川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
★自分用メモは、新聞・Webなどのノート書きです。

人間は不平等なんです、なぜでしょう?

2005-12-17 11:50:55 | Weblog


人間は平等でなければいけません。これは人権思想の根本で、「法の下の平等」という考え方に表現されています。一方で、個性は尊重されなければなりません。個性を尊重するというとき、人間が一律のものではないということが前提になっています。

人間は平等に扱われなければいけない。機会は平等に与えられなければいけない。こういうことですが、周知の通り現実は平等ではありません。金持ちの子に生まれたり、貧乏人の子に生まれて大学に進学できなかったり、母一人娘一人で母を支えて婚期を失ったり、心身のさまざまな障害者であったり、その反対に若いときからずっとスターであったり、…と不平等きわまりありません。最貧国といわれるバングラデシュに生まれたり、福祉が整っているといわれるデンマークに生まれたり、と生まれる場所もいろいろです。

こんな自分の存在にまつわる人生の環境は、自分で選んだものではありません。私の知っている男性で、近年に離婚した人がいます。妻は娘を連れて家を出ていったそうです。知人は離婚に至った事情は妻が悪いように説明しています。私はそれをそのまま信用しているわけではありません。

その男性は今、高齢の父と二人暮らしです。父親は少しぼけておられるようです。知人は勤め人です。毎日、朝から日暮れまで家を空けます。留守宅ではヘルパーさんが父親の面倒を見ています。でも、毎日というわけにはいかないでしょうし、朝から晩までというわけにもいかないでしょう。

知人はいっています。勤務を終えて帰宅しても食事のことや家事のことで忙しい。休みの日だって忙しい。離婚してもう年月が過ぎて寂しい。再婚をしたい。結婚紹介所にも行っている。でも、ぼけた父と同居だったら誰も結婚してくれない。父に施設に入ってくれないかと頼んでも、今まで大きくしてやったのにといって取り合わない。結婚して家庭をもっている姉や妹に相談しても、困ったなというだけで知らぬ顔だ。

家を離れたくない父親の気持ちもよくわかります。なんとか再婚したいという知人の気持ちもわかります。夫に実家のぼけた父の面倒を見てくれなんていえない姉と妹の気持ちも当然です。

家族仲良く、豊かに暮らしている人が多いのに、こういうすくみ状態で苦しんでいる人もいます。不平等です。しかも努力や策では、なかなか解決できそうにありません。

人間は不平等な存在なんです。6月25日の記事「品川駅の出会いから必然の理解へ」で書いたように、すべて生起することは「必然」です。原因と結果は必ず相応しています。「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」という法則です。

生まれ落ちたときから、人はそれぞれ個性的な、あるいは特有の環境のもとにあります。原因と結果が相応するということから推測すると、これは生まれる前に原因があるということになります。これから先は宗教や哲学の分野です。

しかし、宗教や哲学といっても高尚なものではなく、私たちの生活感覚で理解できないものは何の意味もありません。宗教や哲学は「生きていくために役立つ」ものでないと意味がありません。
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高齢時代に見る人の傾向性の単純化と濃縮化

2005-12-11 03:06:25 | Weblog


「近ごろの若者は…」という年長者の繰り言を、このごろは余り聞かなくなりました。この決まり文句ほどばかばかしい決めつけはないので、いいことだと思っています。

さて、私が見てきた経験でいいますと、「老成する」という決まり文句もあてになりません。年を経て円熟味を増すという人はいるにはいるのでしょうが、それよりも頑なな度合いを増したり、体面を張る度合いが強くなったりする人の方が多く目につきます。

人の性格や人となりは一筋縄ではいきません。家庭でのシーン、仕事場でのシーン、幼なじみとの邂逅のシーンなどと、それぞれに別人のような素顔を見せるものですね。

一人の人がシーンごとに違った人柄を見せるのは、性格や人となりが数多くの要素で成り立っていて、一人の人が多面的で複雑な存在であることを示しています。それでも日常的には、「あの人は威張りだけど、傘の下に入ると義理人情に厚い」などとタイプ分けをして、その人の人となりの傾向性を捉えます。傾向性とは、複雑で多面的なその人の人となりのうちの主導的なものと言えるでしょう。

高齢になると一般的に体力・筋力が衰えます。脳力が衰えます。いくつもある要素の数が減って、人となりの複雑さがより単純化してきます。若いころにいろいろやってきたすべての生活行為の性格が濃縮され、より単純化されて目立つようになります。人前で装って見せてきた要素が衰え、その人の本性に係わる要素がより強く生き残っていきます。

先の例でいえば、「義理人情に厚い」というホットな性分が衰えて、「威張り」という部分だけが残って目につくというわけです。年を加えれば加えるほど、良い部分が弱くなって相対的に悪い部分が目につくようになります。すでに亡くなったり高齢になったりしている身内や身近に知っている人々を見てきた実感です。

人は生きてきたようにしか老いられない、といいます。本当にその通りだという感を強くしています。ささやかなささやかなことでいいから、何かしら人のために役立つことを思い行って、自分の命に刻みつづけていかねば、平安な晩年を迎えられないような気がします。

終わりにつけ加えますと、私の母は脳梗塞を発症して軽度のボケが出るようになってから、何事にも感謝するようになりました。些細なことにすぐ、ありがとう、ありがとうと感謝しています。感謝することで、母本人が幸せそうな表情を見せます。息子の私はまた、そんな母の姿を見て、ありがたいと感謝しています。


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