北海道新聞 12/12 05:00
JR苫小牧駅から、駅前本通、汐見大通を歩いて南へ約1・5キロ。苫小牧市汐見町の前浜「ふるさと海岸」に出る。波の音を聞きつつ街の方を見れば、王子製紙苫小牧工場の煙突から白煙がたなびいていた。
1924年(大正13年)5月21日、詩人・童話作家の宮沢賢治はここを歩いたとされる。勤務する岩手県立花巻農学校の修学旅行生を引率し、岩見沢から鉄道で苫小牧へ。駅前の旅館に投宿し、夜半、海辺へと散策したようだ。
旅の後で賢治が提出した修学旅行の復命書に苫小牧の描写がある。
「苫小牧に近く遥(はるか)に樽前火山を望む。噴煙ありと云(い)ひ又(また)雲なりと争ふ。薄明既に青くして孰(いず)れとも定め難し。八時苫小牧に着、驛(えき)前富士館に投ず。パルプ工場の煙赤く空を焦(こが)し、遠く濤声(とうせい)あり」
■工場の光赤く
王子の煙突は当時も煙を吐き、夜空に工場群の赤い光が照り映えていたのだろう。海辺には牧場があった。この時着想を得たとされる詩「牛」を刻んだ碑が、汐見大通と国道36号が交わる同市旭町にある。
「一ぴきのエーシャ牛が/草と地靄(もや)に角をこすってあそんでゐる/うしろではパルプ工場の火照りが/夜なかの雲を焦がしてゐるし(後略)」(「牛」)
詩集「春と修羅 第2集」に収められたこの詩を含め、この北海道への旅から生まれた詩の多くは明るい。22年に最愛の妹トシを亡くし、傷心のまま翌23年に北海道、樺太へ向かった旅から書かれた挽歌(ばんか)群の暗いトーンとは違う。賢治の心の何が変わったのか。
修学旅行の復命書にはこう記されている。
「北海道の風景、その配合の純 調和の単 容易に之を知り得べきに対し、郷土古き陸奥の景象の如何(いか)に理解に難きや」
西洋式の農業技術で開拓が進む北海道の風景の美しさと、故郷岩手の農村の陰鬱(いんうつ)と固陋(ころう)が対比される。天災や凶作の苦難から脱せない東北の農村に歯がみした賢治の目に、北海道はまぶしく映ったようだ。この心象が詩に投影しているかに見える。
明治後期から大正期、北海道の近代化は新段階を迎えていた。農業が発展する一方で鉱工業が伸びていた。北海道庁は官営事業を払い下げるなどして道外からの資本進出を促した。拠点の一つは胆振だった。
1907年(明治40年)に室蘭で日本製鋼所が設立され、09年には輪西製鉄場が操業を開始。10年には王子製紙苫小牧工場が稼働する。15年には道内の産業別生産価格で鉱工業が農業を上回り、総額の45%を占めている。賢治が苫小牧で見た煙突は、成長する北海道鉱工業の象徴だった。
■近代農法称賛
賢治は苫小牧で王子製紙の工場を見学し、また札幌でも札幌麦酒や帝国製麻といった工業会社を訪ねた。北海道帝国大学などで近代農法の農具や資材に触れ、称賛する言葉を復命書につづっている。
開拓民の労苦にも触れてはいるが、近代化の「影」の部分への言及は乏しい。道内では移民が大きく増え、アイヌ民族の強制移転が各地で起きていた。一方で資本家と労働者の対立が深まり、小作争議、労働争議が頻発し始めていた。
妹の死の悲嘆から立ち上がった賢治は、農業教師・技師として郷里東北の農村の改善に燃えて、北海道に将来像を見いだすことに没入したのかもしれない。病身を押しての献身的な活動の末、1933年(昭和8年)に世を去る。
賢治一行と同じように、岩見沢から列車に乗ってみた。窓外の広大な農村風景は、確かに明るい光に満ちていた。苫小牧東部工業地帯をかすめて列車は苫小牧駅に着いた。この地で光と影の交錯する近代化をさらに進めた世界初の人工掘り込み式港湾の完成は、賢治の死から30年後になる。(中川大介)
<ことば>北海道と宮沢賢治 宮沢賢治は1896年(明治29年)、現在の岩手県花巻市で生まれ、3度、北海道を旅した。初回は1913年(大正2年)で県立盛岡中学在学中の修学旅行。2度目の1923年は樺太まで足を延ばし、「オホーツク挽歌」など妹の死を題材とする詩を書いた。3度目の24年が花巻農学校の修学旅行。生徒と5泊6日で函館、小樽、札幌、白老、室蘭などを訪れ、この旅を基に詩「函館港春夜光景」などが書かれた。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/621931
JR苫小牧駅から、駅前本通、汐見大通を歩いて南へ約1・5キロ。苫小牧市汐見町の前浜「ふるさと海岸」に出る。波の音を聞きつつ街の方を見れば、王子製紙苫小牧工場の煙突から白煙がたなびいていた。
1924年(大正13年)5月21日、詩人・童話作家の宮沢賢治はここを歩いたとされる。勤務する岩手県立花巻農学校の修学旅行生を引率し、岩見沢から鉄道で苫小牧へ。駅前の旅館に投宿し、夜半、海辺へと散策したようだ。
旅の後で賢治が提出した修学旅行の復命書に苫小牧の描写がある。
「苫小牧に近く遥(はるか)に樽前火山を望む。噴煙ありと云(い)ひ又(また)雲なりと争ふ。薄明既に青くして孰(いず)れとも定め難し。八時苫小牧に着、驛(えき)前富士館に投ず。パルプ工場の煙赤く空を焦(こが)し、遠く濤声(とうせい)あり」
■工場の光赤く
王子の煙突は当時も煙を吐き、夜空に工場群の赤い光が照り映えていたのだろう。海辺には牧場があった。この時着想を得たとされる詩「牛」を刻んだ碑が、汐見大通と国道36号が交わる同市旭町にある。
「一ぴきのエーシャ牛が/草と地靄(もや)に角をこすってあそんでゐる/うしろではパルプ工場の火照りが/夜なかの雲を焦がしてゐるし(後略)」(「牛」)
詩集「春と修羅 第2集」に収められたこの詩を含め、この北海道への旅から生まれた詩の多くは明るい。22年に最愛の妹トシを亡くし、傷心のまま翌23年に北海道、樺太へ向かった旅から書かれた挽歌(ばんか)群の暗いトーンとは違う。賢治の心の何が変わったのか。
修学旅行の復命書にはこう記されている。
「北海道の風景、その配合の純 調和の単 容易に之を知り得べきに対し、郷土古き陸奥の景象の如何(いか)に理解に難きや」
西洋式の農業技術で開拓が進む北海道の風景の美しさと、故郷岩手の農村の陰鬱(いんうつ)と固陋(ころう)が対比される。天災や凶作の苦難から脱せない東北の農村に歯がみした賢治の目に、北海道はまぶしく映ったようだ。この心象が詩に投影しているかに見える。
明治後期から大正期、北海道の近代化は新段階を迎えていた。農業が発展する一方で鉱工業が伸びていた。北海道庁は官営事業を払い下げるなどして道外からの資本進出を促した。拠点の一つは胆振だった。
1907年(明治40年)に室蘭で日本製鋼所が設立され、09年には輪西製鉄場が操業を開始。10年には王子製紙苫小牧工場が稼働する。15年には道内の産業別生産価格で鉱工業が農業を上回り、総額の45%を占めている。賢治が苫小牧で見た煙突は、成長する北海道鉱工業の象徴だった。
■近代農法称賛
賢治は苫小牧で王子製紙の工場を見学し、また札幌でも札幌麦酒や帝国製麻といった工業会社を訪ねた。北海道帝国大学などで近代農法の農具や資材に触れ、称賛する言葉を復命書につづっている。
開拓民の労苦にも触れてはいるが、近代化の「影」の部分への言及は乏しい。道内では移民が大きく増え、アイヌ民族の強制移転が各地で起きていた。一方で資本家と労働者の対立が深まり、小作争議、労働争議が頻発し始めていた。
妹の死の悲嘆から立ち上がった賢治は、農業教師・技師として郷里東北の農村の改善に燃えて、北海道に将来像を見いだすことに没入したのかもしれない。病身を押しての献身的な活動の末、1933年(昭和8年)に世を去る。
賢治一行と同じように、岩見沢から列車に乗ってみた。窓外の広大な農村風景は、確かに明るい光に満ちていた。苫小牧東部工業地帯をかすめて列車は苫小牧駅に着いた。この地で光と影の交錯する近代化をさらに進めた世界初の人工掘り込み式港湾の完成は、賢治の死から30年後になる。(中川大介)
<ことば>北海道と宮沢賢治 宮沢賢治は1896年(明治29年)、現在の岩手県花巻市で生まれ、3度、北海道を旅した。初回は1913年(大正2年)で県立盛岡中学在学中の修学旅行。2度目の1923年は樺太まで足を延ばし、「オホーツク挽歌」など妹の死を題材とする詩を書いた。3度目の24年が花巻農学校の修学旅行。生徒と5泊6日で函館、小樽、札幌、白老、室蘭などを訪れ、この旅を基に詩「函館港春夜光景」などが書かれた。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/621931