川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
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「延命措置をどうされますか?」「延命措置について決めてください」 ――終末医療でわたしが経験したこと二つ

2017-11-26 23:07:59 | Weblog

「延命措置をどうされますか?」

2年と4か月の間に、母は、脳梗塞を2回、心不全を2回、肺炎1回を患い、最後にデイケア先でけいれん昏倒して救急車で運ばれ、意識不明のまま病院で命を終えました。意識不明の期間は2カ月でしたから、闘病は2年半ということになります。当年82歳でした。

けいれん発作を起こす10日ほど前のこと。母のベッドを置いている部屋は日当たりの良い明るい部屋でした。午前の暖かい日差しを浴びて、青空がよく見えるベッドで横になっている母に、わたしは言いました。

「おかあちゃん、きょうはええ天気やろ。気持ちええやろ。元気になろな」
「もう…ええわぁ……」

母はぼんやりと青空を見ながら、微かな微かな、か弱い弱弱しい声で言いました。それは命の灯が消えかけているような風情でした。

意識不明のまま救急入院した先で、看護師がわたしに問いました。延命措置をどうされますか、と。母はすでに生きているのが酷であると思われるほどに弱っていました。わたしは、「一切の延命措置はいりません」と答えました。看護師は「そうですね。そうされた方がよいと思います」と言い、延命措置のことはそれだけで終わりました。

母は意識不明のまま、なお2カ月を生きて亡くなりました。今になって思います。あのとき、母にも経管栄養補給をしていたのだろうか。それは腕からだったのだろうか。脚からだったのだろうか。あのときわたしにはそういう知識がなかった。点滴というのは腕からするものだと思いこんでいました。どちらにしても意識不明の母は終わるのを待つだけの状態でした。

100歳までも、それ以上にこちらが生きているかぎり、共に生きてほしかった母でしたが…。


「延命措置について決めてください」

今年のこと。独身85歳で、グループホームでお世話になっていた叔母(要介護3)が、胆管結石の入院手術をしました。血縁者は甥3人と姪2人。その中の最年長者がわたしで、叔母の世話役というか、親類への連絡役を務めています。金銭上のことは、家庭裁判所に申請して成年後見人を選任していただいています。

手術は成功。術後の医師説明で、「嚥下能力がダメなので、嚥下のリハビリをします。だから退院はそのあとになります」ということでした。なぜそうなったのかわかりませんが、食べたり飲んだりすることができなくなっていたのです。

次にまた病院から呼び出されて、主治医の説明がありました。

「認知症のせいで、いろいろと嫌がったりするので嚥下のリハビリができません。経口摂取ができない状態です。こういう状態なので、療養病棟のある病院へ移ってもらいます。地域連携係を呼びますから、転院について打ち合わせてください。嚥下が不能状態なので、このままでは死んでしまいます。延命措置をどうするか決めてください」

個別に事情は異なるので一律に決めつけることはできませんが、わたしの持論は、「それなりの高齢に立ち至って健康回復の見込みが薄ければ、特別の延命措置をして生き延びるよりは自然の摂理に任せるのがよい」というものです。

叔母は、家庭を持つことなく独身のまま気丈に生きてきました。心ならずもアルツハイマー型認知症になって、自分のことを自分で処することができなくなりました。けれども気丈にがんばってきて、人の世話にはならないという姿勢で生きてきた人ですから、このような状態で長生きしたいと思うわけがない。それに気兼ねになる家族は無い。

主治医に「一切の延命措置はしません。ほかの甥姪も意思統一できています」と伝えました。医師は「死にますよ」と強い口調でたたみかけてきます。

わたし「叔母は年も年ですから、胃に穴をあけてまで生きたいとは思いませ
    ん」
主治医「何も胃ろうとは言ってません。経管もあります」
わたし「それは何ですか?」
主治医「血管から点滴で栄養を入れます」
わたし「それでどうなりますか?」
主治医「腕からなら少ししか入らないので、1カ月くらいしかもちません」

延命措置について決めてくださいと言いながら、主治医は延命措置をしないということには抵抗します。人の命を助ける仕事の医師の気持ちとして、「このままで何もしなければ死ぬ」とわかりきっていることをできないのだろうと思いました。

けれども、寝たきりで回復の見込みのないままに延命させる医療行為の是非について、主治医はまったく顧慮しません。というよりも主治医の思考のうちに入っているようには見えなかった。生きられる命を見捨てるのか、とこちらが責められているような気持になりました。

主治医は「脚の付け根の太い血管から入れると1年ぐらいもちます」とも言いました。しかし、「転院先のお医者さんが改めて治療方針を決めるでしょうから」とわたしが答えると、それ以上は医師も主張しなかった。

転院が目先です。手術をした主治医の手元にいる短期間、叔母が元気でいられるのはまちがいありませんから。

転院先ではその病院の地域連携係の人が待ち受けていて、病棟に落ち着く前の一連の手続きがありました。書類上の入院手続きのほかに、担当医からお話がありました。

担当医「延命措置は経管で栄養を取るんですね」
わたし「はい、そうです」
担当医「腕からということですね」
わたし「はい、そうです」
担当医「それではもちませんよ」

わたしは前の病院で説明したと同じことを説明しました。日常生活へのこれまでの叔母の処し方、気丈な気性、高齢者同士の話の「風呂やトイレまで自分でできなくなったら長生きしていたくないよね」という常識話、わたしの母もそうであった、延命措置はしなかった、わたし自身についても、イザというときにはそうするよう家族に話してある、身内の意見も同じく統一してある。……そういったことを話しました。

担当医は前の病院の主治医と同じように、わたしの主張に不服そうでしたが、その場はそれでおさまりました。こういう経過を踏んで叔母が病棟に入院しました。

病棟の看護師さんと話しているときに、「きょうは8度ありますので、しばらく内科病棟で看護します」と説明がありました。

わたし「あ、ちょっと熱があるんですか」
看護師「はい、肺炎をやってますので。まだ少しその影響が残っていると思います」

なんと、前の病院では、主治医から「熱がある」とも「肺炎をした」とも、まったく聞かされていません。看護師に叔母の体調を聞いても、「医師にお尋ねください」といった調子で、常から説明はしてくれません。そういう病院でした。

身内が病棟ナースステーションの前の廊下で寄っているときに、病棟の看護師長さんが来て話しました。

「あのう、先生がもう一度聞いてくれといってるんですけど。腕からでは栄養が少ししか入らなくて足りないので、脚から入れたいと言ってるんですけど。どうでしょうか」

脚から点滴栄養注入をしたいということに固執することでは、前の病院の主治医も転院先の担当医も同じでした。それで、居合わせた身内一同ともに、「先生の言われる通りにお願いします」ということで落ち着きました。

それが9月19日でした。そして10日ほど前に病院で聞いたときの病状では、それなりに落ち着いて元気だということでした。ベッドの上で寝たきりの点滴栄養注入をつづけていましたが、そのコンディションなりに安定しているということでした。

しかしその後すぐから敗血症を起こして様態が悪化して、きょう11月26日午後、叔母が亡くなりました。

アルツハイマー痴呆が出ていても、叔母はわたしのことを認知できていました。たまに病院に訪ねたときにはわたしを見てたいへん喜んで、一生懸命に何かを訴えて話していました。しかしそれが言葉になっていません。口の中でもぐもぐ言う音声なので理解できず、わたしは何もできなかった。

胆管結石で入院1カ月、転院して2カ月。この3カ月間を、叔母は寝たきりで過ごしました。寝たきりで先の希望のない生活を送らねばならないことを当人は望んでいないと、わたしは今でも思っています。ですから、叔母が予定より少し早く命を終えることができて良かったと、ほかの身内との間で話し合っております。




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作家・石川達三 「言論の自由」貫いた生涯 発禁になった従軍小説「生きている兵隊」、特高拷問描いた「風にそよぐ葦」

2017-11-02 23:46:42 | Weblog
2017.10.28.
1938年発売禁止処分 石川達三「生きている兵隊(伏字復元版)」中公文庫 あるがままの戦争の姿を知らせることによって
2017.10.25.
転載「改革者の顔した権力に用心」吉岡忍・日本ペンクラブ会長(毎日新聞2017.10.20.)



毎日新聞2017.9.7.記事「メディアの戦後史」から転記します。


従軍小説「生きている兵隊」で発禁・有罪

 「平尾は銃剣をもって女の胸のあたりを三たび突き貫いた。他の兵も各々短剣をもって頭といわず腹といわず突きまくった。ほとんど十秒と女は生きて居なかった。」

 第1回芥川賞受賞者の石川達三(1905~85年)が38年、日中戦争に従軍して書いた小説「生きている兵隊」で、日本兵が無防備な中国人女性を殺害する場面だ。月刊誌「中央公論」の同年3月号に発表されたが、約4分の1が伏せ字削除された。

 「平尾は・・・あたりを・・・。他の兵も各々・・・まくった。ほとんど十秒と・・・。」

 さらに即日発禁処分になり、書店にあった雑誌は警察に押収された。石川は中央公論の編集者とともに戦前の言論統制法の一つ「新聞紙法違反」に問われ、禁錮4月、執行猶予3年の判決を受けた。「皇軍(日本軍)兵士の非戦闘員殺りくを記述したる安寧秩序を紊乱(ぶんらん)する事項」を執筆したためとされた。

 石川は必ずしも反戦だったわけではなく、有罪判決を受けた後も再び従軍作家として活動した。だが筆禍は続く。石川が敗戦直前の45年7月、毎日新聞に連載した小説「成瀬南平の行状」は事前検閲によって15回で打ち切りになった。「言論表現の自由ということをしきりに考えた。殊に筆禍によって体刑を受けるに至って、言論自由への要求は骨身に滲(し)みこむようなものとなった」(「経験的小説論」)。戦時の心境について後にこう振り返っている。

 戦後。「生きている兵隊」は45年末、伏せ字を外して出版された。石川の長女、竹内希衣子さん(80)はその頃の父の姿を覚えている。「してやったりと喜んでいましたよ」。しかし自由が得られたわけではなかった。46年の短編小説「戦いの権化」は連合国軍総司令部(GHQ)の民間検閲局(CCD)の事前検閲によって公表が禁止された。

特高拷問を描いた小説「風にそよぐ葦」

 GHQの検閲体制が事実上解かれる49年、石川は毎日新聞で小説「風にそよぐ葦(あし)」の連載を始めた。日米開戦前の40年以降を舞台に「個人というものがぼろくずのように扱われた」時代の風に倒される人々の姿を描き、足元から自分たちを見つめ直す試みだった。

 「戦時中の国家権力や軍部に対する私の小さな復讐(ふくしゅう)であった」という小説の主人公のモデルは「生きている兵隊」の版元の中央公論社社長、嶋中雄作。戦時最大の言論弾圧とされ、拷問で4人が獄死した「横浜事件」のいきさつや拷問の模様を描いた。「言論の自由はわずかに神奈川県警の一特高警察の力によって見事に蹂躙(じゅうりん)された」。逮捕されたジャーナリストの細川嘉六も実名で登場させた。

石川達三――言論の自由に向き合った作家

 中断を挟んで2年間続いた連載小説は、日本国憲法の施行日の場面で幕を閉じる。主人公に「国家とか社会とか、そういうものには、望みが持てなくなった。人間の誠実な心だけは、信じられる」と言わせながら、国民主権を理念として、検閲を禁じ、言論の自由を保障した新しい憲法に希望を託した。「日本人はいまだ嘗(かつ)て、個人の権利と自由、個人の尊厳について、あれほど明白に厳格に規定された憲法を持ったことはなかった」(「経験的小説論」)

 石川は「日本ペンクラブ」会長となり、生涯を通じて言論の自由に向き合った。「風にそよぐ葦」は戦後70年を迎えた2015年、岩波書店が「現代文庫」に加えた。

 担当編集者の上田麻里さん(48)は「石川は言論の自由がなかった時代に、書かなければならないことを書き続けた『ぶれない』人だった。戦争を知らない世代が大半となった今、言論は少しずつ萎縮している。この小説はその自由を守ることがいかに困難で大切かを訴えている」と話す。


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