インテリジェント ワークス

子供達との泣き笑い

時代

2018年05月16日 | 歴史

昨今、指導陣や父兄から時代が違うんじゃないですか?とよく言われるようになった。
これはどうやら、塾長の指導は時代錯誤も甚だしいと言う意味なのだろう。
けれども、敢えてその言葉には耳を傾けなかった。
それには理由がある。

自分が子育てを行う際に、絶対に自分の子供の前で言ってはならない単語のひとつとしていたからだ。
これを子供の前で1度でも使うと、その子供は創意工夫を止め、努力をしなくなる。
そんなキラーワードのひとつが「時代が違う」である。
塾生は全員我が子同然のように扱う平成塾でも、当然塾長は塾生の前でこの言葉を使った事が無い。
子供の才能を伸ばす上において、これほど危険な言葉は無いからだ。

簡単に説明しよう。

子供はどんな時でも親の背中に付いて行こうとする。
そして親が子供の笑顔の為に何でもできるように、子供は親の笑顔の為に頑張るものだ。
けれども、時として親の背中に付いて行くには辛く厳しい時もある。
それが子供に与えられた試練でもあり、高いハードルでもあったりするのだ。
子供は懸命にそれを乗り越えようと努力するし、泣きながらでも親の笑顔の為に頑張ろうとする。

けれども、そこに「時代が違う」と言う言葉があったらどうだろう?

この言葉はどんな試練も、どれだけ高いハードルも一瞬で無くしてくれるのである。

「昔は蜜柑箱を道路の電燈の下に出して、蚊にくわれながら勉強したものだ。」
これは勉強机を買って欲しいとねだる塾長に、親が毎回のように言った台詞である。
だが、時代が違うと言うなら、子供は勉強机が無かったら勉強しないでも良い事になってしまう。

今はどこの公園でもボール遊びは禁止だし、壁当てなんてしよう物なら通報されますから。
つまり時代が違うから、子供達は日頃は練習しないで良いと親が容認しているのである。
塾長達の時代には、まず公園と言う物が無かった。
あるのは空き地や神社の境内、およそ野球をやるには寸足らずでイビツな環境ばかりだった。

壁当てにしても、どうぞ我が家の壁に当てて下さいなどと言う家もある筈が無い。
今ほど堅固な壁を持っている家も少なく、ほとんどが板塀の為に壁当てをできる場所も少ない。
そこで壁当てを行っていれば、今のように通報される事は無かったが、代わりに住人が包丁を持って追いかけて来た。



お陰でどんな八方塞がりの状態でも、これを練習する為にはどうすれば良いのか、みんなが考える癖がついていたように思う。

けれども、そんな塾長が今、考え方を改めようと真剣に思い悩んでいる。

一部の父兄に、塾長の指導はパワハラだと思われているようだ。


ここで、パワハラについて改めて説明しておくが、パワハラとは職場での優位な立場を利用して、立場が下位の者に対して仕事は関係の無い無理難題を与えるものである。
勿論、これは職場だけに限らず、全ての団体や部活において通用する考え方だ。
長年米国企業に勤めていた塾長は、早くからこの事を知っていたし、自分がそうならないように気を付けていた。
なので、まず最初に断っておくが、塾長は塾生達に対して一度たりともパワハラを行った事は無い。

平成塾におけるパワハラとは、塾長や指導陣が強い立場を利用して、塾生に自分の物を買って来させるとか、塾生の親に自分達の物を用意させる事を言うのである。
お茶当番も無く、道具当番も無い平成塾において、パワハラなどはその歴史を振り返っても、ただの一度も無い事を断言する。

その上で、今回のパワハラに関しては新鮮な驚きを覚えた。

まず体育会系運動部の仕組みを、パワハラだと感じるようになった文化。
そして、いつの間にかパワハラと言う言葉が一般常識として浸透している昨今。

今まで平成塾は、子供達の将来の為に敢えて理不尽な事も行って来た。
炎天下でグラウンドを何周も走らせたり、泣いて逃げ回る子供にノックを浴びせたり。
そして貴重なプライベートな時間に漢字の書き取りをさせたり。

これって塾長の独りよがりでは無いのか?
子供達が将来部活で先輩にいじめられたら、パワハラだとして先生に言い付ければ済むのでは無いか?
会社の職場で上司に無理難題を言われたら、パワハラとして労働基準局に訴えれば済むのでは無いのか?

少なくとも、そのように考える家があるのであれば、塾長のやっている事なんて迷惑行為その物では無いのか?

夏休みの子供達の貴重な時間を割いて行う作文教室。
数学の基礎知識を教える算数教室、野球のルールを教える野球教室。
これらは、全て塾生達の家庭から見たら迷惑なだけで、貴重な時間を潰しているだけじゃないのか?

そう考えると、今まで張り詰めていた空気が、身体の毛穴からどんどんと抜けて行くような感覚を覚える。


子供は親の鏡。
各家庭に於いて、平成塾や野球の話しが食卓で出るようであれば、子供達はどんどん上手くなって行くが、家庭内で父親が一向に興味を示さなかったり、子供に野球を教えるような事が無ければ、子供が野球を覚える筈も無い。
でも、それはそれで良いのです。
その家庭において、子供の野球なんて決して大切では無いし、野球に何の期待もしていないのですから。
そんな家庭で育つ子供が、野球を上手くなろうと思う筈は有りませんし、上手くなる必要も無いのです。

時代が違う。

改めて、塾長はこの言葉を受け止めてみようと思います。

考えてみれば、塾長はIT業界に身を置き、常に最先端の技術を勉強して来たんですよね。
子供達が野球のルールを覚えていなくたって、フライが上がったらランナーはどうすれば良いのか、携帯を使って都度調べれば良いだけの話しかも知れません。
漢字なんて書けなくたって、携帯で調べれば済む時代なんです。

今まで漢字の書き取りを続けて来た、コリュウセイ、キズナ、パタ。
大変ご苦労様でした、もう書き取りはしなくて良いですよ。


時代が違う。