川本ちょっとメモ

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ノモンハン戦争 1939年8月20日 ソ連・モンゴル軍総攻撃始まる

2023-12-28 17:37:49 | Weblog
 
   <ノモンハン戦域図>  『ノモンハンの戦い P15』シーシキン他著(岩波現代文庫)
    
     ※1. ウズールノール …〈日本名〉ウズル水  ※2. ノモンハン・ブルド・オボー(上掲図        
     ※3. 上掲図に地名記載がないが、〈日本名〉ノモンハン (日本軍中継地点) は、ノモンハン・ブルド・
       オボーより北にあり、さらにその北方向に日本軍拠点の〈日本名〉将軍廟がある。
     ※4. 〈日本名〉 ハルハ河 … 上掲図。河流が西北西方向からほぼ北に向きを変え、上掲図の外へ出てま
        もなく西方向に再び向きを変えて、ボイル湖という大湖に流入する。ノモンハン関連記述では、
        流入方向の右側を「右岸」または「東岸」、左側を「左岸」または「西岸」と呼ぶ。
     ※5. ハイラースティーン河 …〈日本名〉ホルステン … 東から西へ流れてハルハ河に流入する。ノモ
                 ンハン関連記述では、流入方向の北側を「北岸」、南側を「南岸」と呼ぶ。
     ※6. 〈日本名〉川又 … ホルステン河がハルハ河に流入する合流地点。上掲図に地名記載なし。
     ※7. ノゴー高地 … 〈日本名〉ノロ高地 ≒ 742高地
     ※8. レミゾフ高地 … 〈日本名〉バルシャガル高地 ≒ 733高地 (バルシャガル高地の西部)
     ※9. フイ高地=721高地  ※9. バイン・ツァガーン … 日本側渡河点対岸の高地

<戦域図余談>
1.ノモンハン … 岩波新書 田中克彦 著『ノモンハン戦争 モンゴルと満洲国』P4,5, に
  
(上図赤丸)  よれば、日本軍がノモンハンと呼んだ地の由来は、ノモンハーニー(ノ
        モンハンの)・ブルド・オボーという塚 (オボー) があったことによる。

         モンゴル人は山を越えてゆくときの峠道とか、牧地の境界などに石を積
        み上げて塚 
(オボー) を作り、そこを通り過ぎていく旅人たちは、旅の安
        全を祈って、思い思いに、オボーに建てた樹木の枝に布帛を結んだり、
        たばこを置いたり、時には馬の毛のしっぽの毛を一つまみ抜いて供えた
        りして通り過ぎていくのである。今日ではそのほかに小銭や、ときには
         紙幣も置かれている。ブルドとは、水が湧き出して、小さな湿地や沼が
         できるような場所をいう。

2.ハイラースティーン河(日本名 ホルステン河)… 田中克彦氏は2005年、ノモンハー
  (上図青線)  ニー・ブルド・オボーを訪ねた。一帯にはいくつかの沼や湖水があっ
          て、ブルドの名にあたいする所だった。これらの水源としてハイラー
        スティーン河が東から西に向かって流れ、ハルハ河に流入する。

4.ハルハ河 … 南から北へ北流している。戦域図上端の外、図外へ少し北流したところ
        で西に向かい、まもなくボイル湖に流入する。

5.ボイル湖 … ハルハ河は戦域図上端より少し北流したところで西方向に向かい、まも
        なくボイル湖に流入する。ボイル湖 (ブイル湖) の面積は615k㎡で、琵琶
        湖面積670k㎡の9割という大きさ。豊富な水のおかげで、モンゴル高原
        のうでは歴史的に栄えてきた地域である。

6.ソ連・モンゴル側主張の国境線 … オレンジ色線、ノモンハン戦争の結果、確定し
                  た。

7.日本・満洲国側主張の国境線 … ハルハ河=青線、ノモンハン戦争の結果、取下げ。


<戦場の範囲と地形の特質>
1.戦場範囲 … オレンジ色線とハルハ河との間、
         東西方向へ20km。南北方向へ60km~70kmの範囲。

2.ハルハ河西岸の地形 … 上の戦域図を見ると、皺のような等高線がハルハ河西岸 (左
              岸) に沿って南北に長く伸びている。等高線の間隔がこのよ
              うに狭いことは急斜面や断崖の地形を示し、西岸高地に布陣
              するソ連軍にとって実に有利、日本軍には甚だ不利な地形で
              ある。ソ連軍は、主戦場であるハルハ河とノモンハンライン
              の間の日本軍の動向をつぶさに監視できた。高台からの自由
              自在な火砲つるべ撃ちは日本軍に大きな打撃を与えた。


 ジューコフ中将指揮下の第1軍団司令部は1939年8月17日、指揮下の南方兵団、中央兵団、北方兵団に総攻撃開始を8月20日とする命令を下した。
    ※この項はシーシキン他著『ノモンハンの戦い』P57~62の「ソ・モ軍司令部作戦計画」による。

<南方兵団> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P58
 傘下部隊は、第57狙撃師団、モンゴル人民革命軍第8騎兵師団、第8装甲旅団、第6戦車旅団 (1個大隊欠) 、第11戦車旅団 (2個大隊欠)、第185砲兵連隊第1大隊、第37対戦車師団、T130型戦車中隊。
 任務は、ノモンハン・ブルド・オボー方向を攻撃し、中央軍・北面軍と協力して、ハイラースティーン河 (ホルステン河) 南北の日本軍部隊を包囲し、殲滅すること。

<南方兵団正面の日本軍部隊> 五味川純平著『ノモンハン(上)』P242
 ・ノロ高地 … 長谷部支隊 (第8国境守備隊から8・3支隊編成 ) 
         梶川大隊 (7師団歩兵28連隊第2大隊、8・4長谷部支隊に配属)
 ・ノロ高地南東要地 … 森田徹部隊 (23師団歩兵71連隊) 
 ・森田徹部隊の左翼 … 満洲国軍

 <中央兵団> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P59 
 傘下部隊は、第82狙撃師団 (601狙撃連隊欠) 、第36自動車化狙撃師団、第5狙撃機関銃旅団。これら諸部隊は、第1軍団の直接指揮下に入った。
 任務は、日本軍の両翼を包囲する任務を担う南方兵団と北方兵団の間の中央で、中央兵団諸隊による正面攻撃によって日本軍の主勢力を牽制し、日本軍が両翼に作戦をしかけるのを阻止すること。
 
<中央兵団正面の日本軍部隊>  五味川純平著『ノモンハン(上)』P242  
・バルシャガル高地北部の右翼隊 … 須美部隊 (7師団歩兵26連隊、6・20 23師団へ配属)  
                  一部その他 ※バルシャガル高地はソ連名「レミゾフ高地」 
・バルシャガル高地西部の左翼隊 … 小林部隊(小林歩兵団) は山県連隊 (歩64) と酒井連隊 
                 (歩72) とで構成していたが、20日ソ連軍の総攻撃開 
                     始を受けて、山県連隊長指揮下に歩兵3個大隊、迫 
                  撃砲、速射砲10門、工兵1個中隊を左翼隊として残 
                  し、酒井連隊ほかは20日日没後からホルステン河  
                   (上掲地図ソ連名 ハイラースティーン河) 工兵橋北  
                 方地区へ配置換えされた   

<北方兵団> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P60
 傘下部隊は、第82狙撃師団第601狙撃連隊、モンゴル人民革命軍第6騎兵師団、第7装甲旅団、第11戦車旅団のうち2個大隊、第82榴弾砲連隊、第87対戦車師団。
  任務は、「廃墟」より北東方向8kmの線に出発位置をとり、ノモンハン・ブルド・オボー北西6kmの無名の湖沼群の方向を攻撃し、第36自動車化狙撃師及び南方兵団と協力して、ハルハ河北方の日本軍を包囲、殲滅すること。 

<北方兵団正面の日本軍部隊>  五味川純平著『ノモンハン(上)』P242  
・フイ高地 … 井置支隊 (23師団捜索隊、7・10井置支隊編成) を主力とする混成部隊 
 
<歩兵支援砲兵隊> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P61
 ・南方兵団第57狙撃師団支援 …  第57砲兵連隊、第57榴弾砲連隊 
 ・中央兵団第36自動車化狙撃師団支援 … 第175砲兵連隊 
 ・中央兵団第82狙撃師団支援 … 第82砲兵連隊、第5狙撃機関銃旅団のうち砲兵大隊
 ・北方兵団歩兵支援 … 第82榴弾砲連隊
 任務は、前縁においては日本軍の火器を破壊圧倒する。攻撃ゾーンにおいては攻撃時の師団防御、攻撃時の歩兵と戦車の掩護砲撃。特に砲兵中隊は、歩兵の後に速やかにつき従って前進するよう、前もって命じられていた。 

<遠距離作戦砲兵隊> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P61 
・南方兵団 … 第185砲兵連隊第1大隊
・中央兵団 … 第185砲兵連隊第2大隊、第3大隊、第175砲兵連隊のうち1個大隊、
        122ミリ遠距離砲兵中隊
  任務は、ホルステン河 (ソ連名 ハイラー・スティーン河) 北岸地区、南岸地区の日本軍砲兵隊を圧倒する。ノモンハン・ブルド・オボー地区とホルステン河南東7kmの砂地にある日本予備軍を圧倒し、さらに、将軍廟地区及びノモンハン・ブルド・オボー地区からの日本備軍の接近を抑える。

 
<8・20払暁  ソ・モ軍総攻撃布陣整う> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P55  
 
 ソ・モ軍(ソ連・モンゴル軍)は1939年8月18日までに、ハルハ河東岸から3km~5km東進したあたりに、モンゴル第8騎兵師団、ソ連第82狙撃師団 (1個連隊を除く) 、ソ連第5狙撃・機関銃旅団、ソ連第36自動車化狙撃師団を配置した。
 
 ソ・モ軍のほかの部隊は、8月19日夜、すなわち総攻撃の開始一昼夜前に、ハルハ河西岸から東岸へ渡河を開始した。8月20日払暁には、第6戦車旅団を除く全部隊がハルハ河東岸に布陣を終えた。
 
 ソ・モ軍司令部は決定的攻撃作戦のために、歩兵35個大隊、騎兵20個中隊、機関銃2255挺、軽砲・重砲合わせて216門、対戦車砲と大隊規模の砲286門、迫撃砲40、戦車498、装甲車346を集結させた。
 

ソ・モ軍と日本軍の兵力格差大> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P57 
 ソ・モ軍の歩兵は日本軍に対して1・5倍、機関銃は1・7倍、砲の数はほとんど2倍、戦車は4倍。日本軍は8月作戦では戦車を用いなかったので、戦車・装甲車については絶対的優勢があった。とりわけ火炎放射戦車は食糧、衣料、人、兵器、弾薬を一気に焼き尽くす効果が甚大であった。

 勝てるわけがないこんな戦争を、勝てるつもりで始めた関東軍植田謙吉司令官、関東軍服部卓四郎作戦主任参謀、同辻正信作戦参謀、荻洲立兵第六軍司令官、小松原道太郎第23師団長らが、一人一人の苦楽哀歓が詰まった人間生命を使い倒した果ての戦死戦傷。その数をノモンハン戦争後の第6軍軍医部が公表している。 

 戦死者数は7696人、戦傷者数は8647人。大方が二十歳代の青年。生き残るため人を殺した末に、運拙く自らも殺されて戦地に斃れた青年は、時空を超えて家族のもとへ還ったでしょうか。母のもとへ還ったでしょうか。戦死公報で帰郷した子の親はいつまでも子を思って、悲しみ慈しむのでありましょう。 


<8・20ソ・モ軍総攻撃の戦術> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P90、91 
 ハルハ河における日・満軍の防衛陣地は、戦術的に好都合な高地や小丘を利用した
抵抗結節点と拠点システムに沿って構築されていた。
 
 ソ連側の戦闘経験によれば、そのような防御システムを打破する効果的な方法は、それら拠点と拠点との中間を撃つことである。
 
 ソ連軍は抵抗拠点と拠点の割れ目に進攻し、
 日本軍拠点相互の共同作戦を打ち砕き、 
 日本軍の全防衛陣地を相互に連絡のとれないばらばらな地域に分断したうえで、
 個々に包囲封鎖し、
 そして日本軍の抵抗拠点を一つ一つ潰していった。
 

 1939/8/20快晴 ソ連軍総攻撃始まる 破竹の勢い】 
   アルヴィン・D・クックス著『ノモンハン③ 第23師団の壊滅』P.9
05:45 ・ ソ連軍砲兵部隊が自軍航空部隊の襲撃目標表示のために発煙弾打ち上げ
     ・ 航空支援砲撃 … 日本軍の対空火器と機関銃陣地に連続砲撃
     ・ 9機1編隊、150機以上の爆撃機と護衛戦闘機数百機が日本軍散兵線、高射砲
       や火砲の放列、後方予備部隊も至るまで猛爆を加えた。これはソ連航空軍の歴 
       史上初の戦爆連合攻撃だった。 
08:15 ・ ソ連軍全砲兵部隊が、あらゆる口径の砲を技術的極限まで駆使して、陸上部隊
       出撃準備集中砲撃を開始した。 
08:30 ・ ソ連航空隊第2波空爆で、日本軍陣地を痛打。
08:45 ・ ソ連軍、15分後に総攻撃開始する旨の暗号電文で命令下達
09:00 ・  野砲による熾烈な掩護砲撃のもと、歩兵と装甲部隊が攻撃開始。

 戦爆連合空軍の大規模空襲と全砲種の全力準備砲撃によって、8月20日ソ・モ軍の総攻撃開始までに、日本軍砲兵部隊の通信、観測所、火砲の放列が大打撃を受けた。高射砲部隊も位置を露呈して沈黙させられた。火の手が上がっていないところはなかった。日本軍砲兵部隊は、ソ・モ総攻撃が始まってもすぐに応射できなかった。 
  

8・20  ソ・モ軍南方兵団 アルヴィン・D・クックス著『ノモンハン③ 第23師団の壊滅』P.10、11
     ・ 8・20戦闘では、南方兵団が最大の成果を上げた。モンゴル騎兵第8師団が満
     洲国軍 (以後「満軍」と称する) の騎兵部隊を殲滅して、モンゴルの主張する国  
     境線 (※上掲地図のオレンジ色線) に進出した。

     ・ ノロ高地の南と南東からソ連57狙撃師団、293連隊、127連隊が前進。127
     連隊は東北へ向かい757高地方向に進出した。293連隊は日本軍防衛陣地
     への前進を強行し、主要拠点の前衛を制圧しようとしたが失敗した。

     ・ ソ連127連隊の右翼では、80連隊が「大砂丘」と呼ぶ780高地から791高地に 
     至る高地帯に向かって進撃し、午後7時にはその先端にとりついた。

     ・ ソ連第8装甲旅団は20日夜、進撃困難な砂丘を突破し、ノモンハン西南3~4 
     kmの地域に進出した。偵察部隊は東南方面でモンゴルが主張する国境線 (上  
      掲 地図のオレンジ色線) に到達した。

     ・ ソ連第57狙撃師団、127連隊、第8装甲旅団は、8月20日に最も近い日本軍目 
       標まで約12km前進した。

8・20  ソ・モ軍中央兵団 アルヴィン・D・クックス著『ノモンハン③ 第23師団の壊滅』P.10、11
     ・ ソ連82狙撃師団はホルステン河 (ソ連側呼称 上掲地図ハイラースティーン河) 
     岸のノロ高地側に進出した。

     ・ ソ連602連隊は、西側のクイ高地方面から742高地に向けて攻撃した。

     ・ ソ連603連隊は南方兵団ソ連57狙撃師団の左翼に隣接して展開し、西南方向か
     ら754高地に向けて攻撃した。

     ・ ソ連82狙撃師団 (601狙撃連隊を除く) は奮戦したが、602連隊、603連隊とも
     に、日本軍の強い抵抗に遭い、夜半までに500~1500m前進できたにすぎ
     ず、752高地、754高地ともに制圧できなかった。 

8・20  ソ・モ軍北方兵団 シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P.67
     ・ 北方兵団は猛烈な襲撃によって、満洲国軍バルガ騎兵隊2個連隊をソ連・モン
     ゴルが主張する国境線の向こうに撃退し、日本軍の前哨線を占拠し、ただちに
     フイ高地地区に敷かれていた日本軍の強力な抵抗拠点に接近した。
     ・ しかしフイ高地の日本軍はすさまじい抵抗を示し、ソ連・モンゴル軍北方兵団
     諸隊のあらゆる攻撃を跳ね返した。



2023-07-10
1時間42分の戦闘で沈没した戦艦大和の戦死3056名 輸送船富山丸の魚雷沈没あっという間の2個旅団消滅
2023-07-20
<ノモンハン捕虜帰還兵軍法会議> 自決未遂で重営倉3日の上等兵、敵前逃亡で禁錮2年10カ月の戦闘機曹長
2023-08-22
<ノモンハン捕虜帰還将校2名> 日本軍の自決システム──撃墜されて捕虜 → 帰還 → 陸軍病院 → 軍説得の拳銃自殺
2023-09-04
<ノモンハン捕虜帰還兵> 壊滅陣地 → チタ捕虜収容所 → 陸軍病院 → ソ満国境へ転属 → 兵役満期除隊 → 軍属徴用で奉天へ
2023-09-14
ノモンハン生還衛生伍長(1) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2023-09-18
ノモンハン生還衛生伍長(2) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2023-12-09
ノモンハン生還衛生伍長(3) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
  

コメント

ノモンハン生還衛生伍長(3) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった

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ノモンハン生還衛生伍長(2) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった




〇 旭川第7師団歩兵第26連隊 (1939・6・20  第23師団へ配属)
  連隊長    大佐  須見新一郎
 
 〇 第1大隊   (1939・8・1  第23師団長直轄へ配属 )
  大隊長    少佐  生田準三  着任 7・13   戦死 8・29    
   副官    少尉  渡部一雄  戦死 8・20
    付    軍医中尉  中村芳正
   第1中隊長 中尉  青木 香  転出 6・27
    〃    中尉  坂本竹雄  戦死 7・3
    〃(代) 准尉  能登与八郎
    〃(代) 少尉  野坂鉄男
    小隊長  少尉  前田正義  戦傷 7・3
     〃   中尉  牧野義勝  戦傷 7・3
     〃   准尉  井上喜一  戦傷 7・3
   第2中隊長 中尉  相田重松  戦死 7・4
    〃    中尉  中森光長  戦傷 8・25
    小隊長  少尉  古川一男  戦傷 7・5
     〃   少尉  岩崎咲雄  戦死 7・3
     〃   准尉  藤井亀次
   第3中隊長 中尉  鶴見筆上  着任8・1   戦死 8・20 
    〃    中尉  平野義雄
    小隊長  少尉  安達吉治  戦傷 7・3
     〃   少尉  古川義英
     〃   准尉  伊良原義晴
   第1機関銃中隊長 中尉 近藤幸治郎 転出 7・3
    〃(代) 少尉  秋野英二  転出 8・1
    〃    中尉  小林司郎  戦死 8・25
   連隊砲小隊長 中尉 長尾雄次

   歩兵第25連隊連隊砲中隊(8・5出動 歩兵第26連隊第1大隊に配属 ) 
   連隊砲中隊長 中尉 海辺政次郎  戦死8・29
      小隊長 少尉 沢田八衛   戦傷8・20  
       〃  少尉 山田四郎   戦傷8・25
     通信隊長 少尉 片岡義市

   *ソ連軍包囲下の死守陣地消耗戦闘で隊長・隊長代理もめまぐるしく替わっています。上
    掲表は将校だけですが、この表から、戦争がいかに多くの招集兵を死なせ、い かに多く
    の健常招集兵に身体障害者として生きる人生を強いるものか、お察しください。

 上の表は、アルヴィン・D・クックス著  朝日文庫1994.7.1.第1刷発行『ノモンハン④  教訓は生きなかった』P355, 356 記載の第26連隊第1大隊のノモンハン戦争従軍将校名簿です。生死未確認の者は「戦死」の分類に入っています。 


1939年
6月  ・小野寺哲也(22才)、半年間の下士官候補者教育隊卒業
     ・ 〃 チチハル待機第7師団軍医部衛生隊所属伍長勤務
6・20  ・チチハル待機中の第7師団に出動命令 歩兵第28連隊は待機
            ・歩兵第26連隊に第23師団配属命令、即日出動
7月  ・チチハルで、26連隊がソ連軍との対戦車戦で全滅したと噂が流れた
7・3  ・歩兵第26連隊第1大隊長安達千賀雄少佐、川又攻撃中に戦死 衛生兵も
      戦死、第1大隊兵員半減して731高地に退却
      ※川又 …… ハルハ河にホルステン河が流入する合流点、ソ連軍渡河施設がある
7・13  ・生田準三少佐が歩兵第26連隊第1大隊長に着任
7・20  ・歩兵第26連隊衛生兵欠員補充のため、小野寺伍長に26連隊配属命令
8・1  ・小野寺伍長、7月戦闘の痛手を補充中だったノロ高地の歩兵第26連隊
(須見
     部隊)本部に出頭。第1大隊本部付に配属。

8・5  ・第1大隊、本隊の歩兵26連隊指揮下から第23師団長直轄へ配属
    ・第1大隊、日の丸高地(ホルステン河北側=右岸)に向けて展開命令
    ・当日現在の第1大隊(生田大隊)兵力は第1、第2、第3中隊、連隊砲小
     隊、第1機関銃中隊、歩兵26連隊連隊砲中隊

8・7~8・20 鶴見第3中隊壊滅までは、9月14日付け記事「ノモンハン生還衛生伍長
(1) 」、8・20~8・25の生田第1大隊の状況は、9月18日付け記事「ノモンハン生還衛生伍長(2) 」  をご覧ください。 

  
8・25  ・この日から、敵戦車は榴散弾を使い始めた。この砲弾1発は、地上から10
     メートルくらいの高さで炸裂、10メートル四方くらいの面積に直径1セン
     チくらいの弾丸の雨を降らす。これは兵員の被害が大きく広がる。榴弾砲
     がこの方式だし、現代のクラスター爆弾がこの方式です。

    ・生田大隊の戦場出動時戦闘要員は約850名だったが、この日の戦闘可能人
     員は約120名に減っている。

    ・小野寺伍長は故郷北海道厚岸の鴨撃ちの光景を思い出した。猟師が散弾銃
     で鴨を撃つ。戦車砲の榴散弾はそれの大規模なもので、小野寺たちは水も
     食糧も戦車に対抗できる武器もない鴨だった。戦車砲や機銃掃射から逃れ
     るために走った。小野寺はもはや、死ぬことを恐れてはいなかった。衛生
     兵として多くの負傷者を見てきた彼は、負傷だけはしたくなかった。

8・28  ・生田大隊長は未明に、残兵を率いて731高地前面の敵陣へ肉弾夜襲を決行
     しようとしたができなかった。生き残り兵は手分けして負傷者の世話をし
     たり、わずかに水の出る柳の 根もとを掘りに出向いた。夜もない昼もない
        忙しい陣中生活のうちに夜が明けて、対戦車戦がまた始まった。

    ・大隊本部の鳴瀬・外山上等兵が大隊長の身をかばって戦車群の先頭車を擱
     座させたが、他戦車の機銃弾を浴びて二人とも戦死した。この後に敵の一
     部が陣地内に入ってきて、戦闘中に生田大隊長は大腿部に重傷を負った。

    ・大隊には戦う手立てが残っていない。夜襲しかなかった。生田大隊長の傷
     は重かったが、聯隊砲の海辺中尉と近藤曹長に介添えされて指揮をとるこ
     とになった。大隊の生き残り将校は、大隊長を含めて3名のみ。使える重
     火器は、10分しかもたない弾薬残量の重機1挺、擲弾筒1筒のみ。彼我の
     距離は50メートル。重機が射撃を始め、擲弾筒が榴弾と手榴弾を撃った。
     敵側から沸き立つような激しい応射が始まった。

    ・先頭に立つ海辺中尉の「突っ込めぇ」という叫び声で、死に物狂いの突撃
     が始まった。激しい混戦の後に敵が後退した。夜襲兵は敵の遺棄死体など
     から水筒や食料を奪い陣地に戻り、喉と腹を癒した。この夜、大隊兵は3
     度突撃をくり返し夜襲を終えて、陣地に落ち着いた。敵の包囲網は後退し
     たが、海辺中尉が戦死。生田大隊長は生きて陣地にもどった。この日、
     100名ほどの大隊残兵が60名に減った。

      ※歩兵第25連隊連隊砲中隊長 海辺政次郎中尉
       この連隊砲中隊は 8・5出動、 歩兵第26連隊第1大隊(生田大隊)に配属された。

8・29  ・午前1時、山県支隊(23師団歩兵64連隊)から伝令着。撤退命令を伝えた。
      ※生田大隊の原隊は旭川第7師団歩兵第26連隊(連隊長・須美新一郎大佐)。
       1939・6・20  第23師団へ配属。 同年8・1 小松原第23師団長直轄へ。 

    ・御田重宝著『ノモンハン戦壊滅篇』P164には、「29日午前2時、山県連隊
     長は独断で撤退命令を下した」とある。

    ・五味川純平『ノモンハン下』P182には、
      「山県大佐は野砲兵第13連隊長伊勢大佐と相談して、師団主力に合流する
     ためノモンハンに向って後退する決心をした」
      「8月29日午前2時、撤退命令を下達した」
      「撤退開始は8月29日午前3時であった」 ──とあります。

8・29   ・生田大隊は現在地731高地から4km南の山県支隊に合流することにな
     り、砂に埋めるゆとりのなかった遺体を浅く砂で覆って出発した。重傷者
     は体力の残っている者が交代で背負った。大隊の傷病者は全部で120名余
     り。

    ・山県部隊陣地には1000名ほどの兵員がいたが、半数は負傷兵だった。生田
     大隊を収容した山県部隊は闇の中を、ただちに満洲国領内の「将軍廟」目
     指して出発した。

    ・五味川純平著『ノモンハン下』P182には、行動を共にした部隊は、山県部
     隊(歩兵64連隊)本部、同第2大隊、同第9中隊、生田部隊(歩兵26連隊生田第1大
     隊の生き残り)、伊勢部隊(野砲兵13連隊)本部、同第2大隊(第4中隊欠)、同第8
     中隊、工兵2個小隊と記されている。この撤退行軍の中には、山県、伊勢両
     連隊長もいた。

8・29  ・ホルステン河からハルハ河にさしかかるあたりで、まだ昼にならないうち
     だったが、山県退却部隊はソ連軍戦車約50台の攻撃を受けた。戦車50台に
     対峙できるはずもなく、山県退却部隊は蹂躙されつくした。抵抗する兵士
     たちは刻々に死に絶えた。砂上に置き去りになった重傷者は戦車のキャタ
     ピラで轢きつぶされた。戦車隊は日が暮れるまでその場所を離れず、徹底
     的に日本兵を掃討した。「山県、伊勢部隊の末路は悲惨であった」と『ノ
     モンハン戦壊滅篇』P165が記している。、

    ・『ノモンハン下』P184
     「山県(歩64)、伊勢(野砲13)両連隊長、歩兵連隊副官、同連隊旗手代理、命
     令受領の工兵軍曹、兵1名とともに新工兵橋に近い元日本軍の野砲陣地
     の掩体壕内孤立し、敵歩・戦の包囲攻撃を受けた」

    ・『ノモンハン下』P185 連隊長自決
    「軍旗は焼かれ、両連隊長は自決した。8月29日午後4時半ごろであったら
      しい。他の2名の将校もこれに殉じた。下士官と兵は脱出して、両連隊長
      の自決を報告したという」

8・29午後~日暮れ
    ・夜になるまで身をひそめることができた者だけが、生き残った。小野寺伍
     長は数々のノモンハン戦闘を生き抜いてきたが、これほど無惨な犠牲を生
     んだ戦闘を見たことが無いと戦後に語った。

    ・小野寺伍長はたこつぼを見つけて、夜が来るまで一人そこにもぐってい
     た。少しでも頭を出せば執拗に銃撃される。しらみつぶしに掃討されてゆ
     く時間のなんと長いことだったか。耳には断続して聞こえる銃声砲声。近
     くを駆け回る戦車のキャタピラの音が遠のいたり近づいたりする不気味
     さ。ほかの人のことはまったくわからずに、無抵抗で身ひとつ隠れている
     つらさ。


8・29夜  戦場離脱
    ・日暮れまで身をひそめていた者たちが這い出して「将軍廟」への引き揚
      げを開始することになった。集合した人員は、歩行可能な負傷者を含め
      て300名ほどに激減した。うち生田大隊生き残りは8月5日戦場出動時
      850名のう36名だった。生田大隊長はいなかった。


 2015年8月9日、生田大隊長の子息まこと氏が731高地ほかの戦跡を訪れ、次のように語っています。(十勝毎日新聞2010年8月)

生田まこと氏 父の最後の場所は,旧工兵橋付近と思います。戦死公報では731高地となっています。遺体は停戦後発掘され、血染めの軍靴(皮の将校長靴)が遺骨とともに戻ってきました。


   ※「ノモンハン生還衛生伍長(4終)」は小野寺伍長の北海道帰国後の兵役を
      伝えます。出典は、伊藤桂一著『静かなノモンハン』です。



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ノモンハン生還衛生伍長(2) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった

2023-09-18 23:12:49 | Weblog


2023-07-10
1時間42分の戦闘で沈没した戦艦大和の戦死3056名 輸送船富山丸の魚雷沈没あっという間の2個旅団消滅
2023-07-20
<ノモンハン捕虜帰還兵軍法会議> 自決未遂で重営倉3日の上等兵、敵前逃亡で禁錮2年10カ月の戦闘機曹長 
2023-08-22
<ノモンハン捕虜帰還将校2名> 日本軍の自決システム──撃墜されて捕虜 → 帰還 → 陸軍病院 → 軍説得の拳銃自殺
2023-09-04
<ノモンハン捕虜帰還兵> 壊滅陣地 → チタ捕虜収容所 → 陸軍病院 → ソ満国境へ転属 → 兵役満期除隊 → 軍属徴用で奉天へ
2023-09-14
ノモンハン生還衛生伍長(1) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった




〇 旭川第7師団歩兵第26連隊 (1939・6・20  第23師団へ配属)
  連隊長    大佐  須見新一郎
 
 〇 第1大隊   (1939・8・1  第23師団長直轄へ配属 )
  大隊長    少佐  生田準三  着任 7・13   戦死 8・29    
   副官    少尉  渡部一雄  戦死 8・20
    付    軍医中尉  中村芳正
   第1中隊長 中尉  青木 香  転出 6・27
    〃    中尉  坂本竹雄  戦死 7・3
    〃(代) 准尉  能登与八郎
    〃(代) 少尉  野坂鉄男
    小隊長  少尉  前田正義  戦傷 7・3
     〃   中尉  牧野義勝  戦傷 7・3
     〃   准尉  井上喜一  戦傷 7・3
   第2中隊長 中尉  相田重松  戦死 7・4
    〃    中尉  中森光長  戦傷 8・25
    小隊長  少尉  古川一男  戦傷 7・5
     〃   少尉  岩崎咲雄  戦死 7・3
     〃   准尉  藤井亀次
   第3中隊長 中尉  鶴見筆上  着任8・1   戦死 8・20 
    〃    中尉  平野義雄
    小隊長  少尉  安達吉治  戦傷 7・3
     〃   少尉  古川義英
     〃   准尉  伊良原義晴
   第1機関銃中隊長 中尉 近藤幸治郎 転出 7・3
    〃(代) 少尉  秋野英二  転出 8・1
    〃    中尉  小林司郎  戦死 8・25
   連隊砲小隊長 中尉 長尾雄次

   歩兵第25連隊連隊砲中隊(8・5出動 歩兵第26連隊第1大隊に配属 ) 
   連隊砲中隊長 中尉 海辺政次郎  戦死8・29
      小隊長 少尉 沢田八衛   戦傷8・20  
       〃  少尉 山田四郎   戦傷8・25
     通信隊長 少尉 片岡義市

   *第1機関銃中隊長近藤幸治郎中尉は安達第1大隊長の7月3日戦死を受けて、大尉昇進の
    うえで第1機関銃中隊長から第1大隊長代理となり、7月13日に生田準三少佐の第1大
    隊長着任を受けて大隊長代理を解かれ、生田大隊長の8月29日戦死とともに第1大隊は
    全滅した、という流れではないかと思います。全滅とはいえ、どんな場合でも 生き抜い
    た兵や負傷兵がいます。
  **第1大隊第3中隊長小林司郎中尉は7月3日負傷、後任は牧野竹治中尉。ほぼ1カ月後、
    第26連隊旗手鶴見筆上少尉が中尉昇進のうえで8月1日、第3中隊長着任、8月20日戦
    死。
 ***ソ連軍包囲下の死守陣地消耗戦闘で隊長・隊長代理もめまぐるしく替わっています。上
    掲表は将校だけですが、この表から、戦争がいかに多くの招集兵を死なせ、い かに多く
    の健常招集兵に身体障害者として生きる人生を強いるものか、お察しください。

 上の表は、アルヴィン・D・クックス著  朝日文庫1994.7.1.第1刷発行『ノモンハン④  教訓は生きなかった』P355, 356 記載の第26連隊第1大隊のノモンハン戦争従軍将校名簿です。生死未確認の者は「戦死」の分類に入っています。 


1939年
6月  ・小野寺哲也(22才)、半年間の下士官候補者教育隊卒業
     ・ 〃 チチハル待機第7師団軍医部衛生隊所属伍長勤務
6・20  ・チチハル待機中の第7師団に出動命令 歩兵第28連隊は待機
          ・歩兵第26連隊に第23師団配属命令、即日出動
7月  ・チチハルで、26連隊がソ連軍との対戦車戦で全滅したと噂が流れた
7・3  ・歩兵第26連隊第1大隊長安達千賀雄少佐、川又攻撃中に戦死 衛生兵も
      戦死、第1大隊兵員半減して731高地に退却
      ※川又 …… ハルハ河にホルステン河が流入する合流点、ソ連軍渡河施設がある
7・13  ・生田準三少佐が歩兵第26連隊第1大隊長に着任
7・20  ・歩兵第26連隊衛生兵欠員補充のため、小野寺伍長に26連隊配属命令

8・1  ・小野寺伍長、ノロ高地の歩兵第26連隊(須見部隊)本部に到着
     出頭 小野寺は第1大隊本部付、井上は第2大隊本部付になる
    ・このころ26連隊の全部隊はノロ高地で7月戦闘の痛手を補充中だった

8・5  ・第1大隊、本隊の歩兵26連隊指揮下から第23師団長直轄へ配属
    ・第1大隊、日の丸高地(ホルステン河北側=右岸)に向けて展開命令
    ・当日現在の第1大隊(生田大隊)兵力は第1、第2、第3中隊、連隊砲小
     隊、第1機関銃中隊、歩兵26連隊連隊砲中隊

8・7~8・20 鶴見第3中隊壊滅までは、前回9月14日付け記事「ノモンハン生還衛生伍長(1) 」をご覧ください。


8・20  ・この日早朝、日本軍の全前線にわたってソ連軍のよく準備された総攻撃が
     始まり、日本軍は8月31日にはソ連・モンゴルが主張するモンゴル領土内
     から駆逐された。

8・20  ・どの陣地もソ連軍に包囲されていた。ソ連軍は馬蹄形の包囲網を敷き、必
     ず1カ所開口部を設けていた。日本軍陣地に攻め入ってする白兵戦の無駄
     死にを避けたかった。日本軍は周辺のどの陣地でも榴弾砲や戦車砲、火炎
     放射戦車、重機関銃などの脅威にさらされていて、なすすべもなかった。

    ・小野寺伍長は第3中隊と大隊本部との連絡が途絶えたので、ここに派遣さ
     れた。中隊では伝令兵を3人、大隊本部へ送ったという。3人ともたどり
     つけなかった。包囲側の開口部には、戦車・装甲車・重機が待ち受けてい
     る。小野寺が生きて中隊にたどりつけたことが不思議だった。

    ・8月20日夜明け前の暗いうちに小野寺は第3中隊に着いた。そして同じ日
     の夕刻に、「なんとかうまく切りぬけて行ってくれ」という中隊長の命に
     よって、小野寺は大隊に帰らねばならなかった。どうせ死ぬんだ。それな
     ら、これから夜襲に出ていく中隊のみんなといっしょに死にたい。小野寺
     の願いは許されなかった。 …… 20日の夜闇が始まってから中隊陣地を抜
     け出た。行きは6時間かかったが、それよりもっと早く第1大隊に帰り着
     いた、と思う。

    ・第3中隊の陣地は直径50mほどのくぼ地で、戦車と機関銃にびっしりと囲
     まれている。味方の重機関銃が激しく撃ち出している瞬間を見て、小野寺
     伍長は陣地の一角から飛び出した。少し駈けて、砲弾穴のひとつに飛びこ
     み、あとは勘だけを頼りに、飛び出しては隠れ、隠れてはまた駈けた。走
     っていて機銃弾が足もとを濯(あら)ってくるとき、走り切るか、遮蔽物を
     みつけて倒れこんで隠れるか。無我夢中で駈けた。8月5日ごろからのわず
     かな日数のうちに本能が鍛えられていると、小野寺は思った。

8・20 ・小野寺伍長は第3中隊の危急を一刻も早く知らせたい一念で走りつづけ
     た。思ったよりかなり早く20日夜のうちに大隊本部に着いて、生田大隊長
     に報告した。生田は「鶴見(中隊長)を見捨てはせん」と大声で言い、すぐ
     に 幹部集合を命じた。

    ・死んでも指が動いている
     報告してすぐに小野寺は負傷兵の手当てを始めた。そこへ、渡部副官(大隊
     副官少尉)被弾、と連絡が来て100mほど離れた壕へ走った。機銃弾が鉄帽
     の側面から貫通して即死。頭にごぶし大の穴が開いていた。ところが死ん
     でしまっている渡部少尉の両手の指が、何かを握りしめたがっているよう
     にしきりに動いている。小野寺は初めて見た、指が生き残っている。渡部
     についていた伝令の松田が「死んでも指は動くのですか」と聞いた。小野
     寺伍長が脈拍と心臓を確認しても確かに死んでいた。死にたくない気持ち
     が指先に残ったんだろうと小野寺は松田と話し合った。小野寺も指先は最
     期まで生き残るのだろうと思った。ノモンハンでは猛烈な砲撃と機銃の弾
     幕下で戦死した遺体を回収できなかった。とにかくどんなにひどい戦いで
     あっても、最低限、小指と認識票だけは切り取って持ち帰るのが居合わせ
     た兵士の慣わしになっていた。

8・21 ・大隊本部と第2中隊は、第3中隊救援のため第1中隊の位置に移動した。
     第1中隊の位置へ第3中隊生き残りで歩行可能な負傷者がたどり着いて、
     鶴見中尉以下玉砕の模様を伝えた。

8・21 ・夜、生田大隊長が訓示した。「大隊は今夜半、夜襲を決行して、第3中隊
     の奪われた陣地を奪回する。諸士の健闘を祈る」。大隊は行動不能の重傷
     者を陣地内に残して出発した。小野寺の医療嚢は空になったままでガーゼ
     も薬品もない。小野寺は衛生兵としてでなく戦える歩兵を希望して、大隊
     といっしょに出発した。

    ・出発してまもなく大隊はソ連軍との遭遇戦になった。大隊は歩兵銃と手榴
     弾で戦うしか方法がない。敵は大砲と戦車砲と重機関銃を存分に撃つ。戦
     車隊の後ろには歩兵がつづく。50発に1発撃ちだす機関銃の曳光弾が無数
     に乱れ飛ぶ。赤色の照明弾が打ち上げられて、草原を真昼のように明るく
     照らす。小野寺たちは照明弾などが明るい間、草や凹地に隠れ、消えると
     跳ね出た。前面に立ちはだかる戦車に向かって3回、突入攻撃をした。

    ・突入3回目のあと、ソ連兵が後退した。22日朝明けにまた砲撃、戦車、歩
     兵が押し寄せてくる。生田大隊も夜のうちに、20日までいた731高地へ後
     退した。大隊全員がたがいに支え合うようにして、第1中隊の負傷者をも
     収容して後退した。

    ・ノモンハン8月戦闘では、歩兵が戦車戦をやった。小野寺たちは戦車にと
     りついてはよじのぼり、戦車砲に手榴弾を結びつけて爆発させた。爆発で
     砲の照準が狂って役に立たなくなる。機銃の場合だと銃身が曲がって使用
     不能になる。戦車自体が燃えることもある。しかし、戦車にのぼると、戦
     車の下の穴から拳銃で狙い撃たれる。ほかには、不意に砲塔を廻され振り
     落とされて、キャタピラに轢かれるか、機銃弾に濯われる。

    ・戦車が擱座しても、戦車から逃げ出すソ連兵はめったにいなかった。擱座
     した戦車の中で、銃を撃つ姿勢のまま死んでいる者が多かった。草原に放
     置されている戦車を覗くと、銃を撃つ姿勢をしているその眼に無数の蛆を
     わかせ、なお前方を見つめているソ連兵を、小野寺伍長は見たことがあ
     る。ソ連兵もまた、必死で戦っていた。

8・22 ・大隊850名が今は120名になった。731高地が孤立して何日になるのか。
     他部隊との連絡もほとんど絶えたまま。食糧・水もまったくなくなった。
     戦死敵兵の持ち物から食料や水を取ってくる。陣地にいると毎日毎日激し
     い砲撃の犠牲者が重なる。

    ・22日夜半、天の助けが舞い降りた。食糧弾薬の輸送トラックが1台、孤立
     陣地に迷いこんできた。山県支隊(歩兵64連隊)への輸送トラックだった
     が、ソ連軍の包囲網が厳しくて近寄れなかった。やむなくどこでもいいか
     ら食糧弾薬をなんとか下せそうな所へたどり着いてみたら生田第1大隊だ
     った。戦車を擱座させた大隊の重傷者5名を乗せて、輸送トラックは帰っ
     ていった。

8・23 ・戦車30台が攻めてきた。大隊はこのうち15台を擱座させた。敵歩兵の遺
     棄死体は数十に及んだ。大隊の熟練度は大したものだ。この日の朝、神田
     軍医が左肩に貫通銃創を受けて壕の底に横たわっていた。軍医はずいぶん
     多くの人の手当てに奔命してきたが、自分が仆れたときは何の薬物もな
     く、傷口を縛って寝ていることしかできなかった。

8・24 ・この日も戦車戦で明け暮れた。

8・25 ・敵は重砲による攻撃を集中したあと、戦車50台と約2000の歩兵で包囲環
     を縮めてきた。それでも敵は我が陣地を攻め取ることができなかった。

    ・25日の戦闘で、機関銃隊の船木見習士官は敵の銃火の中を、遺棄されてい
     る水冷式機関銃に駆け寄り、ラジエーターの水を水筒に抜き取ってきて負
     傷者に与えた。船木はその後の対戦車戦で戦死した。

    ・重傷を負った第1機関銃中隊長小林司郎中尉を、片桐上等兵が背負って引
     き揚げてくるとき、一弾が二人を貫いた。二人とも戦死した。片桐は機関
     銃中隊でただひとりの衛生兵だった。小野寺伍長は、自分もやれるだけの
     ことはやってみんなと一緒に死んでゆこう、これほど酷く厳しい戦いを、
     この草原で戦っている仲間だけがわかり合っていればそれでいいと思うよ
     うになった。

    ・25日早朝。小野寺伍長ら10人余りで、砂地でなく固い所があると聞いた
     場所へ壕堀に出かけた。そこへ、戦車20台ほどが前進してきた。身を隠す
     砲弾穴が手近になかったので、地形を選んで散開した。小野寺たちは先頭
     に来た戦車3台に飛びつき、手榴弾を砲身に結びつけて戦った。2台が擱
     座した。あとの戦車が横にひろがって集中射撃してきた。このとき1門だ
     け残っていた連隊砲が陣地から出てきて戦車群のうち2台を炎上させた。
     すぐに敵戦車砲のお返しが集中して、連隊砲は沈黙した。


    ──次回、「ノモンハン生還衛生伍長(3)」につづきます。


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ノモンハン生還衛生伍長(1) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった

2023-09-14 18:12:15 | Weblog




〇 旭川第7師団歩兵第26連隊 (1939・6・20  第23師団へ配属)
  連隊長    大佐  須見新一郎
  連隊付    少佐  小沢正行
   〃   主計少尉  根上 博
   〃   軍医少佐  鈴木敏美
  副官     少佐  丸山弘一  戦死 7・3
   〃     大尉  伊香賀直臣
   〃     大尉  寺島義雄
   〃     少尉  篠田賢治  戦死 7・3
  連隊旗手   少尉  鶴見筆上  第1大隊第3中隊長転出 8・1  戦死8・20
   〃     少尉  高橋栄二

 〇 第1大隊
  大隊長    少佐  安達千賀雄 戦死 7・3
   〃(代)  大尉  近藤幸治郎 転出 7・13
   〃     少佐  生田準三  着任 7・13   戦死 8・29
   副官    少尉  渡部一雄  戦死 8・20
    付    軍医中尉  中村芳正
   第1中隊長 中尉  青木 香  転出 6・27
    〃    中尉  坂本竹雄  戦死 7・3
    〃(代) 准尉  能登与八郎
    〃(代) 少尉  野坂鉄男
    小隊長  少尉  前田正義  戦傷 7・3
     〃   中尉  牧野義勝  戦傷 7・3
     〃   准尉  井上喜一  戦傷 7・3
   第2中隊長 中尉  相田重松  戦死 7・4
    〃    中尉  中森光長  戦傷 8・25
    小隊長  少尉  古川一男  戦傷 7・5
     〃   少尉  岩崎咲雄  戦死 7・3
     〃   准尉  藤井亀次
   第3中隊長 中尉  小林司郎  戦傷 7・3
    〃    中尉  牧野竹治  転出 8・1
    〃    中尉  鶴見筆上  第3中隊長着任 8・1 戦死 8・20
    〃    中尉  平野義雄
    小隊長  少尉  安達吉治  戦傷 7・3
     〃   少尉  古川義英
     〃   准尉  伊良原義晴
   第1機関銃中隊長 中尉 近藤幸治郎 転出 7・3
    〃(代) 少尉  秋野英二  転出 8・1
    〃    中尉  小林司郎  戦死 8・25
   連隊砲小隊長 中尉 長尾雄次

   歩兵第25連隊連隊砲中隊(8・5出動 歩兵第26連隊第1大隊に配属 ) 
   連隊砲中隊長 中尉 海辺政次郎  戦死8・29
      小隊長 少尉 沢田八衛   戦傷8・20  
       〃  少尉 山田四郎   戦傷8・25
     通信隊長 少尉 片岡義市

   *第1機関銃中隊長近藤幸治郎中尉は安達第1大隊長の7月3日戦死を受けて、大尉昇進の
    うえで第1機関銃中隊長から第1大隊長代理となり、7月13日に生田準三少佐の第1大
    隊長着任を受けて大隊長代理を解かれ、生田大隊長の8月29日戦死とともに第1大隊は
    全滅した、という流れではないかと思います。全滅とはいえ、どんな場合でも 生き抜い
    た兵や負傷兵がいます。
  **第1大隊第3中隊長小林司郎中尉は7月3日負傷、後任は牧野竹治中尉。8月1日、牧野中  
    尉に替わって、  第26連隊旗手鶴見筆上少尉が中尉昇進のうえで第3中隊長着任。8月20
    日、鶴見第3中隊長戦死。
 ***ソ連軍包囲下の死守陣地消耗戦闘で隊長・隊長代理もめまぐるしく替わっています。上
    掲表は将校だけですが、この表から、戦争がいかに多くの招集兵を死なせ、い かに多く
    の健常招集兵に身体障害者として生きる人生を強いるものか、お察しください。

 上の表は、アルヴィン・D・クックス著  朝日文庫1994.7.1.第1刷発行『ノモンハン④  教訓は生きなかった』P355, 356 記載の第26連隊第1大隊のノモンハン戦争従軍将校名簿です。生死未確認の者は「戦死」の分類に入っています。 


1939年
6月  ・小野寺哲也(22才)、半年間の下士官候補者教育隊卒業
     ・ 〃 チチハル待機第7師団軍医部衛生隊所属伍長勤務
6・20  ・チチハル待機中の第7師団に出動命令 歩兵第28連隊は待機
          ・歩兵第26連隊に第23師団配属命令、即日出動
7月  ・チチハルで、26連隊がソ連軍との対戦車戦で全滅したと噂が流れた
7・3  ・歩兵第26連隊第1大隊長安達千賀雄少佐、川又攻撃中に戦死 衛生兵も
      戦死、第1大隊半減で退却、ノロ高地で兵員補充を待つことになった
      ※川又 …… ハルハ河にホルステン河が流入する合流点、ソ連軍渡河施設がある
7・13  ・生田準三少佐が歩兵第26連隊第1大隊長に着任
7・20  ・歩兵第26連隊衛生兵欠員補充のため、小野寺伍長に26連隊配属命令
     ・同じく26連隊配属の衛生兵補充井上伍長がチチハルの病院で聞いた
      「ノモンハンへ出ると、衛生兵だろうと軍医だろうと、まず生きては帰れ
       ないそうだ」

8・1    ・小野寺伍長、井上伍長、ノロ高地の歩兵第26連隊(須見部隊)本部に到着
      出頭 小野寺は第1大隊本部付、井上は第2大隊本部付になる
      ※ノロ高地はハルハ河の北東、ホルステン河の南東にある
     ※※ホルステン河は、ソ連・モンゴル側ではハイラースティン河と呼んでいる

8・5    ・第1大隊、本隊の歩兵26連隊指揮下から第23師団長直轄へ配属
           ・第1大隊(生田大隊)は、731高地~日の丸高地(ホルステン河北岸側=
      右岸側)地区に展開
           ・当日現在の第1大隊(生田大隊)兵力は第1、第2、第3中隊、連隊砲
      小隊、第1機関銃中隊、歩兵26連隊連隊砲中隊

8・7    ・日の丸高地陣地から第1大隊連隊砲が敵陣地に向けて1発試射 
      我が方1発試射に対し、敵陣地からお返しの重砲210発着弾  
     ・日の丸高地陣地ではこれ以後、ソ連軍重砲陣地から毎日08:00,14:00の
      2回各1時間、1分間に何十発もの重砲弾を浴びた。重砲が止むと、
      シュルシュルと迫撃砲弾を撃ちこまれた。

8・17  ・朝、第1大隊の連隊砲が朝30分間、連続砲撃。
    ・こちらの砲撃が終わった直後から猛烈な反撃あり、1時間ほどの砲撃を受
     けただけで、砲手・弾薬手もろともこちらの砲が吹き飛ばされた。

8・19  ・よく晴れた夜半、砲撃始まり刻々に激しさ増す 敵機編隊、他陣地爆撃
    ・連隊砲隊が砲体鏡で敵数台の戦車と数百の歩兵を視認
    ・小野寺伍長は神田軍医の指示を受けながら、壕から壕へ負傷者の応急手当
      てに追われる

8・20  ・夜明け前から敵の砲撃始まる。夜が明けて朝霧が晴れると、陣地1km前
     方に白旗の横列あり。その後ろに2陣3陣と敵歩兵の列が続く。その陣列
     の後ろの稜線の見えないところに、もっと多くの戦車・装甲車・歩兵が出
     撃待ちしているはず。

     ・生田第1大隊守備地域一帯の敵砲撃、従来にないすさまじさ。空からは爆
      撃、くり返しあり。すさまじく重なり合う砲弾爆弾の相次ぐ爆発が砂塵を
      まきあげて、まわりが暗くなった。

     ・味方の連隊砲や重機関銃も見事に戦って敵の重砲や歩兵に打撃を与えるの
      だが、彼我の兵数や砲種砲数、重機軽機数、砲弾銃弾数量の圧倒的な隔た
      り、8月戦闘における戦車・装甲車なし日本軍では、全滅するか壊滅前の
      退却しかなかった。

     ・どこも包囲されている第1大隊──731高地~日の丸高地にかけて
     ・山県部隊寄りに、第1大隊本部 ※山県64連隊長→ 5・21山県支隊長
     ・大隊本部前面に、第2中隊
     ・第2中隊から北に4km → 第1中隊
     ・第1中隊から4kmの日の丸高地の一角 → 第3中隊
     ・第3中隊の北方は、ソ連軍の自由行動地域

8・20  ・夜明け前に、第3中隊から大隊本部へ電話連絡が立て続けに入った。
      「重囲ニ陥チツツモ敢闘中」。夜が明けてまもなく電話途絶。
     そのため鶴見第3中隊長は大隊本部へ伝令3名派遣。
     伝令、1人も大隊本部に到達せず、第3中隊に帰還せず。

     ・神田軍医から小野寺伍長に第3中隊へ行ってみてくれと指示有り。
      小野寺は地下足袋に巻脚絆、六連発拳銃と手榴弾3発だけの軽装、医療嚢
      にびっしり薬品を詰め込んで直ちに壕を出た。戦車を避け、砲弾穴に身を
      隠し、砲弾や銃撃から必死で逃げ、装甲車に見つからないことを祈りなが
      ら(装甲車には歩兵が乗っているので逃げきれない)砂の陰にまわりこみ、
      第3中隊までの道のり8kmを6時間後に着いた。

     ・小野寺伍長は鶴見中隊長に大隊本部から派遣された旨を報告し、大隊長の
      激励のことばを伝えた。報告を済ませてから、小野寺伍長は分秒を惜しん
      で、壕内に収容されている多くの重傷者の手当てに取り組んだ。疲れも空
      腹も感じなかった。

     ・夕刻近く、中隊長が小野寺伍長を呼んだ。「第3中隊はただいま総攻撃を
      敢行して玉砕したと、大隊長殿に伝えてほしい。かえりみて悔いなく善戦
      した、と申し上げてくれ」と中隊長が言う。
       小野寺は「命令でこの中隊に来ました。運命を共にさせていただきま
      す」と答えた。全滅するまで負傷者の手当てをしてゆくのが衛生兵の本分
      だと思ったが、それは許されなかった。
       中隊長が命令だと言った。「だれかが状況を伝えねば、大隊長殿への任
      務が果たせない。頼む。なんとかうまく切りぬけて行ってくれ」

     ・8月20日夜、第3中隊は最期の突撃をした。歩行可能な生き残りの兵が2
     人、3人と第1中隊陣地にたどり着いて伝えた。──連隊砲も速射砲も砲
     弾がなくなった。機関銃陣地も壊滅した。連隊旗手から8月1日に赴任した
     第3中隊長鶴見筆上中尉は遂に、「最後の突撃をする、重傷者で歩行可能
     の者は、大隊本部の位置に撤退せよ」という命令を出した。そして、中隊
     長を先頭とする一団は敵陣に突入したという。第3中隊は全滅した。
                  ※全滅とは言っても負傷者その他、必ず生存者はいます。

  ※今回の小野寺伍長の経験は『静かなノモンハン』 伊藤桂一 著(講談社文庫)1986.
   5.26. 2刷に拠っています。もちろん実話です。



コメント

<ノモンハン捕虜帰還兵> 壊滅陣地 → チタ捕虜収容所 → 陸軍病院 → ソ満国境へ転属 → 兵役満期除隊 → 軍属徴用で奉天へ

2023-09-04 15:24:10 | Weblog




〇 歩兵第71連隊第1大隊第1機関銃中隊
  中隊長  中尉  光本岩登   戦傷 7・24
   〃(代)尉  館上侃一   戦傷 8・31
  小隊長  少尉  筒井福晴   戦死 8・30
   〃   中尉  三輪良市   戦死 8・28
   〃   准尉  新谷繁雄   戦死 7・03

 上の表は、アルヴィン・D・クックス著  朝日文庫1994.7.1.第1刷発行『ノモンハン④  教訓は生きなかった』P345記載のノモンハン戦争従軍将校名簿です。生死未確認の者は「戦死」の分類に入っています。 


 前回 8月22日付記事に書いたように、ノモンハン戦争の翌年春、1940年(昭和15年) 4月27日、ソ連のチタ収容所から日本軍捕虜77人と満洲国軍39人が釈放されて、日本側に引き渡されました。

 このときの釈放捕虜の中に、中山仁志上等兵(当時22才、歩兵第71連隊第1大隊第1機関銃中隊)がいました。この人のくわしい証言が『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇』(御田重宝著  徳間文庫1989年12月15日初刷)に掲載されています。


 中山仁志上等兵 (当時22才) は1939年 (昭和14年) 8月27日に重傷を負いました。中山上等兵の班長だった川崎英男伍長がそのときの状況を日記に書いていました。


 〈川崎英男伍長の日記から〉
  (※8月27日)午後2時、敵戦車約10台に包囲された。身辺に炸裂する砲弾に
  今度こそ、今度こそと幾度目をつむったかわからない。

   この戦闘で森田部隊(※歩兵第71連隊のこと)も相当やられた。機関銃中隊
  でもほとんど全滅かと思われるほどで、ことに指揮班は錯上1等兵戦死、中山
  上等兵重傷 …… 。 [引用終]   
  (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇  P237』引用)


 中山上等兵は意識不明であり、軍医は見込みがないと判断していました。陣地の残存兵は、戦車に包囲されて壊滅した陣地から脱出して、集結命令の目的地、23師団戦闘指令所めざして歩きました。川崎伍長は小銃と天幕で担架代用品を作って同僚と2人で中山上等兵を引っ張って歩きました。しかし8月30日、川崎伍長も負傷。中山を連れて移動はできなくなりました。
 (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇  P238』依拠)


 8月30日午後6時、23師団戦闘指令所一帯にソ連軍戦車と狙撃兵が来襲しました。狙撃と投げ込まれた手榴弾による犠牲が多数出ました。そのとき、師団参謀長岡本大佐も手榴弾で右ひざをつぶされました。すぐさま土盛りの手術台を作りカムフラージュテントの下で、師団軍医部長村上大佐が執刀して局所麻酔だけの右膝切断手術が行われました。


 23師団諸隊の陣地はどこでもソ連軍に包囲されており、このような近接戦闘をくり返して、陣地は次々と戦車に蹂躙されていきました。特に火炎放射戦車の接近攻撃を受けた陣地は、短時間のうちに抵抗力を失いました。


 陣地から退去できなかった負傷兵は中山上等兵のように殺されなかった者もいれば、銃剣突撃で飛び込んできたソ連兵につき殺された者もいました。また、火炎放射で焼かれた者もいれば、戦車のキャタピラでつぶされた者もいました。


 幾千という将兵が曠野に斃れて残されたままでした。伝令に出て帰らなかった将兵は同じ曠野のどこかで人知れず一人二人だけで斃れたのでしょう。


 このように破滅的な逆境の戦場に重傷兵を残して第23師団本隊はノモンハンめざして撤退してゆきました。ただ小松原師団長は片足切断したばかりの岡本参謀長を連れ帰るよう部下に指示していました。それに比して師団戦闘指揮所に集められていた残置重傷兵には捕虜にならぬよう自殺用手榴弾が置かれました。


 敵軍包囲環の中で分断されたままの諸隊残兵もそれぞれに23師団本隊を探しつつ追随してノモンハンを目ざしました。

 (ここまでは朝日文庫  アルヴィン・D・クックス著  1994.6.1.第1刷発行 
  『ノモンハン ③  第23師団の壊滅  第26章 第23師団の壊滅』 に依拠 



 さて、23師団本隊が退去するのと入れ替わりに、ソ連兵が重傷兵くぼ地に進入してきました。手榴弾を次々に投擲して日本兵の抵抗がないことを確認してから、くぼ地の内や外周近くに斃れている日本兵を蹴飛ばして生死を確認していました。


 こうして中山仁志上等兵はほかの負傷兵といっしょに捕虜になりました。トラックに乗せられてあちこちモンゴル領内を移動している間に銃殺されるに違いないと思い、銃殺されるのを待っていたそうです。


 捕虜になることはとんでもない不名誉なことで、軍に戻っても故郷に帰ってもどのような扱いが待っているかわかりません。中山上等兵にはそれがわかっているので、死ぬことばかり頭にあったと言います。


 しかし銃殺はなかった。モンゴル領をトラックで移動し、シベリア鉄道のどこかで200人か300人かの捕虜といっしょに鉄道に乗せられてソ連領のどこかの収容所に送られた。その次に、チタの収容所へ移送されました。



 〈中山仁志上等兵の証言──チタの捕虜収容所〉
   乗せられた列車がシベリア鉄道だったことは確信があります。停車場には
  止まらないで白樺の林の中で止まったりしながら何日も走りつづけました。
  そしてチタについたのです。

   チタにはソ連の政治犯を一カ所に集めた町がありましたね。刑務所の町で
  す。そこの赤レンガの大きな2階造りの建物に私たちは入れられたのですが、
  監視つきですし、お互いに話す機会はなかったですね。何人いて、どうし
  ていたのか不明です。

   紀元2600年
(※1940年=昭和15年)を記念して全員が集まったことがありま
  したが、その時、数百人はゆうにいましたね。航空大佐がいちばん上で、少佐
  が一人いました。尉官は相当数いたように思います。
   (注)少佐は、前回2023-08-20記事に書いた飛行第1戦隊長原田文男少佐です。中山  
    上等兵と原田少佐は同じチタの収容所にいたのでした  

   集会の部屋に入るともう隣は何をする人ぞ、で全くわかりません。しかし、
  私たちの入っていたような収容所がほかにもあったことは事実ですから、捕虜
  の総人員は相当数にのぼると思います。百や二百ではききませんよ。

   捕虜になったのは重傷で動けぬままにつかまったのがほとんどですが、道に
  迷って20日間ほど戦場をさまよった果てに捕虜になったものがいました。

   共通していることは、捕虜同士はしゃべらないということで、お互いに捕虜
  になったことを内心では非常な不名誉と考えていたのです。私だって、終戦に
  なって、やっと幾分気が楽になったほどですから戦争中は全くいやでしたね。
  [引用終] 
   (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇  P243』引用)
 

 中山上等兵が原田少佐や大徳中尉と同じチタ捕虜収容所にいて、同じ1940年(昭和15年) 4月27日に日本側代表(第6軍参謀長藤本鉄熊少将 )に引き渡されました。



 『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇』P245に、中山上等兵の証言があります。

 〈中山仁志上等兵の証言──チタの捕虜収容所〉
  「捕虜交換で満洲里についたことは記憶にありますが日時は不明です。覚え
   ていません」
  (著者注記:昭和15年4月27日の捕虜交換と思われる。場所は満洲里駅前だった。)
  「捕虜交換用の幕舎があったことだけは記憶に残っています」
  「藤本鉄熊少将が委員長でした」 [引用終]     


 上の著者注記のうち「場所は満洲里駅前だった」というだけでは、日ソ捕虜交換が満洲国領土内で行われたという認識まちがいを生みます。

 満洲里はソ連・モンゴル・満洲の三国国境結節点至近の町であり、満洲里駅はシベリア鉄道につながっている国境の駅です。「ソ連軍による日本軍捕虜解放の場所が満洲里駅前だ」と注釈なしに聞けば、日本人なら単純に満洲領内の満洲里駅と思いこむことでしょう。

 しかし優勢に戦争を終わらせたソ連軍が、数多の友軍将兵の命と引き換えに捕獲した日本軍捕虜を解放するのです。そうした事情から、おまえんとこの捕虜を返してやる …… ありがたく思って取りに来い、という形になるのは仕方ありません。劣勢の日本側が辞を低くして、ソ連領土内で日本軍捕虜を受け取るのがあたりまえの形だろうと思います。



 『ノモンハン戦④ 』P114では以下のように記述しています。
    (注)上記の一、二、①、②、はkawamotoが付しました。            


一、 [『ノモンハン④』P114引用]     午後1時、国境のソ連側の駅前広場で、第六軍参謀長藤本鉄熊少将と幕僚はトラックを待たせたまま、ソ連軍代表と握手し、日本軍捕虜77人(停戦後抑留された加藤大尉らを含む)と満軍39人を一人ずつ確認しながら受け取った。その際、日ソ合意に基づきソ連軍捕虜2人が引き渡された。[引用終]  

   ノモンハン戦争で日本軍を叩きつぶしたソ連軍は、優勢な立場で日本に応対できる
  立場にあります。戦場はモンゴル領内でした。幾千の将兵が曠野に斃れたままです。
  停戦後に、日本軍はソ連軍・モンゴル軍の監視下で戦死遺体の収容作業を実施しまし
  た。そして1940.4.27、ソ連側は捕虜116人を解放し、日本側は捕虜2人を解放した
  のです。

   こうした事情を知るならば、ソ連側がソ連領内の駅前広場で日本軍捕虜を解放した
  ことは外交常識に合っています。ソ連が満洲国領内に来て日本軍捕虜を解放すること
  は、なかなか考えづらいことです。

   満洲里駅はシベリア鉄道につながっていますから、上記一の「国境のソ連側の駅前
  広場」ということであれば、満洲里駅にはソ連・領内駅前広場があるのかもしれませ
  ん。


二、 [同じく『ノモンハン④』P114引用]  
 ① 引き渡された捕虜を運ぶ日本軍のトラックは、満洲里を迂回して市外の駅に向
  かった。
 ② その途中、歩兵が訓練をしているのが見えたが、その指揮官は部下に対して、
  視線を落とし、みすぼらしい捕虜を見ないよう命令した。[引用終]  

   上の①と②共に、陸軍がノモンハン戦争の実態をできる限り隠そうとしていること
  がわかります。そのために、ノモンハン戦争従軍将兵を国民からできる限り隔離して
  おきたいという政府・軍の方針が露わになっています。



 ソ連から引き取った捕虜を護送するトラックは、満洲里を迂回して市外の駅に向かい(※駅名はわかりません)、その駅で捕虜専用列車に乗り換え、吉林にある新站陸軍病院分院に護送されました。これは『ノモンハン④』P114~P116に詳しく書かれています。

 一方、『ノモンハン戦 壊滅篇』P245で、中山仁志上等兵はトラックを降りて「列車に乗せられ新京まで行ったんですが」、「新京陸軍病院の分院があって、そこで私たちは藤本少将の取り調べ受けたと思うんですが」と証言しています。

『ノモンハン④』では、捕虜は新站陸軍病院分院に収容されたとなっています。「站」という字には中国語で「駅」という意味があります。そうなれば、新駅陸軍病院分院ということで、どうもしっくりしません。

 したがって、ここでは吉林にある新京陸軍病院分院としておきます。

 これを整理すると、帰還捕虜護送列車は満洲里市外の駅から出発し、新京駅を通って吉林駅で捕虜をトラックに乗せ換えて陸軍病院分院に到着したことになります。負傷兵は歩くことは困難でありましょうし、軍は捕虜の姿を市中に見せたくありません。捕虜は、吉林駅から病院までトラックで運ばれたと考えます。



 〈中山仁志上等兵の証言──取り調べ、監視〉

   陸軍病院で私たちは藤本少将(関東軍第6軍参謀長)の調べを受けたと思
  うんですが、「陛下の特別のお言葉でお前たちは罰しない。しかし本当のこ
  とは言え」ということで、まず捕まった状況の説明から取り調べを受けまし
  た。

   判決は、「勲功ゼロ。重謹慎20日間。ただ降等をせず、軍隊手帳にも記入
  しない」とのことでした。それから20日間分院で謹慎していたのですが、毎
  日軍人勅諭を言って座禅を組むだけでした。作業なんか一切無しです。です
  が、ここは一種の地獄で自殺者がかなりありました。将校は全員自殺したの
  ではないでしょうか。原隊から面会に来てピストルを置いて帰るのです。

   新京陸軍病院の分院では、憲兵が衛生兵に化けて私たちを監視し、ささや
  きに注意していました。

   将校が自殺を強いられたことは前にも申しましたが、死ぬと分院内がどう
  しても騒々しくなりますから、「またやったな」とわかります。曹長以下は
  助かったのですが、いかに将校とは言え、投降したわけではないんですから、
  自殺を強要するなんて、ひどい陸軍だと思いましたね。 [引用終]   
  (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇  P245』引用)



 〈中山仁志上等兵の証言──退院 → ソ満国境へ転属〉

   20日間の謹慎が済むと関東軍憲兵司令官が精神教育をやります。
  「捕虜になったことは秘密にせよ。親兄弟にも内証にせよ。捕虜になったも
  の同士の文通もダメ。道で出会ってもあいさつもするな。それに違反すれば
  軍機保護法で処罰する」という内容のものでした。

   新京の分院を退院して、私は関東軍の浜田隊と言っていたソ満 (ソ連・満
  洲) 国境の陣地構築舞部隊に入れられました。捕虜だった兵隊は私一人です。
  二人一緒ということは絶対になく、全員バラバラにして各隊に配属されたの
  です。浜田隊は牡丹江から北に入った、石炭層のある鶴崗かくこうという山の
  中にありました。

   軍属でもなし、警備隊でもなし、といった、妙な立場に置かれました。部
  隊長は少将か中将でしたが、
   「お前は何もせんでもよろしい。満期までここでやれ」
  と言われました。部隊の任務はソ満国境のトーチカを構築する秘密部隊です
  から私たちのような身分の兵隊にはもってこいの隠れ家だったわけです。

   日記などの記録を一切つけなくなったのは捕虜になってからで、できるだ
  け忘れたい気持ちでいっぱいでした。全くいやな毎日でした。

   そこで現地満期になりました。大東亜戦争の始まるちょっと前だったと思
  います。 [引用終]     
  (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇  P247』引用)



 〈中山仁志上等兵の証言──兵役満期除隊後まもなく軍属徴用 → 奉天へ〉

  (ソ満国境で兵役満期になってからほどなく)軍属の徴用令が来て、奉天
 (※満洲国、現在は中国瀋陽市)にあった南満洲兵器補給廠879舞台に入りました。
  すると部隊長が私だけを呼び、
  「君の前歴は知っている。ひがまないようにしっかりやってくれ」
   と言うのです。どこまでいったも前歴がついて回っていましたね。

   879部隊で終戦を迎え、昭和21年7月に舞鶴に上陸したのですが、終戦で
  少しは気が楽になったというものの今もって古傷にさわられるのはイヤなん
  です。教育とは不思議なものですね。

   今でもソ連に残っている捕虜がいることを私は信じます。収容所にいる時
  に、何人かは部屋に戻って来なかったですからね。その人たちはソ連に居残
  った人たちのはずですから。 [引用終]      
 (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇』P248 引用) 

 ノモンハン戦争従軍将兵に対しては「口封じ」人事が行われました。

※登場人物の証言はもちろん、1945年無条件降伏後に相当の年数を経過したあとのものです。そうなのですが、ブログ文中では昭和戦前の従軍当時の位階で呼んでおります。ご了解よろしくお願い致します。



コメント

<ノモンハン捕虜帰還将校2名> 日本軍の自決システム──撃墜されて捕虜 → 帰還 → 陸軍病院 → 軍説得の拳銃自殺

2023-08-22 08:37:28 | Weblog




 1939年(昭和14年)は年初からモンゴルと満洲国の国境で小競り合いがつづきました。そして日本軍とソ連軍が本格的に衝突した1939年(昭和14年) 5月11日に始まり、日ソ停戦が成立した9月15日までのおよそ4カ月間の国境戦争をンモンハン戦争と言います。

 ノモンハン戦争はモンゴル領土内で戦われ、日本・満洲国連合軍とソ連・モンゴル連合軍の双方ともに2万人前後の死傷者を出しました。



〇 第7飛行団  飛行第1戦隊(戦闘)(1939.6.22.戦場出動)
  戦隊長    中佐  加藤敏雄  戦傷 7・12
   〃    少佐  原田文男  戦死 7・29
   〃     少佐  吉田 直
  戦隊付    大尉  牧野靖雄
   第1中隊長 大尉  高梨辰雄  戦傷 7・22
    〃    大尉  井上重俊
     付   中尉  小泉正三  戦死 7・23
     付   中尉  本間富士雄 戦死 7・24
     付   中尉  安原三郎  戦死 8・22
   第2中隊長 大尉  山田計介  戦死 7・21
    〃(代) 中尉  伊東 俊  戦死 7・24
    〃    大尉  増田 巌  戦死 8・24    
    〃(代) 中尉  谷島喜彦  戦死 8・25
    〃    大尉  小柳武次郎  
     付   中尉  野口久七 
     付   少尉  田口長蔵  
   第3中隊長 大尉  岩橋譲三 第11戦隊第4中隊長より
     付   中尉  福田徳郎

〇 第12飛行団  飛行第11戦隊(戦闘)(1939.5.23.戦場出動)
  戦隊長    大佐  野口雄二郎  8・31転出
   〃     少佐  岡部 貞
   第1中隊長 大尉  島田健二  戦死 9・15
     付   中尉  光富貞喜  戦死 6・27 
     〃   中尉  三浦正治  戦傷 7・6
     〃   少尉  長谷川智在
     〃   准尉  篠原弘道  戦死 8・27          
   第2中隊長 大尉  本村孝治  戦死 8・22
     〃   大尉  谷口正義  
     付   中尉  天野逸平  戦死 6・24     
     〃   中尉  井上重俊  
     〃   中尉  滝山 和   
     〃   少尉  山口末雄  戦死 7・23    
     〃   准尉  花田 守     
   第3中隊長 大尉  藤田 隆  戦傷 7・4
     付   中尉  大徳直行  戦死 7・6       
     〃   准尉  東郷三郎        
   第4中隊長 大尉  岩橋譲三 第1戦隊第3中隊長へ 

 上の表は、アルヴィン・D・クックス著『ノモンハン④  教訓は生きなかった』P372、374記載のノモンハン戦争従軍将校名簿です。生死未確認の者は「戦死」の分類に入っています。



 ノモンハン戦争の翌年春、1940年(昭和15年) 4月27日、ソ連のチタ収容所から日本軍捕虜77人と満洲国軍39人が釈放されて、日本側に引き渡されました。捕虜受け取り側の代表は第6軍参謀長藤本鉄熊少将。第6軍は壊滅した第23師団の上部組織です。

 捕虜たちは痩せ衰えた体に、半年前に捕虜になったときと同じ汚れた軍服を着ていました。多くの者は重傷で憲兵の助けがなければトラックに乗ることもできなかった。捕虜たちの中には、失明した者、手や足を失った者がおり、お互いに助け合って懸命になっていました。

 これらの兵たちが戦場で敗れたとき、彼らに自決する力すらなかったのは明らかだ。『ノモンハン④ 教訓は生きなかった』の著者アルビン・D・クックスは、そう書いています。

 著者は、ノモンハン戦争について多くの資料に当たり、150人以上の日本人に会って、朝日文庫4冊本1584ページにまとめました。当然、日本軍の「捕虜になる前に死ね」という教えを知っているのです。


 釈放捕虜の中には、飛行第1戦隊長原田文男少佐と飛行第11戦隊の大徳直行中尉がいました。二人とも陸軍士官学校出身です。それぞれ、7月6日と7月29日の空戦で撃墜され、戦死したと思われていました。大徳の顔は熱傷でひどくただれていた。意識を失っている間に捕虜になったのです。

 藤本少将は捕虜引き取りに来た折に、整列した捕虜たちを前にして、これまでの苦労をねぎらいました。このことで原田少佐は自分はもはや生きるわけにはいかないと、自決する覚悟ができたという。逃げるわけにはいかない軍の自決文化に、殉じる決意が定まったということだと私は理解しています。


 原田少佐と大徳中尉は、ほかの捕虜たちとともにぼろぼろの軍服から白衣に着替えて、清潔な病院列車で吉林まで護送されました。憲兵が客車の両側の入り口を警備し、自殺しないようにと便所の戸はつねに開けたままにされていました。

 捕虜一行は真夜中に吉林にある新京陸軍病院分院病院に到着し、入れられた部屋の窓は開かないようしっかりと固定されていました。


 病院で藤本少将は、原田少佐と大徳中尉の心が和らぎ早々と自殺することがないよう願って、二人に酒、チョコレート、果物などを与えたりしました。

 しかし自決させないということではなく、藤本少将は軍法会議などの手続きを整えたうえでの自決をねがっていたのだと、私は思います。


 軍に定着している規範に、「敗軍の将校指揮官は生かすな」があります。
 これは自殺的に戦死すれば良し、敗軍して生還すれば自殺に追いこみます。

 これとワンセットになる規範があります。「捕虜になるな、その前に死ね」。
 この原則は初年兵に至るまで全軍対象の規範です。


 全滅近い指揮官は身の回りを整理し、上級指揮官に最後の戦闘報告をする伝令を定めたうえで、戦闘前線で拳銃自殺(自決)するか、自殺突撃をして果てるのです。指揮下の兵士も追従しなければなりません。これが、壊滅戦闘部隊を統制する師団長らが期待する最良の終わり方なのです。


 航空将校をこれにあてはめると、墜落する事態になぜ生き残るような操縦をしたのか、捕虜になる前にピストル自殺できなかった理由は何か、という取り調べを受けたのではないかと思います。

 これに対して軍の側は、個別の実情に合わせて陸軍刑法の条項を適合させ、これは最高の不名誉である、軍もこのようなことを進めたくないと説諭します。そして当人の敢闘をたたえ、故郷の家族も喜ぶだろうと軍人にとって「名誉の自決」を進めます。 ……このようにしてピストルを目前に置いて「当人の決意による自殺」という形式を勧めます。


 病院で勤務する者の大多数が憲兵でした。訊問は、最初の間は捕虜になったときの状況についてでした。軍法会議の前夜、衛生兵が棺桶を二つ病院に持ちこむのを見た、と言う人が何人かいる。警備にあたる憲兵ですら、二人の将校の部屋に近づくのを禁じられていました。

 そのあと、拳銃の発射音が聞こえた。原田少佐と大徳中尉が、自決に追いこまれたのでした。ある憲兵の話によると、非公開の6時間にわたる特別査問のあと、将校に拳銃が与えられたといいいます。原田少佐と大徳中尉が心を開いて話したのは航空参謀の三好康之大佐で、二人の自決を確認しました。三好大佐は自決の立会人を務めたのです。


 二人の自決をハイラルで聞いて悲しんだ者の中に、捕虜を出迎えに行った一行の一人であった特務機関員がいました。

 自殺に追いこまなければならない論理的根拠について彼が上司にただしたところ、機関長は「神さまのいたずら」だと答えたという。

 すなわち、「靖国7神社に英霊として祀られるには天皇のご裁可がいる。生きて帰ってきたのでは、天皇に対してだけではなく、靖国神社も冒とくしたことになる。この矛盾を、どう解決するか。それには自決しかない」と機関長は語った。


   ──今回の記事は、主に、朝日文庫『ノモンハン④ 教訓は生きなかった』
    アルヴィン・D・クックス著 P114~117に基づいています。




コメント (2)

<ノモンハン捕虜帰還兵軍法会議> 自決未遂で重営倉3日の上等兵、敵前逃亡で禁錮2年10カ月の戦闘機曹長

2023-07-20 04:25:15 | Weblog


 1939(昭和14)年、日本の傀儡国家である満州国(現代の中国東北部)とソビエト連邦(略称・ソ連、現代ロシア連邦の前身)の傀儡国家であるモンゴルとの間で国境争いが起きました。国境争いはすぐに拡大して、日ソ両軍の本格的な戦争になり、両軍ともにたいへんな死傷者を出して終わりました。

 この国境戦争は、日本の歴史では「ノモンハン事件」と記されているのですが、これは当時の大本営や関東軍の呼称が定着したものであり、実態は「ノモンハン戦争」です。

 日米戦争でこっぴどくやられる前のこの時代。支那派遣軍、朝鮮軍、関東軍と、国外派遣の日本軍は自信にあふれていました。

 それなのにノモンハン戦争の精鋭日本軍の将兵は、ソ連軍の大砲、戦車の前になすすべもなく死屍累々と倒れてゆきました。ノモンハン戦争の経過について勉強すればするほど、当事者である関東軍司令官、第6軍司令官、第23師団長など、こんな連中や同類たちの指揮下でわたしたちの父母・祖父母の世代が殺されていったのかと思うと、暗澹たる気持ちに沈むとともに戦争国家の不条理さに怒りがこみあげてきます。

 ソ連軍は戦車、長距離大砲を始め大砲数、砲弾を始め各種弾薬数、兵員数で日本軍をはるかに圧倒する布陣で対峙しました。日本軍の最前線は、英雄的ではない、献身的な、さらに献身的な戦闘の末に多くの部隊が壊滅しました。

 関東軍、第6軍、第23師団と上級指導部が全責任を負うべきなのですが、前線指揮官は次々負傷するか戦死するか、自殺突撃か自殺に追いこまれて悲劇的な最期を遂げました。もちろん将校の悲劇的最期はそれ以上に多くの下士官兵を伴っています。



〇 野戦重砲兵第1連隊第1大隊(1939.6.24.動員)
  連隊長    大佐  三嶋義一郎  戦傷 8・9 後送
  〃(代理)  少佐  梅田恭三   戦死 8・27
  〃      大佐  入江 元    9・11 新任
   観測    大尉  山本達雄   戦死 8・27
  第I大隊長  少佐  梅田 恭三    戦死 8・27 
  〃(代理)  大尉  山崎昌来   戦死 8・27
   副官    少尉  石川二郎
    〃    少尉  飯田源治   戦死 8・29
   観測    少尉  石川二郎
   通信    中尉  小池一郎   戦死 8・27
    〃    中尉  小川正利   戦死 7・20    
    〃    中尉  石井彦次
   第1中隊長 中尉  東久邇宮盛厚王 8・1 転出  
    〃    大尉  土屋正一  
   第2中隊長 大尉  山崎昌来   戦死 8・27    
    〃(代理)少尉  窪田次郎   戦死 8・27  
   小隊長   少尉  芦浦 一   戦死 8・27
    〃    少尉  木村貫一   戦死 7・18  
  第Ⅱ大隊長  少佐  林 忠明
   第3中隊長 中尉  谷田部大次良
   第4中隊長 中尉  曲 寿郎 
   段列長   中尉  河野伴三

 上記は、ノモンハン戦に従軍した野戦重砲兵第1連隊の将校名簿です。

 三嶋連隊長は8月9日に負傷、後送されました。三嶋の替わりに梅田第1大隊長が第1連隊長代理を務め、梅田の替わりに山崎昌来第2中隊長が第1大隊長代理を務め、山崎の替わりに窪田次郎少尉が第2中隊長代理を務めました。この第1連隊長代理、第1大隊長代理、第2中隊長代理の3名共に8月27日、戦死しました。自殺も戦死に含まれています。 



〇 捕虜になった根岸長作上等兵 

 根岸長作伍長勤務上等兵は野戦重砲兵第1連隊第1大隊に配属されていました。 

──ここから『ノモンハン④』朝日文庫 P124引用──
 8月26日夜、根岸が配属されていた第1大隊は、最後の砲弾を零分角で撃ちつくしてしまった。野戦重砲兵第1連隊長代理の梅田少佐は、包囲されている連隊の生存者に自決を命じ、自身も拳銃で自決し、範を垂れた (注)これは自決の模範例の一つです。 

 すでに重傷を負っていた根岸には短い時間ながら、妻や子供たちのこと、敵戦車に圧倒されたこと、自決しなかったらどうなるか等々、いろいろな思いが錯綜した。 

 短い時間を経て生存者は二人一組になり、階級章をはずし、言われたとおり壕に行き、そこでお互い相手を銃剣で突き刺して自決することになった。根岸は、相手になった補充兵の名前すら知らなかったが、二人で呼吸を合わせ、お互いの喉を銃剣で突き刺した。 

 意識を失った根岸が気がついたときは、日本軍の負傷兵とともに、ソ連軍の包帯所で横たわっていた。自決を試みたときの相手は見当たらず、剣は喉から抜き取られ、貫通した部分は包帯で巻かれており、あとで聞いた話によると、食道をわずかに外れていたということであった。 ──『ノモンハン④』朝日文庫 P124 引用、終わり──

 根岸長作上等兵はこうしてソ連軍の捕虜になり、8か月後に日本軍に引き渡されましたました。根岸は軍法会議にかけられたが、自決 (自殺) を図ったのは優秀な兵だと認められて、判決は重営倉3日間で済んだ。

 3日間の監禁を終えると、特殊帰還兵として新京陸軍病院に移された。根岸は、捕虜の汚名を着た以上、ソ連軍抑留所で使っていた仮名のままで満州に残るしかないと考えていました。しかし運命の分かれ目が訪れました。故郷に根岸長作の戦死公報が届いていれば帰郷はかなわず、そうでなければ帰郷を許されることになった。そして、故郷には「生死不明」と伝えられていることがわかりました。

 根岸は、新京陸軍病院で3カ月過ごし、日本の相模原陸軍病院に移されて2年間入院し、1942年12月25日に除隊して故郷に帰ることができた。ノモンハンで捕虜になってから40か月後のことでした。

 ノモンハン戦のソ連軍捕虜としては、根岸長作は恵まれた部類に入ります。それは、銃剣が喉を貫通していたという事実が、捕虜になることを拒否する行為の証明になったからです。それでも、警官が毎日見回りに来るという身柄であった。



〇 捕虜になった戦闘機操縦士・宮島四孝曹長 
  ──朝日文庫『ノモンハン④  教訓は生きなかった』アルヴィン・D・クックス著 P120

 宮島四孝曹長は飛行第24戦隊に配属された九七式戦闘機の操縦士で、飛行歴7年のベテランであった。6月22日に撃墜されたが、かろうじて愛機を不時着させることに成功した。愛機からはい出るやいなや、敵戦闘機の機銃掃射を浴び、愛機は使いものにならなくなってしまった。

 それから四日四晩、曹長は食糧も水もなしにさ迷い歩き、友軍の戦線にたどり着こうと必死の努力をした。その間ある夜霧雨があり、濡れた飛行服をなめて、のどをうるおした。

 5日目の払暁、人事不省で倒れていたところを、外蒙軍の歩哨につかまった。それから10カ月間、虜囚の身という苦悶の日々が続く。その間、脱走も自決もできず、銃殺してくれるよう懇願したが、それも受け入れられず、同房の他の捕虜たちとともにハンストに加わった。

 この大胆な抵抗のため、宮島は真冬の最中にもかかわらず暖房のない独房に入れられてしまった。これで気力を失ってしまい、これから訪れる過酷な運命、すなわち敵に捕らわれたまま死ぬか、釈放後の死刑を甘んじて受けることにした。

 1940年、日本軍に引き渡された宮島は訊問されたあと軍法会議にかけられた。簡潔ではあったが、法務将校や自分の隊の幕僚に見守られながら訊問され、検事論告が行われるといった型どおりの裁判が行われた。

 この不運な空の有志は、「敵前逃亡」という罪状で、禁錮2年10カ月、一等兵に降等という判決を受けた。撃墜されて3年半、ソ連軍と日本軍によって拘留されたのち、1942年12月31日、宮島は新京(長春)の関東軍刑務所から出獄した。



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1時間42分の戦闘で沈没した戦艦大和の戦死3056名 輸送船富山丸の魚雷沈没あっという間の2個旅団消滅

2023-07-10 15:17:36 | Weblog


2023-06-29
「自殺」を意味することばについて 私は「自決」ということばを好みません
2023-07-07
[自決] は軍隊用語です 「自殺」なのに事柄によって「自決」と言うのはなぜでしょうか





〇 戦艦大和と輸送船富山丸

 1939年(昭和14年) ノモンハン戦に関わる [自決] や [突撃死] の事例を紹介すると、前回に予告したのですが、その前に沖縄戦関係の艦船で2つの事例を見ていただきたく紹介いたします。
 
 一つは沖縄戦関係の艦船沈没では著名すぎるほど著名な戦艦大和です。
 そしてもう一つ知っていただきたいのが陸軍部隊輸送船富山丸の沈没です。
 



〇 戦艦大和、米艦載機との戦闘1時間42分で沈没
 
 戦艦大和は1945年(昭和20)年4月7日米艦載機の集中攻撃を受けて、屋久島西方海域で戦闘開始から1時間42分後に、沈没しました
  
 戦死者数や生存者数には異説もあるのですが、毎日新聞2020.4.7.記事「戦艦大和の沈没から沈没から75年 …… 」では、乗員3332名、生存者276名と書いています。
 
 この数字は、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築しているデータベース https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000064489
で三重県立図書館が答えている人数と同じであり、ここではこの数字を採ります。
  
 そうしますと、戦艦大和戦死者 3332名ー276名=3056名
  
 戦艦大和のことを書いた本は山ほどあります。ここで話す必要のないことですが、有賀艦長や伊藤第2艦隊司令長官も大和とともに沈んだ。


<戦闘始まる>
7日 12:08、機関故障で艦隊から遅れていた「朝霧」から入電「敵機ト交戦中」。
    12:21、「朝霧」から入電「90度方向ニ敵機30数機ヲ探知ス」。
      この後通信途絶。艦とともに乗組員326名全員、消息不明。

7日 12:41、米軍機第一波113機の攻撃始まる。
        まず「濱風」被弾、沈没。つづいて「矢矧」被弾、航行不能。
    13:20、米軍機第二波167機来襲。
  14:23、戦艦「大和」沈没。第1波来襲からたった1時間42分後の沈没

<第1艦橋の惨状>
 藤原英美は伊藤司令長官がいる第1艦橋で20倍双眼望遠鏡3番見張の任務についていた。第1艦橋にある視界を確保するための窓が三方にある。そこを米軍機に機銃掃射された。藤原の右隣にいた兵がグエッという異様なうめき声をあげて倒れた。振り向くと、胴体が血を噴き出しながら倒れていて、首は目と口を開けたまま数メートル離れたところに転がっていた。彼が爆弾の破片にやられたのか機銃掃射にやられたのかわからないが、ほかにも数人が倒れて床に血が流れていた。(岩波新書「戦艦大和  生還者たちの証言から」2007.8.21. 1刷  P.87)

<艦内溺死──生きて海水から脱出できず>
 大村茂良は応急員だった。持ち場は右舷後部。戦友が下甲板の一室にいた。「浸水してきたハッチを開けてくれ!」と、まだ通じていた艦内電話で訴えてくる。大村が階段を下りていくと、ハッチのあたりは深く浸水しており、近づけない。「すまん、開けられない」と応じると、戦友は「万歳!」と叫んで通信を絶った。(岩波新書「戦艦大和  生還者たちの証言から」2007.8.21. 1刷  P.89)




〇 輸送船富山丸、魚雷沈没 2個旅団の将兵、無抵抗で溺死壊滅

 西大洋漁業所属 7,089総トン。1944(昭和19)年6月29日 07:25、徳之島亀津 北東12km付近で米潜水艦の魚雷3本を受けて沈没。(weblio=wikipediaに拠る)

 戦力不足の沖縄守備第32軍が待っていた2個旅団は無抵抗のまま、あっという間に海没しました

  輸送船富山丸の戦死者(遺族会提供資料=愛媛県護国神社HP 2014.6.30.)
  独立混成第44旅団第1歩兵隊  635名
           第2歩兵隊  762名
           砲兵隊    152名
           工兵隊      63名 第44旅団 計 1612名
  独立混成第45旅団歩兵298大隊  324名
           歩兵299大隊  419名
           歩兵300大隊  407名
           歩兵301大隊  404名
           工兵隊    150名 第45旅団 計 1704名
  沖縄第32軍兵器勤務隊      171名
  129野戦飛行場設定隊       127名
  宮古島陸軍病院          2名
       合計 3616名 (船舶輸送間における遭難部隊資料 陸軍)

 レファレンス協同データベースの「富山丸」の項には、魚雷攻撃を受けて「乗船部隊約4,600名のうち約3,700名が行方不明となった 」と記載されています。

 富山丸一船の死者数が3600であっても3700であっても、戦艦大和の死者数を大幅に上回る大事件に違いはありません。一船の死亡者数としては世界最大級の被害ですが、当時、この戦没は軍命令で極秘にされました。



 同じ沖縄防衛に関わる軍の消滅にあって、〈戦艦大和の戦闘たった1時間42分の消滅〉と〈富山丸2個旅団あっという間の消滅〉の処遇は、軍隊の持つ闇を露わにしています。後世の私から見れば、2つの消滅の共通点は、無益な強制死に追い込まれた運命の悲哀です。

 [自決] にもこのような軍隊の闇があります。



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[自決] は軍隊用語です 「自殺」なのに事柄によって「自決」と言うのはなぜでしょうか

2023-07-07 12:15:47 | Weblog





〇 [自殺] [自害] [自決] の用例分類

 現代国語例解辞典第二版(小学館)に、
 [自殺] [自害] [自決] の用例分類が載っています。

                  〈自殺〉 〈自害〉 〈自決〉
  ①責任をとって [**] する       〇      〇      〇 
  ②高齢者の [**] が増えている     〇    ──    ──  
  ③敵に囲まれて [**] する      ──    〇      〇    
  ④大坂夏の陣で [**]           ──    〇      △           
  ⑤捕らえた敵将に[**] を促す       ──    △      〇                  


 ①の用例は [自殺・自害・自決] の3つともに使われています。

 ②の用例は、長幼を問わず普通の生活人が死ぬことを選ぶと 、一般的に [自殺] と
いうことばで表すということになります。

 ③④⑤は戦闘に関係する事柄であるので、①も含めて戦闘に関係する職業人、すなわち軍隊の将校・下士官・兵士の自殺を特に [自害] [自決] と称するということになります。
 


〇 [自決] は軍隊のシステムです

  昭和戦後の世になってから、軍歴のない民間人が切腹したという寡少な例外はありましたし、手首を切って自殺を図るという自刃(自害)の例もあります。しかしこれらは個人的なことです。個人的な自殺行為を自決と呼ぶわけにはまいりません。


 広辞苑に [自殺] は、みずから自分の生命を絶つこと。
      [自決] は、みずから決断して自分の生命を絶つこと 
      [自害] は、自ら傷つけて自分の生命を絶つこと。     
      [自刃] は、自ら刃で生命を絶つこと。


 自分で自分を殺す [自殺] も自分で死ぬ [自死] も 自分で決断する [自決] も、自殺という意味を表すその他のすべての類語にあっても、その行為は、みずから決断して自分の生命を絶つ行為です。   



 しかし[自決] には、強制された[自決]がありました。
 軍隊の倫理慣習に反すると判定されれば、生きることが許されない強制自決。

 生きることが許されないと覚悟を定めた突撃死、戦場自決もありました。
 これは、方面軍や師団の大中少の将軍を満足させる死のあり方でした。

 自決しないで生還すれば、上位司令官が責任をもって自決を強制する。強制自決が完了すれば、この上位司令官は自決の責めに問われません。転属(多くの場合左遷)するか予備役編入(退役)となる。この考えは軍隊に貫徹されていました。


 こういう自決のシステムは現代の私の目に、士官学校や陸大出の高級将校クラブが国家の戦争を牛耳っていたように見えます。


 [自決] は軍隊のシステムなのです。
 失敗や敗北の責任を取って自殺するよう奨励されるのが [自決] です。



 一方、現に軍隊の将兵でもなく、将兵の経歴も無い人が、自殺の予告や遺書において、自分の死を[自決] と称する場合は、自分の自殺という行為について、普通の人とは異なる価値があるのだと思いたい心があるのだと思います。

 また、ある人の自殺を [自決した] と表現する人は、その人の自殺には普通の人とは異なる立派な動機があったのだと、周囲の人々に対して称揚したいのだと思います。ある人を [自決した] と表現する人自身が、称揚する人の死に方を通して何か自分の思いや主張を表現しているのです。 

 沖縄戦で住民の集団自殺を「集団自決」と呼ぶならわしは、それは国家のために必要な尊い死なのだと言い募りたい名付け親たちの気持ちの表現だと、私は思います。



 次回は1939年(昭和14年)の「ノモンハン事件」の自決や突撃死の例を二つ三つ、紹介しようと思います。「事件」と呼ばれていますが、実際には日本軍とソ連(現代のロシア)軍がお互いに全力で戦い、日本が敗北した戦争です。



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「自殺」を意味することばについて 私は「自決」ということばを好みません

2023-06-29 11:41:38 | Weblog


2023-06-23
きょうは「沖縄慰霊の日」 住民集団自殺の例を紹介します その1 慶留間島
2023-06-24
沖縄戦 住民集団自殺の例を紹介します その2 座間味島
2023-06-25
沖縄戦 住民集団自殺の例を紹介します その3終 渡嘉敷島、伊江島



 私は「自決」ということばを好みません。



〇 「自殺」を意味することばについて

 広辞苑第五版に掲載されている「自殺」と同様のことばを挙げてみます。

自害】自ら傷つけて自分の生命を絶つこと。自殺。自刃。自尽。
    「──して果てる」

自決】①みずから決断して自分の生命を絶つこと。自裁。「引責──」
    ②他人の指図を受けず自分で自分のことを決めること。「民族──」

自殺】自ら自分の生命を絶つこと。「服毒──」

自裁】自ら生命を絶つこと。自決。
自死】自殺。

自刎じふん】自ら首をはねて死ぬこと。 自分で自分の首をはねることは不可能
        なことと思うのですが、確かに広辞苑・角川新字源に掲載されています。


自刃じじん】自ら刃で生命を絶つこと。自害。

自尽じじん】自殺。自害。


これら8つの単語をグループ分けしてみます。


〇「自分で生命を絶つこと」というのは【自決】【自殺】【自裁】【自死】。
  この【自殺】グループ4語に共通するのは、「自分で生命を絶つこと」です。
  [自決] には「みずから決断して」という条件が付されています。自殺はみずから
  決断しなければできないことですから、4語とも共通しています。


〇 【自害】では、「自分で生命を絶つこと」に加えて「自ら傷つけて」という条件
  を強調しています。
自刎】【自刃】【自尽】は【自害】グループ4語に入りま
  す。


〇 めったに使われない【自裁】【自刎】【自尽】は今や死語と言えます。


〇 【自刃】【自害】では戦国時代の落城劇で頸動脈を切るシーンがあって [自刃]
  [自害] ということばを知っている人は多いのですが、この形態で自殺を図ること
  は現代ではほぼあり得ません。従って流通度の点で休眠語と言えます。


〇 【自殺】と【自死】の比較── 【自殺】は文字通りに読めば「自分で自分を殺
  すこと」で、【自死】は文字通りに読めば「自分で死ぬこと」です。自分で死ぬ
  ことを表現することばについて、私は [自殺] より [自死] の方が 適切だろうと思
  います。しかしながら、この2つの単語の流通度では [自殺] が圧倒的に高い。
   したがって、いくつかの[自殺] を意味することばのうちで
圧倒的な流通度を誇
  る【自殺】を使うのがもっとも自然である
という結論に落ち着きました。



〇 自殺の独特な死に方──切腹

 【切腹】は武士の時代の独特な死に方です。敗戦にけりをつける切腹、何かの責任を取る切腹、何かの罪に問われて強いられる切腹などがあります。腹を切るという方法、形態を表すことばが、同時に【自殺】を意味しています。幕末の政治動乱期は、何かの罪に問われて無念の切腹死を遂げた下級武士が非常に多かった時代です。

〈明治・昭和の切腹〉
 1912(明治45).9.30. 明治天皇大喪の夜 乃木希典陸軍大将切腹、静子夫人自刃
 1945(昭和20).8.15. 05:30  陸軍大臣阿南惟幾陸軍大将切腹、 正午 玉音放送

〈開国揺籃期の切腹〉 2023.7.1.追記
 1868(明治1) 戊辰戦争始まる 鳥羽伏見の戦い
 1868.2.15.   堺港警備の土佐藩兵が上陸見物のフランス水兵を銃撃、11人死亡
           外国兵との戦闘禁止下の発砲 関与は司令士と銃卒40人編成2隊
      2.19.   仏ロッシュ公使が土佐藩兵の処罰斬首と15万ドル賠償金を要求
      2.22.   大坂外国事務局役所で土佐藩士20名の切腹を決定   
      2.23.   切腹刑場は堺・妙国寺。土佐藩が執行。新政府は20名の警護を肥
         後藩細川家54万石と安芸藩浅野家42万石という大藩に命じて、外
         国に対して国の威信を示した。
          受刑者20名に駕籠20丁と従者120人、警護銃卒120人、大砲2門
        という立派すぎる妙国寺行き隊列で、同情的な世情を映して多くの
        人々が見送った。
          切腹そのものは11名で中止になった。検死のフランス側プチ・ト
        アール艦長がフランス側被害者11人目と同数で終わるよう現場で要
        請した。(この項、大岡昇平「堺港攘夷始末」中公新書1992.6.10.に拠る)

 開国と攘夷の狭間に起きた事件です。土佐藩側内情では、銃撃命令を出した土佐
藩隊長2人の切腹を認め、命令を実行した2隊銃卒80名については隊士として正当
と考えていた。囚人20名のうち隊長2名が士分で、18名は足軽身分で斬首刑相当だ
った。しかし土佐藩は足軽18名に士格相当・苗字御免・絹服着用・十文字切腹・介
錯という特別の礼遇を以って土佐藩の意思を示した。政治的な事情で「切腹」が動
いた



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