僕には愛がない (*1)
僕は権力を持たぬ (*2)
白い襯衣(しゃつ)の中の個だ (*3)
僕は解体し、構成する (*4)
地平線が来て僕に交叉(まじは)る (*5)
僕は周囲を無視する (*6)
しかも外界は整列するのだ (*6)
僕の咽喉は笛だ (*7)
僕の命令は音だ (*7)
僕は柔らかい掌をひるがへし
深呼吸する
このとき
僕の形へ挿される一輪の薔薇 (*8)
【注解】
この詩を含む『体操詩集』は、全て暗喩で書かれている。「芳賀秀次郎『体操詩集の世界』(1983)によれば」、
(*1)当時の詩誌「四季」などが持っていた湿潤な美学への抵抗であり、新即物主義の「事物に対する冷静な客観と没感情的な」立場の表白である。
(*2)政治的な権力を持たぬという意味と、表現主義や浪漫主義の不当に尊大な自我、個の疑わしい権威を持たないと言う意味である。
(*3)「僕は権力を持たぬ」「白い襯衣の中の個だ」と表現することで人間中心の古いロマン主義の尊大な自我を拒否した即物主義の精神を表現した、と村野自身が述べている。なお、解説者芳賀はこの表現はこの詩の中の「最も美しい詩句である」と評している。
(*4)人間の身体を非日常的に動かすこと(つまり体操)が「解体」であり、その動作によって一つの美を作り出すことが「構成」である。
(*5)運動のある一瞬で、僕の身体の線が地平線と交叉するというような自我中心の表現をとらず「地平線が来る」と言っているところが即物的な表現だ。
(*6)僕が周囲を無視して運動を続け白いシャツの中の個になればなるほど、外界の事物や観衆は親愛を込めて整列し、僕を見守り続ける。
(*7)自分の咽喉は、哀しみを述べたり、愛を歌ったりする湿潤のリリシズムの発声機関ではなく風のように無意味な音を出す、非人情的な笛である。そこから発せられるものは意味ではなく、声ですらなく機械的な音響である。
(*8)作者によれば、この詩句は深呼吸と共に頬を彩る充血の花を意味し、それを外部から、この全形態に挿された一輪のバラに見立てたものである。
□村野四郎「体操」(『体操詩集』、1939)
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【参考】
「【詩歌】村野四郎を読む(1) ~飛込~」
薔薇「芳純」

僕は権力を持たぬ (*2)
白い襯衣(しゃつ)の中の個だ (*3)
僕は解体し、構成する (*4)
地平線が来て僕に交叉(まじは)る (*5)
僕は周囲を無視する (*6)
しかも外界は整列するのだ (*6)
僕の咽喉は笛だ (*7)
僕の命令は音だ (*7)
僕は柔らかい掌をひるがへし
深呼吸する
このとき
僕の形へ挿される一輪の薔薇 (*8)
【注解】
この詩を含む『体操詩集』は、全て暗喩で書かれている。「芳賀秀次郎『体操詩集の世界』(1983)によれば」、
(*1)当時の詩誌「四季」などが持っていた湿潤な美学への抵抗であり、新即物主義の「事物に対する冷静な客観と没感情的な」立場の表白である。
(*2)政治的な権力を持たぬという意味と、表現主義や浪漫主義の不当に尊大な自我、個の疑わしい権威を持たないと言う意味である。
(*3)「僕は権力を持たぬ」「白い襯衣の中の個だ」と表現することで人間中心の古いロマン主義の尊大な自我を拒否した即物主義の精神を表現した、と村野自身が述べている。なお、解説者芳賀はこの表現はこの詩の中の「最も美しい詩句である」と評している。
(*4)人間の身体を非日常的に動かすこと(つまり体操)が「解体」であり、その動作によって一つの美を作り出すことが「構成」である。
(*5)運動のある一瞬で、僕の身体の線が地平線と交叉するというような自我中心の表現をとらず「地平線が来る」と言っているところが即物的な表現だ。
(*6)僕が周囲を無視して運動を続け白いシャツの中の個になればなるほど、外界の事物や観衆は親愛を込めて整列し、僕を見守り続ける。
(*7)自分の咽喉は、哀しみを述べたり、愛を歌ったりする湿潤のリリシズムの発声機関ではなく風のように無意味な音を出す、非人情的な笛である。そこから発せられるものは意味ではなく、声ですらなく機械的な音響である。
(*8)作者によれば、この詩句は深呼吸と共に頬を彩る充血の花を意味し、それを外部から、この全形態に挿された一輪のバラに見立てたものである。
□村野四郎「体操」(『体操詩集』、1939)
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【参考】
「【詩歌】村野四郎を読む(1) ~飛込~」
薔薇「芳純」
