人間は平等でなければいけません。これは人権思想の根本で、「法の下の平等」という考え方に表現されています。一方で、個性は尊重されなければなりません。個性を尊重するというとき、人間が一律のものではないということが前提になっています。
人間は平等に扱われなければいけない。機会は平等に与えられなければいけない。こういうことですが、周知の通り現実は平等ではありません。金持ちの子に生まれたり、貧乏人の子に生まれて大学に進学できなかったり、母一人娘一人で母を支えて婚期を失ったり、心身のさまざまな障害者であったり、その反対に若いときからずっとスターであったり、…と不平等きわまりありません。最貧国といわれるバングラデシュに生まれたり、福祉が整っているといわれるデンマークに生まれたり、と生まれる場所もいろいろです。
こんな自分の存在にまつわる人生の環境は、自分で選んだものではありません。私の知っている男性で、近年に離婚した人がいます。妻は娘を連れて家を出ていったそうです。知人は離婚に至った事情は妻が悪いように説明しています。私はそれをそのまま信用しているわけではありません。
その男性は今、高齢の父と二人暮らしです。父親は少しぼけておられるようです。知人は勤め人です。毎日、朝から日暮れまで家を空けます。留守宅ではヘルパーさんが父親の面倒を見ています。でも、毎日というわけにはいかないでしょうし、朝から晩までというわけにもいかないでしょう。
知人はいっています。勤務を終えて帰宅しても食事のことや家事のことで忙しい。休みの日だって忙しい。離婚してもう年月が過ぎて寂しい。再婚をしたい。結婚紹介所にも行っている。でも、ぼけた父と同居だったら誰も結婚してくれない。父に施設に入ってくれないかと頼んでも、今まで大きくしてやったのにといって取り合わない。結婚して家庭をもっている姉や妹に相談しても、困ったなというだけで知らぬ顔だ。
家を離れたくない父親の気持ちもよくわかります。なんとか再婚したいという知人の気持ちもわかります。夫に実家のぼけた父の面倒を見てくれなんていえない姉と妹の気持ちも当然です。
家族仲良く、豊かに暮らしている人が多いのに、こういうすくみ状態で苦しんでいる人もいます。不平等です。しかも努力や策では、なかなか解決できそうにありません。
人間は不平等な存在なんです。6月25日の記事「品川駅の出会いから必然の理解へ」で書いたように、すべて生起することは「必然」です。原因と結果は必ず相応しています。「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」という法則です。
生まれ落ちたときから、人はそれぞれ個性的な、あるいは特有の環境のもとにあります。原因と結果が相応するということから推測すると、これは生まれる前に原因があるということになります。これから先は宗教や哲学の分野です。
しかし、宗教や哲学といっても高尚なものではなく、私たちの生活感覚で理解できないものは何の意味もありません。宗教や哲学は「生きていくために役立つ」ものでないと意味がありません。