語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】原発>各地の放射線量急増はどのようにして起きたか?

2011年04月30日 | 震災・原発事故
 2011年3月15日、福島第一原発から漏れた放射性物質は、風にのって東北・関東各地に到達した【注】。大気中の放射線量の急激な上昇が計測された。
 「早朝の南向きの風で関東に到達し、夕方の北西向きの風で原発から北西方向に広がったのではないか」(山澤弘美名古屋大学教授)

 3月15日夜、福島県内の一部地域に雨が降った。雨とともに、空中の放射性ヨウ素やセシウムなどの多くが地上へ落ち、地面や建物などに付着した。
 3月21日、東京や埼玉でも雨が降った。放射性物質が地上に落ちた。
 その後、地表の放射性物質が崩壊して減っていくにつれて、放射線量もなだらかに減っていった。

 4月12日、原子力安全・保安院は、大気中に漏れだした放射性物質の総量(試算)を発表した。ヨウ素131は、10数万テラベクレル(20~30g相当)、セシウム137は数千~1万ベクレル(2~3kg相当)だ、と。
 放射性物質の海への流出も問題視されている。

 「Newton」誌がもとにした47都道府県ごとのデータのうち、平常時に観察されていた値の範囲を超えた放射線量が観測され続けているところは、次のとおり(4月14日現在)。

 ●宮城県仙台市
 ●茨城県水戸市
 ●栃木県宇都宮市
 ●千葉県市原市
 ●東京都新宿区
 ●埼玉県さいたま市

 【注】たとえば、東京都新宿区では、3月15日18時~19時に0.200マイクロシーベルト、翌16日6~7時に0.142マイクロシーベルトが観測された(平常時0.03~0.08マイクロシーベルト)。あるいは、飯館村では、15日18時~19時、44.70マイクロシーベルト((平常時の値不明)。

 以上、記事「各地での放射線量の急増はどのようにしておきた?」(「Newton」2011年6月号)に拠る。
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【震災】東電トップは、あの3日間何をしていたのか?

2011年04月30日 | 震災・原発事故
●勝俣恒久会長
 勝俣が“凶報”を知ったのは、中国は北京で、3月11日15時前(日本時間16時前)だ。中国外交部へ移動中のバスのなかだった。
 前席の元木昌彦(元「週刊現代」編集長)からiPadを渡されて画面を見つめた。
 勝俣は、このとき、自身が団長の訪中団を率いていた。団員は、マスコミのOBたちだった。後に、「週刊文春」は中国ツアー「大手マスコミ接待リスト」を報じたが、そのリストには「週刊文春」元編集長の花田紀凱も載っていた。花田は、「やましいものではない」と言うが、7日間の訪中旅行の参加費5万円であり、それで全部を賄えるとは思っていない、とも語る。
 団員リストには、毎日、西日本、信濃毎日など、各紙のOBら26人が名を連ねていた。「東電はマスコミに気前が良かった」
 勝俣が帰国したのは、翌12日午後だった。その数時間後、福島第一原発1号機は水素爆発した。

 その1週間前まで、勝俣王朝に衰微の兆候はなかった。3月4日、エネルギー業界の担当記者OBを集めた懇親会で、あるOB記者が石田野天下り受け入れに疑問を呈すると、勝俣は血相を変え、激高した。
 「国家のお金で育て上げた人材をもったいないじゃないか!」
 怒髪天を衝く勢いに驚いたOB記者は、南直哉元社長のそばに行き、話題を変えた。
 すると、勝俣は南に向かって、
 「この人に言っときましたから」
と傲然と言い放った。

 東電の実力者は、清水正孝社長ではない。清水は、部下が報告や判断を仰ぐと、「会長の了解をとってくれ」「会長にも説明して」と答え、社員を呆れさせている。清水は、3月16日倒れ、本店内で点滴を打つ日々を過ごし、29日には緊急入院した。
 勝俣は、病臥に臥す清水に代わることを避け、本店内に詰める海江田経産相らへの説明役にまわった。「矢面に立ちたくな」かったからだ。
 勝俣は、二度目の記者会見(4月17日)で、引責辞任に言及した。「勝俣が経営責任を感じるのは当然である。しかし、東電の社員たちには辞任は『無責任』に見える。清水では心許ない。勝俣が十字架を背負うしかない」

●武藤栄副社長(原子力・立地本部長)
 地震発生は3月11日14時46分である。東電は、「第3非常態勢」に入り、本館2階に対策本部が設置された。福島第一原発の原子炉は自動停止し、福島第二原発から、15時23分に「津波を目撃した」という報告が入った。
 武藤は、その7分後、15時30分、東電本店(東京・内町)を発ち、ヘリコプターで福島第一原発に向かった。
 15時41分、津波で非常用ケーブルが故障したことが判明した。対策本部に一気に緊張が走った。電源が失われたままだと、メルトダウンが進む。
 18時半、武藤は現地に着いた。その日のうちに、緊急時対応拠点「オフサイトセンター」(福島第一原発から5キロ)で指揮をとり始めた。
 22時過ぎ、電源車が到着した。だが、「ケーブルが短くて使えなかった」「プラグも合わなかった」。500メートルのケーブルが必要だったが、社内を探しても、どこにもなかった。・・・・武藤は、記者会見で「つなぐところが冠水したため」と釈明したが、真の理由ではない。
 電源が失われ、格納容器の圧力が高まっていった。
 翌12日2時半、1号機の格納容器内の圧力が最高使用圧力の2倍に達した。ところが、その3時間後、圧力は突如低下傾向を示した。5時14分、東電は、外部に放射性物質が漏洩した、と判断した。
 7時過ぎ、菅直人首相が福島第一原発を訪れた。武藤は、首相に20分間応対した。が、深刻な状況を打ち明けた形跡はない。
 武藤が菅首相と面談する1時間前から、1号機では消防車を使って濾過水短句から消火系ラインを用いた注水が始まっていた。しかし、原子炉の水位は下がっていき、7時半には水面から燃料棒が最大10センチ露出した。15時前までに濾過水タンクから8万リットルを注水したが、足りない。
 15時36分、ついに1号機で水素爆発が起きた。
 もっと早い段階でベントをして圧力を開放したり、海水を注入して冷ます方法があったはずだが、東電はやらなかった。東電が1号機に海水を注入するのは、菅首相が指示した2時間後、12日20時20分だった。
 菅首相は、11日のうちに海水注入を指示している。だが、東電は、「炉が使えなくなる」と抵抗した。「株式代表者訴訟を起こされるリスクがあるので、民間企業としては決断できない。政府の命令という形にしてくれないと動けない」(東電企画部門の幹部)。そして、菅首相、海江田万里経産相が12日に指示するまで時間を空費した。

 1号機で海水注入を始めた際に、2、3号機でも同じことをしていれば、相次ぐ爆発を避けられたはずだ。
 ・・・・が、武藤は、そう決断しなかった。海水を入れると、腐食のおそれやたまった塩分で再稼働は困難になる。経済的損失は、原発1基当たり、新設に3,000億円、廃炉に1,000億円以上かかる、と算盤をはじいたわけだ。

 武藤は、社長さえ御しきれない「関東軍の司令官」である。ふだんは紳士だが、「核燃料撤退を進言したらケモノを見るような目で」人を見る。
 東電は、国民への説明は、当初、課長任せだった。あるいは、広報部付の部長に。代表権のある役員が8人もいたが、部下の影に隠れていた。
 武藤は、3月14日夜の緊急会見に一度だけ顔を見せ、21日以降連日現れて説明するようになった。が、「武藤の会見は典型的な役人答弁である。返答に窮する質問には、あらかじめ用意していたと思われる『発電所を一刻も早く安定的な状態に戻すことが大事です』という同じ台詞を繰り返した。どんな質問にも使える便利な言葉を、彼は21日の会見で少なくとも4回使った。と同時に、自身の責任が問われそうな質問には、決して言質を与えない」。

 以上、記事「あの3日間、何をしていたのか 東電『原子力村』のドン」(「AERA」臨時増刊No.22 2011年5月15日号)に拠る。
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