子どもの頃から、ガラスの食器というより、ぎやまんの器といわれた方が、馴染みがありました。
父や母が、そう呼んでいたからです。
詳しいことは知りませんが、その違いはきっと、さほどのものではないのだと思います。
秩父を離れて気づいたのは、ガラスの食器は、だれにとってもガラスの食器だと言うことです。
なかには、カットの方法で「切り子」などと、言われるガラス食器もありますが・・・。
そのうち、「ぎやまん」などという言葉は、忘れかけていきました。
でもときに、うつくしいガラスの器を見つけたりすると、ふいに、あの子どもの頃の、「ぎやまん」と言う、なんとも幻想的な響きが脳裏をかすめます。
そんなとき、もうひとつ思い出すのが「おてしょう」という言葉です。
おてしょうというのは、いわゆる、小皿、お取り皿のことです。
結婚したばかりの頃、牛込の夫の両親の家に遊びにいって、義母がお夕食のしたくをしてくれていました。
そばで私が、「そろそろ、おてしょうを並べておきますか?」
義母にそう尋ねました。
すると東京生まれの義母は、くすりと笑い、
「おてしょうなんて、久しぶりに聞いたわ」と。
私の母は、いつもそうした小皿のことを、おてしょうと、呼んでいました。
母の里は商家でした。そしてその血筋は、近江の商人につながるそうです。
そのあたりから、流れてきている言葉なのかもしれません。
久しぶりに、ふとした言葉から、父や母を思い出した夏の日です。