川本ちょっとメモ

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ノモンハン生還衛生伍長(2) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった

2023-09-18 23:12:49 | Weblog


2023-07-10
1時間42分の戦闘で沈没した戦艦大和の戦死3056名 輸送船富山丸の魚雷沈没あっという間の2個旅団消滅
2023-07-20
<ノモンハン捕虜帰還兵軍法会議> 自決未遂で重営倉3日の上等兵、敵前逃亡で禁錮2年10カ月の戦闘機曹長 
2023-08-22
<ノモンハン捕虜帰還将校2名> 日本軍の自決システム──撃墜されて捕虜 → 帰還 → 陸軍病院 → 軍説得の拳銃自殺
2023-09-04
<ノモンハン捕虜帰還兵> 壊滅陣地 → チタ捕虜収容所 → 陸軍病院 → ソ満国境へ転属 → 兵役満期除隊 → 軍属徴用で奉天へ
2023-09-14
ノモンハン生還衛生伍長(1) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった




〇 旭川第7師団歩兵第26連隊 (1939・6・20  第23師団へ配属)
  連隊長    大佐  須見新一郎
 
 〇 第1大隊   (1939・8・1  第23師団長直轄へ配属 )
  大隊長    少佐  生田準三  着任 7・13   戦死 8・29    
   副官    少尉  渡部一雄  戦死 8・20
    付    軍医中尉  中村芳正
   第1中隊長 中尉  青木 香  転出 6・27
    〃    中尉  坂本竹雄  戦死 7・3
    〃(代) 准尉  能登与八郎
    〃(代) 少尉  野坂鉄男
    小隊長  少尉  前田正義  戦傷 7・3
     〃   中尉  牧野義勝  戦傷 7・3
     〃   准尉  井上喜一  戦傷 7・3
   第2中隊長 中尉  相田重松  戦死 7・4
    〃    中尉  中森光長  戦傷 8・25
    小隊長  少尉  古川一男  戦傷 7・5
     〃   少尉  岩崎咲雄  戦死 7・3
     〃   准尉  藤井亀次
   第3中隊長 中尉  鶴見筆上  着任8・1   戦死 8・20 
    〃    中尉  平野義雄
    小隊長  少尉  安達吉治  戦傷 7・3
     〃   少尉  古川義英
     〃   准尉  伊良原義晴
   第1機関銃中隊長 中尉 近藤幸治郎 転出 7・3
    〃(代) 少尉  秋野英二  転出 8・1
    〃    中尉  小林司郎  戦死 8・25
   連隊砲小隊長 中尉 長尾雄次

   歩兵第25連隊連隊砲中隊(8・5出動 歩兵第26連隊第1大隊に配属 ) 
   連隊砲中隊長 中尉 海辺政次郎  戦死8・29
      小隊長 少尉 沢田八衛   戦傷8・20  
       〃  少尉 山田四郎   戦傷8・25
     通信隊長 少尉 片岡義市

   *第1機関銃中隊長近藤幸治郎中尉は安達第1大隊長の7月3日戦死を受けて、大尉昇進の
    うえで第1機関銃中隊長から第1大隊長代理となり、7月13日に生田準三少佐の第1大
    隊長着任を受けて大隊長代理を解かれ、生田大隊長の8月29日戦死とともに第1大隊は
    全滅した、という流れではないかと思います。全滅とはいえ、どんな場合でも 生き抜い
    た兵や負傷兵がいます。
  **第1大隊第3中隊長小林司郎中尉は7月3日負傷、後任は牧野竹治中尉。ほぼ1カ月後、
    第26連隊旗手鶴見筆上少尉が中尉昇進のうえで8月1日、第3中隊長着任、8月20日戦
    死。
 ***ソ連軍包囲下の死守陣地消耗戦闘で隊長・隊長代理もめまぐるしく替わっています。上
    掲表は将校だけですが、この表から、戦争がいかに多くの招集兵を死なせ、い かに多く
    の健常招集兵に身体障害者として生きる人生を強いるものか、お察しください。

 上の表は、アルヴィン・D・クックス著  朝日文庫1994.7.1.第1刷発行『ノモンハン④  教訓は生きなかった』P355, 356 記載の第26連隊第1大隊のノモンハン戦争従軍将校名簿です。生死未確認の者は「戦死」の分類に入っています。 


1939年
6月  ・小野寺哲也(22才)、半年間の下士官候補者教育隊卒業
     ・ 〃 チチハル待機第7師団軍医部衛生隊所属伍長勤務
6・20  ・チチハル待機中の第7師団に出動命令 歩兵第28連隊は待機
          ・歩兵第26連隊に第23師団配属命令、即日出動
7月  ・チチハルで、26連隊がソ連軍との対戦車戦で全滅したと噂が流れた
7・3  ・歩兵第26連隊第1大隊長安達千賀雄少佐、川又攻撃中に戦死 衛生兵も
      戦死、第1大隊兵員半減して731高地に退却
      ※川又 …… ハルハ河にホルステン河が流入する合流点、ソ連軍渡河施設がある
7・13  ・生田準三少佐が歩兵第26連隊第1大隊長に着任
7・20  ・歩兵第26連隊衛生兵欠員補充のため、小野寺伍長に26連隊配属命令

8・1  ・小野寺伍長、ノロ高地の歩兵第26連隊(須見部隊)本部に到着
     出頭 小野寺は第1大隊本部付、井上は第2大隊本部付になる
    ・このころ26連隊の全部隊はノロ高地で7月戦闘の痛手を補充中だった

8・5  ・第1大隊、本隊の歩兵26連隊指揮下から第23師団長直轄へ配属
    ・第1大隊、日の丸高地(ホルステン河北側=右岸)に向けて展開命令
    ・当日現在の第1大隊(生田大隊)兵力は第1、第2、第3中隊、連隊砲小
     隊、第1機関銃中隊、歩兵26連隊連隊砲中隊

8・7~8・20 鶴見第3中隊壊滅までは、前回9月14日付け記事「ノモンハン生還衛生伍長(1) 」をご覧ください。


8・20  ・この日早朝、日本軍の全前線にわたってソ連軍のよく準備された総攻撃が
     始まり、日本軍は8月31日にはソ連・モンゴルが主張するモンゴル領土内
     から駆逐された。

8・20  ・どの陣地もソ連軍に包囲されていた。ソ連軍は馬蹄形の包囲網を敷き、必
     ず1カ所開口部を設けていた。日本軍陣地に攻め入ってする白兵戦の無駄
     死にを避けたかった。日本軍は周辺のどの陣地でも榴弾砲や戦車砲、火炎
     放射戦車、重機関銃などの脅威にさらされていて、なすすべもなかった。

    ・小野寺伍長は第3中隊と大隊本部との連絡が途絶えたので、ここに派遣さ
     れた。中隊では伝令兵を3人、大隊本部へ送ったという。3人ともたどり
     つけなかった。包囲側の開口部には、戦車・装甲車・重機が待ち受けてい
     る。小野寺が生きて中隊にたどりつけたことが不思議だった。

    ・8月20日夜明け前の暗いうちに小野寺は第3中隊に着いた。そして同じ日
     の夕刻に、「なんとかうまく切りぬけて行ってくれ」という中隊長の命に
     よって、小野寺は大隊に帰らねばならなかった。どうせ死ぬんだ。それな
     ら、これから夜襲に出ていく中隊のみんなといっしょに死にたい。小野寺
     の願いは許されなかった。 …… 20日の夜闇が始まってから中隊陣地を抜
     け出た。行きは6時間かかったが、それよりもっと早く第1大隊に帰り着
     いた、と思う。

    ・第3中隊の陣地は直径50mほどのくぼ地で、戦車と機関銃にびっしりと囲
     まれている。味方の重機関銃が激しく撃ち出している瞬間を見て、小野寺
     伍長は陣地の一角から飛び出した。少し駈けて、砲弾穴のひとつに飛びこ
     み、あとは勘だけを頼りに、飛び出しては隠れ、隠れてはまた駈けた。走
     っていて機銃弾が足もとを濯(あら)ってくるとき、走り切るか、遮蔽物を
     みつけて倒れこんで隠れるか。無我夢中で駈けた。8月5日ごろからのわず
     かな日数のうちに本能が鍛えられていると、小野寺は思った。

8・20 ・小野寺伍長は第3中隊の危急を一刻も早く知らせたい一念で走りつづけ
     た。思ったよりかなり早く20日夜のうちに大隊本部に着いて、生田大隊長
     に報告した。生田は「鶴見(中隊長)を見捨てはせん」と大声で言い、すぐ
     に 幹部集合を命じた。

    ・死んでも指が動いている
     報告してすぐに小野寺は負傷兵の手当てを始めた。そこへ、渡部副官(大隊
     副官少尉)被弾、と連絡が来て100mほど離れた壕へ走った。機銃弾が鉄帽
     の側面から貫通して即死。頭にごぶし大の穴が開いていた。ところが死ん
     でしまっている渡部少尉の両手の指が、何かを握りしめたがっているよう
     にしきりに動いている。小野寺は初めて見た、指が生き残っている。渡部
     についていた伝令の松田が「死んでも指は動くのですか」と聞いた。小野
     寺伍長が脈拍と心臓を確認しても確かに死んでいた。死にたくない気持ち
     が指先に残ったんだろうと小野寺は松田と話し合った。小野寺も指先は最
     期まで生き残るのだろうと思った。ノモンハンでは猛烈な砲撃と機銃の弾
     幕下で戦死した遺体を回収できなかった。とにかくどんなにひどい戦いで
     あっても、最低限、小指と認識票だけは切り取って持ち帰るのが居合わせ
     た兵士の慣わしになっていた。

8・21 ・大隊本部と第2中隊は、第3中隊救援のため第1中隊の位置に移動した。
     第1中隊の位置へ第3中隊生き残りで歩行可能な負傷者がたどり着いて、
     鶴見中尉以下玉砕の模様を伝えた。

8・21 ・夜、生田大隊長が訓示した。「大隊は今夜半、夜襲を決行して、第3中隊
     の奪われた陣地を奪回する。諸士の健闘を祈る」。大隊は行動不能の重傷
     者を陣地内に残して出発した。小野寺の医療嚢は空になったままでガーゼ
     も薬品もない。小野寺は衛生兵としてでなく戦える歩兵を希望して、大隊
     といっしょに出発した。

    ・出発してまもなく大隊はソ連軍との遭遇戦になった。大隊は歩兵銃と手榴
     弾で戦うしか方法がない。敵は大砲と戦車砲と重機関銃を存分に撃つ。戦
     車隊の後ろには歩兵がつづく。50発に1発撃ちだす機関銃の曳光弾が無数
     に乱れ飛ぶ。赤色の照明弾が打ち上げられて、草原を真昼のように明るく
     照らす。小野寺たちは照明弾などが明るい間、草や凹地に隠れ、消えると
     跳ね出た。前面に立ちはだかる戦車に向かって3回、突入攻撃をした。

    ・突入3回目のあと、ソ連兵が後退した。22日朝明けにまた砲撃、戦車、歩
     兵が押し寄せてくる。生田大隊も夜のうちに、20日までいた731高地へ後
     退した。大隊全員がたがいに支え合うようにして、第1中隊の負傷者をも
     収容して後退した。

    ・ノモンハン8月戦闘では、歩兵が戦車戦をやった。小野寺たちは戦車にと
     りついてはよじのぼり、戦車砲に手榴弾を結びつけて爆発させた。爆発で
     砲の照準が狂って役に立たなくなる。機銃の場合だと銃身が曲がって使用
     不能になる。戦車自体が燃えることもある。しかし、戦車にのぼると、戦
     車の下の穴から拳銃で狙い撃たれる。ほかには、不意に砲塔を廻され振り
     落とされて、キャタピラに轢かれるか、機銃弾に濯われる。

    ・戦車が擱座しても、戦車から逃げ出すソ連兵はめったにいなかった。擱座
     した戦車の中で、銃を撃つ姿勢のまま死んでいる者が多かった。草原に放
     置されている戦車を覗くと、銃を撃つ姿勢をしているその眼に無数の蛆を
     わかせ、なお前方を見つめているソ連兵を、小野寺伍長は見たことがあ
     る。ソ連兵もまた、必死で戦っていた。

8・22 ・大隊850名が今は120名になった。731高地が孤立して何日になるのか。
     他部隊との連絡もほとんど絶えたまま。食糧・水もまったくなくなった。
     戦死敵兵の持ち物から食料や水を取ってくる。陣地にいると毎日毎日激し
     い砲撃の犠牲者が重なる。

    ・22日夜半、天の助けが舞い降りた。食糧弾薬の輸送トラックが1台、孤立
     陣地に迷いこんできた。山県支隊(歩兵64連隊)への輸送トラックだった
     が、ソ連軍の包囲網が厳しくて近寄れなかった。やむなくどこでもいいか
     ら食糧弾薬をなんとか下せそうな所へたどり着いてみたら生田第1大隊だ
     った。戦車を擱座させた大隊の重傷者5名を乗せて、輸送トラックは帰っ
     ていった。

8・23 ・戦車30台が攻めてきた。大隊はこのうち15台を擱座させた。敵歩兵の遺
     棄死体は数十に及んだ。大隊の熟練度は大したものだ。この日の朝、神田
     軍医が左肩に貫通銃創を受けて壕の底に横たわっていた。軍医はずいぶん
     多くの人の手当てに奔命してきたが、自分が仆れたときは何の薬物もな
     く、傷口を縛って寝ていることしかできなかった。

8・24 ・この日も戦車戦で明け暮れた。

8・25 ・敵は重砲による攻撃を集中したあと、戦車50台と約2000の歩兵で包囲環
     を縮めてきた。それでも敵は我が陣地を攻め取ることができなかった。

    ・25日の戦闘で、機関銃隊の船木見習士官は敵の銃火の中を、遺棄されてい
     る水冷式機関銃に駆け寄り、ラジエーターの水を水筒に抜き取ってきて負
     傷者に与えた。船木はその後の対戦車戦で戦死した。

    ・重傷を負った第1機関銃中隊長小林司郎中尉を、片桐上等兵が背負って引
     き揚げてくるとき、一弾が二人を貫いた。二人とも戦死した。片桐は機関
     銃中隊でただひとりの衛生兵だった。小野寺伍長は、自分もやれるだけの
     ことはやってみんなと一緒に死んでゆこう、これほど酷く厳しい戦いを、
     この草原で戦っている仲間だけがわかり合っていればそれでいいと思うよ
     うになった。

    ・25日早朝。小野寺伍長ら10人余りで、砂地でなく固い所があると聞いた
     場所へ壕堀に出かけた。そこへ、戦車20台ほどが前進してきた。身を隠す
     砲弾穴が手近になかったので、地形を選んで散開した。小野寺たちは先頭
     に来た戦車3台に飛びつき、手榴弾を砲身に結びつけて戦った。2台が擱
     座した。あとの戦車が横にひろがって集中射撃してきた。このとき1門だ
     け残っていた連隊砲が陣地から出てきて戦車群のうち2台を炎上させた。
     すぐに敵戦車砲のお返しが集中して、連隊砲は沈黙した。


    ──次回、「ノモンハン生還衛生伍長(3)」につづきます。


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ノモンハン生還衛生伍長(1) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった

2023-09-14 18:12:15 | Weblog




〇 旭川第7師団歩兵第26連隊 (1939・6・20  第23師団へ配属)
  連隊長    大佐  須見新一郎
  連隊付    少佐  小沢正行
   〃   主計少尉  根上 博
   〃   軍医少佐  鈴木敏美
  副官     少佐  丸山弘一  戦死 7・3
   〃     大尉  伊香賀直臣
   〃     大尉  寺島義雄
   〃     少尉  篠田賢治  戦死 7・3
  連隊旗手   少尉  鶴見筆上  第1大隊第3中隊長転出 8・1  戦死8・20
   〃     少尉  高橋栄二

 〇 第1大隊
  大隊長    少佐  安達千賀雄 戦死 7・3
   〃(代)  大尉  近藤幸治郎 転出 7・13
   〃     少佐  生田準三  着任 7・13   戦死 8・29
   副官    少尉  渡部一雄  戦死 8・20
    付    軍医中尉  中村芳正
   第1中隊長 中尉  青木 香  転出 6・27
    〃    中尉  坂本竹雄  戦死 7・3
    〃(代) 准尉  能登与八郎
    〃(代) 少尉  野坂鉄男
    小隊長  少尉  前田正義  戦傷 7・3
     〃   中尉  牧野義勝  戦傷 7・3
     〃   准尉  井上喜一  戦傷 7・3
   第2中隊長 中尉  相田重松  戦死 7・4
    〃    中尉  中森光長  戦傷 8・25
    小隊長  少尉  古川一男  戦傷 7・5
     〃   少尉  岩崎咲雄  戦死 7・3
     〃   准尉  藤井亀次
   第3中隊長 中尉  小林司郎  戦傷 7・3
    〃    中尉  牧野竹治  転出 8・1
    〃    中尉  鶴見筆上  第3中隊長着任 8・1 戦死 8・20
    〃    中尉  平野義雄
    小隊長  少尉  安達吉治  戦傷 7・3
     〃   少尉  古川義英
     〃   准尉  伊良原義晴
   第1機関銃中隊長 中尉 近藤幸治郎 転出 7・3
    〃(代) 少尉  秋野英二  転出 8・1
    〃    中尉  小林司郎  戦死 8・25
   連隊砲小隊長 中尉 長尾雄次

   歩兵第25連隊連隊砲中隊(8・5出動 歩兵第26連隊第1大隊に配属 ) 
   連隊砲中隊長 中尉 海辺政次郎  戦死8・29
      小隊長 少尉 沢田八衛   戦傷8・20  
       〃  少尉 山田四郎   戦傷8・25
     通信隊長 少尉 片岡義市

   *第1機関銃中隊長近藤幸治郎中尉は安達第1大隊長の7月3日戦死を受けて、大尉昇進の
    うえで第1機関銃中隊長から第1大隊長代理となり、7月13日に生田準三少佐の第1大
    隊長着任を受けて大隊長代理を解かれ、生田大隊長の8月29日戦死とともに第1大隊は
    全滅した、という流れではないかと思います。全滅とはいえ、どんな場合でも 生き抜い
    た兵や負傷兵がいます。
  **第1大隊第3中隊長小林司郎中尉は7月3日負傷、後任は牧野竹治中尉。8月1日、牧野中  
    尉に替わって、  第26連隊旗手鶴見筆上少尉が中尉昇進のうえで第3中隊長着任。8月20
    日、鶴見第3中隊長戦死。
 ***ソ連軍包囲下の死守陣地消耗戦闘で隊長・隊長代理もめまぐるしく替わっています。上
    掲表は将校だけですが、この表から、戦争がいかに多くの招集兵を死なせ、い かに多く
    の健常招集兵に身体障害者として生きる人生を強いるものか、お察しください。

 上の表は、アルヴィン・D・クックス著  朝日文庫1994.7.1.第1刷発行『ノモンハン④  教訓は生きなかった』P355, 356 記載の第26連隊第1大隊のノモンハン戦争従軍将校名簿です。生死未確認の者は「戦死」の分類に入っています。 


1939年
6月  ・小野寺哲也(22才)、半年間の下士官候補者教育隊卒業
     ・ 〃 チチハル待機第7師団軍医部衛生隊所属伍長勤務
6・20  ・チチハル待機中の第7師団に出動命令 歩兵第28連隊は待機
          ・歩兵第26連隊に第23師団配属命令、即日出動
7月  ・チチハルで、26連隊がソ連軍との対戦車戦で全滅したと噂が流れた
7・3  ・歩兵第26連隊第1大隊長安達千賀雄少佐、川又攻撃中に戦死 衛生兵も
      戦死、第1大隊半減で退却、ノロ高地で兵員補充を待つことになった
      ※川又 …… ハルハ河にホルステン河が流入する合流点、ソ連軍渡河施設がある
7・13  ・生田準三少佐が歩兵第26連隊第1大隊長に着任
7・20  ・歩兵第26連隊衛生兵欠員補充のため、小野寺伍長に26連隊配属命令
     ・同じく26連隊配属の衛生兵補充井上伍長がチチハルの病院で聞いた
      「ノモンハンへ出ると、衛生兵だろうと軍医だろうと、まず生きては帰れ
       ないそうだ」

8・1    ・小野寺伍長、井上伍長、ノロ高地の歩兵第26連隊(須見部隊)本部に到着
      出頭 小野寺は第1大隊本部付、井上は第2大隊本部付になる
      ※ノロ高地はハルハ河の北東、ホルステン河の南東にある
     ※※ホルステン河は、ソ連・モンゴル側ではハイラースティン河と呼んでいる

8・5    ・第1大隊、本隊の歩兵26連隊指揮下から第23師団長直轄へ配属
           ・第1大隊(生田大隊)は、731高地~日の丸高地(ホルステン河北岸側=
      右岸側)地区に展開
           ・当日現在の第1大隊(生田大隊)兵力は第1、第2、第3中隊、連隊砲
      小隊、第1機関銃中隊、歩兵26連隊連隊砲中隊

8・7    ・日の丸高地陣地から第1大隊連隊砲が敵陣地に向けて1発試射 
      我が方1発試射に対し、敵陣地からお返しの重砲210発着弾  
     ・日の丸高地陣地ではこれ以後、ソ連軍重砲陣地から毎日08:00,14:00の
      2回各1時間、1分間に何十発もの重砲弾を浴びた。重砲が止むと、
      シュルシュルと迫撃砲弾を撃ちこまれた。

8・17  ・朝、第1大隊の連隊砲が朝30分間、連続砲撃。
    ・こちらの砲撃が終わった直後から猛烈な反撃あり、1時間ほどの砲撃を受
     けただけで、砲手・弾薬手もろともこちらの砲が吹き飛ばされた。

8・19  ・よく晴れた夜半、砲撃始まり刻々に激しさ増す 敵機編隊、他陣地爆撃
    ・連隊砲隊が砲体鏡で敵数台の戦車と数百の歩兵を視認
    ・小野寺伍長は神田軍医の指示を受けながら、壕から壕へ負傷者の応急手当
      てに追われる

8・20  ・夜明け前から敵の砲撃始まる。夜が明けて朝霧が晴れると、陣地1km前
     方に白旗の横列あり。その後ろに2陣3陣と敵歩兵の列が続く。その陣列
     の後ろの稜線の見えないところに、もっと多くの戦車・装甲車・歩兵が出
     撃待ちしているはず。

     ・生田第1大隊守備地域一帯の敵砲撃、従来にないすさまじさ。空からは爆
      撃、くり返しあり。すさまじく重なり合う砲弾爆弾の相次ぐ爆発が砂塵を
      まきあげて、まわりが暗くなった。

     ・味方の連隊砲や重機関銃も見事に戦って敵の重砲や歩兵に打撃を与えるの
      だが、彼我の兵数や砲種砲数、重機軽機数、砲弾銃弾数量の圧倒的な隔た
      り、8月戦闘における戦車・装甲車なし日本軍では、全滅するか壊滅前の
      退却しかなかった。

     ・どこも包囲されている第1大隊──731高地~日の丸高地にかけて
     ・山県部隊寄りに、第1大隊本部 ※山県64連隊長→ 5・21山県支隊長
     ・大隊本部前面に、第2中隊
     ・第2中隊から北に4km → 第1中隊
     ・第1中隊から4kmの日の丸高地の一角 → 第3中隊
     ・第3中隊の北方は、ソ連軍の自由行動地域

8・20  ・夜明け前に、第3中隊から大隊本部へ電話連絡が立て続けに入った。
      「重囲ニ陥チツツモ敢闘中」。夜が明けてまもなく電話途絶。
     そのため鶴見第3中隊長は大隊本部へ伝令3名派遣。
     伝令、1人も大隊本部に到達せず、第3中隊に帰還せず。

     ・神田軍医から小野寺伍長に第3中隊へ行ってみてくれと指示有り。
      小野寺は地下足袋に巻脚絆、六連発拳銃と手榴弾3発だけの軽装、医療嚢
      にびっしり薬品を詰め込んで直ちに壕を出た。戦車を避け、砲弾穴に身を
      隠し、砲弾や銃撃から必死で逃げ、装甲車に見つからないことを祈りなが
      ら(装甲車には歩兵が乗っているので逃げきれない)砂の陰にまわりこみ、
      第3中隊までの道のり8kmを6時間後に着いた。

     ・小野寺伍長は鶴見中隊長に大隊本部から派遣された旨を報告し、大隊長の
      激励のことばを伝えた。報告を済ませてから、小野寺伍長は分秒を惜しん
      で、壕内に収容されている多くの重傷者の手当てに取り組んだ。疲れも空
      腹も感じなかった。

     ・夕刻近く、中隊長が小野寺伍長を呼んだ。「第3中隊はただいま総攻撃を
      敢行して玉砕したと、大隊長殿に伝えてほしい。かえりみて悔いなく善戦
      した、と申し上げてくれ」と中隊長が言う。
       小野寺は「命令でこの中隊に来ました。運命を共にさせていただきま
      す」と答えた。全滅するまで負傷者の手当てをしてゆくのが衛生兵の本分
      だと思ったが、それは許されなかった。
       中隊長が命令だと言った。「だれかが状況を伝えねば、大隊長殿への任
      務が果たせない。頼む。なんとかうまく切りぬけて行ってくれ」

     ・8月20日夜、第3中隊は最期の突撃をした。歩行可能な生き残りの兵が2
     人、3人と第1中隊陣地にたどり着いて伝えた。──連隊砲も速射砲も砲
     弾がなくなった。機関銃陣地も壊滅した。連隊旗手から8月1日に赴任した
     第3中隊長鶴見筆上中尉は遂に、「最後の突撃をする、重傷者で歩行可能
     の者は、大隊本部の位置に撤退せよ」という命令を出した。そして、中隊
     長を先頭とする一団は敵陣に突入したという。第3中隊は全滅した。
                  ※全滅とは言っても負傷者その他、必ず生存者はいます。

  ※今回の小野寺伍長の経験は『静かなノモンハン』 伊藤桂一 著(講談社文庫)1986.
   5.26. 2刷に拠っています。もちろん実話です。



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<ノモンハン捕虜帰還兵> 壊滅陣地 → チタ捕虜収容所 → 陸軍病院 → ソ満国境へ転属 → 兵役満期除隊 → 軍属徴用で奉天へ

2023-09-04 15:24:10 | Weblog




〇 歩兵第71連隊第1大隊第1機関銃中隊
  中隊長  中尉  光本岩登   戦傷 7・24
   〃(代)尉  館上侃一   戦傷 8・31
  小隊長  少尉  筒井福晴   戦死 8・30
   〃   中尉  三輪良市   戦死 8・28
   〃   准尉  新谷繁雄   戦死 7・03

 上の表は、アルヴィン・D・クックス著  朝日文庫1994.7.1.第1刷発行『ノモンハン④  教訓は生きなかった』P345記載のノモンハン戦争従軍将校名簿です。生死未確認の者は「戦死」の分類に入っています。 


 前回 8月22日付記事に書いたように、ノモンハン戦争の翌年春、1940年(昭和15年) 4月27日、ソ連のチタ収容所から日本軍捕虜77人と満洲国軍39人が釈放されて、日本側に引き渡されました。

 このときの釈放捕虜の中に、中山仁志上等兵(当時22才、歩兵第71連隊第1大隊第1機関銃中隊)がいました。この人のくわしい証言が『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇』(御田重宝著  徳間文庫1989年12月15日初刷)に掲載されています。


 中山仁志上等兵 (当時22才) は1939年 (昭和14年) 8月27日に重傷を負いました。中山上等兵の班長だった川崎英男伍長がそのときの状況を日記に書いていました。


 〈川崎英男伍長の日記から〉
  (※8月27日)午後2時、敵戦車約10台に包囲された。身辺に炸裂する砲弾に
  今度こそ、今度こそと幾度目をつむったかわからない。

   この戦闘で森田部隊(※歩兵第71連隊のこと)も相当やられた。機関銃中隊
  でもほとんど全滅かと思われるほどで、ことに指揮班は錯上1等兵戦死、中山
  上等兵重傷 …… 。 [引用終]   
  (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇  P237』引用)


 中山上等兵は意識不明であり、軍医は見込みがないと判断していました。陣地の残存兵は、戦車に包囲されて壊滅した陣地から脱出して、集結命令の目的地、23師団戦闘指令所めざして歩きました。川崎伍長は小銃と天幕で担架代用品を作って同僚と2人で中山上等兵を引っ張って歩きました。しかし8月30日、川崎伍長も負傷。中山を連れて移動はできなくなりました。
 (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇  P238』依拠)


 8月30日午後6時、23師団戦闘指令所一帯にソ連軍戦車と狙撃兵が来襲しました。狙撃と投げ込まれた手榴弾による犠牲が多数出ました。そのとき、師団参謀長岡本大佐も手榴弾で右ひざをつぶされました。すぐさま土盛りの手術台を作りカムフラージュテントの下で、師団軍医部長村上大佐が執刀して局所麻酔だけの右膝切断手術が行われました。


 23師団諸隊の陣地はどこでもソ連軍に包囲されており、このような近接戦闘をくり返して、陣地は次々と戦車に蹂躙されていきました。特に火炎放射戦車の接近攻撃を受けた陣地は、短時間のうちに抵抗力を失いました。


 陣地から退去できなかった負傷兵は中山上等兵のように殺されなかった者もいれば、銃剣突撃で飛び込んできたソ連兵につき殺された者もいました。また、火炎放射で焼かれた者もいれば、戦車のキャタピラでつぶされた者もいました。


 幾千という将兵が曠野に斃れて残されたままでした。伝令に出て帰らなかった将兵は同じ曠野のどこかで人知れず一人二人だけで斃れたのでしょう。


 このように破滅的な逆境の戦場に重傷兵を残して第23師団本隊はノモンハンめざして撤退してゆきました。ただ小松原師団長は片足切断したばかりの岡本参謀長を連れ帰るよう部下に指示していました。それに比して師団戦闘指揮所に集められていた残置重傷兵には捕虜にならぬよう自殺用手榴弾が置かれました。


 敵軍包囲環の中で分断されたままの諸隊残兵もそれぞれに23師団本隊を探しつつ追随してノモンハンを目ざしました。

 (ここまでは朝日文庫  アルヴィン・D・クックス著  1994.6.1.第1刷発行 
  『ノモンハン ③  第23師団の壊滅  第26章 第23師団の壊滅』 に依拠 



 さて、23師団本隊が退去するのと入れ替わりに、ソ連兵が重傷兵くぼ地に進入してきました。手榴弾を次々に投擲して日本兵の抵抗がないことを確認してから、くぼ地の内や外周近くに斃れている日本兵を蹴飛ばして生死を確認していました。


 こうして中山仁志上等兵はほかの負傷兵といっしょに捕虜になりました。トラックに乗せられてあちこちモンゴル領内を移動している間に銃殺されるに違いないと思い、銃殺されるのを待っていたそうです。


 捕虜になることはとんでもない不名誉なことで、軍に戻っても故郷に帰ってもどのような扱いが待っているかわかりません。中山上等兵にはそれがわかっているので、死ぬことばかり頭にあったと言います。


 しかし銃殺はなかった。モンゴル領をトラックで移動し、シベリア鉄道のどこかで200人か300人かの捕虜といっしょに鉄道に乗せられてソ連領のどこかの収容所に送られた。その次に、チタの収容所へ移送されました。



 〈中山仁志上等兵の証言──チタの捕虜収容所〉
   乗せられた列車がシベリア鉄道だったことは確信があります。停車場には
  止まらないで白樺の林の中で止まったりしながら何日も走りつづけました。
  そしてチタについたのです。

   チタにはソ連の政治犯を一カ所に集めた町がありましたね。刑務所の町で
  す。そこの赤レンガの大きな2階造りの建物に私たちは入れられたのですが、
  監視つきですし、お互いに話す機会はなかったですね。何人いて、どうし
  ていたのか不明です。

   紀元2600年
(※1940年=昭和15年)を記念して全員が集まったことがありま
  したが、その時、数百人はゆうにいましたね。航空大佐がいちばん上で、少佐
  が一人いました。尉官は相当数いたように思います。
   (注)少佐は、前回2023-08-20記事に書いた飛行第1戦隊長原田文男少佐です。中山  
    上等兵と原田少佐は同じチタの収容所にいたのでした  

   集会の部屋に入るともう隣は何をする人ぞ、で全くわかりません。しかし、
  私たちの入っていたような収容所がほかにもあったことは事実ですから、捕虜
  の総人員は相当数にのぼると思います。百や二百ではききませんよ。

   捕虜になったのは重傷で動けぬままにつかまったのがほとんどですが、道に
  迷って20日間ほど戦場をさまよった果てに捕虜になったものがいました。

   共通していることは、捕虜同士はしゃべらないということで、お互いに捕虜
  になったことを内心では非常な不名誉と考えていたのです。私だって、終戦に
  なって、やっと幾分気が楽になったほどですから戦争中は全くいやでしたね。
  [引用終] 
   (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇  P243』引用)
 

 中山上等兵が原田少佐や大徳中尉と同じチタ捕虜収容所にいて、同じ1940年(昭和15年) 4月27日に日本側代表(第6軍参謀長藤本鉄熊少将 )に引き渡されました。



 『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇』P245に、中山上等兵の証言があります。

 〈中山仁志上等兵の証言──チタの捕虜収容所〉
  「捕虜交換で満洲里についたことは記憶にありますが日時は不明です。覚え
   ていません」
  (著者注記:昭和15年4月27日の捕虜交換と思われる。場所は満洲里駅前だった。)
  「捕虜交換用の幕舎があったことだけは記憶に残っています」
  「藤本鉄熊少将が委員長でした」 [引用終]     


 上の著者注記のうち「場所は満洲里駅前だった」というだけでは、日ソ捕虜交換が満洲国領土内で行われたという認識まちがいを生みます。

 満洲里はソ連・モンゴル・満洲の三国国境結節点至近の町であり、満洲里駅はシベリア鉄道につながっている国境の駅です。「ソ連軍による日本軍捕虜解放の場所が満洲里駅前だ」と注釈なしに聞けば、日本人なら単純に満洲領内の満洲里駅と思いこむことでしょう。

 しかし優勢に戦争を終わらせたソ連軍が、数多の友軍将兵の命と引き換えに捕獲した日本軍捕虜を解放するのです。そうした事情から、おまえんとこの捕虜を返してやる …… ありがたく思って取りに来い、という形になるのは仕方ありません。劣勢の日本側が辞を低くして、ソ連領土内で日本軍捕虜を受け取るのがあたりまえの形だろうと思います。



 『ノモンハン戦④ 』P114では以下のように記述しています。
    (注)上記の一、二、①、②、はkawamotoが付しました。            


一、 [『ノモンハン④』P114引用]     午後1時、国境のソ連側の駅前広場で、第六軍参謀長藤本鉄熊少将と幕僚はトラックを待たせたまま、ソ連軍代表と握手し、日本軍捕虜77人(停戦後抑留された加藤大尉らを含む)と満軍39人を一人ずつ確認しながら受け取った。その際、日ソ合意に基づきソ連軍捕虜2人が引き渡された。[引用終]  

   ノモンハン戦争で日本軍を叩きつぶしたソ連軍は、優勢な立場で日本に応対できる
  立場にあります。戦場はモンゴル領内でした。幾千の将兵が曠野に斃れたままです。
  停戦後に、日本軍はソ連軍・モンゴル軍の監視下で戦死遺体の収容作業を実施しまし
  た。そして1940.4.27、ソ連側は捕虜116人を解放し、日本側は捕虜2人を解放した
  のです。

   こうした事情を知るならば、ソ連側がソ連領内の駅前広場で日本軍捕虜を解放した
  ことは外交常識に合っています。ソ連が満洲国領内に来て日本軍捕虜を解放すること
  は、なかなか考えづらいことです。

   満洲里駅はシベリア鉄道につながっていますから、上記一の「国境のソ連側の駅前
  広場」ということであれば、満洲里駅にはソ連・領内駅前広場があるのかもしれませ
  ん。


二、 [同じく『ノモンハン④』P114引用]  
 ① 引き渡された捕虜を運ぶ日本軍のトラックは、満洲里を迂回して市外の駅に向
  かった。
 ② その途中、歩兵が訓練をしているのが見えたが、その指揮官は部下に対して、
  視線を落とし、みすぼらしい捕虜を見ないよう命令した。[引用終]  

   上の①と②共に、陸軍がノモンハン戦争の実態をできる限り隠そうとしていること
  がわかります。そのために、ノモンハン戦争従軍将兵を国民からできる限り隔離して
  おきたいという政府・軍の方針が露わになっています。



 ソ連から引き取った捕虜を護送するトラックは、満洲里を迂回して市外の駅に向かい(※駅名はわかりません)、その駅で捕虜専用列車に乗り換え、吉林にある新站陸軍病院分院に護送されました。これは『ノモンハン④』P114~P116に詳しく書かれています。

 一方、『ノモンハン戦 壊滅篇』P245で、中山仁志上等兵はトラックを降りて「列車に乗せられ新京まで行ったんですが」、「新京陸軍病院の分院があって、そこで私たちは藤本少将の取り調べ受けたと思うんですが」と証言しています。

『ノモンハン④』では、捕虜は新站陸軍病院分院に収容されたとなっています。「站」という字には中国語で「駅」という意味があります。そうなれば、新駅陸軍病院分院ということで、どうもしっくりしません。

 したがって、ここでは吉林にある新京陸軍病院分院としておきます。

 これを整理すると、帰還捕虜護送列車は満洲里市外の駅から出発し、新京駅を通って吉林駅で捕虜をトラックに乗せ換えて陸軍病院分院に到着したことになります。負傷兵は歩くことは困難でありましょうし、軍は捕虜の姿を市中に見せたくありません。捕虜は、吉林駅から病院までトラックで運ばれたと考えます。



 〈中山仁志上等兵の証言──取り調べ、監視〉

   陸軍病院で私たちは藤本少将(関東軍第6軍参謀長)の調べを受けたと思
  うんですが、「陛下の特別のお言葉でお前たちは罰しない。しかし本当のこ
  とは言え」ということで、まず捕まった状況の説明から取り調べを受けまし
  た。

   判決は、「勲功ゼロ。重謹慎20日間。ただ降等をせず、軍隊手帳にも記入
  しない」とのことでした。それから20日間分院で謹慎していたのですが、毎
  日軍人勅諭を言って座禅を組むだけでした。作業なんか一切無しです。です
  が、ここは一種の地獄で自殺者がかなりありました。将校は全員自殺したの
  ではないでしょうか。原隊から面会に来てピストルを置いて帰るのです。

   新京陸軍病院の分院では、憲兵が衛生兵に化けて私たちを監視し、ささや
  きに注意していました。

   将校が自殺を強いられたことは前にも申しましたが、死ぬと分院内がどう
  しても騒々しくなりますから、「またやったな」とわかります。曹長以下は
  助かったのですが、いかに将校とは言え、投降したわけではないんですから、
  自殺を強要するなんて、ひどい陸軍だと思いましたね。 [引用終]   
  (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇  P245』引用)



 〈中山仁志上等兵の証言──退院 → ソ満国境へ転属〉

   20日間の謹慎が済むと関東軍憲兵司令官が精神教育をやります。
  「捕虜になったことは秘密にせよ。親兄弟にも内証にせよ。捕虜になったも
  の同士の文通もダメ。道で出会ってもあいさつもするな。それに違反すれば
  軍機保護法で処罰する」という内容のものでした。

   新京の分院を退院して、私は関東軍の浜田隊と言っていたソ満 (ソ連・満
  洲) 国境の陣地構築舞部隊に入れられました。捕虜だった兵隊は私一人です。
  二人一緒ということは絶対になく、全員バラバラにして各隊に配属されたの
  です。浜田隊は牡丹江から北に入った、石炭層のある鶴崗かくこうという山の
  中にありました。

   軍属でもなし、警備隊でもなし、といった、妙な立場に置かれました。部
  隊長は少将か中将でしたが、
   「お前は何もせんでもよろしい。満期までここでやれ」
  と言われました。部隊の任務はソ満国境のトーチカを構築する秘密部隊です
  から私たちのような身分の兵隊にはもってこいの隠れ家だったわけです。

   日記などの記録を一切つけなくなったのは捕虜になってからで、できるだ
  け忘れたい気持ちでいっぱいでした。全くいやな毎日でした。

   そこで現地満期になりました。大東亜戦争の始まるちょっと前だったと思
  います。 [引用終]     
  (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇  P247』引用)



 〈中山仁志上等兵の証言──兵役満期除隊後まもなく軍属徴用 → 奉天へ〉

  (ソ満国境で兵役満期になってからほどなく)軍属の徴用令が来て、奉天
 (※満洲国、現在は中国瀋陽市)にあった南満洲兵器補給廠879舞台に入りました。
  すると部隊長が私だけを呼び、
  「君の前歴は知っている。ひがまないようにしっかりやってくれ」
   と言うのです。どこまでいったも前歴がついて回っていましたね。

   879部隊で終戦を迎え、昭和21年7月に舞鶴に上陸したのですが、終戦で
  少しは気が楽になったというものの今もって古傷にさわられるのはイヤなん
  です。教育とは不思議なものですね。

   今でもソ連に残っている捕虜がいることを私は信じます。収容所にいる時
  に、何人かは部屋に戻って来なかったですからね。その人たちはソ連に居残
  った人たちのはずですから。 [引用終]      
 (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇』P248 引用) 

 ノモンハン戦争従軍将兵に対しては「口封じ」人事が行われました。

※登場人物の証言はもちろん、1945年無条件降伏後に相当の年数を経過したあとのものです。そうなのですが、ブログ文中では昭和戦前の従軍当時の位階で呼んでおります。ご了解よろしくお願い致します。



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