現代ビジネス10/30(月) 8:03
焼き芋とドーナツ。それは女性労働者のソウルフードで彼女たちの抵抗の一部でもあった。
法政大学人間環境学部教授、湯澤規子の著書『焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史』によると、女性労働者は一方的な弱者でなく、実は「わたし」の人生を強かに拡張していたという。ではなぜ、「わたし」という主語で語る術を私たちは失ってきたのだろうか? 本書から一部抜粋して紹介する。
----------
アメリカ大陸に降り立った最初の女性たち
津田梅子が再度のアメリカ留学時代にひと夏滞在したウッズホールは、有名な海洋生物学研究所の存在によって世界の生物学者たちに知られているが、ウッズホールを知らないアメリカ人でも、大西洋に鉤型に延びたコッド岬には特別な感慨を抱く人が少なくない。
というのも、一六二〇年、いまから約四〇〇年前の一一月二一日に、長い船旅を終えてメイフラワー号が最初に錨を下したのは、このコッド岬の北端だったからである。沿岸を探索した結果、定住に適当な土地と判断できなかったため、メイフラワー号は岬にそって移動し、今日のプリマスに辿り着いた。移民してきた人びとが第一歩を踏み出したマサチューセッツ植民地は、その後、商業地域として大いに繁栄していくことになる。
アメリカ大陸に降り立った最初の女性たちは、イギリスのピューリタン、クエーカー、アイルランドのカトリック、スコットランドのプレスビテリアン(註1)などであり、移住の目的は、信教の自由と経済的機会を得ることであった。
ニューイングランドと中部の植民地では、たいてい女性は家族と一緒に移住してきた。一七世紀の末になると、もう一つ別の女性の集団が到着し始めた。それは、アフリカから労働のための奴隷として連れて来られた女性たちである。
ヨーロッパから、そしてアフリカからやって来た女性たちは、植民地時代初期、つまり一七~一八世紀にどのような暮らしをしていたのだろうか。この激動の時期に関する研究は少なくないが、女性たちに注目した研究に限ってみると、それほど多いとはいえない。
比較的よく知られているのは、この新しい植民地は、当初はジェンダーの区分に基づく男女についての明確な観念が浸透していた社会であったということである。神の前では魂は平等であると信じるプロテスタントでさえ、家庭内では女性は当然、男性に従属すべき存在であると考えていた。(註2)また、植民地時代、女性たちは正式な教育を受けることができなかった。ニューイングランドでは、少女は見習いや女中として他家へ奉公に出され、そこでの日々を通して読み書きの初歩を学ぶことがせいぜいであった。
つまり、一九世紀に津田梅子が出会ったアメリカ合衆国の新しい女性たちが誕生する以前には、おそらく「わたし」や「わたしたち」という主語を持たない女性たちが多くを占めていた時代もあったことになる。そればかりか、一七世紀の植民地時代において、「わたし」や「わたしたち」という主語で発言するような女性は疎まれ、裁かれ、コミュニティから排除されることのほうが一般的であった。
例えば入植が始まった一七世紀のニューイングランド地域では、そうした女性たちを宗教的な異端者、あるいは魔女として排除しようとする裁判が頻発した。アメリカ女性史上に刻まれ、とくに有名なのは、以下の二つの事件である。
一七世紀、新しい女性は追放され、魔女にされた
一つ目は一六三六年~一六三八年に起こったアン・ハッチンソンをめぐる裁判である。アンは一五九一年にイギリスで生まれ、聖職者で教師でもあった父親から、当時の一般的な女性たちよりもはるかに恵まれた教育を授けられた。二一歳の時に繊維商のウイリアム・ハッチンソンと結婚し、信教の自由を主張する宣教師ジョン・コットンに師事して熱心に学ぶようになる。コットンが一六三三年にアメリカへ移住した翌年、それを追うようにハッチンソン一家も現在のボストンへと移住した。夫はできたばかりの植民地で商業的な成功をおさめ、アン自身は病人の看護などを行うようになった。(註3)彼女の聡明さと親切な態度は多くの人を惹きつけたという。
ほどなくして、一五人の子どもの母親であり、かつ助産師でもあったアンは、多数の男女を家に招いて「恩寵」という教義を説く勉強会を開くようになった。当時のピューリタンの牧師たちが善行や世俗的な成功である「業」ばかりを強調することに対して、アンは業によっては稼ぐことのできない神の恩寵を強調した。その主張は、当時において世俗的な成功を決して手に入れられない女性たちにとっての希望となり、女性に「わたし」という主語を持たせる可能性を孕んでいたともいえる。
こうしたアンの言動への支持が高まると、それを家族、宗教、政治のヒエラルキーに対する脅威とみなした宗教的権威者、政治的権威者は彼女を裁き、沈黙を命じた。そしてアン・ハッチンソンはアンティノミアニズム(反立法主義)と名づけられて破門されたうえ、家族と共に、ボストンから南に下ったロードアイランドの小さな植民地に追放された。
一六四二年に夫が亡くなった後、アンは再び子どもを連れてロングアイランドの入り江近くにあるオランダ植民地(現在のニューヨーク市域)に移住した。ほどなくして、彼女はそこで、祈りの最中に先住民の襲撃によって五人の子どもたちと一緒に殺され、その生涯を閉じたのである。(註4)
アンに対して恩赦が与えられ、追放令が撤廃されたのは、それから三五〇年を経た、一九八七年のことである。アン・ハッチンソンは現在、マサチューセッツ州議会議事堂の前に、生き残った唯一の子どもスザンナと寄り添った姿で記念碑として佇んでいる。
二つ目の出来事は、アンがこの世を去ってから五〇年を経た一六九二年に、マサチューセッツ州のエセックス郡セイレム村で起こった魔女裁判である。魔女裁判の嵐は一七世紀には定期的に起こっていたが、セイレムのそれは、アメリカ最大にして最後のものだったと伝えられている。裁判の結果、拷問され、処刑された一四人の女性と六人の男性は、何らかの形で体制の秩序を脅かしていると見られていた人びとだった。例えば、兄弟や息子がいないために遺産を直接相続した女性は、男系による財産譲渡という秩序を乱したと見なされた。口うるさい老女は、自分の分をわきまえたくない意思表示をする者と解釈された。
事件は少女たちの取るに足らないような、小さな魔術から始まった。それは当時のニューイングランドの至る所で若者たちが夢中になっていた、ささやかな運命占いであった。しかし、この時に少女たちがパニック状態に陥ったことが魔女呪術の被害であるとみなされ、それが瞬く間に村中に知れ渡っていく。その結果、魔女の嫌疑がかけられた者たちが次々と逮捕され、投獄され、そして処刑されるに至った。だが、その後、少女の内の何人かが、パニックはすべて作り話だったと告白したことで、裁判は唐突に終了したのである。
これまでこの出来事は、その怪奇的で異常な部分が強調されるきらいがあった。ところが、実際には怪奇的なのではなく、「名もない、口べたな人々の退屈な日々の生活の中に根ざしている」出来事だったのだという新たな見解が、膨大な一次資料にもとづいて提示された。(註5)ポール・ボイヤーらによれば、歴史家は一六九二年という特異な年について論じることはあっても、「セイレム村の長年の歴史、あるいはそこに住んだ普通の人たち─男たち、女たち、そして子供たち─の生活を探究しようとしなかった」のだという。では、彼らの歴史と生活からは何が見えてくるのだろうか。
植民地期のアメリカでは、誰もが予定調和的な将来が約束されているわけではない日々の中で、不安に苛まれていた。少女たちもその例外ではなかった。彼女たちは将来の不安を抱えていたがゆえに、未来を占う超自然的な現象を弄んだのであった。つまりこの事件は、当時のニューイングランド地方に生きる、ごく普通の少女たちの不安や鬱屈した気持ちの発散に端を発していたのだといえる。
重要なことは、こうした少女たちの行動が叱責されることはなく、むしろ巧みに利用されて魔女裁判へと展開したことであろう。この事件の決定的要因は、周囲の大人たちの思惑にあったからである。
具体的に言えば、二つの状況がそれを説明している。第一に、商業的に成長・発展し続けていたセイレム町と、伝統的な農業に固執して斜陽の一途を辿るセイレム村との間に相克があったということ、第二に、セイレム村内部にも、商業と農業の選択と村のアイデンティティをめぐって派閥の対立が生じていたことである。そして、結果的に魔女として告発されたのは、セイレム村の商業推進派閥の人びとばかりであった。
この出来事の背景にある、セイレム村のおかれた保守的な状況と、そこに日々生きるがゆえに蓄積していく人びとの恨みや嫉妬、憂鬱などを見逃すことはできない。とりわけ女性は、こうした経済的、社会的不安定を背景とする、漠然とした不安のはけ口になることが少なくなかった。(註6)
自分の地位やアイデンティティが脅かされる、変化の激しい流動的な社会ではなおのことである。魔女として告訴された人びとは、村にとっては部外者であり、流動的な者たちばかりであった。彼女たちのライフヒストリーを丹念に追ったポール・ボイヤーらは、次のような共通点を見出したと述べている。
----------
自分たちの従来の生活様式を変更して、全てを新しく始めることになる、馴染みの薄い経済活動に従事して、社会の梯子を上へ上へと昇っていった経歴をもっていた。(註7)
----------
時代に先駆けて変化していこうとする女性たちが集中的に裁かれ、処刑されたということになる。つまり、セイレムでの出来事は、一七世紀の植民地時代に新しく建設された町や村での暮らしにおける、光と影の中に存在した女性に対する社会的圧力と、経済的緊張の帰結にほかならなかったのである。
【もっと読む】『女工の雑誌『ローウェル・オファリング』を支えた2人の「女性の書き手」…その力強い人生』
[註]
1 プロテスタントの一派。
2 サラ・M・エヴァンス著、小檜山ルイ、竹俣初美、矢口祐人訳『アメリカの女性の歴史─自由のために生まれて』明石書店、一九九七年、四六頁。
3 倉橋洋子「ホーソーンの作品にみる咎められる女性─「ハッチンソン夫人」について」『共生文化研究』創刊号、二〇一六年、八一~八九頁。
4 前掲2、六〇~六一頁。
5 ポール・ボイヤー、スティーヴン・ニッセンボーム著、山本雅訳『呪われたセイレム─魔女呪術の社会的起源』渓水社、二〇〇八年。以下、詳細は同書による。
6 前掲2、六一~六四頁。
7 前掲5、二三三頁。
湯澤 規子(法政大学人間環境学部教授)
https://news.yahoo.co.jp/articles/7764e74bccc48bcda7197a3f979122a369f5d9c8