岡山の学会での学校の先生の質問の中に
「倉敷にかわいそうに思っている子どもがいる」
というのがありました。
‘体の性別と心の性別が違っていること’がかわいそうというのは
ともかく
‘苦しみや出来ないことがある’のをかわいそうというのは的外れ
ではないと思います。
わたし(みれい)の場合はたとえば
『着替え』についての精神的な苦痛があります。
女に生まれてきたわけでも女として育ってきたわけでも
心は女だと思っていたり性自認が女というわけでもないのですが
「女の人が男の人と一緒に着替えさせられているような/
女の人が男の人の前で脱がなくてはならないような」
感覚を職場で着替える時に持ちます。
高校生のころも学校で同じような感覚で着替えていました。
性同一性障害での従来の対応は
身体的違和感のある人の身体の性別を変える
のが中心でした。
なので、身体的違和感が必ずしもメインではなく
女に見えるか女としてやっていけるか分からないわたしは
『我慢する』のが対応でした。
普通の人が普通にやっていることが
制約・負担・苦痛になったり
自然に出来なかったりするのは
我慢という対応でも無くなりません。
-「関連するエントリーはこちらになります」----------
● 現実が分かる年頃には[→]
● きっかけ[→]
-「性別違和についてはこちらでも取り上げられています」----
● FTM野球部-FTM軟式野球部『BRAVE SOUL』[→]
● ”俺オンナ”の取り乱し[→]
● ☆atsukoch☆の女装日記[→]
「倉敷にかわいそうに思っている子どもがいる」
というのがありました。
‘体の性別と心の性別が違っていること’がかわいそうというのは
ともかく
‘苦しみや出来ないことがある’のをかわいそうというのは的外れ
ではないと思います。
わたし(みれい)の場合はたとえば
『着替え』についての精神的な苦痛があります。
女に生まれてきたわけでも女として育ってきたわけでも
心は女だと思っていたり性自認が女というわけでもないのですが
「女の人が男の人と一緒に着替えさせられているような/
女の人が男の人の前で脱がなくてはならないような」
感覚を職場で着替える時に持ちます。
高校生のころも学校で同じような感覚で着替えていました。
性同一性障害での従来の対応は
身体的違和感のある人の身体の性別を変える
のが中心でした。
なので、身体的違和感が必ずしもメインではなく
女に見えるか女としてやっていけるか分からないわたしは
『我慢する』のが対応でした。
普通の人が普通にやっていることが
制約・負担・苦痛になったり
自然に出来なかったりするのは
我慢という対応でも無くなりません。
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