1939(昭和14)年、日本の傀儡国家である満州国(現代の中国東北部)とソビエト連邦(略称・ソ連、現代ロシア連邦の前身)の傀儡国家であるモンゴルとの間で国境争いが起きました。国境争いはすぐに拡大して、日ソ両軍の本格的な戦争になり、両軍ともにたいへんな死傷者を出して終わりました。
この国境戦争は、日本の歴史では「ノモンハン事件」と記されているのですが、これは当時の大本営や関東軍の呼称が定着したものであり、実態は「ノモンハン戦争」です。
日米戦争でこっぴどくやられる前のこの時代。支那派遣軍、朝鮮軍、関東軍と、国外派遣の日本軍は自信にあふれていました。
それなのにノモンハン戦争の精鋭日本軍の将兵は、ソ連軍の大砲、戦車の前になすすべもなく死屍累々と倒れてゆきました。ノモンハン戦争の経過について勉強すればするほど、当事者である関東軍司令官、第6軍司令官、第23師団長など、こんな連中や同類たちの指揮下でわたしたちの父母・祖父母の世代が殺されていったのかと思うと、暗澹たる気持ちに沈むとともに戦争国家の不条理さに怒りがこみあげてきます。
ソ連軍は戦車、長距離大砲を始め大砲数、砲弾を始め各種弾薬数、兵員数で日本軍をはるかに圧倒する布陣で対峙しました。日本軍の最前線は、英雄的ではない、献身的な、さらに献身的な戦闘の末に多くの部隊が壊滅しました。
関東軍、第6軍、第23師団と上級指導部が全責任を負うべきなのですが、前線指揮官は次々負傷するか戦死するか、自殺突撃か自殺に追いこまれて悲劇的な最期を遂げました。もちろん将校の悲劇的最期はそれ以上に多くの下士官兵を伴っています。
〇 野戦重砲兵第1連隊第1大隊(1939.6.24.動員)
連隊長 大佐 三嶋義一郎 戦傷 8・9 後送
〃(代理) 少佐 梅田恭三 戦死 8・27
〃 大佐 入江 元 9・11 新任
観測 大尉 山本達雄 戦死 8・27
第I大隊長 少佐 梅田 恭三 戦死 8・27
〃(代理) 大尉 山崎昌来 戦死 8・27
副官 少尉 石川二郎
〃 少尉 飯田源治 戦死 8・29
観測 少尉 石川二郎
通信 中尉 小池一郎 戦死 8・27
〃 中尉 小川正利 戦死 7・20
〃 中尉 石井彦次
第1中隊長 中尉 東久邇宮盛厚王 8・1 転出
〃 大尉 土屋正一
第2中隊長 大尉 山崎昌来 戦死 8・27
〃(代理)少尉 窪田次郎 戦死 8・27
小隊長 少尉 芦浦 一 戦死 8・27
〃 少尉 木村貫一 戦死 7・18
第Ⅱ大隊長 少佐 林 忠明
第3中隊長 中尉 谷田部大次良
第4中隊長 中尉 曲 寿郎
段列長 中尉 河野伴三
上記は、ノモンハン戦に従軍した野戦重砲兵第1連隊の将校名簿です。
三嶋連隊長は8月9日に負傷、後送されました。三嶋の替わりに梅田第1大隊長が第1連隊長代理を務め、梅田の替わりに山崎昌来第2中隊長が第1大隊長代理を務め、山崎の替わりに窪田次郎少尉が第2中隊長代理を務めました。この第1連隊長代理、第1大隊長代理、第2中隊長代理の3名共に8月27日、戦死しました。自殺も戦死に含まれています。
〇 捕虜になった根岸長作上等兵
根岸長作伍長勤務上等兵は野戦重砲兵第1連隊第1大隊に配属されていました。
──ここから『ノモンハン④』朝日文庫 P124引用──
8月26日夜、根岸が配属されていた第1大隊は、最後の砲弾を零分角で撃ちつくしてしまった。野戦重砲兵第1連隊長代理の梅田少佐は、包囲されている連隊の生存者に自決を命じ、自身も拳銃で自決し、範を垂れた。 (注)これは自決の模範例の一つです。
すでに重傷を負っていた根岸には短い時間ながら、妻や子供たちのこと、敵戦車に圧倒されたこと、自決しなかったらどうなるか等々、いろいろな思いが錯綜した。
短い時間を経て生存者は二人一組になり、階級章をはずし、言われたとおり壕に行き、そこでお互い相手を銃剣で突き刺して自決することになった。根岸は、相手になった補充兵の名前すら知らなかったが、二人で呼吸を合わせ、お互いの喉を銃剣で突き刺した。
意識を失った根岸が気がついたときは、日本軍の負傷兵とともに、ソ連軍の包帯所で横たわっていた。自決を試みたときの相手は見当たらず、剣は喉から抜き取られ、貫通した部分は包帯で巻かれており、あとで聞いた話によると、食道をわずかに外れていたということであった。 ──『ノモンハン④』朝日文庫 P124 引用、終わり──
根岸長作上等兵はこうしてソ連軍の捕虜になり、8か月後に日本軍に引き渡されましたました。根岸は軍法会議にかけられたが、自決 (自殺) を図ったのは優秀な兵だと認められて、判決は重営倉3日間で済んだ。
3日間の監禁を終えると、特殊帰還兵として新京陸軍病院に移された。根岸は、捕虜の汚名を着た以上、ソ連軍抑留所で使っていた仮名のままで満州に残るしかないと考えていました。しかし運命の分かれ目が訪れました。故郷に根岸長作の戦死公報が届いていれば帰郷はかなわず、そうでなければ帰郷を許されることになった。そして、故郷には「生死不明」と伝えられていることがわかりました。
根岸は、新京陸軍病院で3カ月過ごし、日本の相模原陸軍病院に移されて2年間入院し、1942年12月25日に除隊して故郷に帰ることができた。ノモンハンで捕虜になってから40か月後のことでした。
ノモンハン戦のソ連軍捕虜としては、根岸長作は恵まれた部類に入ります。それは、銃剣が喉を貫通していたという事実が、捕虜になることを拒否する行為の証明になったからです。それでも、警官が毎日見回りに来るという身柄であった。
〇 捕虜になった戦闘機操縦士・宮島四孝曹長
──朝日文庫『ノモンハン④ 教訓は生きなかった』アルヴィン・D・クックス著 P120
宮島四孝曹長は飛行第24戦隊に配属された九七式戦闘機の操縦士で、飛行歴7年のベテランであった。6月22日に撃墜されたが、かろうじて愛機を不時着させることに成功した。愛機からはい出るやいなや、敵戦闘機の機銃掃射を浴び、愛機は使いものにならなくなってしまった。
それから四日四晩、曹長は食糧も水もなしにさ迷い歩き、友軍の戦線にたどり着こうと必死の努力をした。その間ある夜霧雨があり、濡れた飛行服をなめて、のどをうるおした。
5日目の払暁、人事不省で倒れていたところを、外蒙軍の歩哨につかまった。それから10カ月間、虜囚の身という苦悶の日々が続く。その間、脱走も自決もできず、銃殺してくれるよう懇願したが、それも受け入れられず、同房の他の捕虜たちとともにハンストに加わった。
この大胆な抵抗のため、宮島は真冬の最中にもかかわらず暖房のない独房に入れられてしまった。これで気力を失ってしまい、これから訪れる過酷な運命、すなわち敵に捕らわれたまま死ぬか、釈放後の死刑を甘んじて受けることにした。
1940年、日本軍に引き渡された宮島は訊問されたあと軍法会議にかけられた。簡潔ではあったが、法務将校や自分の隊の幕僚に見守られながら訊問され、検事論告が行われるといった型どおりの裁判が行われた。
この不運な空の有志は、「敵前逃亡」という罪状で、禁錮2年10カ月、一等兵に降等という判決を受けた。撃墜されて3年半、ソ連軍と日本軍によって拘留されたのち、1942年12月31日、宮島は新京(長春)の関東軍刑務所から出獄した。