北海道新聞 12/23 05:00
「駅逓所(えきていしょ)」って知っていますか? 交通が不便な地で宿泊や輸送などを担った施設で、明治時代から北海道で独自に発展しました。大正時代に最多の270カ所を数え、戦後間もなく全廃されるまで延べ685カ所に設置されました。現存する駅逓所で最古の島松駅逓所(北広島市)など、建物が残る19カ所の駅逓所は開拓の光と影を伝えています。
「『駅』は馬小屋、『逓』はリレーするという意味で、駅逓所の主な仕事は馬を使って人や物を次の駅逓所へリレー方式で送ること。宿泊や食事も提供していました」。こう語るのは根室管内別海町の別海町教育委員会の学芸員、戸田博史さん(51)です。江戸時代に北海道で運上屋(うんじょうや)などと呼ばれていた宿駅は、1872年(明治5年)に駅逓と名称を変更、北海道独自の駅逓制度が整備されていきました。
明治初期の開拓使時代には、渡島半島南部や各地の沿岸部などに156カ所の駅逓所が置かれました(開拓使の廃止時までに44カ所が廃止)。73年に設置された、国指定史跡の島松駅逓所もその一つです。
同駅逓所ガイドの村井明さん(75)によると、札幌本道(現在の国道36号)の開通に伴い、開拓使によって旅行者の便宜を図って設けられ、駅逓取扱人と馬20頭余りを置き、両隣の駅逓所とは約4里(16キロ)の距離。「77年に札幌農学校のクラーク博士が帰国の際、札幌を朝に出発し、昼に島松着。ここで見送りの学生らに『ボーイズ・ビー・アンビシャス(青年よ、大志を懐(いだ)け)』の名言を残したとされます」と村井さん。
86年に道庁が設置されて主な原野の区画割が進められると、北海道移住が本格化しました。道内の人口は87年に32万人だったのが、1900年には100万人を突破。入植に必要な駅逓所を設置するため、土地・建物・馬は官設(国が設立、維持すること)、駅逓取扱人には月10円の手当金支給など、官設駅逓制度の安定化が図られました。
戸田さんは「地域の入植が一段落すると駅逓所は廃止されました。内陸部に新たな入植地が設定されると駅逓所が新設され、開拓の最前線、入植者の拠点となりました。一方、入植地の選定が進むことでアイヌの人たちが強制移住させられることもありました」と語ります。また、駅逓所が設置された中央道路(現在の国道12号と同39号の原点)は、道内の集治監(現在の刑務所)の囚人によって造られました。月形樺戸博物館(空知管内月形町)の浦崎清さん(77)は「過酷な労働で多くの犠牲者を出しました」と話します。
こうして19年(大正8年)に移住者が9万人に上ると、駅逓所は21年に270カ所を数えて最盛期を迎えました。
20年に武華(むか)村(現在の北見市留辺蘂町)に設置されたのが、武華駅逓所です。客室、風呂、便所、馬小屋、倉庫、井戸などを備えていました。道内の駅逓所を調査している北海道建築士会の関川修司さん(73)は「増築された2階建て部分を除き、官設駅逓所の建築標準図とほぼ同じ間取り。開拓使時代の島松駅逓所などとの違いは土間がないこと」といいます。
26年、紋別で開設された上藻別(かみもべつ)駅逓所の駅逓取扱人だった高地昇さんの孫、高地昌一さん(74)は「宿泊者の数は32年(昭和7年)が最多の232人で、その頃に2階建てに増築。39年に廃止するまで1892人が宿泊した記録があります」。
入植者が集落をつくり、鉄道の整備などが進むと、駅逓所は役目を終え、戦後の47年に千島列島を除く全ての駅逓所が廃止されました。別海町の奥行臼(おくゆきうす)駅逓所は2011年に国の史跡に指定され、19年に大規模修復を終えました。史跡はかつての交通の要衝にあり、史跡公園の整備が計画されています。北海道開拓の実情を学ぶ歴史遺産となることを期待しています。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/626247
「駅逓所(えきていしょ)」って知っていますか? 交通が不便な地で宿泊や輸送などを担った施設で、明治時代から北海道で独自に発展しました。大正時代に最多の270カ所を数え、戦後間もなく全廃されるまで延べ685カ所に設置されました。現存する駅逓所で最古の島松駅逓所(北広島市)など、建物が残る19カ所の駅逓所は開拓の光と影を伝えています。
「『駅』は馬小屋、『逓』はリレーするという意味で、駅逓所の主な仕事は馬を使って人や物を次の駅逓所へリレー方式で送ること。宿泊や食事も提供していました」。こう語るのは根室管内別海町の別海町教育委員会の学芸員、戸田博史さん(51)です。江戸時代に北海道で運上屋(うんじょうや)などと呼ばれていた宿駅は、1872年(明治5年)に駅逓と名称を変更、北海道独自の駅逓制度が整備されていきました。
明治初期の開拓使時代には、渡島半島南部や各地の沿岸部などに156カ所の駅逓所が置かれました(開拓使の廃止時までに44カ所が廃止)。73年に設置された、国指定史跡の島松駅逓所もその一つです。
同駅逓所ガイドの村井明さん(75)によると、札幌本道(現在の国道36号)の開通に伴い、開拓使によって旅行者の便宜を図って設けられ、駅逓取扱人と馬20頭余りを置き、両隣の駅逓所とは約4里(16キロ)の距離。「77年に札幌農学校のクラーク博士が帰国の際、札幌を朝に出発し、昼に島松着。ここで見送りの学生らに『ボーイズ・ビー・アンビシャス(青年よ、大志を懐(いだ)け)』の名言を残したとされます」と村井さん。
86年に道庁が設置されて主な原野の区画割が進められると、北海道移住が本格化しました。道内の人口は87年に32万人だったのが、1900年には100万人を突破。入植に必要な駅逓所を設置するため、土地・建物・馬は官設(国が設立、維持すること)、駅逓取扱人には月10円の手当金支給など、官設駅逓制度の安定化が図られました。
戸田さんは「地域の入植が一段落すると駅逓所は廃止されました。内陸部に新たな入植地が設定されると駅逓所が新設され、開拓の最前線、入植者の拠点となりました。一方、入植地の選定が進むことでアイヌの人たちが強制移住させられることもありました」と語ります。また、駅逓所が設置された中央道路(現在の国道12号と同39号の原点)は、道内の集治監(現在の刑務所)の囚人によって造られました。月形樺戸博物館(空知管内月形町)の浦崎清さん(77)は「過酷な労働で多くの犠牲者を出しました」と話します。
こうして19年(大正8年)に移住者が9万人に上ると、駅逓所は21年に270カ所を数えて最盛期を迎えました。
20年に武華(むか)村(現在の北見市留辺蘂町)に設置されたのが、武華駅逓所です。客室、風呂、便所、馬小屋、倉庫、井戸などを備えていました。道内の駅逓所を調査している北海道建築士会の関川修司さん(73)は「増築された2階建て部分を除き、官設駅逓所の建築標準図とほぼ同じ間取り。開拓使時代の島松駅逓所などとの違いは土間がないこと」といいます。
26年、紋別で開設された上藻別(かみもべつ)駅逓所の駅逓取扱人だった高地昇さんの孫、高地昌一さん(74)は「宿泊者の数は32年(昭和7年)が最多の232人で、その頃に2階建てに増築。39年に廃止するまで1892人が宿泊した記録があります」。
入植者が集落をつくり、鉄道の整備などが進むと、駅逓所は役目を終え、戦後の47年に千島列島を除く全ての駅逓所が廃止されました。別海町の奥行臼(おくゆきうす)駅逓所は2011年に国の史跡に指定され、19年に大規模修復を終えました。史跡はかつての交通の要衝にあり、史跡公園の整備が計画されています。北海道開拓の実情を学ぶ歴史遺産となることを期待しています。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/626247