先日からカトちゃんが半年以上ぶりに練習を再開した。ほとんど何の労もなく「つづき」が始まった。やはり、身体で覚えたことは間単には忘れない。体験の蓄積は知識の蓄積よりもはるかに残りやすいというのは確かな事実だ。
それはどうしてか?・・・またまためんどくさそうなことを考えるのであるが、これはもう私の抜くことあたわざる性癖なので仕方がないことだし、これはこれでけっこう楽しい、というのも事実である。
「考える」ということは、その方法が理にかなっている(合理的である)限り、頭の中をスッキリさせて健康にもかなり良いらしい。しかも、ある現象の奥に潜んでいる「原理」や「仕組み」をつかんでおくと、当然、類似の現象への応用や対応が楽になるので、この種のめんどくささと付き合うことの「利点」もちゃんとあるのである。
私の考え方の基本は、一見、当たり前とされるモノゴトも、なんとなく複雑に見えるモノゴトも、常識も非常識も、できるだけ単純で明快なかたちにして理解することを出発点とする。それには、当面する難しい言葉を、使い慣れた身近な言葉に言い換える(末キる)ことが役に立つ場合が多い。
「理解」は、たぶん明六社の誰かが作り出した訳語で、分かりやすく言えば、まさに「分かる」ということだ。「分かる」はもちろん「分ける」と根を同じくしている。或るモノやコトを別のそれらと分別してとらえる・・・ということで、これは、少なくとも日本人の歴史が始まったときからずっと続いている当たり前の行為だろうと思う。
私は、この程度の日本語とわずかな外国語しか知らないが、「分かる・理解する」の英語は、仏語と同根のラテン語からの"comprehend = compre + hend"で「完全に+つかみ取る」というのと、もっと一般的なのは、古英語からの"understand = under + stand"で 「下に+立つ」ということらしい。
これに従い、日本語で「私はあなたの考えがよく分る」を英語にすると、「I undestand (comprehend) what you mean very well」・・・とかになるのだが、ラテン的英語では「私はあなたの考えを完全に掌握している」、古英語的には「私はあなたの考えの下に立つ・・・つまり従うか、底支えする」などという意味を暗に含んでいるわけで、「理に解する」や「分別する」よりも、かなり主語(私)に勢いがあるように感じたりする。こんなところでも、「言葉というのはまったく面白いなぁ・・・」などと私は思ってしまうのである。
今回は、「忘れたくないことは身体で覚えるべきだ」ということを、「体験と認識」の問題に関連付けながら、少し理論的に説明してみたかったのだが、またしても完全に脱線してしまった。またの機会にする。