(株)カプロラクタム-blog

果たしてココは何処なのだろうか・・・
否!ココは(株)カプロラクタム代表取締役兼社員αのweblogである!

ボランティア

2008年07月30日 | 私見
去年までいた特別支援学校へ、ボランティアに行ってきました。

去年まではボラさん達を指導する立場でしたが、今年は逆の立場となりました。2年間持たせてもらった学年に入ったので、普通に職員の一人として尽力させて頂きました(笑)
4ヶ月経って、成長しているなぁと思うこともあれば、できていたはずのことができなくなったりもしていました。4年生になるに当たって学年の先生がほとんど変わり、最初は環境に慣れるのに時間がかかったでしょうし、支援の方法が変わって戸惑ったことも多くあったでしょう。あのままもう一年持っていたら・・・と思わないわけではありません。しかし、こうした新しい環境や、新しい人との関わり方を学んでいくのもやはり大切な学習なのです。行きつ戻りつを繰り返しながら成長していくこの子達の、将来に必要な力をしっかりと引き出し伸ばしていってくれればと思いました。

ボランティアは大きく3パターンあって、僕のように過去に教えていた人と、自分自身の経験として役立てようとしている人と、学校から「職場体験して来い」と言われて来ている人が集っています。つまり、同じボランティアでも意欲や能力に大きな差があるわけですね。この日一緒に入った中学生のボラさんは、途中で飽きたのか、後半は周りそっちのけで一人で遊んでいました。それじゃこの子達と変わらないぞ・・・
子ども達にとっては、知らない人と関わることは大きなストレスとなります。もちろんボラさん達に子どもの特性を伝えたり、ちゃんと支援できるか見届けたりしないといけないので、先生にとっても大きな負担です。調整も大仕事ですしね。つまりこの場合、ボランティアに来てもらっても実は余り“助け”にはならないのです。まあ、それぞれの立場で子ども達と関わり、得るものがあれば良しといった感じでしょうか。ボランティアを育成することは、今日この日は戦力にならなくても、将来大きな力になってくれる場合もありますからね。

ぜひまた機会があったら行きたい所です。

障がい

2008年02月19日 | 私見
県内で「障害」という言葉が書き換えられることになるそうです。

「電波障害」「障害物走」等はそのままで、「障害者」「発達障害」等が「障がい者」「発達障がい」と表記されるそうです。理由は、やはり「害」という言葉のもつ“悪い”というイメージのようです。現状では、確かに後者の表記も増えてきていますけど、統一とまではいっていないという感じでした。あとは「障礙」「障碍」なんて表記もたまに見かけましたが、こちらは慣用的な字ではないため、「障がい」で統一されることになったみたいです。精神分裂病が統合失調症に変わったような大きな変化ではありませんが、文章を打つ際に「障がい」とは一発で出てきませんから、一個人として趣旨には賛同できますが、少々手間ですね。

自分は論文上、一切「障害」という文字を使わず、「器質的な制限」「特性」という言葉を用いました。「知的障害」や「自閉症」「ダウン症」などと言うと、どうもイメージが先行してしまう気がしたからです。少なくとも、2人自閉症の子がいたら、興味関心も苦手な物も、何もかも違います。例えば、ある子は水が大好きで水道でずっと遊びますが、ある子は手に触れるのも嫌がります。「自閉症だから水が好き」と言うことは絶対にありません。もっと細かい視点で分析していかないと、その子が何に困っているか見えて来ないのです。感覚が過敏なのか、鈍いのか、不快なのか、見えていないのか、鍛錬しようとしているのか、過去に嫌な思い出があったのか、たまたま気分が乗らないのか、はたまた全部なのか・・・それは「障害」ではなく、利き手や利き足みたいに誰もがもっている感覚の違い、すなわち「特性」と言えるのではないでしょうか。

ちなみに、アメリカでは障がい者を「Challenged」つまり「挑戦者」と表記しているそうです。もはや「特性」ですらなく、「特長」として捉えているわけですね。言葉のもつイメージとは不思議なものです。

不易と流行

2008年01月25日 | 私見
文科省指定と岐阜市指定の研究発表会に行ってきました。

ICTを活用した授業と言うことで、「一時間の中で鉛筆を一度も持たない授業」というような妄想を描きながら参観しましたが、読み、書き、計算という“不易”の部分はしっかりと残し、地域の方を講師として大量に招くというアナログネットワークもしっかり張り巡らせた上で、“流行”の最先端である情報機器もちゃっかり全教室で使っている、と言った感じの発表でした。つまり、教科書も、お年よりも、パソコンも、子ども達にとっては等しい“学びの道具”であるわけです。授業の序盤、中盤はしっかりと黒板やノート、お年寄りと学習し、終盤にはドリルをやったり、図書室やパソコン室に各自で行って、自由に発展問題に取り組んだりしいました。「子どもが主体的に学ぶ」などという題目が並べられる研究は多いですが、この学校は見事にやり遂げていました。
午後の講演を聴き、面白いと思った事をピックアップします。かなり私見も混ざっていますが(笑)

①若い先生はパソコンに触れるな。年配の先生こそパソコンを使え。
・・・若い先生は引出しができていない。パソコンを与えると、暴走する。まずは子どもとじっくり付き合うことが必要だ。逆に年配の先生は、たくさんある引出しをパソコンを使って整理することが必要だ。そうすることで、学校全体の教育力の底上げとなる。
②時間と給料は有効に使う。
・・・フリー(校長、教頭、養教など)は、休み時間に子どもを見る。担任は、授業中に子どもを見る。休み時間は職員室でコーヒーを飲んで校庭を眺めていれば良い。担任が子どもを見ている間、フリーで必要な取り決め等、会議をしておく。すると放課後に会議がなくなる。担任は分掌事務がなくなり、教材研究等、子どもにじっくり付き合えるようになる。
③同じ事を2度3度しない。
・・・担任は、毎日出席表をつけて、毎月出席簿に転記して、毎学期通知票に出欠状況を転記して、毎年指導要録に1年間の総計を載せる。こんな無駄なことはない。毎日、担任が出席要をつけたら、全てが自動的に記載できるようシステムに改善するだけの話。個人情報の管理や、成績等も一緒。日々の記録を積み重ねればそれで終わるようにする。空いた時間を、子どもと付き合う時間にできる。
④お金は搾っても出ない。搾るのは知恵だけ。
・・・会議がペーパーレスとなり、全員が職員室で仕事をすれば、紙代や暖房費で年間10万円が浮く。そのお金でプロジェクタが買える。実物投影機は高いが、古くなったビデオカメラを下方向に固定すれば十分代用できる。教室用簡易スクリーンもシーツで簡単に作れる。教科書を映せば、チョークも拡大プリンタも必要ない。またお金が浮く。全てが子どものために使える。
⑤公務の情報化が進むと、教師は忙しくなる。
・・・教師の仕事は、学習、生活の指導等、子どもに付き合う仕事と、様々な書類書きがある。情報化によって書類書きが少なくなると、子どもに付き合う時間が増える。充実感が増し、逆によりがんばろうとする。忙しいが、疲れない。何故なら、「教師の魂は子どもに向いている」からだ。

と、さすが文科省指定。ここまで独自性を打ち出した発表は初めて見ました。講演によると、岐阜のパソコン整備率はトップクラス(市内は100%)ですが、活用率は中位に位置しているそうです。これほどまで“不易”と“流行”を使い分け、ICT構造改革を進めたこの学校でも、色々な意味でまだ情報機器を要所要所で完璧に使いこなしているわけではなかったので、その辺が課題と言えるだろうと思います。

明日は、市の教育政策をレビューします。(多分)

就労への道

2007年07月23日 | 私見
障害者の企業への就労を支援 厚労省が専門資格創設へ
年に1度、全職員で職場開拓をしています。

一時期に比べれば、障害者を雇っている企業もずいぶん増えました。とりあえず門を叩くと、受け入れの是非はともかくとして、話を前向きに聞いてくれるありがたい企業もとても多いです。今や、障害者を受け入れることは、お荷物などではなく、企業のステイタスのように感じてもらえるようになってきました。
しかし、まだまだ「働きたい」と思う生徒の数に対し、受け入れ先が十分であるとは言えません。障害者雇用促進法では、民間企業に対し1.8%に相当する人数の障害者雇用を義務づけていますが、達成できているのは大企業ばかりで、中小企業が極端に少ないのです。これは、1.8%を下回ると、1人につき60万円(年間)の罰金が科せられますが、300人以下の規模の企業は追徴されないことと、大企業のように「特例子会社」を作って一気に雇用を・・というわけにいかないことが原因として挙げられます。

しかし、この法律は単なる罰則を与えるだけでなく、1.8%より多く雇用した場合、企業規模に関わらず補助金が出ることも書かれています。また、いきなり障害者がポンと飛び込んでいるわけではなく、障害者が職場に馴染めるよう、ジョブコーチがついて支援を行なうと同時に、障害者の職場適応に必要な助言を受けられる制度もあります。「どんな人が来るか分からないから」と言った声も聞きますが、普通に入社してきた人だって、どんな人かは開けてみないと分からないですよね。もちろん、作業に何らかの制限はあるかもしれませんが、本人の性格ややる気は、別に誰とも違わないのです。
学校では「特別支援教育」がスタートし、「障害者が学べる環境は、みんなにとって良い環境」であることが、徐々に理解されつつあります。僕自身、企業でもまず“障害者在りき”で良いので、雇ってみてから様々な面を検討していくと、おそらく同じような結論に至るのではないかなと思っています。「彼にとって働きやすい環境は、みんなにとって効率のよい環境」であると。障害を有して産まれてきた子どもを、育てていく親の気持ちになって、是非一度、「受け入れ」てみませんか?

・・・あと、この話で開拓された人は、alphaのノルマも救えます(笑)

数学は役に立つか

2006年11月13日 | 私見
中学校で良く問われる命題であります。果たして、算数・数学は世の中に役に立っているのでしょうか。私見を述べさせてもらいます。

結論を言うと、「人間は数学なしに生きていけない」ぐらい、ひょっとすると、どの学問より役に立っていると言えるのです。しかし、大学時代の自分はせいぜい「1次方程式や2次関数が社会でどう使われているか」を探すぐらいで、その本意には全く気づいていませんでした。それが最近、養護学校で使われている算数の教科書をじっくり読む機会があり、初めて「算数ってコレほどまで深い世界だったのか」ということを思い知らされました。

例えばミカンが5個あったとします。これは、まず周りの背景(地)からミカンだけを図として取り出し、そのモノを注視せねばなりません。さらに、このモノはミカンという名称であり、隠されてもその存在が消えることはないということが分からなければなりません。その上で、ここにあるミカンが全て同じミカンという集合に分類できることを確認し、その色や形、匂いなど余分な要素を無意識に排除して、初めて数えることができるわけです。しかもその前には当然1から5まで数唱できなければいけないですし、その数字とミカンの個数を一対一対応できて、ようやく「ミカンが5個ある」という認識に至るのです。
突き詰めて言えば、我々はスーパーなどに並んでいるみかんを5個見ただけで、これほどまで多くの数学的思考を張り巡らせているわけですね。「モノを数える」ことは、今時三歳児でもできると思いますが、オギャアと生まれてからそこに至るまで、それこそ矢のようなスピードで数学的思考が発達しているわけです。

しかし、うちの学校のように知的な障害を有する場合は、当然ミカンの個数が数えられる子は一握りです。ここで、「ミカンは5個です」という“言葉”を教えても、(言えるようにはなるかもしれませんが)何の意味もありません。これが分からないと言うことは、上に書いた部分のどこかにつまづきがあるわけです。例えば“注視”ができないのなら、なるべく目の前において徐々に離していったり、「いないいないばぁ遊び」をしたりするなど“注視”の学習を積まなければなりません。そう。いないいないばぁは算数の勉強なのです!しかも、同時に「ものの連続性(隠れたからと言ってそのものの存在がなくなるわけではないこと)」も学ぶことができる、すばらしい教材なのですよ!
・・・ちょっと大げさに書きましたが、こうして見ると、数学が人間の根本にどう関わっているかが分かって大変面白いですね。そうは思いませんか?思いませんか。そうですか。

以上、高校の友人から「エルミート行列の直交化についてなんだけど」というメールをもらい、動揺しているα先生でした。

コスト

2006年10月31日 | 私見
よく「養護学校は普通の学校より10倍コストがかかっている」と言われます。それはどういうことなのでしょうか。

学校には定数法と言って、1教室に入る児童生徒の最大数が決まっています。例えば小中学校であれば40名。給料20万の先生が教えると、1人辺り1ヶ月で5000円。1日辺りだとたった167円です。我々は、それだけのコストで毎日授業をしたり宿題や日記を見たりテストを採点したり指導したりしているわけです。
それに対して養護学校は、1人の教員につき最大4人までとなっています。5人になると2人先生がつくため4人で考えると、1人1ヶ月5万円。(1日1667円)・・・そう、本当に10倍かかっているのですね。
他にも、現時点ではまだ小中学校にはクーラーは入っていませんが、養護学校では冷暖房の維持に年間億単位のお金がかかっていますし、毎日乗っているスクールバスの維持費もバカにならないでしょう。とにかく養護学校はお金がかかるのです。唯一小中よりかかっていないのは教科書代ぐらいでしょうか。(9年間で20冊ぐらい?)

しかし、時代は特別支援教育。岐阜では今後5年間で新たに8校(未確認)の養護学校を新設させる計画にあるのです。確かに県下の養護学校は既に飽和状態で、うちも特別教室を無理やり潰して教室にしているぐらいです。全体としては少子化のはずなのに、障害を有する子ども達は年々どんどん増えてきています。1対1の支援が必要だとして養護学校に来ていても定員オーバーをしていては本末転倒ですから、やはり養護学校の増設、教員の加配は特別支援教育に必要不可欠な対策であるといえるでしょう。

だからドコゾから17億回して欲しいなぁと。

大泣き

2006年09月19日 | 私見
給食の前、子どもが久しぶりに大号泣していました。

その子はお腹がすくとたまに泣くので、今回もそれかなと最初は気にしていませんでした。確かに、たまたま今日は配膳が10分ほど遅れていて合掌までに時間がかかっていました。しかし、今回は合掌後「もう食べられるよ」と勧めても余り食べずに、また大泣きが始まっていました。
次に気にするのは、熱があるか、どこか痛いのか、です。おでこに手を当て、念のため熱を測りましたが平熱。また、「どこが痛いの?」と聞いて応えてくれればそもそも養護学校に来ていません。歯やらお腹やら各部所を触って反応を見てみてもはっきりとは分かりませんでした。
しばらく様子を見ていると、そのうち食卓から離れ、手近なガムテープをはがして指に巻き始めました。改めて見ると親指の皮がちょっとだけ捲れていたので、「保健室に行こうか」と誘いバンソコウを貼ってもらいました。その場はそれで納得したようで、肝心のバンソコウは保健室を出るなりすぐに取ってしまいましたけど、その後は落ち着いていました。

赤ちゃんもよく泣くことでお腹がすいた、ウンチが出たなどということを伝えようとしますが、何か要求を伝えたい時にその表現方法が1つしかないと、受け手は非常に大変なのだなと言うことを改めて感じました。お母さん方は赤ちゃんの泣き方1つでその要求を正確につかめると言いますが、これは赤ちゃん側に泣き方を変えるというスキルが身についたからだとも言えると思います。もちろん親もより正確に要求を理解しようとする一心から、時間帯であったり今までの経験であったり、様々な情報を総合的に判断して応えようとしているわけですから、お互いコミュニケーションが取れていることは間違いありません。大切なのは「理解しようと思うこと」なのです。
今回の場合も、本当に指が痛かったから泣いていたのかと言うと、必ずしもそうではなかったと思っています。我々でもたまにあるように、昔あった嫌なことがふっと思い出されて泣いている場合だってあるのです。そこまでくると本当に想像するしかありませんが、「何故泣いているのかな」という気持ちをこちらが目いっぱいぶつけることで見えてくることもありますし、逆の立場でも、相手に何とか分かってもらおうとする気持ちが湧いてくるものなのだと思います。言葉に頼りがちな現代で、言葉にできない思いをもつ子ども達の“心の言葉”に目を向けられる教師になりたいものです。

何か、今すぐにでも子育てできそうだよなぁ・・・そのまえに畑を耕さないといけませんがね(爆

五感

2006年08月23日 | 私見
「五感を全て挙げよ」と聞かれて、言えない人はいないでしょう。

言うまでもなく「視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚」ですね。中には「第六感もある」なんて言っている人もいるでしょう。
しかし、発達障害を捉える上での五感というものは、少し違います。

すなわち、「前庭覚、固有覚、視覚、聴覚、触覚」です。

味覚障害なんて言葉もありますが、この人は普通の人生を送る上で多少の愉しみの欠如はあっても、困って仕方がないとまではいきません。臭いも同様です。しかし、目が見えなければ直で生活が困難になってしまいます。こちらの五感は、人間が生活する上で欠かす事のできない感覚であると言えるでしょう。

さて、後ろの3つは共通ですが、前庭覚、固有覚という言葉は初めて聞かれた方も多いのではないでしょうか。簡単に説明すると、前庭覚とは「重力の感覚、平衡感覚」で、固有覚とは「筋肉の弛緩や関節の感覚」を表しています。
日常生活において、重力があることはある意味当たり前です。受精卵の時代から、細胞分裂を繰り返すうちに重力によってハート型になり、そのまま「背中、お腹」が決定されるのですから、それがある故に人間は地球上で発展できたと言えるわけです。しかし、中にはあたかも別の星から移住をしてきたかのように、この星の重力を受け入れられない人がいるのです。難しく書きましたが、イスを後ろにギーコギーコしている子は、こうした重力の刺激を正常に処理できずにより強い間隔を求めているのですし、某マンガの“L”や“魔人ブウの第二形態”など、ヘンな座り方をしたり常に首を傾けていたりする人も、ある体勢を取らないと思考力が衰えたり、砂時計が落ちるのをじっと待つことが苦手だったりするなど、この「前庭覚」が未発達な状態にあると言えるのです。

固有覚についても説明すると、例えば目を閉じた状態で本一冊持ってもらい、次に本5冊持ってもらいます。目を閉じていても、「後からの方が重かった」と確実に分かるのですが、「では、なぜ“重い”と分かったのですか」と聞かれると応えようがありません。実はこれが「固有覚」で、重いものを持ったことによって筋肉の張力の違いが理解できたから、重さが分かったわけなのです。5冊だと流石にアレですが例えば腕立て伏せを10回やった後、同じように2冊ぐらいで重さ比べをしてみると意外に分からないものです。フリーザを倒し、強くなりすぎた悟空が軽く叩いたつもりでチチを吹っ飛ばした状態であると言えば分かりやすいでしょうか。
その「固有覚」の働きが鈍いために、コップに飲み物を入れすぎたり、定規でまっすぐな線を引いたり「3cm5mm」を正確に測ったりするのが困難な子が出てきます。大人になるともっと深刻で、急ハンドル急ブレーキなど、車の運転が荒い人、身近にいませんか?

このように、「前庭覚」「固有覚」とは、LDやADHDの子に密接な関係ある“見えない感覚”なのです。ある意味「第六感」のようなものなのかもしれませんが、この2つを含む「五感」を鍛えることとは、ボディーイメージ、すなわち「自分の体」をコントロールすることであり、感じたことを脳で適切に処理し、行動に移すと言う人間の根本的なサイクルを作っていくことになるのです。
「字が下手だ」というのは、極端な話そのままでは何100回練習してもうまくなりません。それよりも、ブランコや自転車に乗って平衡感覚を養い、木登りやジャングルジム遊びなどで筋肉の力配分を学習し、しっかりと感覚を鍛えてから臨んだ方が実は近道だったりするのです。α式感覚統合法で、来年度から始まる特別支援教育を乗り切っていきましょう。

と言うような話を今週末に大学でしてきます。そんなわけで練習がてら文章にしてみましたが、どうもまとまりが弱いような。上手く話せるかなぁ・・・

左利き

2006年08月12日 | 私見
左利きの大卒男性、右利きよりも高給取り=米調査
自分は右利きですが、少々思う所がありましたので。

端的に言いたいことをまとめると、左利きは「障害」でないということです。当たり前です。第一、左利きの人に「あなたは障害者ですか」と聞けば、間違いなく100%の人がNOだと応えるでしょう。仮に障害というなら身体障害の部類でしょうが、我々のイメージする身体障害の中に、この左利きという概念はどう考えても当てはまらない気がするからです。しかし、「左利きで苦労したことはありますか」という問いには、逆にほぼ100%の人が「YES」と応えるのではないでしょうか。
この社会は完全なる右利き社会です。単に左利きが10人に1人ぐらいの割合で産まれる少数派だというだけで、学校では文字を書く時や、はさみを扱う時などに大変な不便を強いられなければならないのです。時には、「この問題わかる人」の問いに、勢いよく「はい」と挙手したとしても、得られるのは満足感ではなく「挙手は右手でしましょう」という叱責だったりもするでしょう。また、視野を広く持てばカメラやゲームのコントローラーなどのボタン系も右利き用ですし、野球のグローブ、ギター、マウス、レコード、自動改札、ピアノ、そろばんなど、身近にあるものの中に右利き用の道具や装置は意外に多いものです。これでは左利きの人が苦労せずに生きて来られる訳がありません。

左利きとは、右手より左手の方が優位に動くというだけで、身体的に異常があるとは普通言いません。左利きが不便さを感じているのは、単に社会が左利き用に動いていないというだけなのですが、ここに、少なからず社会的制約が生まれます。そして、その制約は少なからず差別の対象となってしまうのです。
左利きに対する差別は、昔は相当あったことでしょう。そんな時代において、左利きは紛れもない「障害」であったと言えるのではないでしょうか。しかし、今は上記のような不便さは感じるものの、手に入れようと思えば左利き用グッズも手に入りますし、またそのことで差別されることはほとんどなく、むしろ「左利きはカッコイイ」というイメージまで生まれてきています。こうした認知から、多くの左利きの人は左利きであることを普通の事として受け入れ、何も問題とせずに生活しているわけです。

障害には3つの側面があります。機能的制約、活動的制約、社会的制約です。昨年の4月に視力障害について同じような記事を書きましたが、例えば目が悪いという機能的制約を受けても、メガネによって活動的制約を受けず、また一般化することで社会的にも制約を受けなければ、それは日常生活に不便でこそあれ、不利にはならないのです。
今の世の中は、まだまだそうした不利を負っている人がたくさんいます。医学の進歩、社会的な設備が整いつつある今、我々一人一人の障害に対する理解と配慮をこれから少しずつでも増やしていくべきなのではないでしょうか。

・・・おかしいなぁ。「自分は右利きだけど旋毛は左巻きだ」ということを書くはずだったのに(笑

続・特別支援教育

2006年02月25日 | 私見
1月8日に、ある記事を受けてこのような文章を書きました。

もう元記事は残っていないようですが、それを受けて書いた自分の文章の中に、重大な勘違いが含まれていることが分かりました。今更その部分を修正してもおそらく誰も見ないでしょうから、ココに訂正して解説していこうと思います。

勘違いは、以下の部分です。
つまり、この考え方の上だと、従来の養護学校や特殊学級は廃止するということになります。また、今まで特殊教育をした事のない先生でも、クラスの中に重度障害児を受け持つ可能性も出てくるというわけです。
予め言っておきますが、コレは僕が勝手に解釈したわけではなく、前任校で特別支援コーディネーターに指名された方が打ち合わせ時にこのように話をされた事を、そのまま書いたものです。アレから僕も通常学級のコーディネーターに匹敵するぐらいの知識を積んできたと思っていたのですが、この部分についてはそのまま理解していました。
しかしごく最近、文科省に近いある教授の講演を聴く機会があり、僕も含めて多くの教職員・報道陣が勘違いをしていたという事実を初めて知ることができました。僕自身、上の方は現場の事なんて知らずに勝手にやっていると少なからず偏見をもっていたのですけど、ちゃんと一本筋の通ったものを提案していたのだなぁとむしろ納得してしまいました。箇条書きで概要を説明します。

・従来の特殊学級、養護学校を撤廃・混在させる考えは微塵もなかったこと。
そもそも「廃止」「存続」の議論に発展するとは文科省も考えていなかったそうで、どうやら伝聞で末端に伝わるまでにこうなってしまったようです。新聞も勘違いしたまま発表したため、今でもまだ勘違いしている人は多いと思われます。ちなみに、養護学校は障害の重度・重複化が進んでおり、今後は現在のように障害種別に学校を分けるのではなく、総合養護学校(特別支援学校)としていく方針で、そのために「特別支援学校教諭免許状」が必要なのだそうです。前回書いたような全員に必要なものではないようですが、免許法などその対策が遅れているのは事実の模様です。

・特別支援教育の大元は、今まで法的に何の理解もケアもされていなかったLD・AHDH・高機能自閉性障害児等を対象とする変更であること。
つまり、新たに障害児が学級に来るわけではなく、今まで普通学級で生活していた「ちょっと気になる子」が対象となっただけの話なのです。今まではこのような特別ニーズをもつ子に対して、法的には何らかの診断を下して特殊学級に入れるか、通級(普通学級に籍を置き週1~8時間だけ個別に授業をする)による指導か、または配慮なしか、という極端な選択しかできませんでした。それを、今度から週1~26時間の範囲で適切な個別指導を、その子のニーズに合わせて受けられるようにするというわけです。

・特別支援教育は、日頃教員が抱えている悩みや、昨今の教育の課題を解決できるものであること。
学級崩壊がクローズアップされたのは今から数年前ですが、担任1人の問題ではなく、皆で取り組んでいくという方向で現場は動き始めています。その機能をより円滑にするのがコーディネーターであり、支援センターであり、養護学校(特別支援学校)でもあるわけで、これら連携により、担任とっても子ども達にとっても苦しい状態を早く打開できるできるようになるというのです。また、個に対して支援していくことが学級全体の学力を高める結果にもなったという報告もなされており、まさに良いこと尽くしである、とも話されていました。後者の話はちょっと「風桶理論」っぽいですが、こいつが正しいとするとかつての学歴偏重時代から学級王国時代→教員の不祥事多発→教員の権威低下→キレる子どもの増加→学級崩壊→LD・ADHD児の発見→特別支援教育→学力向上と、大きくブレながらもようやくまともな教育体制になりつつあるようです。

・教員の専門性を高めることはもちろん必要だが、障害に対する「理解」と「配慮」があれば、殆ど全ての問題が解決したも同然であると言うこと。
例えば、うまく音読できない児童に対して「ちゃんと読みなさい」「家で練習してきなさい」ではなく、「どうして読めないのかな?」「隣の行が気になるのかな?」「下敷きで隠して読んでみたら?」というように、どうしてつまづいているのかを子どもの目線で考えていけば、構造化だのTEACCHプログラムなど、難しい言葉を知らなくても十分特別支援教育が成し得るということだそうです。そう考えてみると、前任校で多くの子ども達の可能性を摘んでしまったかなぁと反省することが山ほどあります。むしろ、「障害者」というカテゴリーなんて本来教育現場には必要なく、全ての子ども達に対して言える自明の理なのかもしれません。

この他、大筋は以前の内容の通りです。現在は少人数指導などの導入で加配教員が取りやすい傾向にあるので、特別支援教育導入に必要な教員の確保もしやすく、チャンスであるらしいです。まあ、前任校でも少人数加配の先生と最初はTTなり習熟度別指導なりでやっていましたが、最終的には遅れている子のマンツーマン指導のような形式になったりしていましたからね。言い換えれば特別支援教育の先駆け的な発想だったと言えるのかも。

さーて、誰が読んでくれるのやら・・・

LD

2006年02月20日 | 私見
自社株担保にスイス系金融から工作資金、堀江容疑者署名
いつの間にlivedoorをLDと表記するようになったのだろう?

我々教員にとってLDと言えば「Learning disabilities(学習障害)」が一番ピンときます。その次がレーザーディスクですかね。最近では、LDという言葉も特別支援教育の影響でADHDと共に一般の方にも広く浸透してきている言葉だと思うのですが、ライブドアまでLDと表記するようになると、特に自分達にとってはちょっと紛らわしくなってしまいます。
新聞社側は字数を節約するためかこの表記を浸透させていきたいようで、リンクさせた記事でも「ライブドア(LD)前社長~~」のように移行措置が図られています。以前、狂牛病という言葉が、よりソフトな響きであるBSE(牛海綿状脳症)に取って代わられたように、極端な話ライブドアという企業と、世界に衝撃を与えたLD(ライブドア)という企業が、今後全く別物のように語られていく恐れもあるわけです。それでなくとも、LD(学習障害)の認知度が折角ここまで高まってきたのに、ライブドアと誤解されることによって余りありがたくない状況に陥りかねないのです。

さて、ちょっと前に流行ったイタズラの応用ですが、以下の斜線太文字をコピーして、上記ライブドアの記事を開きアドレスバーにペーストした後エンターを押してみると、教員の目線で今回の記事が読めると思います。是非試してみてください。

JavaScript:document.body.innerHTML=document.body.innerHTML.replace(/LD/g,'学習障害');focus();

う~ん、意味不明だ。

特別支援教育

2006年01月08日 | 私見
小中学校の特殊学級、改称し存続 学校教育法改正案
今日の朝刊の一面にドンと掲載され、ちょっと驚きました。

この記事について、一般の人がどんな感想を持つのか、とても興味があります。というか、この記事は教員以外何のことか全く分からないのでは?と思うのです。1面に載せてあるぐらいならもう少し説明してくれていても良いと思うのですがね。確かに、細かく説明すればこれだけで本が出せてしまうでしょうけど・・・ちょっと補足します。

「現在、特殊教育と呼ばれているものが、平成19年より、特別支援教育に変わります。」
こんな話が、平成15年に突然飛び込んできました。ほとんどの教員が寝耳に水の話でした。
今まで、障害児教育は分離・別学が基本でした。これは「学校に行きたいけど、障害があるから行けない」という人が昔はかなりたくさんいたため、学校教育に特殊な配慮を施した「養護学校」や、小・中学校に「特殊学級」を作ることで、障害児の教育を受ける権利を守った事に始まりました。
しかし、現在では障害のある児童生徒は非常に多くなってきており、従来の養護学校や特殊学級だけでは収まりきれなくなっている状況です。また、近年話題になっているLDやADHDといった子を含めると、障害児の数は一気に5倍に増える計算になります。障害児一人一人を、今までのように別々の環境で教えていては埒があきません。そうではなく、通常は学級40名の中に在籍し、障害児一人一人の必要としているニーズに合わせて、必要な支援を行っていく、というのが「特別支援教育」の大まかな内容なのです。
つまり、この考え方の上だと、従来の養護学校や特殊学級は廃止するということになります。また、今まで特殊教育をした事のない先生でも、クラスの中に重度障害児を受け持つ可能性も出てくるというわけです。

現在の教員免許状制度は、小学校教諭、中学校教諭、盲学校教諭、養護学校教諭など、学校によって免許が必要なのですが、特学に関して免許がなくとも教えられるようになっています。現に僕が教えているくらいですからね。しかし、何も知らない人間が重度障害児を教えるのは、無謀を通り越して危険です。そのため、特別支援教育に携わる先生は必ず「特別支援学校教員免許(仮)」というものを持っていないといけない、ということになりました。これは、重度・重複障害にも対応できるように、現行の免許(盲・聾・養護単独免許)からさらに何単位か取らなくてはならないものになるそうです。
しかし、19年度からスタートすると言うのに、この免許状はまだスタートしていません。実は、19年開始と言うことは決まっているのに、免許状以外の問題についても、具体的な移行内容はほとんど決まっていないも同然だったのです。

こんな状態のまま19年度からよーいスタートとやっても、うまくいくはずがありません。そこで、より実現可能な方針になるよう、現在の養護学校や特殊学級はそのまま残し、大幅な転換は後の議論にして、とりあえず名称だけ変えて残していきましょう、ということにしたのが今回のニュースです。我々の間ではかなり前の段階でこうなることが分かっていた内容だったので、何を今更といった意味でちょっと驚いたニュースでした。

そんなわけで、一般の人にしてみれば「結局何が変わるんだ」という感じでしょうが、通常学級にいてADHDと診断された子が、そのまま通常学級に在籍となる理由づけができただけでも、養護学校や特殊学級がパンクするのを防げたことに意味があるのだと思います。本当、ココにいると、どの養護学校もあの手この手でパンクをゴマカしているような状況で、この転換が急務であることが良く分かります。1対1対応が必要だと判断されて養護学校に来ているのに、先生1人に生徒が何人もいるようでは意味がありませんからね。今後、養護学校は地区内の中心校となって各学校に情報を送っていくことになるそうで、我々はこの特別支援教育の最先端にいるわけですが、まるで不透明な液体の中を泳いでいるような感じで、全く先頭にいる気がしません。上の方を見ていてもそんな気配が濃厚ですので、まだまだ自分がその粋に達するのは相当先のようです。

数学教育が恋しい今日この頃・・・

認定講習

2005年08月09日 | 私見
今日から3日間、認定講習が始まりました。

以前にも触れましたが、養護学校の先生が特殊の免許を持っていない比率が高いことが最近問題になっています。19年度(一説には20年度)から特別支援教育が始まり、「普通学級」の先生が「特殊学級の子」に無頓着ではいられない時代がやってきます。その時助けになるのは、間違いなく養護学校や特殊学級を経験した先生になるでしょう。その頼みの綱の先生がモグリであるというのが、この新しい制度の致命的な落とし穴になるような気がしてならないのです。免許がなくても教えられる分、あえて免許を取ろうとしないのが問題ですね。特別支援学校教諭免許の登場も間近のようなので、将来的には改善されていくのでしょうけど、3~4年後に始まってしまう特別支援教育に間に合わなければ意味がない気もします。

自分は、1学期が終わった現在、まだこの道に骨を埋める気にはさらさらなっていませんが、送り込まれた以上は自身のベストを尽くしたいと考えています。今年は出張が重なり1単位しか取れなかったため、この学校にいるうちに免許を取得することは不可能になりました。(1年で最高2単位まで。)しかしこの展開は自分にとって良かったと思っています。これで、次の学校で特別支援に関わるなら継続し、通常学級を任されればさっぱり足を洗うという選択肢が生まれたことになるからです。免許を取ってしまうと周りに余計な期待を与えてしまいますからね。

まあ、何はともあれこの1単位を落とさぬよう、久しぶりに学生に戻った気分で勉学に勤しみたいと思います。
集中講義形式ですので、本来半年かけて行う課題を3日でクリアせねばなりません。
本日の課題は、「テーマについて、参考文献を読んでレポートをまとめよ。」

が2つ。
・・・一日で小難しい本2冊も読めるか!

しかも、明日も2つ。明後日にも1つあるとか。
今日は徹夜かな。明日も明後日もあるのに・・・orz

夏休み

2005年07月20日 | 私見
多くの学校は今日が終業式で、明日から夏休みです。

これほど仕事の少ない学校だから、夏休みは思いっきり休めるのかと思いきや、そう言うわけにも行きませんでした。親さんのレスパイト(休養日)のため、結構夏も子ども達が学校に来ます。そりゃ、42日間もずっと一緒に居れば、親さんだって介護疲れがでますよね。普段の学校生活も、教育しているというより「養護」しているという意味合いが強いかもしれません。何故ならば、てんかん発作の重い児童にとっては発作が起こるたびに脳神経が破壊されていき、人間としての機能が退化していってしまう場合もあるからです。
普通学級のように多くの成長は望めない。しかし、その子に応じた支援を行うことによって、幾許かの成長、または現状維持、もしくは機能不全の緩和を求めていくのがこの学校なのです。
ここに教育者としての喜びを見出すには、まだ1学期間では足りませんでした。しかし、まだ2年半以上この生活が約束されているため、せめて「理解」だけはして、通常学級における特別支援教育に役立つノウハウをしっかり学んで去りたいと思っています。

もう一つ、この夏は認定講習も受講してきます。これは、一般に出た人が特殊の免許を取得する為の講習で、数年かけて6単位とると免許申請ができるというものです。最近よく話題になりますが、養護学校にいてもこの特殊免許をもっているとは限りません。僕も言わばモグリです。免許がなくても「当分の間」教えられるという法律の上に安座して、気づくと50年が経ってしまったという話。ちなみに、うちの中学部の免許保有率はたったの10%・・・1年先送りになった特別支援教育導入のために、普通学校の教員を大量に人事しているからでしょうけど、こんな広く浅くの方法でうまくいくとは思えません。どうせなら、あと3年あるのだし全教員対象に認定講習を義務付けてしまえばいいのに。未だに「テレビの見すぎで自閉症になる」などと平気で書く管理職もいるようです。まあ、僕もこの流れに乗らなかったら全く無関心であったと思いますけどね。

というわけで、忙しいにしろ授業日よりゆとりがあるこの夏は、養護学校、障害者についてこれまで自分が学んだことなどをまとめてみたいと思います。今まではあえて避けてきた部分もありますが、一定の理解が得られないうちにはとんでもない事を書いてしまう気がしたので・・・いや、今でも怪しいですが。

明日は何もないのに学校行ってきます。初日から休むのも気が引けますからね。
誰か誘って久しぶりにバドミントンでもしようかな?

まとめ更新

2005年04月06日 | 私見
ちょっと変わった更新をしてみました。
とりあえず、学期末、学期初めは忙しいことだらけです。
今まで考えていた事を含め、新天地で学んだ事を座談会形式でまとめました。

浮世では、3割減った学習内容がまた発展として復活するらしいのですが・・・
以下は正担同士の会話

「3年生って教科書ないの」
「ないみたいね」
何か違くね?
「教科書はどこに置くの」
「ここだけど、もう持ってないかもしれないよ」
「じゃあその話題には触れないでおこう」
「去年はいつもここから下の棚は空いてたねぇ(しみじみ)」
・・・・
絶句とは、まさにこのことですな。