20階の窓辺から

児童文学作家 加藤純子のblog
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長寿サポート支援

2024年09月21日 | Weblog
             

マンションで、今日は午後から「長寿サポート支援」について、理学療法士5名の方と、社会福祉士と保健師の方2名。
たくさんの方々がいらして、講義や、実践などについて、お話くださるそうです。

一応申し込んでおきましょうかと、夫と二人分を申し込みました。
「動きやすい服装と靴。飲み物持参、と明記されています)
お知り合いの方々も、数人、ばったりお会いした時「参加されるでしょ?」と確認しあい・・・(笑)。

認知症についてのお話などがあるようです。

今日は、日本橋高島屋でランチをして、早めに帰ってきて、集会ホールに行きます。
でも、マンションも、ご高齢の方が多くなってきたので、こうした企画が催されることになったのでしょう。

健康オタクなので、食事や運動や、それなりのことはわかっているつもりですが、一応・・・。

老後の計画も、まだ先の話なので、自分たちの思考の範囲ではありますが、緻密に立てています。
老後になったら、子どもたちのお世話になろうなどと考えている友人は、今時、ほとんどいません。

かかりつけのクリニックの看護師さんに、マンションの介護サポート講演会の話をしたら、
「カトーさんご夫妻は、まだまだ先だと思いますが、一度しっかりと、流れを勉強しておくのは大事ですね。私も聞きに行きたい」
なんて、笑っていました。

「この年齢になっても、二人ともずっと自立して、仕事をし続けて頑張っているんだから、すごいよ」
と、先日も、チャットをくれた子どもに言われました。

子ども達が、立て続けに結婚したばかりのときは、すごく不安がありました。
なにが不安だったかというと、パソコン関係のことです。
仕事と直結しているので、余計、不安でした。

その昔、夫はアメリカへ駐在していた40代の中頃からWindowsのパソコンを使っていました。でもやはり年中、躓いては、アメリカで、専門家に電話して相談していたようです。
1990年代ですから、最先端の部類だったでしょう。

私が、ワープロから、パソコンに移行したのは、子どもたちが結婚する数年前です。

大学生だった頃、息子は、発売されたばかりのMacを使っていました。(下)
 
          

しばらくして、「Macにしたら僕が教えられる」というので、家族全員、夫は会社のWindowsとは別にプライベートはMac。
娘も私もMacのパソコンを買いました。


            

(写真上が、最初に買ったMac。可愛かった)
当時は、躓いては、子どもたちに教わっていました。
パソコンの操作は、本当に大変でした。
その二人が、2年立て続けに結婚していなくなってしまいました。
パソコンの先生が、二人とも、いなくなってしまったのです。

人生の中で、最も喪失感に襲われた時期でした。体重は2〜3キロ減り、毎朝、意味もなく鼻血がでて・・・耳鼻科では異常なし。

当時、作家の浜野卓也さんがお亡くなりになって、そのご葬儀に参列した後、作家の友人たちと、式場のそばにある目黒の天恩山五百羅漢寺で、五百羅漢像を見てこようとみんなで行ったとき、みんなに「痩せた、痩せた」と言われたことを、今でも覚えています。

そうした先生(子どもたち)のいない生活に慣れるのに、半年くらいはかかりました。
パソコンもメールとワードしか使いませんでした。そうすれば、ワープロと一緒です。

ところが調べているうちに、子どもに聞かなくても、方法はあるとわかりました。
銀座のアップルにディスクトップの、写真上の、コロンとした形の私のパソコンを持ち込み、教えてもらう。スケルトンのエレベーターで行った2階にある「Genius Bar」というところで、予約順に相談に乗ってくれました。
その間に、何度か新しいパソコンに買い替えましたが、銀座・アップルが、引き受けていろいろやってくれます。

ここ数年は、電話でパソコンの画面共有をしながら、細かく、場合によっては、2時間近く相談に乗ってくれるので、助かります。

家庭を持って、生活者の視点を持ち始めた頃。
当時、糸井重里が作った、西武デパートのキャッチコピー「おいしい生活」。
あのコピーは、それまでの暮らしの概念を、リノベートしてくれました。

社会学者の上野千鶴子は、このキャッチコピーが世に出た当時、「差別化の上下を問わないヨコナラビの基準が、これほどみごとに表現されたものはない」と語りました。
また、大塚英志は、「消費行動において上下間の差異の根拠を単なる記号上の差異に置換することで、「階級」そのものを消滅させる目論見を見出した」と言いました。

そうした言葉は学園紛争の中で青春を過ごした私たち団塊の世代にとって、問題意識を両手に掴めないくらい持っていた頭をクリアにしてくれました。
生活者になって、立ち止まって思考した、新しい生き方の象徴のように思えました。

誰もが横並び。
格差もない、あの糸井重里の「おいしい生活」というコピーで私たちは、暮らしも、消費生活も、これまでの生活から新しくなっていく予感にワクワクしたものです。

そうした価値観で親になっていった、私と同世代の友人たちは、誰もが、勝手に、子ども達の生活に土足で踏み込むようなことをする人はいません。
結婚した子どもたちの暮らしを、何より尊重しています。

個と個のつながりです。

ただ、頼られた時は、じいじ、ばあばになって奮闘しましたが。
孫たちが大きくなれば、それもなくなります。

この春。パソコンを何台めかに新調したときは、息子が、授業が休校で、リモート会議だけの日に、わざわざお昼頃に来てくれて、全てやってくれましたが・・・。

アップルなどに相談してできるものは、全て自分たちで解決してきました。夫はMacノートにした時、二度くらい買い替え、自力でやっていました。

やれば、できるものです。

でもそういうふうに、これまでずっと自立して頑張り続けて生きてきた親の姿を、改めて「すごいよ」なんて言われると、頑張ってきた甲斐があるというものです(笑)。
背筋が伸びます。

今は、そういう方が多いです。自分の人生には、最期まで、自分で責任を持つ。
そのためにも、こうした学びが必要なのでしょう。

施設に入るというのが、一番、楽な方法なのかもしれません。
でも日々の暮らしまで、ある意味、システム化されるのは嫌だなと思います。

「もし、一人、残されて、もう、いよいよダメだと思った時は、高齢者緊急連絡用ALSOKに入って、それを首に下げていて、そのボタンを押すよ」と、夫が。
そうすると、ALSOKから、救急車や、登録しておいた子どものスマホや、担当のヘルパーさんに連絡が行くそうです。
私も、そうします。

でも、結局、こんなことをぐだぐだ書いても・・・。

「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」
それが人生というものです。

ですから、その時、オタオタしないように、体を鍛えたり、準備をしたり、全ては、単なるトレーニングだと思えばいいことです。
コメント
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