川本ちょっとメモ

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<ノモンハン捕虜帰還兵軍法会議> 自決未遂で重営倉3日の上等兵、敵前逃亡で禁錮2年10カ月の戦闘機曹長

2023-07-20 04:25:15 | Weblog


 1939(昭和14)年、日本の傀儡国家である満州国(現代の中国東北部)とソビエト連邦(略称・ソ連、現代ロシア連邦の前身)の傀儡国家であるモンゴルとの間で国境争いが起きました。国境争いはすぐに拡大して、日ソ両軍の本格的な戦争になり、両軍ともにたいへんな死傷者を出して終わりました。

 この国境戦争は、日本の歴史では「ノモンハン事件」と記されているのですが、これは当時の大本営や関東軍の呼称が定着したものであり、実態は「ノモンハン戦争」です。

 日米戦争でこっぴどくやられる前のこの時代。支那派遣軍、朝鮮軍、関東軍と、国外派遣の日本軍は自信にあふれていました。

 それなのにノモンハン戦争の精鋭日本軍の将兵は、ソ連軍の大砲、戦車の前になすすべもなく死屍累々と倒れてゆきました。ノモンハン戦争の経過について勉強すればするほど、当事者である関東軍司令官、第6軍司令官、第23師団長など、こんな連中や同類たちの指揮下でわたしたちの父母・祖父母の世代が殺されていったのかと思うと、暗澹たる気持ちに沈むとともに戦争国家の不条理さに怒りがこみあげてきます。

 ソ連軍は戦車、長距離大砲を始め大砲数、砲弾を始め各種弾薬数、兵員数で日本軍をはるかに圧倒する布陣で対峙しました。日本軍の最前線は、英雄的ではない、献身的な、さらに献身的な戦闘の末に多くの部隊が壊滅しました。

 関東軍、第6軍、第23師団と上級指導部が全責任を負うべきなのですが、前線指揮官は次々負傷するか戦死するか、自殺突撃か自殺に追いこまれて悲劇的な最期を遂げました。もちろん将校の悲劇的最期はそれ以上に多くの下士官兵を伴っています。



〇 野戦重砲兵第1連隊第1大隊(1939.6.24.動員)
  連隊長    大佐  三嶋義一郎  戦傷 8・9 後送
  〃(代理)  少佐  梅田恭三   戦死 8・27
  〃      大佐  入江 元    9・11 新任
   観測    大尉  山本達雄   戦死 8・27
  第I大隊長  少佐  梅田 恭三    戦死 8・27 
  〃(代理)  大尉  山崎昌来   戦死 8・27
   副官    少尉  石川二郎
    〃    少尉  飯田源治   戦死 8・29
   観測    少尉  石川二郎
   通信    中尉  小池一郎   戦死 8・27
    〃    中尉  小川正利   戦死 7・20    
    〃    中尉  石井彦次
   第1中隊長 中尉  東久邇宮盛厚王 8・1 転出  
    〃    大尉  土屋正一  
   第2中隊長 大尉  山崎昌来   戦死 8・27    
    〃(代理)少尉  窪田次郎   戦死 8・27  
   小隊長   少尉  芦浦 一   戦死 8・27
    〃    少尉  木村貫一   戦死 7・18  
  第Ⅱ大隊長  少佐  林 忠明
   第3中隊長 中尉  谷田部大次良
   第4中隊長 中尉  曲 寿郎 
   段列長   中尉  河野伴三

 上記は、ノモンハン戦に従軍した野戦重砲兵第1連隊の将校名簿です。

 三嶋連隊長は8月9日に負傷、後送されました。三嶋の替わりに梅田第1大隊長が第1連隊長代理を務め、梅田の替わりに山崎昌来第2中隊長が第1大隊長代理を務め、山崎の替わりに窪田次郎少尉が第2中隊長代理を務めました。この第1連隊長代理、第1大隊長代理、第2中隊長代理の3名共に8月27日、戦死しました。自殺も戦死に含まれています。 



〇 捕虜になった根岸長作上等兵 

 根岸長作伍長勤務上等兵は野戦重砲兵第1連隊第1大隊に配属されていました。 

──ここから『ノモンハン④』朝日文庫 P124引用──
 8月26日夜、根岸が配属されていた第1大隊は、最後の砲弾を零分角で撃ちつくしてしまった。野戦重砲兵第1連隊長代理の梅田少佐は、包囲されている連隊の生存者に自決を命じ、自身も拳銃で自決し、範を垂れた (注)これは自決の模範例の一つです。 

 すでに重傷を負っていた根岸には短い時間ながら、妻や子供たちのこと、敵戦車に圧倒されたこと、自決しなかったらどうなるか等々、いろいろな思いが錯綜した。 

 短い時間を経て生存者は二人一組になり、階級章をはずし、言われたとおり壕に行き、そこでお互い相手を銃剣で突き刺して自決することになった。根岸は、相手になった補充兵の名前すら知らなかったが、二人で呼吸を合わせ、お互いの喉を銃剣で突き刺した。 

 意識を失った根岸が気がついたときは、日本軍の負傷兵とともに、ソ連軍の包帯所で横たわっていた。自決を試みたときの相手は見当たらず、剣は喉から抜き取られ、貫通した部分は包帯で巻かれており、あとで聞いた話によると、食道をわずかに外れていたということであった。 ──『ノモンハン④』朝日文庫 P124 引用、終わり──

 根岸長作上等兵はこうしてソ連軍の捕虜になり、8か月後に日本軍に引き渡されましたました。根岸は軍法会議にかけられたが、自決 (自殺) を図ったのは優秀な兵だと認められて、判決は重営倉3日間で済んだ。

 3日間の監禁を終えると、特殊帰還兵として新京陸軍病院に移された。根岸は、捕虜の汚名を着た以上、ソ連軍抑留所で使っていた仮名のままで満州に残るしかないと考えていました。しかし運命の分かれ目が訪れました。故郷に根岸長作の戦死公報が届いていれば帰郷はかなわず、そうでなければ帰郷を許されることになった。そして、故郷には「生死不明」と伝えられていることがわかりました。

 根岸は、新京陸軍病院で3カ月過ごし、日本の相模原陸軍病院に移されて2年間入院し、1942年12月25日に除隊して故郷に帰ることができた。ノモンハンで捕虜になってから40か月後のことでした。

 ノモンハン戦のソ連軍捕虜としては、根岸長作は恵まれた部類に入ります。それは、銃剣が喉を貫通していたという事実が、捕虜になることを拒否する行為の証明になったからです。それでも、警官が毎日見回りに来るという身柄であった。



〇 捕虜になった戦闘機操縦士・宮島四孝曹長 
  ──朝日文庫『ノモンハン④  教訓は生きなかった』アルヴィン・D・クックス著 P120

 宮島四孝曹長は飛行第24戦隊に配属された九七式戦闘機の操縦士で、飛行歴7年のベテランであった。6月22日に撃墜されたが、かろうじて愛機を不時着させることに成功した。愛機からはい出るやいなや、敵戦闘機の機銃掃射を浴び、愛機は使いものにならなくなってしまった。

 それから四日四晩、曹長は食糧も水もなしにさ迷い歩き、友軍の戦線にたどり着こうと必死の努力をした。その間ある夜霧雨があり、濡れた飛行服をなめて、のどをうるおした。

 5日目の払暁、人事不省で倒れていたところを、外蒙軍の歩哨につかまった。それから10カ月間、虜囚の身という苦悶の日々が続く。その間、脱走も自決もできず、銃殺してくれるよう懇願したが、それも受け入れられず、同房の他の捕虜たちとともにハンストに加わった。

 この大胆な抵抗のため、宮島は真冬の最中にもかかわらず暖房のない独房に入れられてしまった。これで気力を失ってしまい、これから訪れる過酷な運命、すなわち敵に捕らわれたまま死ぬか、釈放後の死刑を甘んじて受けることにした。

 1940年、日本軍に引き渡された宮島は訊問されたあと軍法会議にかけられた。簡潔ではあったが、法務将校や自分の隊の幕僚に見守られながら訊問され、検事論告が行われるといった型どおりの裁判が行われた。

 この不運な空の有志は、「敵前逃亡」という罪状で、禁錮2年10カ月、一等兵に降等という判決を受けた。撃墜されて3年半、ソ連軍と日本軍によって拘留されたのち、1942年12月31日、宮島は新京(長春)の関東軍刑務所から出獄した。



コメント

1時間42分の戦闘で沈没した戦艦大和の戦死3056名 輸送船富山丸の魚雷沈没あっという間の2個旅団消滅

2023-07-10 15:17:36 | Weblog


2023-06-29
「自殺」を意味することばについて 私は「自決」ということばを好みません
2023-07-07
[自決] は軍隊用語です 「自殺」なのに事柄によって「自決」と言うのはなぜでしょうか





〇 戦艦大和と輸送船富山丸

 1939年(昭和14年) ノモンハン戦に関わる [自決] や [突撃死] の事例を紹介すると、前回に予告したのですが、その前に沖縄戦関係の艦船で2つの事例を見ていただきたく紹介いたします。
 
 一つは沖縄戦関係の艦船沈没では著名すぎるほど著名な戦艦大和です。
 そしてもう一つ知っていただきたいのが陸軍部隊輸送船富山丸の沈没です。
 



〇 戦艦大和、米艦載機との戦闘1時間42分で沈没
 
 戦艦大和は1945年(昭和20)年4月7日米艦載機の集中攻撃を受けて、屋久島西方海域で戦闘開始から1時間42分後に、沈没しました
  
 戦死者数や生存者数には異説もあるのですが、毎日新聞2020.4.7.記事「戦艦大和の沈没から沈没から75年 …… 」では、乗員3332名、生存者276名と書いています。
 
 この数字は、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築しているデータベース https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000064489
で三重県立図書館が答えている人数と同じであり、ここではこの数字を採ります。
  
 そうしますと、戦艦大和戦死者 3332名ー276名=3056名
  
 戦艦大和のことを書いた本は山ほどあります。ここで話す必要のないことですが、有賀艦長や伊藤第2艦隊司令長官も大和とともに沈んだ。


<戦闘始まる>
7日 12:08、機関故障で艦隊から遅れていた「朝霧」から入電「敵機ト交戦中」。
    12:21、「朝霧」から入電「90度方向ニ敵機30数機ヲ探知ス」。
      この後通信途絶。艦とともに乗組員326名全員、消息不明。

7日 12:41、米軍機第一波113機の攻撃始まる。
        まず「濱風」被弾、沈没。つづいて「矢矧」被弾、航行不能。
    13:20、米軍機第二波167機来襲。
  14:23、戦艦「大和」沈没。第1波来襲からたった1時間42分後の沈没

<第1艦橋の惨状>
 藤原英美は伊藤司令長官がいる第1艦橋で20倍双眼望遠鏡3番見張の任務についていた。第1艦橋にある視界を確保するための窓が三方にある。そこを米軍機に機銃掃射された。藤原の右隣にいた兵がグエッという異様なうめき声をあげて倒れた。振り向くと、胴体が血を噴き出しながら倒れていて、首は目と口を開けたまま数メートル離れたところに転がっていた。彼が爆弾の破片にやられたのか機銃掃射にやられたのかわからないが、ほかにも数人が倒れて床に血が流れていた。(岩波新書「戦艦大和  生還者たちの証言から」2007.8.21. 1刷  P.87)

<艦内溺死──生きて海水から脱出できず>
 大村茂良は応急員だった。持ち場は右舷後部。戦友が下甲板の一室にいた。「浸水してきたハッチを開けてくれ!」と、まだ通じていた艦内電話で訴えてくる。大村が階段を下りていくと、ハッチのあたりは深く浸水しており、近づけない。「すまん、開けられない」と応じると、戦友は「万歳!」と叫んで通信を絶った。(岩波新書「戦艦大和  生還者たちの証言から」2007.8.21. 1刷  P.89)




〇 輸送船富山丸、魚雷沈没 2個旅団の将兵、無抵抗で溺死壊滅

 西大洋漁業所属 7,089総トン。1944(昭和19)年6月29日 07:25、徳之島亀津 北東12km付近で米潜水艦の魚雷3本を受けて沈没。(weblio=wikipediaに拠る)

 戦力不足の沖縄守備第32軍が待っていた2個旅団は無抵抗のまま、あっという間に海没しました

  輸送船富山丸の戦死者(遺族会提供資料=愛媛県護国神社HP 2014.6.30.)
  独立混成第44旅団第1歩兵隊  635名
           第2歩兵隊  762名
           砲兵隊    152名
           工兵隊      63名 第44旅団 計 1612名
  独立混成第45旅団歩兵298大隊  324名
           歩兵299大隊  419名
           歩兵300大隊  407名
           歩兵301大隊  404名
           工兵隊    150名 第45旅団 計 1704名
  沖縄第32軍兵器勤務隊      171名
  129野戦飛行場設定隊       127名
  宮古島陸軍病院          2名
       合計 3616名 (船舶輸送間における遭難部隊資料 陸軍)

 レファレンス協同データベースの「富山丸」の項には、魚雷攻撃を受けて「乗船部隊約4,600名のうち約3,700名が行方不明となった 」と記載されています。

 富山丸一船の死者数が3600であっても3700であっても、戦艦大和の死者数を大幅に上回る大事件に違いはありません。一船の死亡者数としては世界最大級の被害ですが、当時、この戦没は軍命令で極秘にされました。



 同じ沖縄防衛に関わる軍の消滅にあって、〈戦艦大和の戦闘たった1時間42分の消滅〉と〈富山丸2個旅団あっという間の消滅〉の処遇は、軍隊の持つ闇を露わにしています。後世の私から見れば、2つの消滅の共通点は、無益な強制死に追い込まれた運命の悲哀です。

 [自決] にもこのような軍隊の闇があります。



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[自決] は軍隊用語です 「自殺」なのに事柄によって「自決」と言うのはなぜでしょうか

2023-07-07 12:15:47 | Weblog





〇 [自殺] [自害] [自決] の用例分類

 現代国語例解辞典第二版(小学館)に、
 [自殺] [自害] [自決] の用例分類が載っています。

                  〈自殺〉 〈自害〉 〈自決〉
  ①責任をとって [**] する       〇      〇      〇 
  ②高齢者の [**] が増えている     〇    ──    ──  
  ③敵に囲まれて [**] する      ──    〇      〇    
  ④大坂夏の陣で [**]           ──    〇      △           
  ⑤捕らえた敵将に[**] を促す       ──    △      〇                  


 ①の用例は [自殺・自害・自決] の3つともに使われています。

 ②の用例は、長幼を問わず普通の生活人が死ぬことを選ぶと 、一般的に [自殺] と
いうことばで表すということになります。

 ③④⑤は戦闘に関係する事柄であるので、①も含めて戦闘に関係する職業人、すなわち軍隊の将校・下士官・兵士の自殺を特に [自害] [自決] と称するということになります。
 


〇 [自決] は軍隊のシステムです

  昭和戦後の世になってから、軍歴のない民間人が切腹したという寡少な例外はありましたし、手首を切って自殺を図るという自刃(自害)の例もあります。しかしこれらは個人的なことです。個人的な自殺行為を自決と呼ぶわけにはまいりません。


 広辞苑に [自殺] は、みずから自分の生命を絶つこと。
      [自決] は、みずから決断して自分の生命を絶つこと 
      [自害] は、自ら傷つけて自分の生命を絶つこと。     
      [自刃] は、自ら刃で生命を絶つこと。


 自分で自分を殺す [自殺] も自分で死ぬ [自死] も 自分で決断する [自決] も、自殺という意味を表すその他のすべての類語にあっても、その行為は、みずから決断して自分の生命を絶つ行為です。   



 しかし[自決] には、強制された[自決]がありました。
 軍隊の倫理慣習に反すると判定されれば、生きることが許されない強制自決。

 生きることが許されないと覚悟を定めた突撃死、戦場自決もありました。
 これは、方面軍や師団の大中少の将軍を満足させる死のあり方でした。

 自決しないで生還すれば、上位司令官が責任をもって自決を強制する。強制自決が完了すれば、この上位司令官は自決の責めに問われません。転属(多くの場合左遷)するか予備役編入(退役)となる。この考えは軍隊に貫徹されていました。


 こういう自決のシステムは現代の私の目に、士官学校や陸大出の高級将校クラブが国家の戦争を牛耳っていたように見えます。


 [自決] は軍隊のシステムなのです。
 失敗や敗北の責任を取って自殺するよう奨励されるのが [自決] です。



 一方、現に軍隊の将兵でもなく、将兵の経歴も無い人が、自殺の予告や遺書において、自分の死を[自決] と称する場合は、自分の自殺という行為について、普通の人とは異なる価値があるのだと思いたい心があるのだと思います。

 また、ある人の自殺を [自決した] と表現する人は、その人の自殺には普通の人とは異なる立派な動機があったのだと、周囲の人々に対して称揚したいのだと思います。ある人を [自決した] と表現する人自身が、称揚する人の死に方を通して何か自分の思いや主張を表現しているのです。 

 沖縄戦で住民の集団自殺を「集団自決」と呼ぶならわしは、それは国家のために必要な尊い死なのだと言い募りたい名付け親たちの気持ちの表現だと、私は思います。



 次回は1939年(昭和14年)の「ノモンハン事件」の自決や突撃死の例を二つ三つ、紹介しようと思います。「事件」と呼ばれていますが、実際には日本軍とソ連(現代のロシア)軍がお互いに全力で戦い、日本が敗北した戦争です。



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