昨日はずいぶん久方ぶりに愛用の軽バンで高速道路を走った。私はもともと高速道路という「道」が好きな方ではない。確かに目的地まで速く移動できて便利なものだ。一般道路でゆうに六時間以上かかっていた行程が三時間足らずで充分だった。つまり効率的ということだろう。しかし、「効率的」とは何だ・・・などと、まためんどくさいことを考え始める。
戦後(だけではない)、日本の経済復興に一役買ってきた電力事業だけでなく、きわめて広範な産業・経済分野、ついには教育分野でさえも、この「効率」という言葉は当然の了解事項として広く使われてきた。いわく、「如何にして生産効率を上げるか」「如何にして何々を効率よく学習するか」・・・等々。
しかし、先の東北大地震に伴う原発事故を契機《けいき》に、この「効率なんとか」の「功」の面だけでなく「罪」の面を問い直し始める人々も確実に増加しているように見える。
手元の辞書には「効率的」を以下の二義で定義してある。つまり・・・1:機械によってなされた仕事の量と、消費された力との比がうまく調和しているさま。2:一般的に、使った労力に対して、得られた結果の方が大きいさま。能率的。効果的。
1は、まずその通りだろう。機械類は常に物理法則に従う。エネルギー保存の法則から、入力と出力の均衡を取ろうとするのは当然のことだ。だが、2についてはどうか。一応「一般的に」と留保をつけてあるから理解はできる。これを数式化すると「効率=成果÷労力」となり、その値が大きいほど効率的ということになる。
しかし、人間にとって「使った労力」や「得られた結果」を、一般的に語ることにどれ程の意味があるのか・・・。私の片道六時間の運転労力で得る結果は、もちろん腰の痛みや疲れのマイナス面もあるが、それを差し引いても、三時間の単調な高速移動で得られる結果を何倍かしてもずっと大きいものになるだろう。
道中ゆっくりと移り変わる風景や、一休みで味わう山間《やまあい》の澄んだ空気や小川のせせらぎ、過ぎ行く夏を惜しむように森をゆらすセミしぐれなどは数量化することができない種類のものである。
「より強く、より高く、より速く」・・・一昔前のオリンピックの標語だ。そして、この標語は、西欧列強の外圧によって近代化を急いだ明治日本の基本姿勢だったし、敗戦後、経済復興を急いだ昭和日本の基本姿勢でもあった。国家のレベルで言えば他国に負けず、企業のレベルで言えば他社に勝ち、個人にすれば他人との競争に勝つこと。つまりは競争原理の全面的肯定と採用ということになる。
しばらく前に、大阪の海運会社に勤める四十代の従弟《いとこ》と会ったら、「どんなに働いても、いつも何かに追いかけられるように気が急《せ》いていて休まらない・・・」という話が出てきた。この感慨は彼だけのものではない。現代物質文明を享受する世界中の大多数の人々が、心のどこかに宿す共通した「不快感」だろうし、一種の「病理」と言ってもいいかもしれない。
その原因は、多くの先人によって明らかにされている通りである。そして当面、その原因を無にすることはできないにしても、少なくとも自覚することによって、その結果の現れ方は大きく異なってくる・・・と思ったりもするのである。