川本ちょっとメモ

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「自殺」を意味することばについて 私は「自決」ということばを好みません

2023-06-29 11:41:38 | Weblog


2023-06-23
きょうは「沖縄慰霊の日」 住民集団自殺の例を紹介します その1 慶留間島
2023-06-24
沖縄戦 住民集団自殺の例を紹介します その2 座間味島
2023-06-25
沖縄戦 住民集団自殺の例を紹介します その3終 渡嘉敷島、伊江島



 私は「自決」ということばを好みません。



〇 「自殺」を意味することばについて

 広辞苑第五版に掲載されている「自殺」と同様のことばを挙げてみます。

自害】自ら傷つけて自分の生命を絶つこと。自殺。自刃。自尽。
    「──して果てる」

自決】①みずから決断して自分の生命を絶つこと。自裁。「引責──」
    ②他人の指図を受けず自分で自分のことを決めること。「民族──」

自殺】自ら自分の生命を絶つこと。「服毒──」

自裁】自ら生命を絶つこと。自決。
自死】自殺。

自刎じふん】自ら首をはねて死ぬこと。 自分で自分の首をはねることは不可能
        なことと思うのですが、確かに広辞苑・角川新字源に掲載されています。


自刃じじん】自ら刃で生命を絶つこと。自害。

自尽じじん】自殺。自害。


これら8つの単語をグループ分けしてみます。


〇「自分で生命を絶つこと」というのは【自決】【自殺】【自裁】【自死】。
  この【自殺】グループ4語に共通するのは、「自分で生命を絶つこと」です。
  [自決] には「みずから決断して」という条件が付されています。自殺はみずから
  決断しなければできないことですから、4語とも共通しています。


〇 【自害】では、「自分で生命を絶つこと」に加えて「自ら傷つけて」という条件
  を強調しています。
自刎】【自刃】【自尽】は【自害】グループ4語に入りま
  す。


〇 めったに使われない【自裁】【自刎】【自尽】は今や死語と言えます。


〇 【自刃】【自害】では戦国時代の落城劇で頸動脈を切るシーンがあって [自刃]
  [自害] ということばを知っている人は多いのですが、この形態で自殺を図ること
  は現代ではほぼあり得ません。従って流通度の点で休眠語と言えます。


〇 【自殺】と【自死】の比較── 【自殺】は文字通りに読めば「自分で自分を殺
  すこと」で、【自死】は文字通りに読めば「自分で死ぬこと」です。自分で死ぬ
  ことを表現することばについて、私は [自殺] より [自死] の方が 適切だろうと思
  います。しかしながら、この2つの単語の流通度では [自殺] が圧倒的に高い。
   したがって、いくつかの[自殺] を意味することばのうちで
圧倒的な流通度を誇
  る【自殺】を使うのがもっとも自然である
という結論に落ち着きました。



〇 自殺の独特な死に方──切腹

 【切腹】は武士の時代の独特な死に方です。敗戦にけりをつける切腹、何かの責任を取る切腹、何かの罪に問われて強いられる切腹などがあります。腹を切るという方法、形態を表すことばが、同時に【自殺】を意味しています。幕末の政治動乱期は、何かの罪に問われて無念の切腹死を遂げた下級武士が非常に多かった時代です。

〈明治・昭和の切腹〉
 1912(明治45).9.30. 明治天皇大喪の夜 乃木希典陸軍大将切腹、静子夫人自刃
 1945(昭和20).8.15. 05:30  陸軍大臣阿南惟幾陸軍大将切腹、 正午 玉音放送

〈開国揺籃期の切腹〉 2023.7.1.追記
 1868(明治1) 戊辰戦争始まる 鳥羽伏見の戦い
 1868.2.15.   堺港警備の土佐藩兵が上陸見物のフランス水兵を銃撃、11人死亡
           外国兵との戦闘禁止下の発砲 関与は司令士と銃卒40人編成2隊
      2.19.   仏ロッシュ公使が土佐藩兵の処罰斬首と15万ドル賠償金を要求
      2.22.   大坂外国事務局役所で土佐藩士20名の切腹を決定   
      2.23.   切腹刑場は堺・妙国寺。土佐藩が執行。新政府は20名の警護を肥
         後藩細川家54万石と安芸藩浅野家42万石という大藩に命じて、外
         国に対して国の威信を示した。
          受刑者20名に駕籠20丁と従者120人、警護銃卒120人、大砲2門
        という立派すぎる妙国寺行き隊列で、同情的な世情を映して多くの
        人々が見送った。
          切腹そのものは11名で中止になった。検死のフランス側プチ・ト
        アール艦長がフランス側被害者11人目と同数で終わるよう現場で要
        請した。(この項、大岡昇平「堺港攘夷始末」中公新書1992.6.10.に拠る)

 開国と攘夷の狭間に起きた事件です。土佐藩側内情では、銃撃命令を出した土佐
藩隊長2人の切腹を認め、命令を実行した2隊銃卒80名については隊士として正当
と考えていた。囚人20名のうち隊長2名が士分で、18名は足軽身分で斬首刑相当だ
った。しかし土佐藩は足軽18名に士格相当・苗字御免・絹服着用・十文字切腹・介
錯という特別の礼遇を以って土佐藩の意思を示した。政治的な事情で「切腹」が動
いた



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沖縄戦、軍司令官の自死は「自決」 住民の自死は「集団自殺」でも、沖縄戦に限って「集団自決」と言います

2023-06-27 19:48:17 | Weblog

2023-06-23
きょうは「沖縄慰霊の日」 住民集団自殺の例を紹介します その1 慶留間島
2023-06-24
沖縄戦 住民集団自殺の例を紹介します その2 座間味島
2023-06-25
沖縄戦 住民集団自殺の例を紹介します その3終 渡嘉敷島、伊江島



 私は「自決」ということばを好みません。差し支えないと思う場合には「自殺」ということばに言い換えています。



 1945年6月13日、沖縄守備第32軍海軍沖縄根拠地隊司令官大田実海軍少将(死後中将に昇進)が豊見城の司令部壕内に於いて拳銃で自決しました。


 大田司令官はその最期に際して、後世読む人の感涙を誘う有名な「沖縄県民カク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という電文を打電しています。しかし残念なことに大田司令官の「特別ノ御高配」遺言はまだ実現していません。

 

 1945年6月19日、沖縄守備第32軍司令官牛島満中将は最後の軍命令を発しました。

「今や刀折れ矢尽き軍の運命旦夕(たんせき)に迫る。…(略)…爾今(じこん)各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし」


1945年6月23日未明、第32軍の軍司令官牛島満中将と参謀長長勇少将は割腹して自決しました。

 こうして軍司令官は死にましたが、「生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し」という第32軍命令が死ぬことはなく、6月23日以後も8月15日以後も抵抗をつづけた将兵がいました。

 第24師団本部は6月30日全滅、第24師団第32連隊本部は8月25日投降、独立混成第44旅団国頭支隊の残存将兵は10月1日投降、という記録が残っています。

 
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沖縄戦 住民集団自殺の例を紹介します その3終 渡嘉敷島、伊江島

2023-06-25 17:38:59 | Weblog

2023-06-23
きょうは「沖縄慰霊の日」 住民集団自殺の例を紹介します その1 慶留間島
2023-06-24
沖縄戦 住民集団自殺の例を紹介します その2 座間味島



 私は「自決」ということばを好みません。差し支えないと思う場合には「自殺」ということばに言い換えています。




  改訂版 沖縄戦 民衆の眼でとらえる戦争 P156から


 座間味島の向かいにある渡嘉敷(とかしき)島では、自決者三二九名。

   隊長命令で西山に集結した渡嘉敷、阿波連(あはれん)部落の住民が日米両軍
 の狭間に追いこまれて、恩納(おんな)河原で一斉に自決した。家族ごとに手榴
 弾がくばられていたが、不発弾が多く、死にそびれた者たちはコンボウや鍬な
 どで頭を割って凄惨な最期を遂げた。


 伊江島。

  前線から逃げてきた防衛隊員が住民壕に合流し、これを追撃してきた敵戦車
 が洞窟入口から攻撃をかけてきた時、彼らが携帯していた急造爆雷で住民もろ
 とも自爆した。数か所の壕で集団自決が発生したことは確かだが、犠牲者数は
 はっきりしていない。

  アハシャ壕では約一二〇名の避難民が隠れていたが、生き残ったのは二〇
 名が確認されているだけである。


 
 
 


 ※当時の「陸軍防衛招集規則」では、満17歳から満45歳までの男子で兵役にもれ
  た者が防衛隊に招集されることになっていました。




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沖縄戦 住民集団自殺の例を紹介します その2 座間味島

2023-06-24 16:03:07 | Weblog

2023-06-23



 私は「自決」ということばを好みません。差し支えないと思う場合には「自殺」ということばに言い換えています。





   改訂版 沖縄戦 民衆の眼でとらえる戦争 P154から


  慶良間諸島の中の座間味(ざまみ)島では敵前上陸直前に役場の職員が各住民
 壕をまわって、住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子どもは忠魂碑前
 に集合、全員自決せよ」という通達を伝えてあったが、忠魂碑前は砲撃がはげ
 しくて集合がかなわず、めいめいの家族壕で手榴弾、カミソリ、鎌などで自殺
 を遂げた者がおおかった。



  ヤマト馬という横穴壕では、住民約二〇名が一本のロープで絞め殺された。
 絞めたのは体力のある男性で、ロープの端を杭木に結びつけ、一人一人の首に
 ロープを巻きつけて一方の端を強く引っ張って絶命させた。もちろん、自分も
 死ぬ覚悟であったが、二〇名を始末して最後にのこった自分はどうしても死ぬ
 ことができず、放心状態で壕から逃げていった。


  また、裏の高月山の中腹にある組合壕には村長、助役以下の村の幹部が避難
 していたが、敵上陸直後に一斉に自決が行なわれた。この壕からは一人の生還
 者もないので真相は明らかでないが、遺骨の状況からみて防衛隊長がもってい
 た小銃でとどめをさしたものと推測されている。

  現場には「村長、助役以下五九名集団自決之地」の碑が建っている。


   座間味島の自決者一七七名。



 ※当時の「陸軍防衛招集規則」では、満17歳から満45歳までの男子で兵役にもれ
  た者が防衛隊に招集されることになっていました。



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きょうは「沖縄慰霊の日」 住民集団自殺の例を紹介します その1 慶留間島

2023-06-23 19:35:29 | Weblog



 私は「自決」ということばを好みません。差し支えないと思う場合には「自殺」ということばに言い換えています。




  改訂版 沖縄戦 民衆の眼でとらえる戦争 P153から


  慶良間諸島の中の慶留間(げるま)島では米軍上陸(1945年3月26日朝)と
 同時に一斉に自決がおこなわれた。


  同島に配属された海上挺身隊の舟艇壕は部落とは反対側の北海岸にあるので
 住民と部隊との接触はない。


  男たちはほとんど防衛隊にとられて島外に出ており、女と子どもと老人だけ
 の島になっていた。それでも敵が上陸してきたら竹槍で戦うように教えこまれ
 ていた。そして、最期の覚悟について防衛隊の男たちは家族の者たちに言いふ
 くめていたのである。


  いざ、敵が上陸してきたとき、上陸用舟艇の陣容の前に竹槍ではどうするこ
 ともできなかった。人びとは雪崩をうって山の中に逃げこんだ。山といっても
 標高一五七メートルの森である。どこといって逃げ場はない。


  山の中ではすでに家族ごとに殺し合いがはじまっていた。手榴弾は配られて
 いないので、子どもは親が手にかけて絞め殺し、ネコイラズ
(殺鼠剤)を奪い
 合って口にふくみ、木の枝に縄をかけて首をくくり、あるいは砲爆撃で燃えつ
 づけている炎の中にとびこんで自殺した。


  一時間とたたないうちに慶留間(げるま)の総人口約一〇〇 名のうち五三名
 が命をたった。




 ※当時の「陸軍防衛招集規則」では、満17歳から満45歳までの男子で兵役にもれ
  た者が防衛隊に招集されることになっていました。



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なんでこれが全国ニュース? 6月14日、森喜朗元首相「小渕氏を華やかな舞台に」

2023-06-18 22:37:16 | Weblog




 ニュースを検索していると、いくつもの関連ニュースが表示されます。目的があって検索するのですが、関連表示がずらりと並ぶ中から目的から外れた事柄へ道草することがしばしばあります。基礎体力が弱くなり、相応して集中力が貧しくなっています。

 でもこの道草で、今まで知らなかったことに出会うきっかけになることがしばしばあります。新しいきっかけで、知らなかったことを知りたいという意欲が元気になりますから、道草も悪いものではありません。



  「小渕優子氏を華やかな舞台に」 森喜朗元首相、期待示す

               福島民報 2023/06/14 21:25

  森喜朗元首相は6月14日、東京都内のホテルで開かれた自民党の小渕優子組織運動
 本部長のパーティーであいさつし、政権の重要ポスト就任に期待を示した。「小渕氏
 を華やかな舞台にもう一度登場させたい」と述べた。

  11日死去した青木幹雄元官房長官にも触れ「小渕氏が飛躍した場所に座ってから、
 逝きたかっただろう。心残りだったと思う」としのんだ。小渕氏は政治資金規正法違
 反事件を巡り2014年に経済産業相を辞任した経緯がある。

  <政治とカネ> 安倍内閣の小渕優子元経済産業大臣 大臣辞職したが議員辞職はなし

  小渕氏は、青木氏との思い出を振り返り「ご指導に恥じない仕事を一生懸命してい
 きたい」と語った。

  森氏は2000年当時、小渕氏の父、恵三首相が脳梗塞で倒れた後、後継の首相に就い
  た。



 原発事故があってから、たまに福島民報を見ることがあります。そんなときに上の記事を読みました。



 森喜朗元首相が小渕優子議員のことを持ち上げたのは、小渕氏の後援者向けパーティーの席上のことでした。招待された森元首相が小渕氏を持ち上げたのは、こういう場合の来賓の常套文句です。

 資金稼ぎを兼ねた国会議員の後援者向けパーティーは頻繁にあって、珍しいことでもありません。



 ですから、こんなニュースは群馬の地方ネタていどなのに、何で東北の福島民報に載っているのか疑問に思いました。このニュースを検索してみると、同じニュースが何行も出てきます。私は神戸新聞を拾ってニュースを見ました。福島民報と同文です。

 このあたりで気づくところがあって、共同通信ニュースを閲覧するとやはり福島民報と同文でした。福島民報も神戸新聞も共同通信の契約地方紙でした。

 共同通信の配信ニュースとわかっても、衆議院比例区の北関東ブロック圏域のローカルネタが近畿ブロックの神戸新聞、東北ブロックの福島民報に載ることに疑問が残りました。しかし、その当たりの詮索はやめておきます。



 上のニュースにある故青木幹雄元官房長官、森喜朗元首相、故小渕恵三首相の人間関係を見てみましょう。

 故小渕恵三首相は2000年4月、脳梗塞で倒れて意識不明となりました。この緊急事態に際して当時の青木幹雄官房長官が派閥領袖のうち4人を急きょ招集しました。5人の密室会議として当時から有名になったエピソードで、私もよく覚えています。

 森喜朗氏の後継首相就任はこの密室会議で決まったと言われています。

 小渕内閣の青木官房長官は、後継森喜朗内閣の官房長官も務めました。
 青木幹雄氏は一方、小渕首相急死の後を受けて、小渕優子氏の政界後見人と認められてきました。

 小渕優子氏は当選回数も多く、今やベテラン議員に入る実力派議員です。
 小渕優子氏 1973年12月11日生まれ。2000年6月、26歳、衆議院議員初当選。



 この3氏の人間関係に注目してみると、上のニュースが生き生きとしてきます。通常国会会期末6月の衆院解散問題と共に内閣改造も政界の興味を呼んできましたが、会期末解散が無いとなれば内閣改造がさらにクローズアップされてきます。

 6月14日小渕氏パーティー席上の森元首相の「小渕氏を華やかな舞台にもう一度登場させたい」 発言は、6月14日の小渕パーティー時点で、森喜朗元首相が衆院解散無しを知っていたことを示し、次の衆院解散前に内閣改造があると観測していることを示しています。

 夏の終わりごろに内閣改造があれば、小渕優子氏の入閣はありそうですね。
 反対に、問題満載の高市大臣は消えるでしょう。



       岸田首相 「今国会の会期内では衆議院を解散しない」
 
           NHK 2023年6月15日 20時15分

  岸田総理大臣は6月15日夜、総理大臣官邸で記者団の取材に応じました。

  この中で岸田総理大臣は「立憲民主党が内閣不信任案を出すというのであれば、
 即刻否決するよう、先ほど自民党の茂木幹事長に指示を出した。公明党の山口代表
 にも協力を求めた」と述べました。

  そのうえで、記者団が「今の国会で衆議院を解散しないということか」と質問した
 のに対し、岸田総理大臣は「今国会での解散は考えていない」と明らかにしました。


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第211回通常国会会期末衆院解散中止と次の解散時期など

2023-06-16 14:50:51 | Weblog



 昨日6月15日夕方、岸田首相が今通常国会期末の衆院解散は無いと記者発表しました。この1カ月ほど衆院解散の思惑を巡ってどの政党も落ち着かない日々を送ってきましたが、これで解散騒ぎは暑中が過ぎるまで小休止となりました。


 統一地方選挙が4月に前期・後期の2回ありました。全国の多くの地方議員たちとその陣営・後援会は全力疾走し終わって、5月に入って一息つき始めたところでした。


 統一地方選の年の通常国会開会中の衆院解散は、疲れ切っている地方議員や後援会を苦しめ痛めつけることになります。ですから、参院選などのように定期循環が重なるものを除いて、統一地方選の年は8月、葉月のお盆が明けるまでは、衆院解散総選挙などを避けるのが普通なのです。


 臨時国会の開会は通常、9月中旬から10月始めのころです。
 内閣改造があるとすれば、臨時国会開会前です。


 内閣改造がなければ、制度的には臨時国会冒頭解散だってあり得ます。
 内閣改造があれば、次の衆院解散の機会は臨時国会開会中の11月です。

 

 このたびの第211回通常国会会期末の解散危機で、
 すぐさま表面化したのが、①自公間の東京都内小選挙区選挙協力の解消です。
 引き続き表面化したのが、②首相公邸赤じゅうたん階段の写真です。



 ①の次期衆院選について、東京都内小選挙区における自公選挙協力解消の方針は今日6月16日現在、変わりありません。


 そして、東京以外での自公選挙協力については、公明党の石井啓一幹事長が今日6月16日の記者会見で、自民、公明両党が次期衆院選に向け、東京以外での協力に関する合意文書を今月末にも交わす方向で調整していると明らかにしました。 



 ② 首相公邸赤じゅうたん階段の岸田親族若者の集合写真は、首相補佐官長男のアホさを国民の前にさらけだしました。このことがあったのは昨年12月30日。


 日常の公邸に住んでいるのは父首相と長男翔太郎氏の二人ということです。もう住み慣れているのですから、公邸生活がどうあるべきかという心構えができていなければいけません。それができていない翔太郎氏は、政治家としての素質がないと断定できます。適性が無さすぎます。民間で平凡なしあわせの道を探求されるようお勧めいたします。


 これを許した父親の緩さにも、公私混同としては「ばれたのは運が悪かった」というていどの認識だろうと想像します。自民党支配が揺るがない日本政界における大物政治家の公私混同倫理はこのように緩いものなんでしょう。


 ついでに言えば、赤じゅうたん階段に一人で寝そべっていたのは、岸田首相の3歳下の実弟の子息です。この岸田首相実弟氏は、外国人の国内労働を支援する『フィールジャパンwith K』代表取締役の岸田武雄氏。会社のホームページには「『特定技能制度』を活用したインドネシア人採用の支援を行っています 」とあります。インドネシア人の特定技能制度採用に特化していて盛業のようですから、岸田首相の実弟という立場が有利に働いていることはまちがいありません。



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55歳の女性が亡くなりました FNNオンラインで悲哀のニュースストーリーを伝えています 夜明け前に涙抑えがたし

2023-06-09 04:28:11 | Weblog


  ※2023.5.21. FNNプライムオンラインの記事に拠っています。



 昨年、55歳の女性が亡くなりました。息子が世話をしていました。
 
 その母親は糖尿病とうつ病を、長年、患っていました。
 一日のほとんどを寝て暮らしていました。

 37歳の息子から暴行を受ける日がつづいた末に、
 息子が呼んだ救急車で入院し、2か月後に亡くなりました。


 この事件が起きたのは2022年7月。
 息子は傷害致死の罪に問われ、検察の求刑は懲役7年。
 先月2023年5月、東京地裁で懲役5年の判決が下りました。

 
 息子が10歳のころ両親が離婚しました。
 その後は母親、息子、7歳下の妹の3人暮らしでした。

 妹は6年前に結婚して別に暮らすようになりました。

 息子は高校卒業後、
 接客のアルバイトや派遣の仕事を転々としましたが、
 妹が別に暮らすようになった30歳ごろには仕事をやめて、
 つきっきりで母親の世話をするようになりました。
 
 母と息子二人暮らしの生計は、母親の生活保護費に頼っていました。



妹への証人尋問

──母親はどんな生活だった?

 基本的にゴロゴロ、だらけている感じ。
 浴びるようにお酒を飲んでいた。
 朝起きると焼酎のボトルがあって、ひっきりなしに飲んでいた。


──被告人やあなたに対しては?

 暴力をふるったり、嫌なことを言ったり。高校の制服を破られたこともあった。


──母親がうつ病で困ったことは?
 
(母が)「1人でいられない、寂しい、1人になりたくない」と言って、
 小学生の時に学校に行かせてくれないことや、
 遊びに行かせてくれないこともあった。


──家事は?

 母はできなかったので、兄が積極的にやって、私も手伝っていた。

    被告(息子)は10歳のころから、料理や洗濯、掃除などの家事を全てこなして
    いたという。

    妹は「母親の良いところは」と問われると「正直良い思い出がない」と話した。


──当時、誰かに相談は?

 できなかったです、そういう力がなかった。みんなバラバラになってしまうと思っていた。幼少期に、兄がいてくれて本当に助かった。



被告人質問

    被告は携帯電話を持っていなかった。「無職であることに負い目を感じ、友達
    との関係も絶った」と話した。


──お母さんとあなたとの関係、狂気だと思うが、どう思う?

 母は普通じゃない人間だったが、自分も普通じゃないことばかりをやった。
後悔しています。


──暴力をふるわれたお母さんの気持ちは?

 自分の息子から無慈悲な暴力をふるわれて、とても苦しかっただろうと思い
 ます。

 「母親への復讐だったのか」と問われると「恨みや憎しみはなかった」と否定
 した。



 「幼少期に、兄がいてくれて本当に助かった」という妹の証言からは、被告人となった心やさしい兄を支えようとする気持ちが伝わってきます。


 被告人質問で、裁判長の「親子が狂気の関係だと思わないか」という問いかけに、被告息子は「母はふつうじゃなかったが、自分も普通じゃなかった。後悔しています」と供述しました。心からそう思っているのだと思います。



 もう一つの被告人質問。母を死に至らしめた激しい折檻、1週間で50回から100回くらいと息子自身が供述しているほどの暴行について、裁判長は「母親への復讐か」と問いかけました。

 被告息子は「恨みや憎しみはなかった」と供述しています。これもまた、私はわかるような気持でいます。


 そういう親子関係もあるだろうと思うのです。



 明治生まれでとっくに亡くなっている私の祖母は第1子出産後に、まったく耳が聞こえなくなりました。以後死ぬまで聴覚ゼロ。もとからの自分中心屋で嫉妬心が強く執拗な性格に、猜疑心が加わりました。そのうえ祖父は三十代後半で病死しました。

 とにかく人を見ると、仕草や態度、目つき表情を異常なほどに観察します。自分をバカにしてないか、異常なほど神経を立てています。

 それだからとにかくつきあいが難しい。4人の子を産みましたが、4人とも祖母のおかげで大変な苦労を強いられました。孫である私でさえ、皮ベルトか鯨尺3尺の竹尺で叩かれたことがたびたびありました。叩かれたところはみみず腫れになりました。

 四六時中、自分中心でないと荒れて、手に負えない私の祖母でした。次男家族と同居していて、ほかの3人の子それぞれが少なくとも週に1回、祖母のごきげん伺いをしていました。4人の間で祖母を罵りあって憂さ晴らしすることはしばしばありましたが。


 私はかなり極端な性格の祖母を見てきました。祖父病死後の私の母の少女時代は祖母を抱えてたいへんな生活環境にあった様子を何度も母から聞いています。


 ですから、暴行致死に至ったとげとげしく希望のない親子生活の中にあって、「後悔している」とか「恨みや憎しみはない」という被告息子の心を自然に受け留めることができます。



 母親はうつ病だったと言います。妹の証言から察するに、片時も一人でいられないほど不安に駆られています。息子か娘のどちらか一人がいつも自分のそばに居てほしい、というありさまでした。

 被告息子は、そういった母を可哀そうに思う気持ちがあり、それをどうにもできない自分自身のふがいなさとの間に葛藤が宿っていたのだと思います。


 とにかく、被告息子には、母親を恨む、憎むという心が無かった
 母親の心も、この被告息子に呼応するものであったに違いありません
 折檻に苦しんでも、息子を恨む、憎むという心は無かったものと思います


 被告息子の暴力行為のために意識不明となって救急入院しました。
 命絶えるまで2カ月の間、意識不明であっても思いはいろいろ巡っています。

 その間、母親は息子が供述したと同じように「後悔」していたでしょう。

 そして、二人の子に「済まなかった」というお礼とお詫びの気持ちが巡っていたに違いありません



 被告息子の供述やその妹の証言を見て、その心中に思いを馳せているうちに夜明け近くになりました。各地に線状降水帯の予報が出ていて、外は雨が降っています。



 この裁判事件について心のひだに触れるような記事を書いてくれたTBS社会部の記者も、さまざまな思いに駆られたのではないでしょうか。記者の心に響いた感傷が下の一文に隠れているように思います。


 傍聴席では、被告の妹が幼い子どもと一緒に、裁判の様子を見守っていた。  



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<頭の体操 首相公邸は首相専用貸家>  首相は借家人、貸主は国民、国民奉仕期待で賃貸料免除

2023-06-04 09:53:21 | Weblog


 5月25日、昨年2022年12月30日の岸田首相家親族の忘年会の模様をbunshun.jpが伝えました。場所が首相公邸であり、岸田翔太郎首相秘書官を真ん中にした親族の若者12人のひな壇集合写真、さらに若者1人がひな壇に寝そべる写真が衆目の好奇心を呼び、非難が巻き起こりました。その結果、長男の首相秘書官は6月1日付で辞職しました。

 さらにFRIDAYのサイトが、岸田翔太郎氏辞職当日の6月1日、岸田首相夫妻を真ん中にした親族集合写真を1枚、掲載しました。


 このことについて日刊スポーツ5月30日が、当日のニッポン放送「辛坊治郎ズーム そこまで言うか!」の辛坊治郎氏発言を紹介しました。そのうちの首相公邸に関する発言が次のことばです。


「多くの人は勘違いしてませんか。官邸じゃないんだよ、公邸だよ? 公邸って言うのは自宅の代わりだよ」

「歴代の総理大臣の中には、公邸ってオバケも出るし住みにくいから嫌だって言って自宅(私邸)から通っていた人もいる。公邸と官邸はつながっていて、危機管理上は本当は総理大臣は公邸に住んだ方がいい」


 首相公邸は首相のプライベート空間であると、辛坊氏は言います。
 首相公邸は首相官邸という公的空間につながっていると、辛坊氏は言います。
 それは国家の危機管理の必要性に呼応するためだと、辛坊氏は言います。
 それでも歴代の中には私邸に住んだままの首相がいたと、辛坊氏は言います。
 
 そして …… 


「俺がもし総理大臣なら、公邸だよ? 官邸じゃなくて自宅だよ? 俺は住みたくないんだけども、危機管理上、住めって言うから、しょうがねぇから住んでやってんだよ! 宴会しようが、どこで写真撮ろうが、大きなお世話だバカヤロー! って私なら言うね」


 辛坊治郎氏は大阪読売テレビのアナウンサー出身で、こういった物言いの調子が売りで、人気があります。どこがいいのか、私なんか好みに合いません。


① 住みたくないのなら、首相を辞職すれば良い。現職首相の退任を神仏に祈っ
 て好機を待つ数々の政治家が、即座に名乗りを上げるでしょう。
 
        (注)国会は国会議員の集合体、国会議員は国民の代理人と見ます。

② 公邸は国有財産で、管掌は財務省。公邸の使用権者は総理大臣。

③ 憲法第六十七条 内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを
 指名する。この指名は、他のすべての案件に先だって、これを行う。

④ 公邸には、通常の意味での所有権者がありません。日常感覚でとらえてみま
 しょう。

  ・公邸は国有財産 → 主権在民だから、所有権者は私たち国民 → 国民が家主

 ・首相を決めるのは国会 → 衆参両院事務局 → 賃貸仲介不動産屋さん

 ・首相の公邸使用権は就任日から退任日の限定期間 → 首相は借家人

 ・首相が国民奉仕に尽くしてくれるよう願って、貸家賃貸料免除。

 ・首相の公邸利用には通常感覚を越えた「特別の節度」をお持ち願います


 辛坊治郎氏の特別人感覚と暴言にはとても耐えられません。


 朝日新聞5月27日~28日全国世論調査(電話)が、
 岸田文雄首相長男の岸田翔太郎秘書官が公邸で親族と忘年会を開いたことについて、
 どの程度問題だと思うか聞いてみた結果は次の通り。

   大いに問題だ  44%       あまり問題ではない 19%
   ある程度問題だ 32% 小計76%  全く問題ではない   5% 小計24%



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