(1)1429年に尚巴志により沖縄本島を統一した「琉球王国」は、1979年の明治期日本による「琉球処分」まで約450年間、東シナ海に独立王国として存在し続けた。この歴史的事実が、議論の大前提となる。
特に、江戸期の琉球への位置づけは微妙であり、「日中両属という形の独立国」だった。ペリー提督も日本来航時に5回も沖縄に寄港し、琉球の特殊性を理解した上で、独立国として「琉球・米国修好条約」を締結している。
(2)1609年4月、琉球国は薩摩が送り込んだ軍勢3,000人に破れた。尚寧王ら約100人が薩摩に連行され、さらに駿河で徳川家康、江戸で2代将軍秀忠との面談を強いられた。注意すべきは、この連行はあくまで異国の王の江戸訪問という形をとったことだ。待遇は朝鮮通信使並みで、10万石以上の格とされた。
尚寧王は2年間も鹿児島に拘留され、帰国に当たり薩摩に盟約書(奄美大島他5島の割譲と薩摩への貢租を定める)を提出、日本との微妙な関係が始まった。
薩摩の領地として日本に併合しなかったのは、幕府の明国への配慮と薩摩の思惑が絡み合った判断だった。
①徳川政権は、秀吉の朝鮮出兵のダメージ・コントロールに苦慮していた。琉球が明国の冊封体制下にあることを認識し、刺激を避けたのだ。
②薩摩は琉球を「附庸」という曖昧な形で実行支配することで琉球ルートでの中国交易の実利を確保する思惑を有していた。
薩摩が倒幕のエネルギーを蓄積した背景には、「薩摩口」といわれる琉球経由の中国貿易回廊の確保があった。琉球での黒砂糖の栽培を促して砂糖貿易を独占、抜け荷にさえ関与しながら力を蓄積したのだ。
薩摩侵攻以降の江戸期の琉球王朝は、あくまで独立国なのだが、「附庸」として薩摩に制御され、一方で中国に朝貢を続けて冊封体制に組み入れられてきた「両属」国家だった。この両属性は「国交なき交易関係」を続ける江戸期の日中両国にとって都合のよい絶妙の関係だった。
ちなみに、琉球と中国の冊封関係は、1372年に始まり(当時の琉球は「三山体制」)、幕末の1866年の最後の冊封まで続いた。
江戸期琉球は、「清の皇帝は父、朝鮮は兄、琉球は弟」という認識があったようで、東アジア史で独特の存在感を放つ。270年間にわたる「日中両属性」という時間がファジーな中を生き抜くという沖縄の性格を熟成し、歌舞音曲に象徴される逞しい文化を形成させた。
(3)ペリー来航以前に、フランス船(1844年)、イギリス船(1846年)など50回以上も欧米列強の船が訪れていた。
背景にはアヘン戦争(1840年)など「西力東漸」の大きな動きがあった。食糧、薪炭、水などの供給のみならず通商やキリスト教伝道へと要求のエスカレートがあって、琉球政府は苦悩を深めた。
1853年5月26日、ペリー艦隊は浦賀に向かう途中、上海から那覇に入港した。日本との和親条約締結が不調の場合、力ずくでの琉球選挙を意図していた。6月6日には、強引に泊港に上陸し、武装兵・軍楽隊など200余人を引き連れてペリーは首里城に行進、「圧すれば制する」の威力外交を強行した。この時米国は、琉球の持つ「日中両属性」という性格を見抜き、強烈な球を放り込んだ、と言える。
ペリー一行は、5回延べ85日間も琉球に滞在した。1853年7月25日、琉球政府に「①貯炭庫の設置、②乗務員への尾行禁止、③必需物資の自由購入」を承認させて8月1日に1艦を残して香港へ発った。翌1854年7月1日、米琉修好条約を締結している。この条約は、1872年、明治政府によって琉球藩が外務省出張所管下に置かれた際、日本外務省によって引き継がれるまで存続している。
(4)沖縄と米国との関係を見るに、ハワイ移民という要素を看過できない。
日本からの最初のハワイ移民は1868年。沖縄からの最初のハワイ移民は1900年(26人)。1924年の排日移民法で禁止されるまで続いた。
第二次世界大戦前にハワイに移民した日本人は22万人、うち沖縄からは4万人とされる。沖縄からの移民には他の地域とは異なる事情が存在した。明治政権による「琉球処分」以降の沖縄の鬱々とした空気が、希望をハワイに託しての渡航へと若いウチナーンチュを駆り立てたと言ってよい。
(5)明治維新から11年後の1879年、沖縄は本土の廃藩置県(1871年)に遅れること8年、「琉球処分」と言われる局面に立たされる。琉球藩が廃され、沖縄県が置かれた。王家の人々は首都東京に退去させられた。
曲がりなりにも独立国であったものが、明治になって唐突に琉球藩とされ(1872年)、さらに沖縄県とされた。「琉球処分」は幕藩体制下の藩や、士族制度を失うだけでなく、「国を失う」衝撃だったはずだ。
以降、沖縄は日本近代史に巻き込まれていく。その行き着いた先が、アジア太平洋戦争における沖縄戦だった。
沖縄戦は、日本で唯一の地上戦だ。1945年4月1日に米軍が上陸し、6月23日の牛島満・中将/第32軍司令官の自決まで3か月近く、少年から婦女子まで動員した悲惨な戦いだった。
沖縄戦は、本土決戦のための「捨石」とされ、集団自決を含む日本人の22.4万人(正規軍6.6万人、防衛隊2.8万人、戦闘協力者5.5万人、住民9.5万人)が犠牲になった。
敗戦後の沖縄は、沖縄返還(1972年)まで米国による占領・統治の時代を迎える。実体的には、今のその中にある、と言えるかもしれない。
カイロ会談(1943年)で、戦後の領土問題に関し、ルーズベルトが蒋介石に琉球領有を欲しているか、打診した、という。蒋介石は、米国が戦後のアジア展開の基点として沖縄に関心を抱いているとの判断と、日清戦争以前に日本に帰属していたという認識に基づいて、米国に対して配慮し、琉球は国際機関の中美共管に委託することを主張した。
(6)戦後の米国の沖縄政策は、終戦直後から
①「施政権の日本への返還」を主張する国務省
②「米国による排他的統治」を主張する軍部
との対立という構図が存在し、結局は軍政の継続という判断に傾いた。
1950年には民政府設立、1951年のサンフランシスコ講和条約後も暫定措置として「軍政」継続となっていく。「琉球は日本本土とは別次元の存在」という米国の潜在意識をそこに見ることができる。
沖縄問題を考えるとき、米国において「沖縄は海兵隊の島」という認識が潜在していることを知る必要がある。現実に、在沖米軍基地面積の76%、駐留米軍の6割は海兵隊だ。あの「沖縄戦」を戦った主力が海兵隊で、海兵隊にとって硫黄島と沖縄は血で勝ち取った戦果であり、旧日本陸軍にとっての「203高地」だ。
海兵隊は戦後一度解散された後、1953年に朝鮮戦争を背景に第3海兵団として再結成されて日本本土に配置され、1957年に沖縄に移転した。理由は、コスト面で沖縄が優位だったこと、日本国民の反米軍基地に配慮したためであった。より本質的には、在日米軍が冷戦下の仮想敵国ソ連への「抑止力」であるならば、北海道にこそ配置されるべきと考えるところだが、米国にとって御しやすい琉球に基点を置き、緊迫した対ソ連リスクから距離をとり、アジアへの影響力を最大化させる本音を内在していたということだ。
□寺島実郎「江戸期の琉球国と東アジア、そして沖縄の今--17世紀オランダからの視界(その28) ~脳力のレッスン【特別篇】連載156~」(「世界」2015年4月号)
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特に、江戸期の琉球への位置づけは微妙であり、「日中両属という形の独立国」だった。ペリー提督も日本来航時に5回も沖縄に寄港し、琉球の特殊性を理解した上で、独立国として「琉球・米国修好条約」を締結している。
(2)1609年4月、琉球国は薩摩が送り込んだ軍勢3,000人に破れた。尚寧王ら約100人が薩摩に連行され、さらに駿河で徳川家康、江戸で2代将軍秀忠との面談を強いられた。注意すべきは、この連行はあくまで異国の王の江戸訪問という形をとったことだ。待遇は朝鮮通信使並みで、10万石以上の格とされた。
尚寧王は2年間も鹿児島に拘留され、帰国に当たり薩摩に盟約書(奄美大島他5島の割譲と薩摩への貢租を定める)を提出、日本との微妙な関係が始まった。
薩摩の領地として日本に併合しなかったのは、幕府の明国への配慮と薩摩の思惑が絡み合った判断だった。
①徳川政権は、秀吉の朝鮮出兵のダメージ・コントロールに苦慮していた。琉球が明国の冊封体制下にあることを認識し、刺激を避けたのだ。
②薩摩は琉球を「附庸」という曖昧な形で実行支配することで琉球ルートでの中国交易の実利を確保する思惑を有していた。
薩摩が倒幕のエネルギーを蓄積した背景には、「薩摩口」といわれる琉球経由の中国貿易回廊の確保があった。琉球での黒砂糖の栽培を促して砂糖貿易を独占、抜け荷にさえ関与しながら力を蓄積したのだ。
薩摩侵攻以降の江戸期の琉球王朝は、あくまで独立国なのだが、「附庸」として薩摩に制御され、一方で中国に朝貢を続けて冊封体制に組み入れられてきた「両属」国家だった。この両属性は「国交なき交易関係」を続ける江戸期の日中両国にとって都合のよい絶妙の関係だった。
ちなみに、琉球と中国の冊封関係は、1372年に始まり(当時の琉球は「三山体制」)、幕末の1866年の最後の冊封まで続いた。
江戸期琉球は、「清の皇帝は父、朝鮮は兄、琉球は弟」という認識があったようで、東アジア史で独特の存在感を放つ。270年間にわたる「日中両属性」という時間がファジーな中を生き抜くという沖縄の性格を熟成し、歌舞音曲に象徴される逞しい文化を形成させた。
(3)ペリー来航以前に、フランス船(1844年)、イギリス船(1846年)など50回以上も欧米列強の船が訪れていた。
背景にはアヘン戦争(1840年)など「西力東漸」の大きな動きがあった。食糧、薪炭、水などの供給のみならず通商やキリスト教伝道へと要求のエスカレートがあって、琉球政府は苦悩を深めた。
1853年5月26日、ペリー艦隊は浦賀に向かう途中、上海から那覇に入港した。日本との和親条約締結が不調の場合、力ずくでの琉球選挙を意図していた。6月6日には、強引に泊港に上陸し、武装兵・軍楽隊など200余人を引き連れてペリーは首里城に行進、「圧すれば制する」の威力外交を強行した。この時米国は、琉球の持つ「日中両属性」という性格を見抜き、強烈な球を放り込んだ、と言える。
ペリー一行は、5回延べ85日間も琉球に滞在した。1853年7月25日、琉球政府に「①貯炭庫の設置、②乗務員への尾行禁止、③必需物資の自由購入」を承認させて8月1日に1艦を残して香港へ発った。翌1854年7月1日、米琉修好条約を締結している。この条約は、1872年、明治政府によって琉球藩が外務省出張所管下に置かれた際、日本外務省によって引き継がれるまで存続している。
(4)沖縄と米国との関係を見るに、ハワイ移民という要素を看過できない。
日本からの最初のハワイ移民は1868年。沖縄からの最初のハワイ移民は1900年(26人)。1924年の排日移民法で禁止されるまで続いた。
第二次世界大戦前にハワイに移民した日本人は22万人、うち沖縄からは4万人とされる。沖縄からの移民には他の地域とは異なる事情が存在した。明治政権による「琉球処分」以降の沖縄の鬱々とした空気が、希望をハワイに託しての渡航へと若いウチナーンチュを駆り立てたと言ってよい。
(5)明治維新から11年後の1879年、沖縄は本土の廃藩置県(1871年)に遅れること8年、「琉球処分」と言われる局面に立たされる。琉球藩が廃され、沖縄県が置かれた。王家の人々は首都東京に退去させられた。
曲がりなりにも独立国であったものが、明治になって唐突に琉球藩とされ(1872年)、さらに沖縄県とされた。「琉球処分」は幕藩体制下の藩や、士族制度を失うだけでなく、「国を失う」衝撃だったはずだ。
以降、沖縄は日本近代史に巻き込まれていく。その行き着いた先が、アジア太平洋戦争における沖縄戦だった。
沖縄戦は、日本で唯一の地上戦だ。1945年4月1日に米軍が上陸し、6月23日の牛島満・中将/第32軍司令官の自決まで3か月近く、少年から婦女子まで動員した悲惨な戦いだった。
沖縄戦は、本土決戦のための「捨石」とされ、集団自決を含む日本人の22.4万人(正規軍6.6万人、防衛隊2.8万人、戦闘協力者5.5万人、住民9.5万人)が犠牲になった。
敗戦後の沖縄は、沖縄返還(1972年)まで米国による占領・統治の時代を迎える。実体的には、今のその中にある、と言えるかもしれない。
カイロ会談(1943年)で、戦後の領土問題に関し、ルーズベルトが蒋介石に琉球領有を欲しているか、打診した、という。蒋介石は、米国が戦後のアジア展開の基点として沖縄に関心を抱いているとの判断と、日清戦争以前に日本に帰属していたという認識に基づいて、米国に対して配慮し、琉球は国際機関の中美共管に委託することを主張した。
(6)戦後の米国の沖縄政策は、終戦直後から
①「施政権の日本への返還」を主張する国務省
②「米国による排他的統治」を主張する軍部
との対立という構図が存在し、結局は軍政の継続という判断に傾いた。
1950年には民政府設立、1951年のサンフランシスコ講和条約後も暫定措置として「軍政」継続となっていく。「琉球は日本本土とは別次元の存在」という米国の潜在意識をそこに見ることができる。
沖縄問題を考えるとき、米国において「沖縄は海兵隊の島」という認識が潜在していることを知る必要がある。現実に、在沖米軍基地面積の76%、駐留米軍の6割は海兵隊だ。あの「沖縄戦」を戦った主力が海兵隊で、海兵隊にとって硫黄島と沖縄は血で勝ち取った戦果であり、旧日本陸軍にとっての「203高地」だ。
海兵隊は戦後一度解散された後、1953年に朝鮮戦争を背景に第3海兵団として再結成されて日本本土に配置され、1957年に沖縄に移転した。理由は、コスト面で沖縄が優位だったこと、日本国民の反米軍基地に配慮したためであった。より本質的には、在日米軍が冷戦下の仮想敵国ソ連への「抑止力」であるならば、北海道にこそ配置されるべきと考えるところだが、米国にとって御しやすい琉球に基点を置き、緊迫した対ソ連リスクから距離をとり、アジアへの影響力を最大化させる本音を内在していたということだ。
□寺島実郎「江戸期の琉球国と東アジア、そして沖縄の今--17世紀オランダからの視界(その28) ~脳力のレッスン【特別篇】連載156~」(「世界」2015年4月号)
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