庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

フロントループ

2010-12-01 20:11:00 | 海と風
いつもの堀江は5??6mの暖かい北風でした。岸寄りには動きの柔らかいY君、最近めざましく上達しているS君が若干アンダー気味で走っています。沖合いにはF君がいつもの彼のスタイルで黙々と・・・^^。IMGP0075s80kb.jpg

今日の私はなんだか体が軽く、何か新しいことをやってみたい気分です。そこで、こないだからイメージトレーニングを楽しんでいたフロントループを試みてみることにしました。

私は陸上での前方宙返りはできます(できました^^;)が、バク宙はできません。カイトの技に(人の)バックロールとかバックループというのがあり、これはちょくちょく練習しているのですが、想定どおりに降りれる確率は今のところ20%程度。バックができてフロントができない訳はないだろう・・・とずっと考えながら、いざとなると腰が引けてしまうのは、ウィンド時代の前方宙返りでマストに激突した時のトラウマが残っているためでしょう。IMGP0076s80kb.jpg

しかし、今日はちょっと何かが違う^^。順潮の海面はギザギザで、そう飛びやすいコンディションではなかったのですが、それでも10回以上の前まわり初挑戦は思ったより順調にことが運び、おおよそのコツをつかむことができたと同時に、これはバックより楽な動作かもしれない・・・などと思ったりしました。

カイトの面白さの一つは、ジャンプすると「一点支持」になるということで、どんなものでも一点でぶら下がると、たいがいは回転しようとします。私の場合、不用意にハイジャンプするとまず半回転か一回転してしまう。ジャンプの際に、板を頭上に振り上げたり片手を離したりするのは、まずは格好のためではなく、空中でバランスを取りながら、このうっとうしい回転を止めたいからです。

初めてのフロントループを繰り返しながら、「どうでも回りたいものは回せばいいのだ」・・・と完全に開き直ることができたのは、今日の最大の収穫と言えるでしょう。次の課題は、簡単に発生する「回り過ぎ」をどうコントロールするか・・・ですが、これは100回ほどの練習でなんとかなりそうな気分です。

101201h.JPG


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年の瀬

2010-12-01 12:26:00 | 自然
今日から12月です。朝の室温もだんだん下がってきました。私の定義では、机上の温度計が10度を切ると冬が来たということになり、ストーブかコタツの出番になります。

コタツというと、こないだリビングにダイニング・コタツというのを入れたら、これがすこぶる快適なので、不要になった食卓に不要になった昔のコタツのヒーターを取り付けて、事務所の机も事務用コタツに改造してしまいました。

もちろん格段に快適になったのは言うまでもありません。しかし、我が日本の誇るべきコタツ文化の効用の一つは、座ったら動きたくなくなり、そのうち眠たくなる・・・ということです。「お尻に根が生える」と言いますが、まったく椅子に根が生えたように動けなくなってしまいました^^;・・・まあこれで、腰を据えてデスクワークに取り組めるのなら、大いに善しとしましょう。

さて、年末になるといつも想うのは一年間の出来事。今年は近年になく大きな年になったのかもしれません。楽しいことや悲しいこと・・・いろんなことがあったけれども、ともかく充実していました。 

人間の世界では、時間の進む速さは年齢とともに加速すると言いますが、長いこと自然やその中で生きる生き物たちと付き合っていると、「時間の相対性」をある程度明確に感じるようになります。木々には木々の、鳥には鳥の、犬猫には彼ら独自の時間が流れている。

人の寿命を100年とすると、たとえば、1000年生きる大木は人間の10倍ゆっくりと、10年が寿命の動物はおよそ10倍速く進む時間の中で生きている。多くの鳥たちの寿命は10年に満たないと言われていますから、彼らは1日で私たちの10日分以上の経験を積んでいるということになります。

生きる速度の相対化は、必然的に生物の世界における人間存在自体の相対化、つまり、「人間も、一生物種として特別な存在などではない」・・・という世界観を導くことにもなるでしょう。こういう見方は、仏典に「一切衆生・悉有仏性(しつうぶっしょう」などともあるように、特に東洋では太古から存在する生きた世界観・宇宙観でした。 

日本において、人間が他の生き物たちと分離され特別扱いされ始めたのは、主に近代以降、西欧のキリスト教文明が支配的になってからだと思います。彼(か)の教えでは、神と人間、人間と他の生物は峻別され、峻別されるがゆえに支配・被支配の関係が許されることになるのでしょう。

これ以上書くと、文明論・国家論などという大きな話になりそうなので、今日はこの辺でおしまい・・・これも快適な事務用コタツのなせる技です^^。
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