※2023.5.21. FNNプライムオンラインの記事に拠っています。
昨年、55歳の女性が亡くなりました。息子が世話をしていました。
その母親は糖尿病とうつ病を、長年、患っていました。
一日のほとんどを寝て暮らしていました。
37歳の息子から暴行を受ける日がつづいた末に、
息子が呼んだ救急車で入院し、2か月後に亡くなりました。
この事件が起きたのは2022年7月。
息子は傷害致死の罪に問われ、検察の求刑は懲役7年。
先月2023年5月、東京地裁で懲役5年の判決が下りました。
息子が10歳のころ両親が離婚しました。
その後は母親、息子、7歳下の妹の3人暮らしでした。
妹は6年前に結婚して別に暮らすようになりました。
息子は高校卒業後、
接客のアルバイトや派遣の仕事を転々としましたが、
妹が別に暮らすようになった30歳ごろには仕事をやめて、
つきっきりで母親の世話をするようになりました。
母と息子二人暮らしの生計は、母親の生活保護費に頼っていました。
【妹への証人尋問】
──母親はどんな生活だった?
基本的にゴロゴロ、だらけている感じ。
浴びるようにお酒を飲んでいた。
朝起きると焼酎のボトルがあって、ひっきりなしに飲んでいた。
──被告人やあなたに対しては?
暴力をふるったり、嫌なことを言ったり。高校の制服を破られたこともあった。
──母親がうつ病で困ったことは?
(母が)「1人でいられない、寂しい、1人になりたくない」と言って、
小学生の時に学校に行かせてくれないことや、
遊びに行かせてくれないこともあった。
──家事は?
母はできなかったので、兄が積極的にやって、私も手伝っていた。
被告(息子)は10歳のころから、料理や洗濯、掃除などの家事を全てこなして
いたという。
妹は「母親の良いところは」と問われると「正直良い思い出がない」と話した。
──当時、誰かに相談は?
できなかったです、そういう力がなかった。みんなバラバラになってしまうと思っていた。幼少期に、兄がいてくれて本当に助かった。
【被告人質問】
被告は携帯電話を持っていなかった。「無職であることに負い目を感じ、友達
との関係も絶った」と話した。
──お母さんとあなたとの関係、狂気だと思うが、どう思う?
母は普通じゃない人間だったが、自分も普通じゃないことばかりをやった。
後悔しています。
──暴力をふるわれたお母さんの気持ちは?
自分の息子から無慈悲な暴力をふるわれて、とても苦しかっただろうと思い
ます。
「母親への復讐だったのか」と問われると「恨みや憎しみはなかった」と否定
した。
「幼少期に、兄がいてくれて本当に助かった」という妹の証言からは、被告人となった心やさしい兄を支えようとする気持ちが伝わってきます。
被告人質問で、裁判長の「親子が狂気の関係だと思わないか」という問いかけに、被告息子は「母はふつうじゃなかったが、自分も普通じゃなかった。後悔しています」と供述しました。心からそう思っているのだと思います。
もう一つの被告人質問。母を死に至らしめた激しい折檻、1週間で50回から100回くらいと息子自身が供述しているほどの暴行について、裁判長は「母親への復讐か」と問いかけました。
被告息子は「恨みや憎しみはなかった」と供述しています。これもまた、私はわかるような気持でいます。
そういう親子関係もあるだろうと思うのです。
明治生まれでとっくに亡くなっている私の祖母は第1子出産後に、まったく耳が聞こえなくなりました。以後死ぬまで聴覚ゼロ。もとからの自分中心屋で嫉妬心が強く執拗な性格に、猜疑心が加わりました。そのうえ祖父は三十代後半で病死しました。
とにかく人を見ると、仕草や態度、目つき表情を異常なほどに観察します。自分をバカにしてないか、異常なほど神経を立てています。
それだからとにかくつきあいが難しい。4人の子を産みましたが、4人とも祖母のおかげで大変な苦労を強いられました。孫である私でさえ、皮ベルトか鯨尺3尺の竹尺で叩かれたことがたびたびありました。叩かれたところはみみず腫れになりました。
四六時中、自分中心でないと荒れて、手に負えない私の祖母でした。次男家族と同居していて、ほかの3人の子それぞれが少なくとも週に1回、祖母のごきげん伺いをしていました。4人の間で祖母を罵りあって憂さ晴らしすることはしばしばありましたが。
私はかなり極端な性格の祖母を見てきました。祖父病死後の私の母の少女時代は祖母を抱えてたいへんな生活環境にあった様子を何度も母から聞いています。
ですから、暴行致死に至ったとげとげしく希望のない親子生活の中にあって、「後悔している」とか「恨みや憎しみはない」という被告息子の心を自然に受け留めることができます。
母親はうつ病だったと言います。妹の証言から察するに、片時も一人でいられないほど不安に駆られています。息子か娘のどちらか一人がいつも自分のそばに居てほしい、というありさまでした。
被告息子は、そういった母を可哀そうに思う気持ちがあり、それをどうにもできない自分自身のふがいなさとの間に葛藤が宿っていたのだと思います。
とにかく、被告息子には、母親を恨む、憎むという心が無かった。
母親の心も、この被告息子に呼応するものであったに違いありません。
折檻に苦しんでも、息子を恨む、憎むという心は無かったものと思います。
被告息子の暴力行為のために意識不明となって救急入院しました。
命絶えるまで2カ月の間、意識不明であっても思いはいろいろ巡っています。
その間、母親は息子が供述したと同じように「後悔」していたでしょう。
そして、二人の子に「済まなかった」というお礼とお詫びの気持ちが巡っていたに違いありません。
被告息子の供述やその妹の証言を見て、その心中に思いを馳せているうちに夜明け近くになりました。各地に線状降水帯の予報が出ていて、外は雨が降っています。
この裁判事件について心のひだに触れるような記事を書いてくれたTBS社会部の記者も、さまざまな思いに駆られたのではないでしょうか。記者の心に響いた感傷が下の一文に隠れているように思います。
傍聴席では、被告の妹が幼い子どもと一緒に、裁判の様子を見守っていた。