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「マサイ族長老と考える~アイデンティティってなんだろう?」。城南予備校DUOは、クリエイティブ・ラーニング講座を12月22日(水)に開催。自分らしさの軸の見つけ方を学んでいきます。

2021-12-04 | 先住民族関連
ドリームニュース 2021年12月03日 16:00
株式会社城南進学研究社(本社:神奈川県川崎市川崎区駅前本町22-2、代表取締役社長CEO:下村 勝己、以下 当社)が運営する大学受験予備校「城南予備校DUO」は、12月27日(水)にクリエイティブ・ラーニング講座「マサイ族長老と考える~アイデンティティってなんだろう?」を開催します。
「城南予備校DUO」では、2020年7月より、新しい価値観・世界観を創造する力を鍛える「クリエイティブ・ラーニング講座」を開講しています。時代の最先端の課題に取り組む大人を招き、生徒と繋ぐことで、生徒自らが将来のビジョンを考える契機とすることが目的です。
今回開催するクリエイティブ・ラーニング講座は、8月に業務提携した「株式会社Inspire High(インスパイア・ハイ)」との共同開発講座。「自分自身をどうやったら好きになれるのか?」「世界から差別はどうしたら無くせるのか?」などのヒントや、自分らしさの軸の見つけ方を学んでいきます。
【クリエイティブ・ラーニング講座「マサイ族長老と考える~アイデンティティってなんだろう?」概要】
■日時
2021年12月22日(水)20:00~21:30
■対象
城南予備校DUO在籍の高1生~高3生・高卒生
■参加方法
オンライン講座(Zoom使用)
■内容
アフリカの先住民族であるマサイ族。動画に登場するエマニュエルさんは、若い世代が自分たちの文化に誇りを持てるようマサイ族の価値観を継承。同時に現代社会にあわない戦士の生き方や通過儀礼などの古い価値観をアップデートしてきました。
今回の講座ではそんな彼から「自分自身をどうやったら好きになれるのか?」「世界から差別はどうしたら無くせるのか?」などのヒントや、自分らしさの軸の見つけ方を学んでいきます。
同世代で一緒に話しながら、考えてみませんか?
※ご本人はライブ配信では登場いたしません。エマニュエルさんへのインタビュー動画を活用したワークショップ講座です。
<こんな人におすすめ>
・推薦入試に向けて「自分らしさ」を考えたい
・自分が学んでみたいことが決められない
・同世代はどんなことに興味があるか知りたい
・同じ塾の高校生と話して考えてみたい
・国際関係や海外の文化に興味がある
・推薦入試や小論文の対策をしたい
■「Inspire High」とは
株式会社Inspire Highが開発した「Inspire High」は、世界中の創造力と自分をつなぐ、10代のためのEdTechプログラムです。プログラムを通して、普段ふれあう機会の少ないアーティストや起業家、研究者などクリエイティブに生きる大人たちと、答えのない問いについて考え、共有しあいます。
■エマニュエルさんとは
マサイ族の長老、地域社会組織 OSOTUAとEYIEUNOTO NABAYA創設者。
ケニアの南部にあるカジアト県エセノルア村で生まれ、14歳で戦士となり、現在は長老としてコミュニティのリーダー役を務める。自分たちのコミュニティーを持続可能型にすることを目的とした地域社会組織を立ち上げ、アイデンティティに誇りを持ちながら外の世界の知識をコミュニティでも活かせる若者の育成や、課題を抱える女性の支援などを、他の長老たちと協力して推進。さらに、世界中の若者やビジネスリーダーを自分たちの村に招待しお互いから学ぶ活動に取り組んだり、海外へのマサイ族の伝統的な文化、知恵、価値観の発信も行っている。
【城南予備校DUOについて】
大学受験予備校「城南予備校」による、AI教材「atama+」を使った自立学習と、ヒト(プロ講師)による指導を中心とした、新しい時代の塾。徹底したICT学習管理とキャリアデザインの形成、校舎での指導はもちろん、オンライン指導にも対応。総合型・学校推薦型選抜の専門塾「城南AO推薦塾」をシンクタンクに、一般選抜も含めて全ての大学入試に対応可能です。
ホームページ:https://www.johnan.jp/
【当社が形成する城南進研グループについて】
株式会社城南進学研究社は、総合教育ソリューション企業として「城南予備校DUO」など大学受験教育事業、「城南コベッツ」など個別指導教育事業、「デキタス」などデジタル教育事業を軸に、英語教育事業、乳幼児・児童教育事業、スポーツ事業等を運営し、「城南進研グループ」を形成。SDGsへの取り組みも強化しています。
ホームページ:https://www.johnan.co.jp/
https://www.dreamnews.jp/press/0000249255/

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【樋口健二さん】報道写真を撮り続けて60年

2021-12-04 | アイヌ民族関連
北海道新聞 12/03 10:37
 自称“売れない写真家”の樋口健二さん(84)。今年、自伝「慟哭(どうこく)の日本戦後史」(こぶし書房)を出版した。1960年代の高度経済成長期から豊かさの陰で犠牲になった人々に光を当て続けてきた。反骨の原点には戦争や出稼ぎ経験があった。写真家人生60年の仕事を振り返ってもらった。(編集委員 岩本茂之)
■公害、原発事故。この国の差別的構造は変わっていない
 ――写真家になる前はどんな暮らしをされていたのですか。
 「僕は長野県の農家のせがれで、中学時代から働き、高校で米もそ菜もお蚕(かいこ)も学びました。卒業後はレタス栽培を始め、丸々と美しいのを100箱分東京に出荷しました。貧しい時代、砂利道をオート三輪に揺られて運ぶもんだから傷んで買いたたかれて赤字。お蚕と米でわずかな収入しかない。日本橋のノリ問屋に出稼ぎに行き、朝6時から夜12時まで18時間労働でノリ運びをやりました。毎日けんちん汁で3年、恐ろしいほどの低賃金で働かされました」
 ――出稼ぎの後は。
 「新聞で日本鋼管川崎製鉄所の募集広告を見つけ、海運課に入りました。24時間操業の3交代でクレーンの運転です。鉱石や粉炭を陸揚げするんですが、窓を閉めると外が見えないので全開にする。すると粉じんが入る。仕事が終わって風呂に入ると赤黒いたんが出るんです。近くに下宿したんですが、そこのおじいさんが激しくせき込んで大変なの。『工場がどんどんできて煙がひどくなり、このありさまだ』って言う。自分は加害者であり被害者じゃないかって考えるようになりました。まだ公害なんて言葉のない時代です」
 ――なぜクレーンの運転士から写真家になったのですか。
 「労組で60年安保の勉強会があった。『日米安保条約を通したら日本は米国にじゅうりんされるぞ』って言われて衝撃を受けた。国会にデモに行った日は東大の樺美智子さんが亡くなった日で、僕も初めて血が燃えて問題意識が芽生えました。会社の友人がカメラ好きで『銀座のロバート・キャパ展を見に行け』ってしつこい。しょうがないなと思って行ったら驚いた。戦場の最前線でノルマンディー上陸作戦なんか撮ってる。ピントはブレブレでシャッターをバンバン押して。キャパと一緒になった気分になって身震いしました。女性や子ども、市井の人たちが逃げ惑って苦しんでいるところまで撮ってる。僕も写真家になろう、自分と同じ底辺労働者を撮ろうと決め、会社を辞めて写真学校に入りました」
 ――卒業後、最初の大きな仕事が四日市ぜんそくでした。
 「66年の新聞で衝撃的な記事を見ました。四日市ぜんそくに苦しむ老人が『あの世に行けば高い薬はいらない極楽だ』と遺書を残して首をつった。四日市公害との格闘の始まりです。コンビナートの亜硫酸ガスがぜんそくを引き起こす。病院に行ったら主治医は空気清浄室に案内してくれ、患者の藤田一雄さんの後ろ姿が悲哀に満ちていたのでシャッターを切りました。他のベッドには誰もいない。訳を聞くと『みんな漁師だ。生活に困っているので早朝から薬を持って海に出ている』と返ってきました。藤田さんは協力的で患者を紹介してくれて。でも最初は取材拒否。次第に撮れるようになりましたが、50回以上通いました。多くの犠牲を出し、裁判は72年勝訴。亡くなった原告の女性が幼い娘に抱かれている遺影があって夢中で撮りました」
 ――道内関連ではじん肺訴訟の写真集「山よろけ」があります。
 「僕はおにぎりを持って国立国会図書館に行き、全国の新聞で情報を得ていました。80年の北海道新聞でじん肺患者や遺族が提訴したことを知りました。これは大変だと弁護団の村松弘康弁護士に連絡したら札幌の勉強会に誘われて飛んで行きました。道内だけで約1万3千人(83年当時)の患者がいるが、認定者はわずか。あとは補償もなく見捨てられているという。じん肺は炭鉱や鉱山、トンネル工事など全国で約10万人と言われていました。とことんやらなきゃと、村松さんの紹介や説得で患者を撮り、『ぜひ写真集を作ってくれないか』と頼まれて出したのが『山よろけ』。92年に和解になって弁護団長に『あなたの写真集が裁判長の心を動かした』と言われ、写真の力を実感しました」
 ――戦争の傷痕も追い続けています。
 「東京・小平の武蔵療養所(当時)に精神や神経を病んだ元兵士たちが入院していました。廊下に半日も立ち尽くしている人、病室に医師と一緒に入る人、直立不動で私に敬礼をした人…。軍隊でリンチを受け、心を患っていた。いかなる戦争にも正義も聖戦もないと断言したい。僕が6歳の時、母は30歳で赤痢で亡くなりました。薬は戦地に優先的に送られたのか欠乏していて助かる命も助からなかった。僕も赤痢になって意識を失い、大好きな親戚のおじさんが病院に運んでくれました。おじさんにも赤紙が来た。農耕馬にまたがって駅に行き、日の丸や『露営の歌』の合唱に送られて出征し、生きて帰って来なかった。白木の箱には小石が一つ。鉄かぶとを貫通した弾が額を撃ち抜いて即死だったそうです。これが私にとって反戦の原点になっています」
 ――原発被ばく労働の問題も樋口さんの仕事の核ですね。
 「74年、大阪の岩佐嘉寿幸(かずゆき)さんがわが国初の原発被ばく裁判を起こしました。定期検査中、パイプにまたがったりシートに右膝をつけたりして、発熱と倦怠(けんたい)感がひどくなり、右膝に水膨れやブツブツができた。病院を転々としたけど良くならず、2年後に阪大病院に行ったら『放射線皮膚炎、二次性リンパ浮腫』との診断書が出て提訴しました。でも最高裁まで17年闘い抜いて全面敗訴。岩佐さんは『国立大学病院の診断書が役に立たないのなら被ばく者は死ねということか』と憤りました。何年かして岩佐さんが入院している病院から『樋口さんに会いたいって言ってる』と電話があって、大阪行きのバスに飛び乗った。岩佐さんはもうろうとして『助けてくれ』って。僕は体をさすってあげて『岩佐さん、あんた一生懸命やったよ。これからもずっと伝え続けるから』って。1週間後に亡くなりました。今後も岩佐さんみたいな人たちが生み出されていく」
 ――今年、福島の原発事故で避難した15人の声を「フクシマ原発棄民 歴史の証人」(八月書館)として出版しました。
 「原発事故で十数万人もが右往左往させられ日本中に避難を強いられました。避難先で亡くなったり、いじめや差別に泣いたり、肉体的、精神的、経済的にダメージを負った。あの戦争で関東軍に置き去りにされた満蒙開拓民と重なります。福島県までもがたいした金額でもないのに、住宅支援を打ち切った。それで棄民という言葉を使いました。僕が撮ってきた人たちもみんなそう。格差社会はコロナ禍でさらに広がって。僕が公害の取材を始めた頃から、この国は何も変わっていません。差別的な構造を変えなきゃ」
<略歴>1937年、長野県出身。東京都在住。報道写真家。長野県富士見高卒。東京綜合写真専門学校で写真を学ぶ。写真集「四日市」「毒ガスの島」「山よろけ」「忘れられた皇軍兵士たち」など著書多数。2011年に写真集「原発崩壊」で平和・協同ジャーナリスト基金賞大賞を受賞した。日本写真芸術専門学校副校長を務め、教え子にアイヌ民族を撮り続ける宇井眞紀子さん、アフガン戦争で亡くなった南條直子さんらがいる。
<後記> 樋口さんは意外にも富士山を撮り続けている。故郷富士見町から見える名峰は幼い頃から憧れだった。「社会問題ばかり撮ってるとつらくなる。その癒やし」だとも。ただ山だけ見ていてはダメだという。「裾野の原生林、キノコやコケ、湖や湧水なんかがあって初めて富士山の美しさが出る」。風景写真でも視座は変わらない。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/618629

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驚く見た目でもおいしい…しけで打ち上げ、幻の食材ルッツ拾い 石狩・浜益の住民集い「祭り」

2021-12-04 | アイヌ民族関連
北海道新聞 12/04 05:00
 【石狩】暴風雪で大しけが続いた浜益区で3日、群別漁港近くの浜に、ビニール袋やバケツを手に、足元や石の下を注意深く見る人の姿があった。お目当ては大しけの後にのみ打ち上がる「ルッツ」。オレンジ色の円筒形の姿が特徴的な、海底に生息する無脊椎動物だ。浜益区民に愛されるソウルフードだが、年に1、2回程度しか打ち上がらないため、めったに食べられない「幻の食材」。浜益の住民に愛されるルッツの魅力を探った。
 ルッツが寄った(浜辺に打ち上がった)―。暴風雪が収まった3日早朝、住民たちの間で情報が広がった。しぶきを上げ、音を立てて波が寄せる群別の浜には丸い石がゴロゴロと並び、昆布が一面に漂着していた。午前11時ごろ、住民6人が防寒着に身を包み、石の隙間にあるルッツを拾っていた。多いときには20人ほどが浜にいたという。
 ルッツの正式名称は「ユムシ」。アイヌ語でミミズに似るという意味の「ルッチ」に由来すると言われている。海底の砂や泥に穴を掘って生息し、体長は大きなもので20センチほどだ。
 「今日は少ないかな。浜来たら、真っ赤になっている時もある。それを拾うのが面白いんだ」。午前7時半ごろから採取していたという群別の主婦、安倍ゆかりさん(59)はルッツを手に教えてくれた。浜益出身の花畔の主婦(50)は、地元住民からの連絡で駆けつけた。「あんまり採れないものだから、吹雪でない限り採りに来ます」
 浜益では西風が吹き、波の高さが6メートル以上になると群別や幌の浜でルッツが打ち上がることがある。ただ、全く採れない年もあるという。いしかり砂丘の風資料館の志賀健司学芸員は「海底の砂がかき混ぜられて、打ち上がるのでしょう。食用にするのは日本では浜益以外、聞いたことはありません」と言う。
 浜益の家庭などでは、刺し身にするほか、焼いてしょうゆやジンギスカンのたれを付けたり、しゃぶしゃぶにしたりして食べている。
 地元の居酒屋「小銭(だらせん)」では時価で刺し身を提供。札幌や道外から食べに来る人もいるという。「かめばかむほど甘みが出る。取り立てのプリプリとした食感が良いよ」と店主の安保美佐子さん(69)。
 食べる時は両端を切り、内臓を取り除いて塩水で洗い、短冊や輪切りにする。おすすめの刺し身で食べてみるとコリコリとした食感で、味は赤貝のよう。ほのかに磯の香りがする。
 同区外から浜益に移住した柏木の植村幸里さん(38)は「最初に見た時や調理した時はちょっと引きましたが、食べたらとてもおいしかった」と笑う。安保さんの長女、本間志津香さん(46)は言う。「ルッツ拾いは年に1、2回の浜益の祭りみたいなものなんです」(伊藤駿)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/618942

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千島アイヌの衣服

2021-12-04 | アイヌ民族関連
朝日新聞 2021年12月01日
■ロシア文化の影響 色濃く反映
 北海道とカムチャツカ半島のあいだに連なる千島列島。中部の得撫島(ウルップ)から北端の占守(シムシュ)島にかけて暮らした千島アイヌの人びとは18世紀以降、カムチャツカ半島から南下してきたロシア人の影響下でロシア正教を信じ、ロシア風の名を持つようになっていた。
 ロシアの南下に神経をとがらせていた江戸幕府は19世紀初めに得撫島と国後島のあいだの往来を禁ずる。以後、南側は日本、北側はロシアの支配下に置かれ、文化的特徴の差が一層際立っていった。
 今回紹介するのは千島アイヌの女性の衣服。仕立ては洋服そのもので、アイヌ文様も見られない。この地域の人々がいかにロシアの影響を強く受けていたかが分かる。
 1875(明治8)年に結ばれた樺太千島交換条約により、千島アイヌは日本の統治下に入った。明治政府にとって、遠い国境地帯の住民の管理はコストがかさむ。千島アイヌの人々は色丹島への移住を強いられ、環境の激変のなか、次々と命を落とした。
 文化的にも日本の影響が強まり、この衣服が収集された1930年代当時、ロシア風の衣装の千島アイヌ民族は一人だけになっていたという。
(北海道博物館アイヌ民族文化研究センター 大坂拓)
http://digital.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20211201011850001.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_MTW20211201011850001

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