リチャード・グローブマン聞き書きによるジョージ・ドーソンの自伝である。
ジョージは、1898年、テキサス州マーシャルに生まれた。貧農の子として、8歳から働きはじめた。父の営農を助け、あるいは近在の農場に出稼ぎし、また自宅から製材所に通って現金収入を得た。
1919年、21歳のとき、世界を知るため旅立つ。北はカナダから南はメキシコまで、働きながら彷徨した。
1928年に帰郷し、コーフマンに移っていた一家と合流。鉄道会社に就職後、家庭をもち、ダラスに定住した。一時ダラス市の道路工夫となったが、1938年に乳製品工場に転職してからは、25年近く、65歳の定年までここで働いた。工場を辞めてからは、庭師として88歳まで現役を通した。
日本でいえば生活保護適用すれすれの生活水準に終始したらしい。訳書の帯にいわく「株--なし。銀行預金--なし。カード類--なし。持っているもの--何枚かのシャツとスーツ1着、帽子1個」。
4回結婚し、7人の子をもうけている。妻はいずれも先立ち、老いてから一人暮らしとなった。
幼少期から労働し、就学してない。目に一丁字もなかった。98歳にして、初めて学校に、成年クラスに通いはじめた。小学校の課程である。2001年1月18日には、同級生がジョージ103歳の誕生日を祝ってくれた。
と、まあ、表面的な行動だけを辿ると、働きづめの惨めな一生が想像されるにちがいない。ジョージがアフリカ系アメリカ人であることを知れば、なおさらだ。
ところが、全編を貫くのは、「人生っていいもんだ」という楽天性である。
この人、すこし足りなんじゃないかしら・・・・。
ところが、どうしてどうして。ジョージは聡明で分別に満ち、抜け目ないとさえ言える。たとえば、セミプロ野球で捕手をつとめた頃を回想していう。「あまり知られていないことだけれど、捕手はずいぶんと頭を働かせなくてはならないんだよ」
生涯一捕手野村克也の論理的で明快な批評を先取りしていると言えないだろうか。
注意深く読めば、こうした洞察が本書のいたるところで発見できる。
では、ジョージは人種差別に鈍感だったのか。
これも否である。
10歳のとき、幼なじみがリンチを受けた。「黒んぼ」なるがゆえに無実の身で断罪されたのである。首吊り縄にぶら下がった彼の姿は、その後いくたびもジョージの胸によみがえる。以後、権力者としての白人には慎重に接し、白人社会が押しつけた規範(人種別の車輌や宿)をはみ出さないよう注意し、低賃金に苦情を漏らさなかった。これもまた、ひとつの積極的な処世術である。
差別を是認していたわけではない。
勤勉な庭師として引く手あまたの頃、ある大邸宅で昼食が出た。犬と同じ場所で、犬と同じ食事が提供された。ジョージはいつもどおり仕事を片づけ、そして昼食には一切手をつけなかった。
別れしなに雇用主に言った。「わしは人間なんです」
そう口にすることができる年齢にジョージは達していたし、時代も変化していた。
それでも、彼女は激怒した。「飼い犬」に手を噛まれる思いだったのだろう。しかし、ジョージは飼い犬ではなかった。
こうした事例はあるものの、回想のうちに登場する白人の多くがジョージに対して公平に接している(かのように読める)。12歳のときから4年間雇用されたリトル家の人々をはじめ、製材所の主人、旅先の雇用主たちは、単なる雇用関係を越えた配慮をしている。
ジョージがみずから語るように日々ベストを尽くしたからだろう。生活のために働き、毎日できるかぎりよい仕事をした。どんな仕事でも、報酬がいくらでも、全力投球した。勤勉さは、肌の色のちがいを越えて共感を呼ぶのである。
芯のとおった生き方は、他人の思惑を気にしない自由な精神を育む。
「彼女たちが公正に払ってくれたなら、それはそれで結構。公正でないとしたら、そいつは私の問題というより、彼女たちの問題だった」
ここには、見せかけの従順さと裏腹に、独立不羈な精神がある。剛毅な、と付け加えてもよい。王侯に、その人となりを評価したからではなくてその身分ゆえに頭をさげたパスカルのように。
このあたり、公民権運動に命をはった人々には物足りないかもしれない。ジョージの知性は世の矛盾を看過しない程度に鋭く、その心は反逆者たるには柔らかすぎた。
シンプル・ライフ、楽天性、勤勉、矜持・・・・これはほとんど米国の開拓期の精神と重なる。
ハックルベリー・フィンのように放浪した青春期がじつに生きいきと回想され、読んで楽しいのも当然ではある。
□ジョージ・ドーソン、リチャード・グローブマン(忠平美幸訳)『101歳、人生っていいもんだ』(飛鳥新社、2001)
↓クリック、プリーズ。↓
ジョージは、1898年、テキサス州マーシャルに生まれた。貧農の子として、8歳から働きはじめた。父の営農を助け、あるいは近在の農場に出稼ぎし、また自宅から製材所に通って現金収入を得た。
1919年、21歳のとき、世界を知るため旅立つ。北はカナダから南はメキシコまで、働きながら彷徨した。
1928年に帰郷し、コーフマンに移っていた一家と合流。鉄道会社に就職後、家庭をもち、ダラスに定住した。一時ダラス市の道路工夫となったが、1938年に乳製品工場に転職してからは、25年近く、65歳の定年までここで働いた。工場を辞めてからは、庭師として88歳まで現役を通した。
日本でいえば生活保護適用すれすれの生活水準に終始したらしい。訳書の帯にいわく「株--なし。銀行預金--なし。カード類--なし。持っているもの--何枚かのシャツとスーツ1着、帽子1個」。
4回結婚し、7人の子をもうけている。妻はいずれも先立ち、老いてから一人暮らしとなった。
幼少期から労働し、就学してない。目に一丁字もなかった。98歳にして、初めて学校に、成年クラスに通いはじめた。小学校の課程である。2001年1月18日には、同級生がジョージ103歳の誕生日を祝ってくれた。
と、まあ、表面的な行動だけを辿ると、働きづめの惨めな一生が想像されるにちがいない。ジョージがアフリカ系アメリカ人であることを知れば、なおさらだ。
ところが、全編を貫くのは、「人生っていいもんだ」という楽天性である。
この人、すこし足りなんじゃないかしら・・・・。
ところが、どうしてどうして。ジョージは聡明で分別に満ち、抜け目ないとさえ言える。たとえば、セミプロ野球で捕手をつとめた頃を回想していう。「あまり知られていないことだけれど、捕手はずいぶんと頭を働かせなくてはならないんだよ」
生涯一捕手野村克也の論理的で明快な批評を先取りしていると言えないだろうか。
注意深く読めば、こうした洞察が本書のいたるところで発見できる。
では、ジョージは人種差別に鈍感だったのか。
これも否である。
10歳のとき、幼なじみがリンチを受けた。「黒んぼ」なるがゆえに無実の身で断罪されたのである。首吊り縄にぶら下がった彼の姿は、その後いくたびもジョージの胸によみがえる。以後、権力者としての白人には慎重に接し、白人社会が押しつけた規範(人種別の車輌や宿)をはみ出さないよう注意し、低賃金に苦情を漏らさなかった。これもまた、ひとつの積極的な処世術である。
差別を是認していたわけではない。
勤勉な庭師として引く手あまたの頃、ある大邸宅で昼食が出た。犬と同じ場所で、犬と同じ食事が提供された。ジョージはいつもどおり仕事を片づけ、そして昼食には一切手をつけなかった。
別れしなに雇用主に言った。「わしは人間なんです」
そう口にすることができる年齢にジョージは達していたし、時代も変化していた。
それでも、彼女は激怒した。「飼い犬」に手を噛まれる思いだったのだろう。しかし、ジョージは飼い犬ではなかった。
こうした事例はあるものの、回想のうちに登場する白人の多くがジョージに対して公平に接している(かのように読める)。12歳のときから4年間雇用されたリトル家の人々をはじめ、製材所の主人、旅先の雇用主たちは、単なる雇用関係を越えた配慮をしている。
ジョージがみずから語るように日々ベストを尽くしたからだろう。生活のために働き、毎日できるかぎりよい仕事をした。どんな仕事でも、報酬がいくらでも、全力投球した。勤勉さは、肌の色のちがいを越えて共感を呼ぶのである。
芯のとおった生き方は、他人の思惑を気にしない自由な精神を育む。
「彼女たちが公正に払ってくれたなら、それはそれで結構。公正でないとしたら、そいつは私の問題というより、彼女たちの問題だった」
ここには、見せかけの従順さと裏腹に、独立不羈な精神がある。剛毅な、と付け加えてもよい。王侯に、その人となりを評価したからではなくてその身分ゆえに頭をさげたパスカルのように。
このあたり、公民権運動に命をはった人々には物足りないかもしれない。ジョージの知性は世の矛盾を看過しない程度に鋭く、その心は反逆者たるには柔らかすぎた。
シンプル・ライフ、楽天性、勤勉、矜持・・・・これはほとんど米国の開拓期の精神と重なる。
ハックルベリー・フィンのように放浪した青春期がじつに生きいきと回想され、読んで楽しいのも当然ではある。
□ジョージ・ドーソン、リチャード・グローブマン(忠平美幸訳)『101歳、人生っていいもんだ』(飛鳥新社、2001)
↓クリック、プリーズ。↓