毎日新聞10/15 08:00

宇曽利山湖畔の極楽浜には故人を弔う積み石が並ぶ=青森県むつ市で2023年9月18日、萩尾信也撮影
「死んだら、お山さ行ぐ」。青森県の下北半島と周辺部に住む人々に、今も息づく思いである。
「お山」とは、その形から「まさかり半島」と呼ばれる半島の刃の中央にある霊場「恐山」(むつ市)だ。カルデラ湖「宇曽利山湖(うそりやまこ)」と、仏が座る蓮(はす)の花のように湖を囲む「蓮華八葉(れんげはちよう)」と呼ばれる八つの山々を含む一帯で、国定公園の中にある。
名前の由来は諸説あり、「くぼ地」を意味するアイヌ語「ウシュロ」が「おそれ」に転化したとの説も。アイヌ語由来の地名が東北各地に存在することと併せて、アイヌ民族が暮らしていた時代を想起させる。
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言い伝えによれば、恐山の起源は平安時代の862年にさかのぼる。空海や最澄と同様に唐に渡った、「入唐八家(にっとうはっけ)」の一人、天台宗の僧、円仁が開山したとされる。
「円仁が唐で見た夢に、聖僧(しょうそう)が現れ、『帰国し、東方へ30日ほどの場所に霊山あり。地蔵菩薩(ぼさつ)を彫り、布教せよ』とのお告げに、行脚の末にたどり着いた」。お山の境内ガイドが教えてくれた。
中世には、修験者が入山していた。民衆の登拝や湯治などの足跡も古文書などに残っている。戦乱の世に荒廃したが、1530年にむつ市にある曹洞宗円通寺の僧侶、宏智聚覚(わんしじゅがく)が再興。以来、同寺が恐山を管理している。
大祭や秋詣(まい)りには、「イタコ」と呼ばれる霊媒師がやって来て、死者を降霊させて、故人の思いを伝える「口寄(くちよ)せ」が行われる。イタコは寺の管轄ではないが、昭和30年代にマスコミに度々登場し、その名は広範に知られることになった。
私が初めて恐山を訪れたのは、10歳になった1965年夏。従兄(いとこ)の東北旅行に同行した折のことだ。
そこは、「賽(さい)の河原」をほうふつさせる風景が広がっていた。数多(あまた)の穴から硫黄臭とともにガスが噴出。熱湯がボコボコと音を立て、湯気が上がっていた。供養のための地蔵や、黄泉(よみ)への旅支度のためのわらじや手ぬぐいが供えられ、風車がカラカラと回っていた。
♪一つ積んでは父のため 二つ積んでは母のため♪
白砂の「極楽浜」では、人々が故人を偲(しの)んで石を積み上げ、設営されたテントで、イタコの口寄せに涙していた。
そして今年9月、私は58年ぶりの再訪の旅に出た。滞在していた岩手県から沿岸部を北上し、半島の手前にある青森県三沢市に入ると、既視感に襲われた。
米軍や自衛隊の基地が広がり、私の故郷で基地がある長崎県の佐世保や、取材で訪れた沖縄で感じた空気感と重なった。道端の店の看板や掲示板には英語表記が並び、コンビニエンスストアには家族連れの米兵の姿があった。使用済み核燃料再処理工場のある青森県六ケ所村や、原子力発電所のある東通村に差し掛かると、補助金で建てられた豪華な公共施設が散見された。
「下北半島は、厳しい気象条件や痩せた大地から、かつては屈指の貧困地帯とされ、出稼ぎや娘たちの身売りの歴史もあった」。六ケ所村立郷土館長の説明だ。
戦後、国策で開拓団が入植したが、「猫の目農政」に翻弄(ほんろう)されて先細りに。その後、さらなる国策で下北半島は「原発と基地の半島」と化した。それは、放射性廃棄物の最終処分場建設に向けた文献調査地に、過疎化や財政難で苦しむ辺境の自治体の名が上がることと通底する。
58年ぶりの恐山は、猛暑がひと息つき、ススキの穂が風に揺れていた。火山の噴気は減少していたが、故人への思いを胸にした人々がいた。寺の御堂(みどう)には、未婚のまま亡くなった娘のための花嫁衣装の人形や、「生きて、成長していれば」との思いを込めて持参した衣服が置かれていた。「お山は、死者と生者をつなぐ場所」。寺の南直哉院代は、宿坊での法話や著書にこんな言葉を残している。
仏教の枠を超えて、古来祈りの場として21世紀も存在し続ける恐山の、本堂と門を結ぶ延長線上には、蓮華八葉の一座である釜臥山(かまふせやま)(878メートル)が見える。山頂にある恐山の「奥の院」の隣に、高さ35メートルの自衛隊のレーダーがそびえ立ち、監視用のカメラや人員が配置されていた。
北朝鮮の弾道ミサイル発射、ロシアのウクライナ侵攻……。お山は、きな臭さを増す世界情勢も映しながら、今も存在し続ける。【客員編集委員・萩尾信也】
https://article.auone.jp/detail/1/2/2/101_2_r_20231015_1697324512159881