むかしむかし河合隼雄は、カウンセラーとして現役のころ、性格が合わないので離婚したい、という相談を受け、こんなたとえ話をしたことがあった。
「夫婦は、川の両岸のようなものなんですね。川幅があるほど、岸と岸との距離が遠いほど、両岸の間に張った網には、魚がたくさん獲れます」
なかなかの効果をあげたので、河合先生、内心得意になって、似たようなケースに何度か同じたとえ話をした。
あるとき、このたとえ話を聞いたクライエントが膝を打っていわく、
「わかりました。どうして私と夫がうまくいかないかが。夫と私は平行して流れる二つの川なんですね。いくら網を張っても、魚が獲れないのは当たり前でした」
河合先生、ダァーッとなって総括する。
かくのごとく臨床家は常に相談者から新たな挑戦を受けるのである・・・・。
*
この河合が翻訳家にして演劇評論家の松岡和子とともに、『ロミオとジュリエット』、『間違いの喜劇』、『夏の夜の夢』、『十二夜』、『ハムレット』、『リチャード3世』の6編を語り合ったのが本書。
たとえば、『ロミオとジュリエット』に青年期の心理を「快読」する。
二人はジュリエットの年齢、14歳に着目する。
「下敷き」(マッテオ・バンデッロ著、アーサー・ブルック英訳『ロミウスとジュリエット』)では16歳と設定されていたが、シェイクスピア『ロミジュリ』では14歳に年齢を引き下げられた。こう指摘するのは松岡。
以下、二人は、この年齢に特徴的な心理を『ロミジュリ』から読みとっていく。14歳という年齢に特徴的な言動を活写した場面を『ロミジュリ』から抜き出す。
たとえば、ロミジュリ双方とも、恋することで秘密をもち、嘘をつく。この二つはセットになって、子どもが大人になる条件を形成するのだ。少なくとも河合の心理学的考察によれば、そういうことだ。
あるいは、思春期はものすごく精神的な反面、まったく肉体だけの世界をもち、両者の間で揺れるものだ。『ロミジュリ』では、猥雑きわまる言葉遊びで下半身の話をする乳母やマキューシオが肉体の側面を受け持ち、ロミジュリはピュアな精神的純愛を受け持っている。芝居全体が恋愛の両側面を描きつくすわけだ。
こういった指摘は、心理学者ではなく演劇評論家でもない読者でも読みとることはできそうだ。
しかし、双方の親がその「愛によって」二人の歓びを殺した、という解釈には刮目させられるだろう。二人の幸福のために知恵をしぼった僧ロレンスも、この点は同じだ、と河合は指摘する。「親だけではない。教育者、宗教家、心理療法家など、人助けをしたがる大人たちは、自分の愛によって他人の歓びを殺していないかを反省する必要がある」
この洞察は、心理療法家としての臨床経験に裏打ちされている、と思う。河合は、親がその「愛によって」青年を抑圧した例を少なからず見てきたはずだ。
打てば響く松岡は、次のように補足する。
See what a scourge is laid upon your hate,
That heaven finds means to kill your joys with love;
これを「見ろ、これがお前たちの憎悪に下された天罰だ。/天は、お前たちの歓びを愛によって殺すという手立てを取った」と、2行目をほぼ直訳した。そのおかげて、ロミジュリの愛だけではなくて「親の愛」をも読みとってもらえた、と。
松岡は先人の翻訳を列挙し、坪内逍遙から小田島雄志まで、軒並みに「love」を二人の愛に限定した訳となっている、という。翻訳畏るべし。
【読書余滴】河合隼雄/松岡和子『快読シェイクスピア』(新潮文庫、2001)
↓クリック、プリーズ。↓
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「夫婦は、川の両岸のようなものなんですね。川幅があるほど、岸と岸との距離が遠いほど、両岸の間に張った網には、魚がたくさん獲れます」
なかなかの効果をあげたので、河合先生、内心得意になって、似たようなケースに何度か同じたとえ話をした。
あるとき、このたとえ話を聞いたクライエントが膝を打っていわく、
「わかりました。どうして私と夫がうまくいかないかが。夫と私は平行して流れる二つの川なんですね。いくら網を張っても、魚が獲れないのは当たり前でした」
河合先生、ダァーッとなって総括する。
かくのごとく臨床家は常に相談者から新たな挑戦を受けるのである・・・・。
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この河合が翻訳家にして演劇評論家の松岡和子とともに、『ロミオとジュリエット』、『間違いの喜劇』、『夏の夜の夢』、『十二夜』、『ハムレット』、『リチャード3世』の6編を語り合ったのが本書。
たとえば、『ロミオとジュリエット』に青年期の心理を「快読」する。
二人はジュリエットの年齢、14歳に着目する。
「下敷き」(マッテオ・バンデッロ著、アーサー・ブルック英訳『ロミウスとジュリエット』)では16歳と設定されていたが、シェイクスピア『ロミジュリ』では14歳に年齢を引き下げられた。こう指摘するのは松岡。
以下、二人は、この年齢に特徴的な心理を『ロミジュリ』から読みとっていく。14歳という年齢に特徴的な言動を活写した場面を『ロミジュリ』から抜き出す。
たとえば、ロミジュリ双方とも、恋することで秘密をもち、嘘をつく。この二つはセットになって、子どもが大人になる条件を形成するのだ。少なくとも河合の心理学的考察によれば、そういうことだ。
あるいは、思春期はものすごく精神的な反面、まったく肉体だけの世界をもち、両者の間で揺れるものだ。『ロミジュリ』では、猥雑きわまる言葉遊びで下半身の話をする乳母やマキューシオが肉体の側面を受け持ち、ロミジュリはピュアな精神的純愛を受け持っている。芝居全体が恋愛の両側面を描きつくすわけだ。
こういった指摘は、心理学者ではなく演劇評論家でもない読者でも読みとることはできそうだ。
しかし、双方の親がその「愛によって」二人の歓びを殺した、という解釈には刮目させられるだろう。二人の幸福のために知恵をしぼった僧ロレンスも、この点は同じだ、と河合は指摘する。「親だけではない。教育者、宗教家、心理療法家など、人助けをしたがる大人たちは、自分の愛によって他人の歓びを殺していないかを反省する必要がある」
この洞察は、心理療法家としての臨床経験に裏打ちされている、と思う。河合は、親がその「愛によって」青年を抑圧した例を少なからず見てきたはずだ。
打てば響く松岡は、次のように補足する。
See what a scourge is laid upon your hate,
That heaven finds means to kill your joys with love;
これを「見ろ、これがお前たちの憎悪に下された天罰だ。/天は、お前たちの歓びを愛によって殺すという手立てを取った」と、2行目をほぼ直訳した。そのおかげて、ロミジュリの愛だけではなくて「親の愛」をも読みとってもらえた、と。
松岡は先人の翻訳を列挙し、坪内逍遙から小田島雄志まで、軒並みに「love」を二人の愛に限定した訳となっている、という。翻訳畏るべし。
【読書余滴】河合隼雄/松岡和子『快読シェイクスピア』(新潮文庫、2001)
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