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日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.) 華僑粛清(1)
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日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.) 華僑粛清(2)
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日本軍、シンガポール占領3年半 (1942.2.~1945.8.) 華僑粛清(3) 第25軍軍律
この本は始めから終わりまで事実ばかり詰めこんで、事実の紹介に徹しています。巻末参考文献一覧に、①未公刊資料:シンガポール1件、イギリス2件、日本4件、②日本語文献79件、③英語文献36件、④中国語文献12件を記載して信頼に足るものです。
『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用19】P179
昭南特別市(※日本軍政下シンガポールの日本名)の幹部だった篠崎護によると、「昭南の治安が一応確立されると、軍兵站部はさっそくオーチャード路の裏、ケーンヒル街の一角を接収して兵隊のための慰安所を開き、朝鮮から連れて来た親方と、台湾人であった日本名山口君子という女性に経営させた」という。 (篠崎護『シンガポール占領秘録』原書房 1976年、P83)
『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用20】P180
篠崎護は現地の人の言葉として次のように紹介している。「英国人は植民地を手に入れると、まず道路を整備した。フランス人は教会を建てた。スペイン人は、教会を持ち込んで金銀を持ち出して行った。そして日本人は料亭と女を持ち込んだ」 (篠崎『シンガポール占領秘録』P82ページ)
日本軍が持ち込んだ料亭での乱痴気騒ぎや、日本軍慰安所に列をなす日本兵、その慰安所に騙されて監禁された女性たちの姿は、シンガポールの人々に日本軍の醜悪さを強烈に印象づける出来事だった。
『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用21】P180
リユウ・カン氏の執筆した画集『チョプスイ(Chop Suey)』の中にも慰安所が出てくる。この画集の第15話が「慰安所(House of Pleasure)」である。
英語版では、「慰安団(Comfort Parties)は日本軍にとって必要な付属品であった。日本人たちが行った最初の行動の一つが、すべての娼婦を集め、将校用と兵士用の別の階級に分けることだった。あるところでは教会が慰安所にされた」とある。
中国語版では、「日本人は神の後裔と自認し、国土を神州と称し、軍隊を神兵と称し、略奪を聖戦と称し」と皮肉りながら、「マレー中部(中馬)のある所では聖なる礼拝堂さえも慰安所にしてしまった……」と説明されている。
『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用22】P182
ブラカン・マティ島の慰安所では、近くに駐屯していた燃料補給廠で通訳をしていた永瀬隆氏が、朝鮮人慰安婦から「通訳さん、聞いてください。私たちはシンガポールのレストラン・ガールということで百円の支度金をもらってきたが、来てみたら慰安婦にされてしまった」と泣きながら訴えられたという。(林博史『シンガポールの日本軍慰安所』P38)
『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用23】P183
シンガポールの慰安所には、日本人や朝鮮人が連れて来られていたが、マラヤの中国人など地元女性も慰安婦にさせられていた。さらにインドネシアの少女たちが連行されてきていた。彼女たちはタンジョン・カトンの慰安所に入れられていたようである。
『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用24】P183
シンガポールの元社会問題担当相オスマン・ウォク氏は戦争中、シンガポール港湾局で働いていた。そのときインドネシアからたくさんの「ロウムシャ」が船で運ばれてきたが、その中に白い制服を着た16歳~20歳くらいの少女30人~40人くらいが混じっていた。
彼女たちは「看護婦になるために来た」と語っていたが、実際には市内の慰安所に連れていかれた。
戦争が終わって、カトン・ロードにあった慰安所から逃げ出してきた彼女たちは、オスマン氏に対して「看護婦にすると言われて来たが、慰安婦として働かされた」と語ったという。オスマン氏が港湾局で働いていたのは1944年中頃からのことなので、その時期のことと見られる。(H.Sidhu,The Banboo Fortress,P181)
『シンガポール華僑粛清 ―日本軍はシンガポールで何をしたのか 』
【引用25】P184
当時、「昭南博物館」にいたE.J.H.コーナー氏の回想によると、1944年4月、インドネシアから人夫たちが船でシンガポールに運ばれてきた。彼らはその途中、あるいは到着後もたくさん死んだが、その中には女性もおり、「若くてきれいな女性の場合、慰安婦としてカトンの近くにある兵営に送られた。
通行人は、彼女らがジャワ語で『助けて、助けて』と悲鳴をあげるのを耳にし、胸をしめつけられた」と記している。(E.J.H.Corner, The Marquis P126)
インドネシアから「ロウムシャ」として男たちが連行されてきただけでなく、女性たちというよりも、少女たちまでもが騙されて連行され、日本軍慰安婦にさせられていた。彼女たちの悲運をシンガポールの人々も知っていたのである。