・ フイ高地は8月20日午前5時ごろから終日、ソ連軍火砲数十門による砲撃にさらされ た。日本軍陣地では黒煙におおわれて、視界が2、3メートルしかなかったという。
ある砲兵中隊長が砲弾の落下音で数えてみたところ、撃ちこまれる砲弾数は毎秒3発
であったという。
また、別の大尉の計算によると、落下榴散弾1発の破片が百個であると仮定して、
ソ連軍の各砲1門当たり砲弾保有千発を掛け合わせると、
落下砲弾数1秒当たり3発×60秒
=1分間当たり落下砲弾数180発×砲弾1発当たり破片数100個
=砲弾破片数1分間18000個、になる。
榴散弾は名前のとおり、1発の砲弾の着弾周辺に破片が飛散する。兵は次々に倒れ、
兵器は破壊され、壕も崩れ、陣地は穴だらけになった。
・ フイ高地には水源がなく、井置支隊は深さ5mほどの井戸を10本堀った。井戸水は飯
盒ですくうくらいの水しか出ず、23師団給水車が毎日通ってきた。8月20日、10本の井
戸すべて砲撃で崩れた。師団給水車は来なかった。陣地守備兵の飲み水が絶えた。
・ 午後8時、ソ連軍の砲撃が止んで塹壕から頭を上げて前方を見まわしたある中隊長は、
30~40mという至近距離から前進してくるソ連戦車と歩兵を認めた。
中隊の前方陣地守備の1個小隊が手榴弾で応戦。数十人のソ連歩兵が後退した。
これに対してソ連戦車が火炎放射器で応戦し、小隊は陣地ごと火炎に焼かれた。
前衛小隊が焼かれて、ソ連兵は勇躍突撃に移った。
この戦闘でソ連戦車1両が日本陣地塹壕に突っ込んで動けなくなり、捕獲された。
乗員は捕虜にされる前に自殺した。
<23師団直轄 歩兵第26連隊生田第1大隊>
(歩兵第26連隊長 須美新一郎大佐、大隊長 生田準三少佐 8/29戦死)
・ 歩26生田第1大隊は8月5日、フイ高地南にある731高地から日の丸高地の線に布陣し
た。 ──『静かなノモンハン』伊藤桂一著 講談社文庫P105 ──
・ 8月20日午前7時、ソ連軍戦車20両と歩兵200が生田第1大隊の防御線を突破し、白兵
戦になった。
予備兵力であった上村水那雄少佐 (歩26第2大隊長) は生田少佐と連絡を取るため伝令3
人を出したが、200mほど進んだところで3人ともソ連軍の砲火に斃れた。ソ連軍の砲
撃は量、密度ともに日本軍を卓越していた。
・ 8月20日夜11時、生田大隊第1中隊が必死の夜襲を試みたが、85人のうち65人を失っ
た。※生田大隊については当ブログ2023/9/14、9/18、12/9、の「ノモンハン生還衛生伍長1~3」参照
・ この日、生田大隊は兵力千四、五百の敵を撃退した。(朝日文庫『ノモンハン③』P30 )
<歩兵第64連隊金井塚第3大隊>
(歩兵第64連隊長 山県武光大佐 8/29戦場自殺、第3大隊長 金井塚勇吉少佐)
・ 8月20日午前7時以後3回、金井塚第3大隊陣地の左側面方向距離150m~200m地点
からソ連軍歩兵八百が攻撃してきた。ヤナギの並木から連絡壕や掩体壕に機関銃を浴び
せてきた。野砲や迫撃砲の砲弾も絶え間なく降ってきた。兵士たちは抗戦命令が出るま
で掩体壕に身を隠していた。
・ 数か所の地点で、五、六十人のソ連軍歩兵が30m以内にまで進出してきたときには、
双方から無我夢中になって投げ続ける手榴弾が飛び交った。ソ連軍の大部隊が南側から
投入され、夕方には第一線との連絡に苦しむようになった。
・ 金井塚第3大隊の兵力は、一時的に配属された者を含み将校27人、兵671人で、その
うち8月20日の戦死者は12人(うち将校1人)、戦傷者は20人だった。
ジューコフ中将指揮下のソ連軍第1軍団の総攻撃初日8月20日の日本軍は、ソ連軍の猛攻によく耐えました。ホルステン河南部の戦場でソ連軍は計画通りの進撃を達成しましたが、ホルステン河北部では、進撃計画は予定通りに進みませんでした。ソ連軍が特にフイ高地の奪取に手間取ったことは、よく知られています。
ノモンハン戦80余年後に何冊かの関連書を読んだに過ぎない私でさえ、第23師団、第6軍、関東軍の頑なで視野の偏った作戦指導が腹立たしいものに見えます。総攻撃10日後には、早くも日本軍は壊滅状態になっているのです。連隊以下の実戦部隊将兵の死闘は日ソ総合戦力差の大きさの前に潰えました。
【歩兵第71連隊の末期】 8月30日
・ 8月26日正午ごろ、接近するソ連軍を前にして、壕から立ち上がって双眼鏡で敵情を
見ながら号令をかけていた歩71森田連隊長が機関銃弾3発を頭と胸に受けて戦死した。
形勢不利な戦況のさなかであり、小野塚大尉が森田大佐の遺体を倒れた場所からくぼ地
に引きずりこみ、その場で土に埋めた。直ちに東宗治中佐が歩71連隊長(代理)に任命さ
れたが、8月30日戦死。
・ 8月30日午前遅く、第6軍司令部に到着した第23師団将校伝令の報告を受けた関東軍
作戦参謀辻正信少佐は「主として歩71、72連隊からなる小松原23師団の500人は山県支
隊の旧陣地付近で最後の死闘を行っている」と、関東軍に報告した。この時23師団の余
命は終わりつつあった。
・ 8月30日、東連隊本部と第1大隊や23師団戦闘指令所との距離は200m~300mくら
いだが、通信連絡が途絶えた。東連隊長は師団に2回、伝令を送った。伝令は全員がソ
連軍戦車の砲火で戦死。うち一人は顔に直撃弾を受けて、鉄兜もろとも頭部を吹き飛ば
された。陣地間を自由に動きまわるソ連軍戦車が見えた。
・ 8月30日午後5時近く、連隊旗警護隊長戦死。東宗治連隊長(代理)は遂に軍旗奉焼を決
意した。午後6時15分、くぼ地の端に掘ったかなり大きな掩蔽壕で奉焼を終えた。
・ 8月30日午後6時40分ごろ、連隊本部総勢17名の将兵は最期の突撃をした。東中佐は
軍刀を振りかざし壕から飛び出して敵戦車に突進しながら「東宗治中佐、本年49歳」と
叫んだ。17名の将兵は「わあっわあっ」と喊声を上げながら前方に駈けだして10mも走
らぬうちに、機関銃と手榴弾で一人残らずなぎ倒された。自殺行為そのものだった。
東中佐の当番兵曾根辻上等兵は突撃直前に手榴弾を左大腿部と左人指し指に受けて倒
れたが、陣前10mほどまで這って大声で中佐を探した。東中佐は腹部に手榴弾の傷が大
きく開いていたが、意識も言葉もはっきりしていた。そして曾根辻上等兵に伝令とし
て、軍旗奉焼と最期の突撃の状況を師団に報告するよう重ねて命じた。曾根辻は師団に
報告し、戦後まで生き残った。
花田第1大隊本部では、東中佐以下17名の突撃を見ていた。喊声も聞こえた。軍旗奉
焼を報告する伝令も到着した。花田大尉は全中隊に銃剣突撃を命じた。敵陣に飛びこん
で日本刀と銃剣で白兵戦になったが、敵兵は重機関銃を幾つも置いたまま逃げた。花田
第1大隊は23師団本部と共に生き延びた。
【歩兵第64連隊金井塚第3大隊】 8月24日
・ 8月23日から24日にかけて、歩兵第64連隊 (山県武光大佐 8/29戦場自殺) 第3大隊 (金井塚
勇吉少佐) は731高地に進出するよう命令された。歩兵第26連隊 (須美新一郎大佐) から抽出
した脆弱な生田第1大隊を助けるためであった。
・ 8月24日午前4時、生田大隊の戦闘区域に到着。731高地生田大隊の北西2km~5k
m、危機に瀕しているフイ高地井置支隊の南10kmという、ホルステン河北岸の最右翼
に金井塚第3大隊の陣地を設置することになった。
金井塚第3大隊が到着した地区のソ連軍兵力は歩兵数千、1個機械化旅団、重火器20
門とみられていた。早朝、師団級のソ連軍部隊がフイ高地の方向から前進しているのが
見られ、午前10時、金井塚第3大隊北東4キロの地点に到達し、第23師団の後方に向
かって進撃を続けていた。金井塚大隊に対するソ連軍兵力はごくわずかで抑えに過ぎな
かった。
・ 8月24日、歩兵64連隊長山県大佐がトラックで金井塚第3大隊陣地視察、将兵激励に
やってきて、即日、連隊戦闘指揮所に帰った。これが山県連隊長との最期の別れになっ
た。 ※山県武光大佐は8月29日、ホルステン河北岸新工兵橋に近い草原で、ソ連戦車群の皆
殺し攻撃に遭遇して自殺した。
9月16日ノモンハン戦争停戦、9月22日~28日の1週間、停戦協定に基づいてソ連軍監視下のホロンバイル平原を掘り戦死体収容を行い、4386体を収容することができた。山県武光大佐、伊勢高秀大佐、東宗治中佐、生田準三少佐らの戦死体もこの期間に発見・収容された。またハルハ河左岸にあった航空将校ほかの遺体59体がソ連側から返還された。収容された以上の遺体がノモンハン戦場となったモンゴルのホロンバイル平原の土となっていると思われる。(御田重宝著『人間の記録 ノモンハン戦 壊滅篇』徳間文庫P261 )