川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
★自分用メモは、新聞・Webなどのノート書きです。

ポータブルタイプライターとひらがな書き

2010-09-30 13:43:36 | Weblog


昔、わたしはオリベッティのレッテラブラックというトラベラースタイプの英文タイプライターを愛用していました。

英文タイプに慣れますと、ふつうに日本字を手で書くのが面倒になります。なんで日本語はこんなに不自由なんだ、と嘆いておりました。

そんな若いころ、現代の「メール時代」以前のことで、ごく親しい友だちとの通信に英文タイプローマ字書きハガキを送っていた時期がありました。これが不評。「読めない」「こんなもの送るな」という苦情が返ってきました。

参ったなあ、いいアイデアだと思ったんだけど。東京弁でそう思っているうちに、いろいろな通知書の宛名がカタカナ表記で送られてくることに気がつきました。

Windows98パソコンが普及する前の短年月はワープロ専用機が普及していて、そのまた前には「カタカナ打ち宛名」が使われていました。

カタカナ書きも読みづらいけれど、アルファベットのローマ字書きよりはましだ。そう思いましたが、英文タイプのように簡単に打てる、カタカナタイプライターを見たことがありません。一般用に売っているのかどうかさえわかりません。

そうこうしているうちに、ブラザーがカタカナのポータブルタイプライターを売り出しました。同じ価格でひらがなのタイプライターを受注販売していることもわかりました。短文をカタカナ分かち書き平文で書き、同じ短文をひらがな分かち書き平文で書いて、見比べてみました。結果、わたしはひらがなタイプライターを注文しました。

それからは、ブラザーのポータブルタイプライターを使って、ひらがなわかち書きの横書きでハガキを書きました。ひらがな打ちで日本語を書けることがうれしかった。受け取る側はあいかわらず不便だったでしょうが、ハガキの分量くらいなら、がまんできる範囲だったことと思います。アルファベットのローマ字書きのときのように、拒否反応が返ってくることはなかった。

ひらがなのわかち書きをしてみて、これは日本語文化を変える威力があるなと思いました。

「感じ」「漢字」「幹事」など、ひらがなでは「かんじ」です。顔をあわせて話しているときには、耳で「かんじ」と聞くだけで、この区別がつきます。これは前後の話のつながりでおたがいに理解しあえているわけです。なんの問題もありません。しかし、書く、読むということになりますと、次のような感じになります。わかち書きは我流です。


<堀辰雄「風立ちぬ」から> 初出1936年(昭和11年)
砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。

すなのようなくもが そらをさらさらと ながれていた。そのときふいに どこからともなく かぜがたった。


<「毎日新聞 2010年9月30日 13時11分」記事から>
与野党は30日昼の衆院予算委員会の理事会で、中国漁船の衝突事件の状況を撮影したビデオを提出するよう政府に求めることで合意した。政府は応じる方向だ。

よやとうは 30にちひるの しゅういんよさんいいんかいの りじかいで、ちゅうごくぎょせんの しょうとつじけんのじょうきょうを さつえいしたびでおを ていしゅつするよう せいふにもとめることで ごういした。せいふは おうじるほうこうだ。


‥‥いかがでしょうか。小説「風立ちぬ」の初出は1936年、それに対して毎日新聞記事は2010年です。特にひらがなタテ書きにして見ることで、文章について何かを感じ取ることができるでしょう。


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乙武さんのように尊敬できる人を知っています

2010-09-26 10:41:22 | Weblog


乙武さんが活躍している姿を見聞するときがあります。世の中の難儀はなんだって克服できるという気持ちになります。

これとは別に、乙武さんほどの重度障害者ではありませんが、私も立派な人を知っています。

片脚が悪くて、杖を持って元気に生活している女性を知っています。確か骨肉腫とかの病気だったと思います。そのために手術をして障害者になりました。発病は10年ほど前だったそうですが、とても活発で活動的な人です。この人と話していて、私は片脚に障害のある人へのいたわりといった気持ちになったことがありません。接する人にそんな気持ちを起こさせない活力があります。

もう一人の人は男性です。労災で片手の手首を落としました。その人が自分でそのことを話すまで、私は気づきませんでした。その片手にやわらかい手首をつけていたのです。よく見れば、一目で作り物と見分けがつきました。そしてそういうつもりで見ますと、その人は片手をよく動かしていますが、残りの片手はほとんど動いていません。物をつかめないのですから、自然にそういう身のこなし方になるのでしょう。

この二人の人は、接する人に陰を感じさせない人で、私は尊敬をしています。東京や外国やテレビ電波の向こうだけでなく、身の周りにも尊敬できる人がたくさんいます。


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会社の社会的責任に気づいたとき

2010-09-19 02:23:11 | Weblog


私のおじさんが起業して2年が過ぎたころ、その仕事を手伝うことになりました。それが奈良県人になるきっかけでした。

そのとき社員は、おじさんである社長のほかに私を入れて4人でした。会社は田舎ビルの貸事務所の小さな一室にありました。やがて3室を借りるまでになり、事業手腕に優れた社長のおかげで会社は発展し、起業10年後には地域にあって目をみはるほどの立派な貸しビルが建ちました。創業の貸事務所から1kmほどの所です。私たちの会社はオーナー会社として、そのワンフロアを占めました。

新しい自社ビルに入ってみると、世間の見る目がガラリと変わりました。そのときには20人ほどに増えていた社員の態度も変わりました。

まず、寄付の求めが増えました。自治会と赤十字への寄付は、貸事務所の時代は1軒分でした。それが10軒分くらいに増えました。新たに消防団への定期的な寄付を求められました。消防署から防火責任者講習を義務づけられました。警察署からは車両安全運転宣言を求められました。セールスに来る人が増えて、彼らの物腰が前より非常に低姿勢なものになりました。お得意先もちょっとだけていねいに扱ってくれるようになりました。

地域ではもっとも立派なビルの一つです。そのうえ二十人ほど社員がいれば、地域の有力企業です。まわりからチヤホヤされて、従業員の態度が前より大きくなりました。それにつれて、働きが悪くなりました。作業着で電車に乗るのはイヤ、という社員が出てきました。

これらは、新しい立派なビルができたゆえです。ほんの1カ月かそこいらで会社にかかわる内外の人のありさまが驚くほどに変わりました。

新しいビルの会社生活に慣れてくると、会社の社会的責任に気がつくようになりました。寄付の例のように、持ちビル会社になってから地域の人々から期待されることが出てきました。所在地の人々や団体にきらわれては仕事にも社員の気持ちにも支障が出ます。社員たちと地元の居酒屋やスナックに行くのでさえ、今回はここ、次回はあそこというように偏らないように気をつかいました。

会社は成長するにしたがって、社会から望まれるものが広がり重くなってくるのだということを実感し、経験しました。

ひるがえって今年は、いくつもの有名企業が「偽装請負」を摘発されています。人を少しでも安く使うために、有名企業の有能な社員が違法行為や脱法行為をしています。

就職面接で学生の質問に答えて、週休二日制にまちがいありません、残業はありますが忙しいとき以外はたいしたことはありません、などと言いながら、入社してみるとまったく違うという会社がたくさんあります。新卒の青年をだますことに、多くの会社の社長さんたちは心の痛みを感じないようです。


私の息子は新卒就職して1週間で離職しました。あまりにひどい会社なので、すぐにやめるよう離職をすすめました。娘は同様に1年で離職しました。帰宅が毎日終電というありさまなので、健康を心配して私も離職をすすめました。さいわい、二人とも新しい会社に就職しています。聞いてみると、友人にも1年以内で離職したのが何人かいるということです。

就職してから早い時期に離職するのは、大方は会社側に責任があると思います。多くのケースで離職青年の側に責任があるとは考えられません。

会社側の倫理観念がこういうありさまですから、経済指標で好況がつづいた時期にも個人の所得が減る一方だったことは納得がいきます。世の中の社長さん方の多くは、零細企業から大企業に至るまで、人を安く使いまわすことに才能を発揮しているということになります。「人件費率の低下」とは生産の自動化によらないものであれば、人をより安く使いまわすか、首切りということでしょう。


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