた二大要因が、台風とハブであった。
ハブは、山野はもとより、民家にも忍びこみ、人を咬む。主食のネズミを求めて侵入するのである。
ハブに咬まれると、筋肉、血液、骨が壊死する。死にいたることもあり、死は大部分、咬まれてから24時間以内にやってくる。
ハブの血清製造に従事していた沢井芳男は、昭和32年7月、初めて奄美大島の土を踏んだ。東京大学付属伝染病研究所(後の医科学研究所)試験製造室主任として、沢井は、ハブ咬症による死を減少させた血清に自信をもっていた。
しかし、名瀬市にある大島病院で、咬症患者の悲惨な実態を目にして、息を飲む。鼻をつく腐臭、糜爛した肌、むきだしになった骨、絶え間ない痛みに叫ぶ患者。当時の血清は、死を防ぐ効果はあっても、腫張や壊死を防ぐ効果は乏しかったのである。
保存の問題もあった。冷蔵庫に保管しても、有効期間は1年しかなかった。しかも、離島には電気が通じていない。
沢井は、1年間研究した結果、筋肉注射よりも静脈注射のほうが薬効大であることを発見する。
また、群馬大学の友人の協力を得て壊死のメカニスムを解明し、世界にも前例のない乾燥血清を作りだした。
ただ、ハブ咬症による壊死は減少したが、血清療法は万全ではない。
沢井は、予防ワクチンの開発に取組み、昭和40年にハブトキソイドを完成させた。これまた世界で初めての、新しい治療対策であった。
沢井が活躍する舞台は沖縄全域へ広がり、さらに台湾、東南アジアにも広がった。やがて、世界の毒蛇がターゲットとなった。
かくて、ハブという自然界の「毒」に対しては、ヤマトンチュの知恵と努力が沖縄に福音をもたらした。
しかし、米軍基地という社会の「毒」に対しては、今のところ、依然としてヤマトンチュは無為無策である。
本書は著者の処女作であるだけに、若書きのアラが目につく。構成は単調、時系列に沿って記述するのみだ。また、生のデータがやや過剰なまで詰めこまれているから、文面が生硬になりがちだ。
だが、こうした些細な瑕疵を補って余りあるのは、主人公、沢井芳男に対する著者の熱い思いいれである。この一途な傾倒は、さわやかだ。
多数の資料を渉猟し、綿密な現地調査により裏づけているから、我田引水的な礼賛になっていない。
世間的な華々しさとは無縁のところでハブ禍撲滅のため地道に尽力した学者の半生が、ずしりと重い読後感をのこす。
□小林照幸『完本 毒蛇』(文春文庫、2000)
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少年は長じて毒蛇に対する関心を再燃させ、明治薬科大学に入学する。
だが、こと志と異なる教育環境に飽きたらず、群馬県にある日本蛇族学術研究所をたびたび訪れた。少年時代にその名を知った医師から、じかに教えを請うためである。
少年は、すなわち小林照幸である。医師は、蛇毒研究の第一人者、沢井芳男である。
小林は、私淑した沢井の業績を世に伝えようと、「ある咬症伝」と題するレポートをものする。レポートには第1回開高健賞奨励賞が授与された。
爾来、小林は旺盛な執筆活動に入り、『朱鷺の遺言』で第30回大宅ノンフィクション賞を史上最年少で受賞した。
「ある咬症伝」は、公刊にあたって『毒蛇』と改題された。『毒蛇』及びその後を描いた『続 毒蛇』を一本化したものが本書『完本 毒蛇』である。
陽光あふれる南国、奄美大島の場面で幕はあがる。
奄美は、漁猟資源にめぐまれた土地である。その奄美の発展を阻害してきた二大要因が、台風とハブであった。
ハブは、山野はもとより、民家にも忍びこみ、人を咬む。主食のネズミを求めて侵入するのである。
ハブに咬まれると、筋肉、血液、骨が壊死する。死にいたることもあり、死は大部分、咬まれてから24時間以内にやってくる。
ハブの血清製造に従事していた沢井芳男は、昭和32年7月、初めて奄美大島の土を踏んだ。東京大学付属伝染病研究所(後の医科学研究所)試験製造室主任として、沢井は、ハブ咬症による死を減少させた血清に自信をもっていた。
しかし、名瀬市にある大島病院で、咬症患者の悲惨な実態を目にして、息を飲む。鼻をつく腐臭、糜爛した肌、むきだしになった骨、絶え間ない痛みに叫ぶ患者。当時の血清は、死を防ぐ効果はあっても、腫張や壊死を防ぐ効果は乏しかったのである。
保存の問題もあった。冷蔵庫に保管しても、有効期間は1年しかなかった。しかも、離島には電気が通じていない。
沢井は、1年間研究した結果、筋肉注射よりも静脈注射のほうが薬効大であることを発見する。
また、群馬大学の友人の協力を得て壊死のメカニスムを解明し、世界にも前例のない乾燥血清を作りだした。
ただ、ハブ咬症による壊死は減少したが、血清療法は万全ではない。
沢井は、予防ワクチンの開発に取組み、昭和40年にハブトキソイドを完成させた。これまた世界で初めての、新しい治療対策であった。
沢井が活躍する舞台は沖縄全域へ広がり、さらに台湾、東南アジアにも広がった。やがて、世界の毒蛇がターゲットとなった。
かくて、ハブという自然界の「毒」に対しては、ヤマトンチュの知恵と努力が沖縄に福音をもたらした。
しかし、米軍基地という社会の「毒」に対しては、今のところ、依然としてヤマトンチュは無為無策である。
本書は著者の処女作であるだけに、若書きのアラが目につく。構成は単調、時系列に沿って記述するのみだ。また、生のデータがやや過剰なまで詰めこまれているから、文面が生硬になりがちだ。
だが、こうした些細な瑕疵を補って余りあるのは、主人公、沢井芳男に対する著者の熱い思いいれである。この一途な傾倒は、さわやかだ。
多数の資料を渉猟し、綿密な現地調査により裏づけているから、我田引水的な礼賛になっていない。
世間的な華々しさとは無縁のところでハブ禍撲滅のため地道に尽力した学者の半生が、ずしりと重い読後感をのこす。
□小林照幸『完本 毒蛇』(文春文庫、2000)
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