『経済危機のルーツ』は、日米の、経済危機に先立つ大繁栄の時代を振り返る。
そして、この経済史に、その時代を生きた野口悠紀雄が個人的に見たもの、聞いたものを挿入している。
ここでは、野口の自伝的要素を取り出してみたい。
第1章で1970年代を回想するにあたって、まずスティーブン・キング『ランゴリアーズ』の「序にかえて」から引用している。
1974年、大統領はフォード、イランではシャーがまだ権勢をふるい、ジョン・レノンは健在だった。エルヴィス・プレースリーもしかり。カセットレコーダー(ビデオのこと)は、ソニーのベータ方式がVHSを蹂躙するだろう、と予言されていた。レンタルビデオは普及していなかった。レギュラーガソリンは1ガロン48セント、無鉛ガソリンは55セントだった。
ちなみに、レギュラーガソリンは、2008年夏には、1ガロン4ドルを超えた。
キングにとって、この本を書いた1989年において、1974年は昨日のように思えるし、大昔のように思えたのだ。
しかし、野口が思うに、1970年代の初めに世界経済の基本的な骨組みが大きく変動し、新しい仕組みが築かれた。この仕組みは、基本的には現在まで続いている(『経済危機のルーツ』を1970年代から始める理由)。
1960年代までの戦後経済は、「ブレトンウッズ体制」の下で運営されていた。ドルと金と交換比率を固定する体制だ。
1971年8月15日、ニクソンは金とドルとの交換停止の声明を出し、「ブレトンウッズ体制」の終焉を告げた。
ニクソン声明の時、野口は米国で夏休みを過ごしていた。妻は出産のために帰国。学生のいなくなったコネチカット州ニューへブンで、秋にある試験(博士論文を書く資格を得るための試験)のため、ひたすら勉強していた。当時大蔵省の職員だったから、2年間で終える必要があり、普通の2倍のペースで試験を通過しなければならなかった。
当時の通信状況では、日本の様子はほとんどわからない(国際通信は高価で、長女誕生の知らせもわずか2行の電報だった)。米国の新聞に突然登場した日本の証券取引所の写真、場立ちの全員が着ている白いシャツに奇妙な印象を受けた。誰も白いシャツなぞ着ていない米国社会に慣れてしまっていたからだ。
2008年11月に来日したシンガーソングライター、キャロル・キングが、「私が若かったとき、水飲み場でさせ黒人と白人で別だった」とインタビューに答えている。
映画『アメリカン・グラフィティ』にでてくる高校生は、すべて白人だ。黒人もアジア系住民も登場しない。これが1960年代前半までの米国だ。
1960年代前半までの西部劇は、インディアンを未開で野蛮な民族、征服されるべき人々として描いてきた。
それを大きく変えたのが、1970年の映画『リトルビッグマン(小さな巨人)』だった。カスター将軍全滅の戦闘をインディアンの側から描いた。米国社会が大きく変動してゆく象徴だった。
人種差別が当然の基本原理は1970年代に大きく変化した。建前上の平等は、1970年代に確立し、現実を変えて今日に至る。
アイビーリーグに女子学生が現れた。1960年代末までは、男女共学ではなかったのである。
映画『ラブストーリー(ある愛の詩)』では、主人公はハーバード大学の学生で、恋人は同じ構内にあるが別の大学、ラドクリフの学生だ。野口のいたエール大学でも、状況は同じだった。女子用トイレはわずかしかなかったし、屋内プールは男子学生専用で、全裸で泳ぐのが普通だった。
ヒラリー・クリントンはエール大学ロースクール出身だが、アンダーグラジュエイトは名門女子大のウェルズリーだ。
「少数民族の中にも女性の中にも、優秀な人間は多数民族の男性と同じ比率でいるはずである。だから、彼らに対する社会的正客を取り払えば、社会はより多くの優秀な人材を活用できる。そして社会の生産性は高まるはずだ。このように純粋に功利的な観点からしても、差別の撤廃は社会にプラスの影響を与えるのだ。70年代以降のアメリカの経験は、まさにそのことの実証である」
当時の大学キャンパスをベトナム戦争の暗い影が覆っていた。徴兵は大学院生にも及んできた。イラク戦争との大きな違いである。
だから、大学生を中心とした反戦運動が大きな社会的潮流となった。ヒッピー文化が大学を覆い、ミュージカル『ヘア』が大ヒットした。ビートルズやビーチボーイズも、プレースリーさえも、こうした潮流のなかで大きく変貌していった。
大学近くの書店にJ・R・R・トールキン『指環物語』がうず高く積まれていた。現実逃避願望の対象になった、としか考えようがない。ベトナム戦争から一方的撤退を主張したマクバガンさえ、学生の希望をつなぎとめることはできなかった。
人種差別撤廃、ウーマンズリブ、アファーマティブ・アクションなどは、ベトナム反戦運動と密接に関係している。この時期、米国社会は根源的なレベルで価値観が転換しつつあった。
他方、米国の世界戦略の基本は、変わらなかった。熱核戦争を現実の脅威として捉え、勝ち抜くつもりでいた。大学のどの建物の地下にも核シェルターが設置されていた。
宇宙開発戦争では、アポロ計画を見事に成功させた。ソ連は明らかに敗北したのである。社会主義経済の機能不全の表れである。
1970年代、コンピュータの技術が大きく変化し始めた。
まず1970年代初めにプログラム電卓が登場した。
そして、パ1970年代から1980年代にかけてパーソナルコンピュータ(PC)が発展した。1976年、車庫で作られたAppleが販売された。翌年発売されたAppleⅡは大成功をおさめ、PCの時代が到来した。1979年、日本電気(NEC)がPC-8000シリーズを発売した。
こうしためざましい発展に、社会主義圏はまったく追随できなかった。むしろ、パーソナルなコンピュータは国家の安全を脅かす、と考え、その使用を妨げようとしていた。
社会主義国家の崩壊は、情報技術の転換とほぼ同時期に起こっている。これは偶然ではなく、必然だった。
「ソ連の崩壊は、情報技術がもたらした必然の結果だ(このように、分散的情報処理システムは、市場経済を前提としている。日本が90年代のIT技術に完全に対応できなかったのも、ここに基本的な理由がある)」
【参考】野口悠紀雄『経済危機のルーツ ~モノづくりはグーグルとウォール街に負けたのか~』(東洋経済新聞社、2010)
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そして、この経済史に、その時代を生きた野口悠紀雄が個人的に見たもの、聞いたものを挿入している。
ここでは、野口の自伝的要素を取り出してみたい。
第1章で1970年代を回想するにあたって、まずスティーブン・キング『ランゴリアーズ』の「序にかえて」から引用している。
1974年、大統領はフォード、イランではシャーがまだ権勢をふるい、ジョン・レノンは健在だった。エルヴィス・プレースリーもしかり。カセットレコーダー(ビデオのこと)は、ソニーのベータ方式がVHSを蹂躙するだろう、と予言されていた。レンタルビデオは普及していなかった。レギュラーガソリンは1ガロン48セント、無鉛ガソリンは55セントだった。
ちなみに、レギュラーガソリンは、2008年夏には、1ガロン4ドルを超えた。
キングにとって、この本を書いた1989年において、1974年は昨日のように思えるし、大昔のように思えたのだ。
しかし、野口が思うに、1970年代の初めに世界経済の基本的な骨組みが大きく変動し、新しい仕組みが築かれた。この仕組みは、基本的には現在まで続いている(『経済危機のルーツ』を1970年代から始める理由)。
1960年代までの戦後経済は、「ブレトンウッズ体制」の下で運営されていた。ドルと金と交換比率を固定する体制だ。
1971年8月15日、ニクソンは金とドルとの交換停止の声明を出し、「ブレトンウッズ体制」の終焉を告げた。
ニクソン声明の時、野口は米国で夏休みを過ごしていた。妻は出産のために帰国。学生のいなくなったコネチカット州ニューへブンで、秋にある試験(博士論文を書く資格を得るための試験)のため、ひたすら勉強していた。当時大蔵省の職員だったから、2年間で終える必要があり、普通の2倍のペースで試験を通過しなければならなかった。
当時の通信状況では、日本の様子はほとんどわからない(国際通信は高価で、長女誕生の知らせもわずか2行の電報だった)。米国の新聞に突然登場した日本の証券取引所の写真、場立ちの全員が着ている白いシャツに奇妙な印象を受けた。誰も白いシャツなぞ着ていない米国社会に慣れてしまっていたからだ。
2008年11月に来日したシンガーソングライター、キャロル・キングが、「私が若かったとき、水飲み場でさせ黒人と白人で別だった」とインタビューに答えている。
映画『アメリカン・グラフィティ』にでてくる高校生は、すべて白人だ。黒人もアジア系住民も登場しない。これが1960年代前半までの米国だ。
1960年代前半までの西部劇は、インディアンを未開で野蛮な民族、征服されるべき人々として描いてきた。
それを大きく変えたのが、1970年の映画『リトルビッグマン(小さな巨人)』だった。カスター将軍全滅の戦闘をインディアンの側から描いた。米国社会が大きく変動してゆく象徴だった。
人種差別が当然の基本原理は1970年代に大きく変化した。建前上の平等は、1970年代に確立し、現実を変えて今日に至る。
アイビーリーグに女子学生が現れた。1960年代末までは、男女共学ではなかったのである。
映画『ラブストーリー(ある愛の詩)』では、主人公はハーバード大学の学生で、恋人は同じ構内にあるが別の大学、ラドクリフの学生だ。野口のいたエール大学でも、状況は同じだった。女子用トイレはわずかしかなかったし、屋内プールは男子学生専用で、全裸で泳ぐのが普通だった。
ヒラリー・クリントンはエール大学ロースクール出身だが、アンダーグラジュエイトは名門女子大のウェルズリーだ。
「少数民族の中にも女性の中にも、優秀な人間は多数民族の男性と同じ比率でいるはずである。だから、彼らに対する社会的正客を取り払えば、社会はより多くの優秀な人材を活用できる。そして社会の生産性は高まるはずだ。このように純粋に功利的な観点からしても、差別の撤廃は社会にプラスの影響を与えるのだ。70年代以降のアメリカの経験は、まさにそのことの実証である」
当時の大学キャンパスをベトナム戦争の暗い影が覆っていた。徴兵は大学院生にも及んできた。イラク戦争との大きな違いである。
だから、大学生を中心とした反戦運動が大きな社会的潮流となった。ヒッピー文化が大学を覆い、ミュージカル『ヘア』が大ヒットした。ビートルズやビーチボーイズも、プレースリーさえも、こうした潮流のなかで大きく変貌していった。
大学近くの書店にJ・R・R・トールキン『指環物語』がうず高く積まれていた。現実逃避願望の対象になった、としか考えようがない。ベトナム戦争から一方的撤退を主張したマクバガンさえ、学生の希望をつなぎとめることはできなかった。
人種差別撤廃、ウーマンズリブ、アファーマティブ・アクションなどは、ベトナム反戦運動と密接に関係している。この時期、米国社会は根源的なレベルで価値観が転換しつつあった。
他方、米国の世界戦略の基本は、変わらなかった。熱核戦争を現実の脅威として捉え、勝ち抜くつもりでいた。大学のどの建物の地下にも核シェルターが設置されていた。
宇宙開発戦争では、アポロ計画を見事に成功させた。ソ連は明らかに敗北したのである。社会主義経済の機能不全の表れである。
1970年代、コンピュータの技術が大きく変化し始めた。
まず1970年代初めにプログラム電卓が登場した。
そして、パ1970年代から1980年代にかけてパーソナルコンピュータ(PC)が発展した。1976年、車庫で作られたAppleが販売された。翌年発売されたAppleⅡは大成功をおさめ、PCの時代が到来した。1979年、日本電気(NEC)がPC-8000シリーズを発売した。
こうしためざましい発展に、社会主義圏はまったく追随できなかった。むしろ、パーソナルなコンピュータは国家の安全を脅かす、と考え、その使用を妨げようとしていた。
社会主義国家の崩壊は、情報技術の転換とほぼ同時期に起こっている。これは偶然ではなく、必然だった。
「ソ連の崩壊は、情報技術がもたらした必然の結果だ(このように、分散的情報処理システムは、市場経済を前提としている。日本が90年代のIT技術に完全に対応できなかったのも、ここに基本的な理由がある)」
【参考】野口悠紀雄『経済危機のルーツ ~モノづくりはグーグルとウォール街に負けたのか~』(東洋経済新聞社、2010)
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