ルーツトップ 2020.10.12

昨年、日本の法律で初めてアイヌ民族を〈先住民族〉と明記した《アイヌ新法》が成立し、今年は北海道白老町に《ウポポイ》というアイヌの文化施設が開業するなど、近年またアイヌが注目を集めているなか、現代を生きるアイヌに焦点を当てた劇映画『アイヌモシㇼ』が10月17日(土)より渋谷ユーロスペースほか全国の劇場で順次公開される。
阿寒湖畔のアイヌコタンを舞台に、アイヌの血を引く14歳の少年カントが自身のアイデンティティや父親を亡くした喪失感と向き合いながら成長していく物語。彼が反発していたアイヌの精神と文化をアイヌコタンの中心人物であるデボから教え込まれ、それをどう受容するのかが一つの見所だ。また、イオマンテという伝統儀式に対する認識と価値観にはアイヌの中でも個々人や世代間で相違があり、現代のアイヌが抱える葛藤と苦悩を浮き彫りにもしている。あくまでフィクションという体でありながらも、演技経験のない現地のアイヌがアイヌ役を演じることでドキュメンタリー映画のように生々しいタッチの作品となっているのが実にユニークで、前作『リベリアの白い血』(2017年)でもキャスト起用で同様の手法を用いた福永壮志監督の面目躍如といえるだろう。
アイヌという非常に繊細な題材をあえて選び、近くて遠い存在であるアイヌの現況を掘り下げつつもしっかりと娯楽作品として完成させた福永監督に本作の制作意図、作品に込めた思い、多様性と寛容の重要性について語ってもらった。(interview:椎名宗之)
アイヌの役を実際のアイヌに演じてもらうのが前提
──監督がアイヌに関心を持ったのは20歳で渡米した後、ネイティブアメリカンに興味を抱いた頃だったそうですね。
福永:生まれが北海道で高校卒業まで住んでいたんですけど、アイヌについてちゃんと学ぶ機会がなかったんです。アイヌの同級生もいたけどそのことについて聞いちゃいけないような気がして、知りたいけど知れない悶々とした思春期を過ごしました。その後、アメリカに留学してミネソタ州に2年いた後に、映画を学ぶためにニューヨークへ移り住んだのですが、ミネソタ州ではネイティブアメリカンの存在感が強かった。地域によって差はあれど、もともとネイティブアメリカンがいた土地を奪って今の自分たちがいるという認識がアメリカ人には総じてあるし、ネイティブアメリカンに関することに対して意識が高いんです。アメリカの先住民族がどういう考え方を持っていたのかとか、そういうことを少しずつ知るうちに彼らの文化に惹かれていきました。そこでふと思ったんです。自分が生まれ育った北海道にもアイヌという先住民族がいるじゃないかと。それなのにずっと何も知らないままでいたことを恥ずかしく感じたんですね。今でこそ『ゴールデンカムイ』のようなコミックがあったり、メディアがアイヌを取り上げる機会も増えてきましたけど、当時は海外はもちろん日本でもアイヌに対する理解と認識がとても低かったので、自分ももっと学びたいと思ったし、アイヌを題材に映画を作ることには意味があるんじゃないかと思い始めたんです。それから具体的に企画を立ち上げるまで時間がかかりましたけど、ようやく形にすることができました。
──二風谷、白老、屈斜路、阿寒とアイヌの代表的なゆかりの地がある中で、阿寒町を舞台に選んだのはなぜですか。
福永:阿寒にはしっかりとコミュニティがあると感じたのが大きいです。阿寒以外の町にも訪れてアイヌの方々にいろいろと話を聞いたんですけど、白老は博物館を中心として各地のアイヌが集っているイメージで、二風谷はアイヌの人口密度は高いけど、自分たちの生活をそれぞれ営んでいるような印象を受けました。それに対して阿寒は観光の仕事を通してコミュニティの結束も強いし、生活の中にアイヌ文化が息づいている。その一方で、観光で見せる姿と実生活の差もあったりします。映画の舞台としてコミュニティはすごく大事だったし、現代のアイヌを映画で描く上で、物語になる要素が阿寒にはたくさんあったんです。
──ということは、阿寒を選んだのはキャストに起用した下倉親子が暮らしていたことが大きかった?
福永:それも一つの理由ですね。最初は主人公を青年にした脚本を書いていたんですが、カント君(下倉幹人)と出会ったこともあって少年の成長の話にすることにしたんです。阿寒にはデボさん(秋辺デボ)やエミさん(下倉絵美)といった役者が揃っていました。映画の中のアイヌの役を実際のアイヌの方に演じてもらうのが前提だったので、舞台のリサーチはキャスティングを兼ねていました。各地で話を聞きながら出演者を探していて、実際の本人役ではあるんだけど、演じるというよりも自分の違うバージョンを映画の中で出してもらう。またそれが自然でいられる環境作りやアプローチが大事だったし、その人物や設定、そこで起きる出来事をそのまま映画に持ってくる手法を考えたときに、阿寒に住む人たちを阿寒で撮るのが一番スムーズだったんですよね。
予定調和じゃないサプライズが生まれるのが面白い
──劇映画だけどすごくリアリティがありますよね。まるでドキュメンタリーを観ているような錯覚に陥るところもあるし、主人公であるカント君の佇まいがとにかく素晴らしい。普段は寡黙だけど目力が雄弁で、何度も引き込まれそうになります。
福永:彼は映画に出ている通りに口数は少ないけど感受性の豊かな子で、何事も自分なりに考えたり感じたりする下地がしっかりあるし、あの目がとても印象に残るのはそういうことの表れだと思います。
──主人公に起用したのもそういったことが理由だったんですか。
福永:最初はエミさんを介して阿寒へ行くようになって、その都度カント君とも会っていたんですけど、会うたびにちょっと特別な子だなと感じていました。とても印象的な目をしていたし、彼もまたアイヌをルーツに持つ少年だし、エミさんとは実際の親子だからそのままの設定でいけるし、いろんなことが必然性を持ってつながっていたんですよね。
──前作の長編デビュー作『リベリアの白い血』でも演技経験のない方を役者として起用していましたが、それは劇映画の中にドキュメンタリーの要素を入れておきたいからですか。
福永:ドキュメンタリー的要素でいえば前作より本作のほうが結果的に大きくなりましたが、理由はいくつかあります。まず大きいのは、自分のように外から来た人間がこういう繊細な題材を扱うときに自分が持つイメージに押しこむようなやり方をしてはいけないと考えているから。そのためにすでにあるもの、実在する人物に作品を近づけるというプロセスを踏まなければいけない。そうなると、アイヌの役は実際のアイヌの方に演じてもらうのがベストなんです。それと、自分の頭の中で思い描いていたものがそのまま形になってもあまり面白くないんですよ。想像をそのまま具現化するのではなく、それにもっとリアリティを持たせながら想像を超えるものを作品に落とし込ませたいという自分の姿勢もありますね。
──想定外の化学変化が生まれたほうが面白いと。
福永:そうです。パーフェクトじゃなくてもいいから「これを観るだけでも価値がある」というものを何かしら撮れたら作品としては成功なんじゃないかと思うので、細部にわたって緻密に画コンテを作り込んで演者やスタッフを駒のように動かすよりも、予定調和じゃないサプライズが生まれる環境に身を置いたほうが今は面白いと感じます。
──本作におけるキャストの皆さんの芝居があまりに自然なんですが、脚本は一応あるんですよね?
福永:あります。出演者の皆さんと事前にいろいろ話をしてその人となりを知った上で、できるだけ本人に近づけた脚本を書きました。セリフももちろんあるし、内容を分かってもらうためにあらかじめ読んでもらいましたけど、セリフを暗記することはお願いしませんでした。現場で緻密なリハーサルをやることもなく、だいたいの内容を伝えて「ここからここまで話を進めます」と説明して、あとはテイクごとに微調整をしていきました。セリフはできるだけ自分の言葉で話してもらうようにお願いしました。脚本上、ポイントとして必ず言わなくちゃいけない言葉がいくつかありましたけど、それも別にこういう言い方じゃなければいけないという決まりはありませんでした。そういう余白を持たせた進め方だったし、顔馴染みの人たちとの共演なので、ポンと出るアドリブのほうがよっぽど生きた言葉だったり、自分では絶対に書けない言葉だったんですよ。そうやってみなさんが自然体で演じられる環境作りを意識しましたし、その中で出た生きた言葉を映画にたくさん入れてあります。
──監督の意図するところが功を奏したわけですね。本作のキーパーソンであるデボさんがセリフをちゃんと覚えてくるようには思えませんし(笑)。
福永:覚えてくださいとお願いしても無理でしょうね(笑)。
──デボさんが新聞記者役のリリー・フランキーさんに「シャモ(和人のこと)ならそう言うべな」と言い放つのもアドリブですか?
福永:あれはセリフにありました。「シャモ」はちょっと蔑視的なニュアンスがありますが、興味本位に詮索する新聞記者に対してデボさんが敵対心を持つシーンなので、あえて使いました。映画の中でその言葉の意味は説明していませんが、歴史上で和人がアイヌにしてきた過ちを知るきっかけになればいいと思います。
なぜイオマンテを物語の核に据えたのか
──商工会の席でイオマンテ(飼育したクマを殺すことによって神であるカムイをクマという仮の姿から解放し、神の世界へ帰す儀礼)をめぐって論議が交わされるシーンはとても生々しくて、現代を生きるアイヌの中でもさまざまな見解があることを如実に伝えていますね。
福永:あのシーンでイオマンテについて賛成の人は本当に賛成の人で、反対の人は本当に反対の人なんです。リサーチの段階で阿寒を訪れたときにイオマンテについて伺って、そのときされた議論をベースに脚本にして、撮影の際には物語上必要な内容以外はできるだけ実際に思っていることを話してもらったんです。そのときにハッとするような素晴らしい言葉がいっぱいあって、編集でまとめるのに苦労しました。たとえばイオマンテに反対するみんなから「時代が違うよ」と言われたデボさんが「いつになったら時代が来るのよ?」「俺たちアイヌはこのまま変わっちまうのか?」と言い返すのは完全にデボさんの言葉なんです。
この映画を作るにあたって、差別や偏見を助長させるようなものを作ってはいけないというのが意識としてあったので、現代を生きるアイヌの姿を美化せずにできるだけ自然な形で映画の中で描きたかった。アイヌはもちろん一つの大きなテーマなんですけど、今を生きる人間の話にするということを意識しました。デボさんがカラオケを唄っているシーンや、台本を読みながらお祈りをしている姿を入れることは、そういう意味で大事でした。ただそうやって作り上げてもこれはあくまでも阿寒に住むアイヌの話で、決してアイヌ全体の話ではないですし、一口にアイヌといっても実に多種多様な考え方と価値観がある。この映画がアイヌに対するさらなる理解につながれば嬉しいです。
──たとえばカント君が自身のルーツを否定したり、親を含めた大人に対して不信感を抱くのは誰しも一度は経験する思春期特有の通過儀礼ですよね。だから映画の中で描写されるカント君の心情と行動はアイヌでも和人でも共感できると思うんです。
福永:そうですね。どんな人種であれ共感できる部分があると思います。
──現代を生きる同じアイヌの中でも個々人の価値観は相違があるし、世代間でその相違はさらに広がるでしょうし、その差異や葛藤を際立たせる上でイオマンテは格好のテーマですよね。アイヌと和人の見解の相違も浮かび上がるでしょうし。
福永:映画の題材として取り上げるべきかどうか迷ったところはあったんですけど、イオマンテを通してアイヌの世代間のギャップや、それぞれの内面を描けると思いました。アイヌの文化と精神世界の集大成でもあるし、そこまでいろんなことが凝縮されているものが他に見当たらなかったんです。儀式にインパクトがあるから取り上げたわけではなく、そこに内包されたものを通じて、アイヌ独特の文化と精神世界や、現代のアイヌの様々な考え方や思いを描けると思ったので、最終的に題材にすることにしました。
──死者の住む村へとつながる洞穴(アフンポル)が作品の冒頭から出てきて劇中でも重要な役割を果たしていますが、阿寒には実際にああいう場所があるのでしょうか。
福永:あの洞穴は道内の各地に点在しているんですけど、映画で使った洞穴はそういったものではなく、ロケーション時に画になると思って選んだ場所です。穴の向こうに先祖が住んでいるというのはアイヌの死生観につながるもので、穴を境にして生きている人と死んだ人がそれぞれ生活しているという考え方なんです。生と死が上と下ではなく、あの世とこの世でもなく、平行線で同じ軸上にあるという。イオマンテはクマの中に神がいて、その命を奪うことで霊を神の国に送り帰す、そしてまた違う姿で人間の国へやってくるという考え方ですが、それと相通ずる独特の死生観だと思うんですよね。
ドキュメンタリータッチでありながらフィクションである理由
──終盤にその洞穴の前でカント君は《ある劇的な体験》をして物語は結末へと向かうわけですが、あの落としどころは見事ですね。意外ではあるものの非常に説得力がありますし。
福永:あの場面の意図するところを理解してもらえると嬉しいですね。脚本を書いていた段階で、感想を聞いた一人から「話がつながっていないのではないか?」という指摘を受けたこともあったんですけど、あの場面はすごく大事だったんです。カント君が洞穴の前であの体験をすることで、もしかしたらデボさんの言うことは間違っていないのかもしれないと思うことで彼の中で心境の変化が訪れるわけなので。平たく言えば思春期の少年が父親の死と自分のルーツに向き合い、最終的に折り合いをつけながら新しい岐路に立つ物語なので、あのシーンは重要なんです。
──あの場面にこそ劇映画の良さが出ていると思いますし、ドキュメンタリー映画では決して撮れないものですよね。
福永:「なぜフィクションにしたのか?」と訊かれることがありますけど、大きな理由はそういうところなんです。あの場面を挿入することが「これはフィクションですよ」というリマインドでもあって、一つのアイヌコタンの物語が一つの映画に落とし込まれてもこれがアイヌのすべてではないし、現実のすべてでもないし、ドキュメンタリータッチではあるけれども一つのフィクションとして、一つの映画として捉えてほしいんです。アイヌとは何なのか、時代が移りゆく中で伝統を守る意味とは何なのか、自身のアイデンティティと文化のつながりとは何なのかという問いかけをする一つの映画として。
──結果的にカント君が成長したと思しき対比もちゃんと見せていますよね。冒頭と終盤に朝ご飯を食べるシーンがそれぞれありますが、顔つきや仕草から変化が訪れたことが窺えますし。
福永:最初と最後では違いますよね。一つひとつの所作から彼がどことなく変わったことが分かると思います。
──かつての『北の国から』のように、数年ごとにカント君と阿寒のアイヌコタンに暮らす人たちのその後を追うシリーズものになれば面白いなと思ったのですが。
福永:現実の彼は高校にあがって、阿寒には高校がないので下宿しながら釧路の高校に通っているんです。映画の通りに音楽が好きで、ミュージシャンの表現に興味があるようです。今後は音楽をやるのか、また演技をする機会が訪れるのか分かりませんけど、何らかの表現をしていくんじゃないですかね。
──劇中、カント君が通う阿寒中学校の階段の踊り場に「カント オㇿワ ヤク サㇰノ アランケプ シネプ カ イサム」(天から役割なくおろされたものは一つもない)という言葉が掲示されていますが、あの言葉に物語全体を通じたメッセージが込められているようにも思えますね。
福永:あの標語は実際に中学校に貼り出されていたものなんです。カント君がデボさんとキャンプに行って雨に降られるシーンで、デボさんが「よく降る雨だけど、こんな雨にも都合があって降ってるからな」と話していますが、あれは「天から役割なくおろされたものは一つもない」ということのくだけた表現なんです。あの言葉はデボさんが撮影の現場で話してくれたことで、僕が書いた言葉ではないんです。でもそれはデボさんが作品の意図を汲んでくれたというか、中学校にそういう標語が貼ってあるという脚本を読んでくれた上で話してくれた言葉だと思うんですよ。デボさんは本当に類い稀な表現者だと思います。
──デボさんは役者としてだけでなく、作品全体の精神的支柱であるように思えますね。
福永:絶対に欠かせない、大きな存在でしたね。「こういうシーンをどう思いますか?」とか随時意見を求めましたし、アイヌの文化や劇中でのアイヌの描き方などいろいろな場面でたくさんのアドバイスをいただきました。
多様性と向き合い、互いを認めることが大事
──アイヌを主題にした劇映画を撮り終えて、アイヌ文化に対して感じるのはどんなことですか。
福永:アイヌのことを知るというのは日本および日本人を知ることとつながっていると思うんです。日本の教育でアイヌについて知る機会が少ないのはとても残念なことですね。中国大陸や朝鮮半島から稲作文化を持って流れてきた人たちの影響で、縄文時代から弥生時代へと移行し、やがて日本の国家が形成されていったわけですよね。一方で、アイヌはそれらの人や文化とほとんど交わらずに独自の発展を遂げた。つまりアイヌは日本と日本人の起源である縄文の流れを色濃く受け継いでいるし、アイヌを知ることは自分たちのルーツを見つめ直すことにつながると思います。だから壁を作ってアイヌと接するのではなく、アイヌに関する問題も自分たちの問題として捉えるべきだと思うし、そのためにはまず僕らがアイヌのことを知るのが大事なんです。
──現世と来世が平行線であるというアイヌの死生観のように、アイヌと日本人の関係性も同じ軸上にあるという考えがもっと浸透するといいですよね。
福永:日本のルーツにはもともと多様性がありますからね。その多様性と向き合い、互いを認めることでもっと寛容な社会に向かえると思うんです。
──劇中でエミさんが営む民芸品店を訪れた日本人の観光客が「日本語お上手ですね」とエミさんに語りかけるシーンがありますね。その対比としてエミさんがアイヌ語を学ぶシーンがあったり。現代のアイヌが日本語を喋れないという誤解は残念ながら今も日本人の多くがしてしまうのでしょうし、この映画がアイヌを知るきっかけになればいいですよね。
福永:「日本語お上手ですね」という声をかけられるのは、阿寒のアイヌコタンではよくあることなんです。言った本人に悪気はないんでしょうけど、それもアイヌに対する無知からくるものですよね。そういう実話に基づいた話を今回の映画にできるだけ盛り込みましたし、この映画を観てアイヌに対する差別や偏見が少しでも薄れて、アイヌを身近な存在に感じてもらえたら嬉しいですね。
──今後もアイヌに関する活動をライフワークにしていく考えはありますか。
福永:はい、映画に限らず今後も何か自分にできることがあればしていきたいと思っています。
──劇映画としては今後どういった作品を構想していますか。
福永:まだ詳細は明かせませんが、いま取り組んでいるのは東北を舞台にした話で、これまでと共通しているのは土地と人間や、ルーツとしてあるもの、個人対組織などのテーマで、他にも日本独特のアニミズムといった要素を織り込んでいます。しかも時代物なので、思いきり振りきってフィクションに徹したものにしようと考えています。どうぞご期待ください。
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