のぼり きて しづかに むかふ
たびびと に
まなこ ひらかぬ てんだい の そし
【自註】
延暦寺・・・・延暦四年(785)七月、最澄(767-822)比叡山上に一草庵を営みしより起こり、遂に山中山下到る処に寺観僧房充満すといはるるほどに至りしも、今はまた甚だ沈静なり。天台宗本山。
のぼりきて・・・・麓より登り来たりて。
たびびと・・・・作者自身をさしていへり。
まなこひらかぬ・・・・もとより瞑目したるさまに彫める像なるを、この歌にては、ことさらに、作者のために目を開きてくれざる如き気分を軽く含めたり。
てんだいのそし・・・・日本天台宗の祖師、すなわち最澄。号を贈りて伝教大師といふ。
*
さいちよう の たちたる そま よ
まさかど の ふみたる いは よ
こころ どよめく
【自註】
まさかどのふみたるいは・・・・比叡山の四明嶽の頂上には「将門岩」といふものあり。彼が践みたる址といふ。
*
下山の途中に
くだり ゆく たに の さぎり と まがふ まで
まつ の こずゑ に
しろき みづうみ
【自註】
さぎり・・・・霧。「さ」は接頭語。『古事記』に「さぎりの末に生りませる神のみ名」などといへり。
しろき・・・・下山の途すがら、樹梢の間に琵琶湖の水を望むなり。最澄の作れりといふ『叡岳相輪塔銘』といふものに、「叡岳ハ秀聳ニシテ、朝ハ北部ニ謁シ、神嶽ハ嵯峨トシテ、夕ニ東湖ニ望ム。」とあり。前に掲げたる即非の詩には、「殿ハ山影ヲ低ウシテ合シ、門ハ湖光ニ対シテ開ク。」の句あり。地勢まさにかくの如くなり。
□会津八一『自註鹿鳴集』(新潮文庫、1969/岩波文庫、1998)
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【参考】
「【旅】比叡山」
延暦寺法華総持院東塔 延暦寺阿弥陀堂

たびびと に
まなこ ひらかぬ てんだい の そし
【自註】
延暦寺・・・・延暦四年(785)七月、最澄(767-822)比叡山上に一草庵を営みしより起こり、遂に山中山下到る処に寺観僧房充満すといはるるほどに至りしも、今はまた甚だ沈静なり。天台宗本山。
のぼりきて・・・・麓より登り来たりて。
たびびと・・・・作者自身をさしていへり。
まなこひらかぬ・・・・もとより瞑目したるさまに彫める像なるを、この歌にては、ことさらに、作者のために目を開きてくれざる如き気分を軽く含めたり。
てんだいのそし・・・・日本天台宗の祖師、すなわち最澄。号を贈りて伝教大師といふ。
*
さいちよう の たちたる そま よ
まさかど の ふみたる いは よ
こころ どよめく
【自註】
まさかどのふみたるいは・・・・比叡山の四明嶽の頂上には「将門岩」といふものあり。彼が践みたる址といふ。
*
下山の途中に
くだり ゆく たに の さぎり と まがふ まで
まつ の こずゑ に
しろき みづうみ
【自註】
さぎり・・・・霧。「さ」は接頭語。『古事記』に「さぎりの末に生りませる神のみ名」などといへり。
しろき・・・・下山の途すがら、樹梢の間に琵琶湖の水を望むなり。最澄の作れりといふ『叡岳相輪塔銘』といふものに、「叡岳ハ秀聳ニシテ、朝ハ北部ニ謁シ、神嶽ハ嵯峨トシテ、夕ニ東湖ニ望ム。」とあり。前に掲げたる即非の詩には、「殿ハ山影ヲ低ウシテ合シ、門ハ湖光ニ対シテ開ク。」の句あり。地勢まさにかくの如くなり。
□会津八一『自註鹿鳴集』(新潮文庫、1969/岩波文庫、1998)
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【参考】
「【旅】比叡山」
延暦寺法華総持院東塔 延暦寺阿弥陀堂
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(1)奥平康弘、1929年5月19日生、2015年1月26日没。法学者(憲法)、エッセイスト。東京大学名誉教授。専攻は表現の自由、及びアメリカ合衆国憲法。
(2)今年の6月が来れば、「九条の会」は発足から満11年を迎える。
奥平康弘が亡くなる1週間前、1月19日午後、九条の会の呼びかけ人の会があった。定刻にいつものように穏やかな様子で見え、
「この悪い政治世相にもっと効果的な反撃はないのでしょうか」
と澤地久枝が訊くと、ちょっといたずらっぽい笑顔を見せた。
奥平は1月25日、調布の「九条の会創立十周年記念」に出席し、帰宅のあとの入浴がひきがねになったらしい。26日未明、急性心筋梗塞により急逝した。85歳である。
九条の会は、小田実、加藤周一、井上ひさし、三木睦子の4人を喪い、このたび奥平康弘まで喪った。
(3)去年の11月24日、日比谷公会堂で「安倍内閣の暴走を許さない」九条の会が開かれた。会のあとのデモ行進に、奥平と並んで澤地が参加した。
一部の写真にのった写真は、澤地はまことに小さい。奥平もそう大きいほうではない。となりの小森陽一がうんと大きく見える。
あの日、奥平の息づかいに異常を澤地が感じていれば、26日未明の心筋梗塞は避けられたかもしれなかった。目の前を宣伝カーがゆき、女性の声がスローガンを叫び、デモの人たちは唱和して右手を天にさし示す。
澤地はなにも言わず、腕もあげず、黙々と歩いていて、奥平もおなじであることに気づいた。解散地近くまで歩いて、二人はデモの列を離れた。
銀座をぬけて、長い長い列がつづく。最後の行列はまだ日比谷公園の出発点にいた。
「やあ」というように、笑顔で奥平は去って行った。
(4)九条の会の呼びかけ人で、憲法・法律の専門家は奥平ひとりだった。法律の門外漢たる澤地は、砂川事件の裁判長、伊達秋雄とのつきあいで、なぜ日本では憲法違反が裁判で問われないのか、としつこく質問したことがあった。「それはできない。憲法を裁く裁判所はない」と答えられて、裁判のむずかしさを痛感した。
奥平も、2006年秋、小田実からなぜ「自衛隊イラク派遣訴訟」が第一審敗訴にいたったのか、大阪地裁の判決を批判して「この裁判は間違っているということを論証できないか」という手紙をもらった。
「これは、たいへん困りました(笑)」と講演録(2008年3月8日)に残っている。
「裁判の場」にかけるには、裁判の論理があり、「裁判」を選んだ以上、裁判の論理に乗って問題を片づけなければならない。裁判という制度がこれまで蓄積してきたものと整合性を保ちながら、裁判官を誘導する論理を立てなくては裁判では勝てない、と奥平は言う。
<例>米国の憲法判断について、民主主義に反するか否かの大議論があった。米国は憲法を作ったとき、奴隷制をもっていた。南北戦争のあと、法の下の平等が成立するが、何部へいけば、 Jim Cow Laws という人種差別法があり、白人と黒人は、船や列車で座席を別にするのはあたりまえだった。
プレッシーという黒人が白人の席に座ってしまい、咎められても断固としてがんばる事件が起きる。「プレッシー対ファガーソン裁判」で、1896(明治29)年、最高裁は、この差別は憲法に違反していないと判決を下す。50年以上が過ぎ、1954年にはじめて、白人と黒人の子どもを区別して学校を設立するのは違憲との判決が下った。
社会のなかで、「憲法は、ある種の灯台的役割を果たす」。裁判の判決というものさえも、社会的な、あるいは政治的な仕組みや圧力のなかで、航路を変えてゆくのがこの社会、と奥平はいつもの静かな声で語っている。
「憲法とは完成品としてそこにあるのではなく、“ unfinished business ”未完のプロジェクト、世代を超えて生き続けていく未完のプロジェクト」である、と述べている。
(5)かつてアジアのある地域で災害がおき、国連を通じて災害援助隊派遣の要請があった。このとき、日本は消防庁や地方の消防官を派遣、赤い車が走った。現地の人たちは「日本ってすごいんだね。そういう方法で国際協力ができるんだね」と非常に高く評価された。「そういう時代があったということを、僕は大事にしたい」と語ったのは、2011年6月4日の九条の会。
3・11の直後、自衛隊の「活動」がはなばなしく賞賛を浴びているとき、奥平は「災害救助に出かける自衛隊が、なんで迷彩服なのだろう」と疑問を投げている。
奥平は、「直言」して「幼稚にすぎる」などの罵声を浴びせられることを知っている。「覚悟のうえですが」と続けている。
(6)また、保守反動的な憲法改正案が出てきたとき、断々固といsて反対するだけでなく、対抗案を出すべきと語っている。対抗案・カウンターパンチを浴びせて、改正条項をつぶす必要がある、と。
その方法の一つとして、はっきりと「核武装反対」「原発反対」の条文を憲法に掲げる。世界に向けて、特定化した形で憲法を実現していくための手段として明言すること。われわれの経験、要求は世界的になっていることを考えるべきだと述べている。
(7)さらに、大江健三郎と岩波書店が被告になった沖縄の「集団自決」に係る民事訴訟で、最高裁は原告の上告を受理しない決定をした。これは状況全体からみて、きわめて政治的事件だった。原告が被告としたかったのは「九条の会」であり、あの合い判は「九条の会」に向けた戦闘攻撃だった。最高裁で高裁判決が確定したことは、「九条の会」の勝訴決定でもあり、画期的で、大きく評価できる、と語っている。
ずっと長い間「公共の福祉」が判決を支配してきた。しかし人々が相応に成熟して、裁判所に然るべき役割を果たしてほしいと要求する昨今、裁判所は少しずつ意味のある司法になりはじめている。個々の人間が原告あるいは被告となって立ち向かい、「裁判よにその論理を認めさせる可能性が出て来た」と言った。
小田実の実務的なギリギリの質問に、奥平は時間をかけて答えたのだ。
□澤地久枝「追悼・・・・奥平先生をおくる」(「世界」2015年4月号)
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【参考】
「【震災】原発>憲法学者の、日本の憲法文化において闘う」
「【震災】原発>ひとりから始める ~原発への非服従~」
「書評:『なぜ「表現の自由」か』」
(2)今年の6月が来れば、「九条の会」は発足から満11年を迎える。
奥平康弘が亡くなる1週間前、1月19日午後、九条の会の呼びかけ人の会があった。定刻にいつものように穏やかな様子で見え、
「この悪い政治世相にもっと効果的な反撃はないのでしょうか」
と澤地久枝が訊くと、ちょっといたずらっぽい笑顔を見せた。
奥平は1月25日、調布の「九条の会創立十周年記念」に出席し、帰宅のあとの入浴がひきがねになったらしい。26日未明、急性心筋梗塞により急逝した。85歳である。
九条の会は、小田実、加藤周一、井上ひさし、三木睦子の4人を喪い、このたび奥平康弘まで喪った。
(3)去年の11月24日、日比谷公会堂で「安倍内閣の暴走を許さない」九条の会が開かれた。会のあとのデモ行進に、奥平と並んで澤地が参加した。
一部の写真にのった写真は、澤地はまことに小さい。奥平もそう大きいほうではない。となりの小森陽一がうんと大きく見える。
あの日、奥平の息づかいに異常を澤地が感じていれば、26日未明の心筋梗塞は避けられたかもしれなかった。目の前を宣伝カーがゆき、女性の声がスローガンを叫び、デモの人たちは唱和して右手を天にさし示す。
澤地はなにも言わず、腕もあげず、黙々と歩いていて、奥平もおなじであることに気づいた。解散地近くまで歩いて、二人はデモの列を離れた。
銀座をぬけて、長い長い列がつづく。最後の行列はまだ日比谷公園の出発点にいた。
「やあ」というように、笑顔で奥平は去って行った。
(4)九条の会の呼びかけ人で、憲法・法律の専門家は奥平ひとりだった。法律の門外漢たる澤地は、砂川事件の裁判長、伊達秋雄とのつきあいで、なぜ日本では憲法違反が裁判で問われないのか、としつこく質問したことがあった。「それはできない。憲法を裁く裁判所はない」と答えられて、裁判のむずかしさを痛感した。
奥平も、2006年秋、小田実からなぜ「自衛隊イラク派遣訴訟」が第一審敗訴にいたったのか、大阪地裁の判決を批判して「この裁判は間違っているということを論証できないか」という手紙をもらった。
「これは、たいへん困りました(笑)」と講演録(2008年3月8日)に残っている。
「裁判の場」にかけるには、裁判の論理があり、「裁判」を選んだ以上、裁判の論理に乗って問題を片づけなければならない。裁判という制度がこれまで蓄積してきたものと整合性を保ちながら、裁判官を誘導する論理を立てなくては裁判では勝てない、と奥平は言う。
<例>米国の憲法判断について、民主主義に反するか否かの大議論があった。米国は憲法を作ったとき、奴隷制をもっていた。南北戦争のあと、法の下の平等が成立するが、何部へいけば、 Jim Cow Laws という人種差別法があり、白人と黒人は、船や列車で座席を別にするのはあたりまえだった。
プレッシーという黒人が白人の席に座ってしまい、咎められても断固としてがんばる事件が起きる。「プレッシー対ファガーソン裁判」で、1896(明治29)年、最高裁は、この差別は憲法に違反していないと判決を下す。50年以上が過ぎ、1954年にはじめて、白人と黒人の子どもを区別して学校を設立するのは違憲との判決が下った。
社会のなかで、「憲法は、ある種の灯台的役割を果たす」。裁判の判決というものさえも、社会的な、あるいは政治的な仕組みや圧力のなかで、航路を変えてゆくのがこの社会、と奥平はいつもの静かな声で語っている。
「憲法とは完成品としてそこにあるのではなく、“ unfinished business ”未完のプロジェクト、世代を超えて生き続けていく未完のプロジェクト」である、と述べている。
(5)かつてアジアのある地域で災害がおき、国連を通じて災害援助隊派遣の要請があった。このとき、日本は消防庁や地方の消防官を派遣、赤い車が走った。現地の人たちは「日本ってすごいんだね。そういう方法で国際協力ができるんだね」と非常に高く評価された。「そういう時代があったということを、僕は大事にしたい」と語ったのは、2011年6月4日の九条の会。
3・11の直後、自衛隊の「活動」がはなばなしく賞賛を浴びているとき、奥平は「災害救助に出かける自衛隊が、なんで迷彩服なのだろう」と疑問を投げている。
奥平は、「直言」して「幼稚にすぎる」などの罵声を浴びせられることを知っている。「覚悟のうえですが」と続けている。
(6)また、保守反動的な憲法改正案が出てきたとき、断々固といsて反対するだけでなく、対抗案を出すべきと語っている。対抗案・カウンターパンチを浴びせて、改正条項をつぶす必要がある、と。
その方法の一つとして、はっきりと「核武装反対」「原発反対」の条文を憲法に掲げる。世界に向けて、特定化した形で憲法を実現していくための手段として明言すること。われわれの経験、要求は世界的になっていることを考えるべきだと述べている。
(7)さらに、大江健三郎と岩波書店が被告になった沖縄の「集団自決」に係る民事訴訟で、最高裁は原告の上告を受理しない決定をした。これは状況全体からみて、きわめて政治的事件だった。原告が被告としたかったのは「九条の会」であり、あの合い判は「九条の会」に向けた戦闘攻撃だった。最高裁で高裁判決が確定したことは、「九条の会」の勝訴決定でもあり、画期的で、大きく評価できる、と語っている。
ずっと長い間「公共の福祉」が判決を支配してきた。しかし人々が相応に成熟して、裁判所に然るべき役割を果たしてほしいと要求する昨今、裁判所は少しずつ意味のある司法になりはじめている。個々の人間が原告あるいは被告となって立ち向かい、「裁判よにその論理を認めさせる可能性が出て来た」と言った。
小田実の実務的なギリギリの質問に、奥平は時間をかけて答えたのだ。
□澤地久枝「追悼・・・・奥平先生をおくる」(「世界」2015年4月号)
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【参考】
「【震災】原発>憲法学者の、日本の憲法文化において闘う」
「【震災】原発>ひとりから始める ~原発への非服従~」
「書評:『なぜ「表現の自由」か』」