川本ちょっとメモ

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安倍政権の「世界一軍事大国アメリカ護衛」妄想、「憲法を解釈で変えてはいけない」は高校生でも分かるのに

2014-05-28 02:58:53 | Weblog



 ※毎日新聞2014年05月27日大阪夕刊、作家・高村 薫さんのインタビュー記事を転載いたします。


 「本当にこんなバカなこと、やる気なんですかねえ」

 「解釈改憲の先にあるもの」について高村薫さん(61)に聞きたくて、大阪府吹田市の自宅にお邪魔した。だが高村さんは首をかしげ「本当に」と何度もつぶやく。「先にあるもの」どころか、手前の「集団的自衛権の必要性」からして「まったく理解ができません。それにそもそも、憲法って解釈するものなのでしょうかねえ」と、逆に問いを投げかけるのだ。

 「今の日本って妄想だらけだと思うんです。妄想があらゆるところを覆っている……」。2時間弱の取材で「妄想」を24回も発した。

 1997年にスタートした「この国はどこへ行こうとしているのか」シリーズ。その初回、グリコ・森永事件をモチーフに日本の企業社会の闇をえぐり出した小説「レディ・ジョーカー」の出版を前に登場してもらった。

 この時、高村さんはバブル崩壊の影響とグローバリズムにさらされる日本社会について「これから『悪い時代』になっていく」と予見した。その後も「『悪い時代』が現実感を伴ってきた」(2006年)、「将来のことを考えるのがこんなにつらい時代が来るとは思わなかった」(12年)と、年を経るごとに重く、厳しい言葉で時代を評した。その高村さんから「妄想」という言葉が飛び出すのは初めてだ。

 「集団的自衛権の問題一つとっても今の時代、世界のどこに世界一の軍事大国・米国を攻撃する国があるんですか。その米国を日本が守る? そんな事態が本当に起こると思っているのか。すべて安倍(晋三)さんたちの妄想としか思えません。しかも憲法は時代を超えて私たちの思考の基礎になるもの。その時々の人が解釈するものを憲法とは呼びません。解釈改憲こそ妄想の最たるものです」。困ったことに、その「妄想」が現実になろうとしている。

 解釈改憲を急ぐのは尖閣問題で緊張する中国の存在が一つの理由らしい。「でも考えてみてください。中国との関係悪化にしても、もともとは日本の尖閣国有化に端を発したものです。それに安倍さんの靖国参拝が火を付けた。なのに『中国の出方は脅威だ』という空気の中で解釈改憲しようとしている。本来、日本の外交努力で解決できる問題のはずでこれも妄想です」

 なぜ「妄想」がまかり通るようになったのか。そう問いかけると「最近、日本の経常収支の黒字が1兆円を切ったというニュースがあった。これは実に大変なことです」と意外な方向から切り返してきた。

 12日に財務省が公表した13年度の日本の経常収支の黒字が、比較可能な85年度以降で初めて1兆円を下回り、7899億円になった。つい数年前まで10兆円以上あったにもかかわらず、だ。「すでに日本は貿易収支が赤字です。日本が国際的にどれだけもうけたかを示す経常収支ですらいよいよ赤字に陥る時代が近い。日本が右肩下がりの時代に入ったことが如実に示された」

 経済が元気な時は、人々は未来や社会に希望を抱ける。でも右肩下がりの時代はどうか。高齢化が進み、企業も生産拠点を海外に移す。年金も仕事も不安だ。10年、20年後、自分が食べていけるかも見通せず、余裕がない。

 「仮に安倍さんが『妄想』を並べ立てても、国が元気な時なら余裕があるから『妄想』だと気付くし、指摘もするし反対もする。今はみんな自分のことで手いっぱい。『妄想』と気付かないし、気付いても『まあいいや、アベノミクスで経済が良くなるなら』。そもそもみんな社会の先行きに関心がなくなった。安倍政権の言葉や政策に中身がないとうすうす分かっていても批判せず、良い方向に持っていく努力をしなくなった

 第一次大戦後、莫大(ばくだい)な賠償金にあえぐドイツの民衆がナチスの掲げる「妄想」に吸い寄せられ、戦前の日本が「大東亜共栄圏」という「妄想」に酔って無謀な戦争になだれ込んだ歴史と、今の日本を重ね合わせるのは大げさに過ぎるだろうか。

 高村さんは視線を落とし「最悪の想定ですが、集団的自衛権が必要という妄想から覚める劇薬はある」という。

 集団的自衛権行使が認められれば、米国の戦争に日本がコミットする機会が必ず来る。そうなれば自衛隊員に戦死者が出る。あるいは自衛隊員が他国の兵士らを殺害する。戦後初の事態に多くの日本人から拒否反応が出るだろう。「ここでやっと妄想から覚める。集団的自衛権で得たものは何もない、戦死者を生んだだけだ、と」。苦しそうに表情をゆがめた。

 これ以外に「妄想」から覚める方法はないのか。高村さんは「日本社会に今一番必要なのはパブリック、つまり『公の心』です」と繰り返す。

 普通、公共心とは「自分よりも社会の利益を優先する心」と解される。高村さんのいう「公の心」はもっと広い。「愛国心」とも違うし、例えばごみのポイ捨てをしないといった公共のエチケットとも違う。「民主主義を支える、当たり前のルール」に対する心がけや思いだ。例えば少数派の権利が守られているか、きちんと法的な手続きが順守されているか、他人の権利を侵害していないか、などに気を配る目線のことだ。

 「その見方に立てば民衆だけでなく、今の政治にも『公の心』が全く欠けています。公人である安倍首相が率先して『自分の公約だから』と個人の情念で靖国神社に参拝する。『憲法は解釈で変えてはならない』のは高校生でも分かるのに、自分の妄想に従って変えようとする。解釈改憲の先には、いよいよ『公の心』が消えた荒廃した社会が広がっているのではないか」

 高村さんは「この国」シリーズで「このままではこの国はつぶれる。だから政治を変えるしかない。そのためには選挙に行くしかない」と繰り返してきた。しかし「公の心」が社会から失われれば、それこそ政治への関心も薄れ、投票する有権者はますます減るのではないか。

 「少なくとも、私は憲法を解釈で変えてもいい、と考える首相を頂くことに有権者はもっと恥じるべきだと思うのですが、違いますか」。淡々と語り続けていた声が高くなった。「結局、一人一人が社会を作っているのだ、という認識を取り戻す努力をすることに尽きる。だからやはり選挙には行く。社会で起きていることを注視する。そして子どもじゃないんだから、いくら自分のことだけで余裕がないといっても、『妄想』は『妄想』だと見抜く知恵を磨く。社会と自分の未来を守るには、これしかありません」

 特効薬はない。地味で遠回りのようでも、社会の一員としての義務を果たすことが「妄想」を克服する一番の近道のようだ。

◎たかむら・かおる
 1953年大阪市生まれ。93年「マークスの山」で直木賞。著書に「太陽を曳く馬」「冷血」など。全国の地方紙などに「21世紀の空海」を連載中。

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安倍政権の解釈改憲(集団的自衛権) 今が引き返せぬ地点

2014-05-20 02:11:42 | Weblog

 ※毎日新聞2014年05月19日夕刊、作家・半藤一利さんのインタビュー記事を転載いたします。


 <歴史には、あとは一瀉千里(いっしゃせんり)に突き進むよりほかはない時点があるのかもしれない。いわゆるノー・リターン・ポイント(引き返せぬ地点)である>

 作家、半藤一利さん(83)の「日露戦争史」、冒頭の一文に背筋がひんやりとした。戦争突入へ、引き返せなくなる地点。聞きたくなった。今を生きる私たちの「ノー・リターン・ポイント」とは。

 「歴史に戦前の日本の転機を見いだすことはできても、その時代に生きた国民がそれを実感していたかは別なんです」。行きつけの喫茶店で、半藤さんは語り始めた。

 自称、歴史探偵。日本が戦争にかじを切ったいくつものターニングポイント(転機)を繰り返しつづってきた。太平洋戦争であれば1931年の満州事変がその一つ。「しかし事変直後、国民がいきなり好戦的になったわけではない。その6年後、永井荷風の『ボク東綺譚(ぼくとうきだん)』や堀辰雄の『風立ちぬ』など昭和文学の名作が次々発表されました。世の中にも人の心にもまだ余裕があり、時の権力者が中国を植民地化する野望を抱いていたことなど気づいてもいなかったのでしょう。今の日本も同じ。昭和の国民が気づいていなかったのと同じように、私たちも気づいていないだけではないでしょうか」

 小さな手書きのメモには、1938年の国家総動員法第4条の条文が。<勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民ヲ徴用シテ総動員業務ニ従事セシムルコトヲ得……>

 「運用次第で何でもできる条文です。1万人を徴用することも、24時間徹夜で働かせることも。この法を境に日本は『戦時国家』となり、国民生活が大きく変わった。法を盾に右翼が非好戦的な人を『非国民』となじり始めた」

 1940年、米やみそなどの購入が切符制に。1941年には生活必需物資統制令公布。同年末にはもう真珠湾攻撃だ。国家総動員法こそが、昭和の国民にとって戦争への「ノー・リターン・ポイント」だった。

 「いつか今を振り返った時、特定秘密保護法も転機と語られるのかもしれない。まして今回の解釈改憲は、運用次第でどうにでもできる新法を作るのと同じ。時の政府に何だって許してしまう。70年間、戦争で人を殺しも殺されもしなかったこの国の国際的信頼という国益を手放し、国のかたちを変えてしまう」

 つまり解釈改憲こそが私たちの「ノー・リターン・ポイント」だと?

 静かにうなずいた。

 「絶対」という言葉は生涯使わない--45年3月10日の東京大空襲の焼け跡で14歳の時、そう誓った。「絶対に日本の国は正しいとか、絶対に神風は吹くだとか、絶対に俺は人を殺さないとか。すべてうそだと思った」と振り返る。炎に追われ、中川に飛び込んだ。自分にすがろうと伸びてきた手を振りほどいた。「何度空襲の夢を見たことか。夢の中で誰かを助けよう、助けようとしているんだ。助けられるわけないのに」

 文芸春秋に勤務していたころ、戦争や昭和史を調べ始めた。「日本は地政的に“守れない国”なんです。海岸線はアメリカより長く、真ん中に山脈が走るため逃げる場所もない。だからこそ、日本は戦争をしてはいけない」が持論だ。「守れない国は、集団的自衛権なんて他人のケンカを買ってはいけない。海岸線に原発が何十基もあるんです。どうやって守りますか」

 北朝鮮や中国といった外からの脅威を強調し、国内のナショナリズムをあおる風潮を危惧する。「日本は黒船の時代以来、“攘夷(じょうい)”の精神を引きずっている」。だから、解釈改憲のその先に控えるものは「国防軍」と言い切る。「外からの脅威に立ち向かうため、強い軍隊がいた方が安心、などとはこの国に軍隊がないから言える。本来、軍隊ほどおっかないものはないんです。軍隊は通常、刑法や民法など法体系から外れ、国民が監視できない。裁判は軍事裁判に。私たちは軍隊からの身の安全を考えなければいけなくなりますよ。世界のクーデターの首謀者はたいてい軍隊です」

 今の日本は太平洋戦争へと突き進んだ最初の転機である1931~1933年の3年間に重なる、と指摘する。情報の国家統制、臣民教育を目指した国定教科書の改訂、5・15事件などのテロ……。「今はまだ幸いなことに新聞各社が自由な論調を維持できているが、間もなくかもしれません。その証拠にNHKはすでに危うい。歴史教科書の問題も、仮想敵国が強調されるのも当時とそっくり。テロはまだのようだが、ヘイトスピーチやネトウヨ現象は気になります」

 確かに言われてみれば、当時と今は似ている。なぜ同じ道をたどってしまうのか。

 「日露戦争は勝ったとはいえ多くの人の命を奪い、国民生活を圧迫した悲惨な戦争でした。『勝った勝った』と美談として語られるようになったのは、終戦直後ではなく、1930年代に入ってからなんです。戦争を体験した世代が生きている限り、時計はそう速く進まない。しかし彼らが死んだ途端、時計は大急ぎで動き出す。今の安倍晋三政権もそう。政治や官僚の中堅に戦争体験者はもういない。いるのは右肩上がりの栄光しか知らない世代です」

 2003年の個人情報保護法成立後、防衛省の戦史研究センターなどで戦犯の裁判記録や軍人の日記を読もうにも、名前や住所が黒く消されるようになった。「若い世代が昭和史や戦史を学ぶのが困難な時代になってしまった。やがて、作られた美談の歴史だけが残っていくのかもしれません」

 長い沈黙。時を刻む時計の音が聞こえた気がした。

 解釈改憲の先の国のかたちを問うと、「私は死んでますから」とけむに巻かれた。それでも「死んだ後のこの国は」としつこく食い下がったら、半藤さんは一瞬、真顔になり、言葉に力を込め、「だからこそ、生きている間はそうさせねえぞ、って」。次の瞬間、笑顔に戻り「でもそれは口に出すことではない。ひそかに思っていればいいことです」と言い添えた。

 一人一人に今できることは何なのか。半藤さんはこちらを見つめ、こう言った。「戦争の芽をつぶしてかかるしかないですね。自分の目で見つめ、戦争の芽だと思うものを見つけたら、一つ一つ」

 しわだらけの細い指が、空をつまむ。「芽」をつぶす仕草をする。何度も何度も。力を込めて。「こんなふうに自分の手でつぶしていくんです。ぷちんぷちんと丹念にね」

 この指の力強さをいつまでも忘れないように、と心に刻んだ。

 ◎はんどう・かずとし
 1930年東京生まれ。東大文学部卒。「文芸春秋」編集長などを経て作家に。
 「昭和史」で毎日出版文化賞特別賞。近著は「日露戦争史」1~3巻。

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