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藤原京

2015年09月29日 | Weblog
次なる目的地は藤原京跡です。

何もないなあ・・・
大和三山に囲まれた一角に、広大な平地が広がっていました。奈良の平城宮跡でも思いましたけど、こういう史跡というのは保全するために都市計画をかなり犠牲にしないと成り立ちませんね。この橿原市はそれなりに賑やかな地なのですけど、ここだけぽっかりと田舎に迷い込んだような風情ですな(笑)まあ今は何もない平原ですが、日本最古にして史上最大の広さを誇っていた都であることを肌で感じることができました。この後訪れる飛鳥京の頃は、まだ天皇1代で遷都していたために富の蓄積が行われず、都市計画が必要なほどには大きくはありませんが、天武天皇の后、41代持統天皇の時代に築かれたこの都は代々受け継ぐことが前提の中国の都をその文献を頼りに再現した理想郷であり、その後も3代にわたって使われました。その頃の対中関係は、遣隋使の蜜月時代から覇権が唐に移り、38代天智天皇の時代に白村江の戦いが起こったので、唐とはまだ付き合いがありませんでした。なので長安や平城京のように大極殿が北寄りでなく、文献に「理想の位置」とされていた中央に位置しているそうです。唐に日本の国力を示すための一大政策だったのですね。同時に日本国中に街道が整備され、まさに「全ての道は藤原京に通ず」という国家事業だった模様です。

持統天皇は初めて火葬となった天皇であり、陵墓も夫の天武天皇と同じ場所に祭られています。古墳時代もこの頃終焉を迎えているわけですが、余りにも大きく生活や死生観が変わり、国家事業としてこれまでの口伝や各地の伝説をまとめた古事記や日本書紀(記紀)も編纂されたため、実は天武以降は別民族なのではないかと言う説もあるそうです。確かに通常、伝統を変えたり「歴史をまとめよう」としたりする動機は、太平の世の暇つぶしか、自己の歴史を正当化したい時でしょう。そこに後ろめたさを見出すこともできなくはありません。
天皇の系譜は万世一系と記紀によって伝えられていますが、実はその記紀を書かせた40代天武天皇という人物は、壬申の乱で39代弘文天皇を倒して即位しているわけです。この弘文という諡号は何と1200年も経った明治に入ってつけられたものですが、それまでは大友皇子と大海人皇子の皇位継承争いだとされてきたものが、38代天智天皇(父)、39代弘文天皇(子)を認めると、40代天武天皇(叔父)は「天皇殺し」「皇位乗っ取り」をしたことになってしまうのです。そこに正当性があったのかどうか、少なくとも当時の人々にとってはかなりグレーだったことでしょう。そもそも本当に叔父だったのかさえ、証拠となる書物は彼の書かせた記紀しか残っていないわけです。これは、まるで「絶歌」のような一方的な書物であり、また反論本が世に出せるような時勢でなかったことも踏まえて冷静に分析してみる必要はあると思います。

しかし自分は、この後日本の歴史が大きく軌道修正されることなく、過去の陵墓も一切壊されずに残っている所を見ると、その後の天武系の天皇も怨霊の祟りを気にし、和を第一する大和民族であることは間違いなかったと思います。これは天智天皇の娘であり、天武天皇の妻となった持統天皇の力だったのではないでしょうか。一大事業を成し遂げ、中国と並ぶ巨大都市国家「日本」を作り上げた持統天皇こそ、アマテラスの生まれ変わりだったのかもしれません。

本当、こここそ世界遺産に早く推薦されるべきですな。何もないけど・・・

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