写真には「戦死した日本軍従軍看護婦とみられる女性」とクレジットが付されています。(毎日新聞写真特集 沖縄戦「鉄の暴風」死者20万人)
2018/06/10
<沖縄戦下の県立第一中学校>(1)第一中学校奉安殿の昭和天皇皇后御真影(肖像写真)を米軍攻撃から退避させる
2018/06/13
<沖縄戦下の県立第一中学校>(2)召集令状伝達 最後の家族面会
2018/06/14
<沖縄戦下の県立第一中学校>(3)座間味・渡嘉敷で集団自決 合同卒業式 鉄血勤皇隊入隊 チービシ砲撃
2018/06/15
<沖縄戦下の県立第一中学校>(4)読谷・嘉手納・北谷海岸 4.1. 米軍無血上陸、内陸に進撃、4.4. 住民200人捕虜になる
2018/06/17
<沖縄戦下の県立第一中学校>(5)炊事班 壕堀り生活 対戦車爆雷訓練 大詔奉戴日 養秀寮炎上 独歩第13大隊戦力1/3に低下
2018/06/20
<沖縄戦下の県立第一中学校> (6) 厳しくなる戦場 小学校教員が殺された 電信連隊の中学2年生にも戦没者が次々と
2018/06/22
<沖縄戦下の県立第一中学校> (7) 前線に向かう連隊 前線へ弾薬を運ぶ住民 陸軍病院壕 総攻撃の敗北 一中生徒の戦没も続く
2018/06/24
<沖縄戦下の県立第一中学校> (8終) 米軍戦死傷増大 首里敗退路のありさま 沖縄一中生徒戦没数と生存数
6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄戦は「15年戦争」(別名「太平洋戦争」「大東亜戦争」)の末期、1945(昭20)年3月下旬~6月下旬にかけて戦われました。
当時の中学校生徒や高等女学校生徒、師範学校生徒、農林・水産・商業学校生徒らは鉄血勤皇隊という隊名で、教師らとともに学校単位で沖縄守備の第32軍に動員されました。もちろん親や家庭と離れて暮らします。高女学徒隊としてよく知られているのはひめゆり隊です。
ここで取り上げる沖縄県立第一中学校の淵源は、琉球国王尚温が1798(寛政10)年に開いた琉球最高学府「公学校所」です。その後琉球処分(琉球王国併合の過程)――1872(明治5)年琉球藩設置、1879(明治12)年沖縄県設置――を経て、1880(明治13)年に明治学制下の首里中学となり、1911(明44)年に沖縄県立第一中学校と改称しました。
中学校は男子校5年制です。当時の中1~中5は今の中1~高2に相当します。前回につづいて『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上)』兼城 一・編著、高文研・刊という本から、沖縄第一中学の沖縄戦をアトランダムに紹介します。本書発行時に存命とみられる方について、すなわち証言者氏名について、ここではイニシャル表記にしました。
3月28日に一中鉄血勤皇隊が編成され、3年生~5年生、220名が同時に第5砲兵司令部(=球9700部隊)配属になりました。2年生115名は電信32連隊の第4、第5、第6、固定の4個中隊に配属されました。2年生~5年生でも、病弱その他の理由で編成除外されたり、直接に他部隊に志願入隊した生徒がいます。1年生は全員、戦時編成除外。
このシリーズに出てくる「球部隊」とは第32軍直属部隊、独立混成第44旅団、独立混成第45旅団、独立混成第46旅団の傘下諸部隊で、本土各地の部隊から成っています。「石部隊」とは第62師団、歩兵第63旅団、歩兵第64旅団の傘下諸部隊です。第62師団は1944(昭19)年8月に北支から沖縄に転属してきました。首里・本島中部守備任務。「山部隊」とは第24師団傘下諸部隊で、1944(昭19)年8月に満州から沖縄に転属してきました。本島南部守備任務。
2018/06/10
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2018/06/13
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2018/06/15
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2018/06/17
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2018/06/24
<沖縄戦下の県立第一中学校> (8終) 米軍戦死傷増大 首里敗退路のありさま 沖縄一中生徒戦没数と生存数
6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄戦は「15年戦争」(別名「太平洋戦争」「大東亜戦争」)の末期、1945(昭20)年3月下旬~6月下旬にかけて戦われました。
当時の中学校生徒や高等女学校生徒、師範学校生徒、農林・水産・商業学校生徒らは鉄血勤皇隊という隊名で、教師らとともに学校単位で沖縄守備の第32軍に動員されました。もちろん親や家庭と離れて暮らします。高女学徒隊としてよく知られているのはひめゆり隊です。
ここで取り上げる沖縄県立第一中学校の淵源は、琉球国王尚温が1798(寛政10)年に開いた琉球最高学府「公学校所」です。その後琉球処分(琉球王国併合の過程)――1872(明治5)年琉球藩設置、1879(明治12)年沖縄県設置――を経て、1880(明治13)年に明治学制下の首里中学となり、1911(明44)年に沖縄県立第一中学校と改称しました。
中学校は男子校5年制です。当時の中1~中5は今の中1~高2に相当します。前回につづいて『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上)』兼城 一・編著、高文研・刊という本から、沖縄第一中学の沖縄戦をアトランダムに紹介します。本書発行時に存命とみられる方について、すなわち証言者氏名について、ここではイニシャル表記にしました。
3月28日に一中鉄血勤皇隊が編成され、3年生~5年生、220名が同時に第5砲兵司令部(=球9700部隊)配属になりました。2年生115名は電信32連隊の第4、第5、第6、固定の4個中隊に配属されました。2年生~5年生でも、病弱その他の理由で編成除外されたり、直接に他部隊に志願入隊した生徒がいます。1年生は全員、戦時編成除外。
このシリーズに出てくる「球部隊」とは第32軍直属部隊、独立混成第44旅団、独立混成第45旅団、独立混成第46旅団の傘下諸部隊で、本土各地の部隊から成っています。「石部隊」とは第62師団、歩兵第63旅団、歩兵第64旅団の傘下諸部隊です。第62師団は1944(昭19)年8月に北支から沖縄に転属してきました。首里・本島中部守備任務。「山部隊」とは第24師団傘下諸部隊で、1944(昭19)年8月に満州から沖縄に転属してきました。本島南部守備任務。
◇ ◇ ◇
■首里攻防戦 シュガーローフ(安里52高地)の激戦 5月12日
5月12日。首里の最後の防衛線に米軍の猛攻が始まった。09:20、第6海兵師団第22海兵連隊第3大隊が天久台あめくだい頂上に達した。天久から那覇まではほんの一またぎの距離である。14:00、第1大隊は安里川北部高地に達した。
第2大隊は目標のシュガーローフにG中隊がとりついたところで、日本軍の猛烈な砲撃のため前進できなくなり、第1小隊のうち5名が孤立した。G中隊第1小隊、第3小隊、戦車2両が16:00、救出に出発。16:45シュガーローフに達したが、戦車2両は地雷で撃破され、2個小隊とも小隊長、小隊付軍曹が戦死または負傷後送され、2個小隊とも戦死傷者が50%を超えて戦闘能力を失った。(「沖縄戦史」)
ほかに、米軍にとっての沖縄戦の厳しさを示す記事がある。――海兵第1師団第5連隊第3大隊K中隊は1945(昭20)年4月1日、士官を含めて総員235人で上陸した。作戦中、補充兵250人が加わり、合計485人が所属したことになる。だが作戦終了時に残っていたのは50人。そのうち4月1日の上陸者はわずかに26人だった。9割の将兵が戦死、または負傷して後送された。(『ペリリュー・沖縄戦記 -P421-』ユージン・B・スレッジ著、講談社学術文庫)
首里攻略をめざす米軍は5月12日、シュガーローフ高地の日本守備軍と激突し、10日近くも死闘を交えた。この戦闘で米第6海兵師団の2個連隊は、3個大隊が大隊長を失い、11個中隊で中隊長が死傷し、全師団で2662名の死傷者を出したほか、1299名の戦闘疲労症(激戦地でみられる一種の精神障害)をだした、と米軍戦史『日本最後の戦闘』は記録している。(『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上) -P269-』兼城 一・編著、高文研・刊)
■証言 T・K 篠原配属将校「戦争はもう負けです」 藤野校長「沖縄で負けることは絶対にない」5月上旬 -P248-
雑炊だけの夕食後のひととき、先生方が希望的観測をまじえて勝ちいくさの話をしていた。そこに篠原教官が真顔で「こうなったら戦争はもう負けです」といった。ブーゲンビル島で米軍と戦った配属将校の発言だけに、まわりの先生方はしゅんとなった。それまで聞き役だった藤野校長は、きっとした表情で「沖縄で負けることは絶対にない。これから連合艦隊も出動してくるだろうし、援軍も逆上陸するはずだ。戦いはこれからが正念場だ。軍人のあなたがそんなことを言ってどうするんですか。あなたは配属将校ですぞ」とたしなめた。
(注) そのころ、日本国民は連合艦隊がすでに壊滅していたことを知らなかった。戦艦大和がひきいる10隻の残存艦隊は4月6日、沖縄の海岸に乗り上げて一大要塞と化すべく片道燃料で瀬戸内海を発航した。しかし早くも翌4月7日午後2時過ぎ、九州西南方で米第58機動部隊艦載機386機の二波にわたる攻撃を受け、戦艦大和は伊藤整一中将以下約3000名の将兵といっしょに沈没しました。戦艦大和の沈没は日本敗戦を確定する象徴でした。昭和天皇以下、当時の日本の権力者がその時点で降伏しなかったことで、その後100万に近い生命が失われた。その生命の一つひとつにはみな名前があり、それぞれの生活史がありました。
しかし、教官は、「戦争はもう負けです」とくり返した。それに対し校長も、「絶対に負けていない。何を根拠にそう言うのですか」と反論した。「われわれは壕にじっとしているだけで、外に出られるような状態ではない。これでは戦争に勝てるわけがありません。こういうのは負けいくさです」と声は低いが、はっきりした語調の篠原教官の声が、その場にたまたま居合わせたぼくの耳に聞こえた。だまって二人の話を聞いている先生方の前で、藤野校長は教官を叱咤していた。
■証言 I・K 篠原教官と藤野校長の論争を聞いた 5月上旬 -P249-
教官は「5月27日の海軍記念日までに反撃に成功しなければ戦争は負ける」と言っていた。校長は大本営に絶対の信頼を寄せ、「日本は大本営が存在するかぎり不敗である」と反論していた。校長は沖縄で日本軍が敗北するとは夢にも思っていなかったのではないか。
必勝の信念に徹していた藤野校長は、「この戦争がすんだら、破壊された校舎の再建や戦死した生徒たちの取り扱いはどうなるのか、まったく見通しがつかない」と早くも戦後処理のことを心配していた。
■証言 H・S 敗走部隊の兵隊が「壕を明け渡せ」 5月上旬 -P250-
一中壕の入り口に部下を連れた大男の軍曹が立ちはだかり「この壕はわが隊が使うから明けわたせ」と威丈高にどなった。応対に出た糸数昌功教諭が、ここは一中鉄血勤皇隊の壕だと説明したが、軍曹は「壕を明けわたせ」と言うなり胸をどんと突いたので、糸数教諭はよろめいた。
入り口の騒々しさに何事かと出てみた篠原教官は、このありさまに「きさまのような奴がのさばるから地方人は迷惑するんだ」と言うなり、軍刀でその軍曹をしたたかに打ちすえた。軍曹は最初の剣幕とはうってかわって平謝りに謝って立ち去った。前線から敗退してきた兵隊らしかった。
■証言 H・M 敗走部隊の兵隊が「壕を明け渡せ」 5月上旬 -P250-
篠原教官はすごい人だ、と頼もしく思った。一中壕は地理的にいい場所にあったので、敗退してきた部隊からねらわれやすかった。その後も敗走部隊の兵隊が「壕に入れろ」と難題をふっかけてきたことがあったが、教官が出て撃退していた。
■金城和弘(5年生)、喜捨場一雄(4年生) 天久台の戦闘で戦死 5月中旬 -P251-
首里防衛ラインの天久台の戦闘で、現役入隊していた金城和弘(5年生)は戦死したと聞いた、M・Hが語っている。入隊先は、独立混成第44旅団第15連隊と思われる。
玉城村たまぐすくむら義勇隊員の喜捨場一雄(4年生)も天久台の戦闘に加わっていた。5月中旬、天久の戦闘で、敵の爆雷で破壊された壕から脱出して敵中突破をはかったが、泊国民学校付近にたどり着いたところで機銃掃射を浴び、つづいて投げつけられた手榴弾にやられて絶命した。彼の戦死の状況は、同じ義勇隊に入隊していた二中4年生・儀間昇氏が体験記にくわしく書いている。
■証言 A・E 首里を家族とともに離れて島尻にさがる 5月中旬 -P258-
首里・汀良町てらちょうの福岡無線受信所から末吉の自宅に帰ったところ、軍から「敵が内間に進攻してきたので首里から退去せよ」との命令が出て、家族とともに兄嫁の実家をたよって真壁に行った。
さいわいなことに集落の近くに地下十数メートルにも達する大きなガマ(天然の洞窟)があり、地元の人たち約90名が避難していた。入り口の大きさは人がやっとすれ違いができる程度だが奥は深く、なかにいるかぎり安全だった。ガマの中には泉があり、飲み水には困らなかった。
■証言 M・H 首里から島尻にさがる途中の暗渠でお産 5月中旬 -P259-
島尻にさがる途中、与那原線よなばるせん南風原駅はえばるえき近くの暗渠に、家族ごと 仮住まいすることになった。兄が肩を負傷していたし、兄嫁は産気づいていた。
コンクリート製の頑丈な暗渠は、命中弾でないかぎり砲撃にも安全だった。床下を流れる水を使って炊事もできた。暗渠の上は道になっていたので、砲弾に追われた兵隊がよく飛びこんできた。暗渠の中で兄嫁は女の子を出産した。祖母が取り上げた赤ちゃんは元気だった。ぼくは、この戦争に勝つようにという願いをこめて、勝子という名前をつけてやった。
6月下旬、真栄平まえひらで家族そろって米軍に収容されたとき、勝子はかぼそい声で泣いていた。7月のはじめ、佐敷村の収容所に移されたころは、栄養失調のために泣き声もできなくなり、それからまもなく勝子は死んだ。カンカン照りの暑い日だった。
■艦砲、球9700部隊衛兵所に命中 死傷者7名 5月13日 -P269-
5月13日、球9700部隊衛兵所に艦砲が命中。勤務中の玉那覇有成(5年生)即死、真喜志康栄(4年生)即死、伊豆見元三(3年生)は腕と腹をやられ、出血多量で医務室で死亡した。衛兵所に格納されていた対戦車用急造爆雷が誘爆し、衛兵所で仮眠中の4名が負傷した。
■証言 M・S 玉那覇有成の遺体を収容。埋葬した 5月13日 -P272-
玉那覇有成がやられたと知らせを受けたのは午後2時ごろだった。遺体収容に派遣されたが、頭がい骨の上部が吹き飛ばされていたので、名札で本人と確認した。遺体を戸板に乗せて養秀寮の庭に運んで埋葬した。(翌年夏、玉那覇両親を案内して収骨した。)
■証言 T・T 真喜志康栄の遺体を収容、伊豆見元三は医務室で死亡 5月13日 -P273-
真喜志康栄の四肢はばらばらになり、遺体の収容は困難をきわめた。拾い集めた遺体は毛布に包み、養秀寮庭の花壇に玉那覇有成と並べて葬った。
腕と腹をやられた伊豆見元三は壕外にはいだし、兵隊たちが駆けつけてくるときまでのたうちまわっていたという。医務室に運び輸血の準備にかかったが、出血多量のため血管が細くなり、注射針が血管に通らなくなった。手間取っているうちに、採血した注射器の血液が固まって輸血不能になってしまった。伊豆見元三は手術台に乗せられながらも手当てがまにあわず、苦しみながら息を引き取った。(首里山川町にいた伊豆見元三の家族が全滅したため、叔母が戦後に収骨した。)
■一中鉄血勤皇隊、球9700部隊隷下の各部隊に分散配属へ 5月14日薄暮~15日未明 -P277~P290-
5月14日の薄暮から翌未明にかけて、球9700部隊隷下の各部隊に分散配属された鉄血勤皇隊員は、それぞれの部隊所在地に向け一中壕を出た。
〇野戦重砲兵第1連隊
3年生15人(戦没7人・生存8人)、4年生7人(戦没3人・生存4人)、
5年生3人(戦没0人・生存3人)、計25人(戦没10人・生存15人)
〇独立工兵第66大隊
3年生10人(戦没10人・生存0人)、4年生11人(戦没8人・生存3人)、
5年生5人(戦没5人・生存0人)、職員1人、計27人(戦没23人・生存4人)
〇第5砲兵司令部
5年生10人(戦没5人・生存5人)、計10人(戦没5人・生存5人)
〇独立測地第一中隊
3年生1人(戦没1人・生存0人)、4年生3人(戦没3人・生存0人)、
計4人(戦没4人・生存0人)
〇独立重砲兵第100大隊 配属は約40人だが氏名判明は31人
3年生13人(戦没12人・生存1人)、4年生15人(戦没14人・生存1人)、
5年生2人(戦没2人・生存0人)、職員1人(戦没1人・生存0人)、
計31人(戦没29人・生存2人)
※各部隊に配属された一中鉄血勤皇隊員は160~170人と推測されるので、上記がすべてでは
ない。
■独立重砲兵第100大隊で一中鉄血勤皇隊員の主任務は伝令 5月中旬~下旬 -P328-
独立重砲兵第100大隊に配属になった鉄血勤皇隊員の主な任務は、東風平村志多伯こちんだむら したはくと大里村稲嶺にいる砲兵隊への伝令だった。重砲陣地との有線電話が切断されるので、兵隊といっしょに重砲陣地に観測結果を伝えに行く。伝令は必ず二人一組だった。
■証言 U・M 独立重砲兵第100大隊 5月中旬~下旬 -P329-
観測班での主な任務は伝令だった。高台の頂上に据えつけた測定機で敵陣地に撃ちこんだ弾着の状況を観測し、その結果を後方の重砲陣地に伝達することだった。
伝令は必ず二人一組だった。一人がやられても、もう一人が確実に命令を伝達できるように組み合わせてあり、伝令に出るときは必ず3メートルの間隔を置いて歩かねばならなかった。二人いっぺんにやられないためだった。
伝令の道でグラマンに急襲され、畑の溝に飛びこんで難をのがれたことがあったが、機銃弾がプシュ、プシュと地面に突きささる音を聞くとき、生きている心地はしなかった。
伝令の途中、道に転がっている兵隊の死体をよく見かけた。死体は腐敗が進み、軍服ははちきれんばかりにふくれあがっていた。顔の皮膚は黒くひからびて、骸骨になったものもあった。眼窩がんかがミイラのようにくぼんでいるが、鉄帽をかぶり軍服を着て横たわっていた。土をかけてやる人もなく、まったくの野ざらしだった。
■証言 S・K 独立工兵第66大隊 朝鮮出身私大出上等兵への差別 5月下旬 -P332-
食糧運搬や玄米突きの精米作業をしているときに、奇異に感じたことがあった。それは金本という上等兵が他の兵隊から蔑視され、私たちのやる雑役にまわされていたことだ。東京の私大を出たインテリだが、朝鮮出身だからと差別されていたのである。
朝鮮人というだけで、金本上等兵を差別する日本軍隊のあり方に、ぼくは日本人の醜い面を見せられたような気がした。他の兵隊たちは何もすることなく壕の中でごろごろしているときでも、金本上等兵は私たちとともに雑役に従事した。ぼくはそうした金本上等兵と親しくなっていた。
■第32軍 首里放棄、喜屋武きやん―摩文仁まぶにの線への後退を決定 5月22日 -P333-
第32軍司令部はこの日の夜、最後まで首里で戦うか、それとも知念半島に退却するか、あるいは喜屋武・摩文仁方面に後退するか、を討議した。結局、喜屋武・摩文仁の線に後退し態勢を立て直して抗戦を続けることに決定した。
軍司令部の後退は5月27日、第一線主力の後退は5月29日を予定し、負傷者及び軍需品の後送を直ちに開始するよう各部隊に命令した。
■証言 O・K 第5砲兵司令部後退 隊列先頭で道案内 5月27日 -P342-
第5砲兵司令部の金良かねらから摩文仁まぶにへの後退が始まった。ぼくは南部の地理に明るいというわけで准尉殿に呼び出され、摩文仁岳への誘導役として副官とともに隊列の先頭に立つよう命じられた。小隊ごとに糧秣や弾薬を満載した輜重車しちょうしゃを大勢の兵隊が引き、後からも押して行進した。トラックも何台か使われた。
隊列が長く伸び後尾は見えないが、伝わってくるざわめきで相当の兵員が後退中だとわかった。球9700部隊だけでなく他の部隊の隊列も並んで後退していた。
武富を過ぎたところで、白衣をつけた1000人ぐらいの隊列とぶつかった。隊列はばらばらになり長くのびていた。陸軍病院から脱出してきた負傷兵である。水を欲しがる患者がいたので水筒を渡そうとしたら、いっしょに歩いていた准尉殿に「負傷者にかまうな。先を急げ」と叱責された。
摩文仁に至るまでには賀数かかず、高嶺入り口、新垣など数カ所の交差路がある。ぼくは交差路にさしかかるたびに、後をふりむいて「たま、九、千、七、ひゃーく」と叫んだ。しばらくして後方から「たま、九、千、七、ひゃーく」と同様に叫ぶ声が返ってくる。分岐点で球9700部隊の進行方向を後続の隊列にリレー式に伝える声である。
自宅のある賀数集落にさしかかったとき、副官に「ここは賀数というところで、私の住んでいる字です。摩文仁まであと9キロです」と説明した。道路沿いにある同期の照屋武君の家は焼け、そこから30メートルほど離れたぼくの家も焼け落ちていた。家族のことが心配でとんでいきたかったが、部隊誘導を中断できないので、家の前を黙って通り過ぎた。
新垣十字路を過ぎて真栄平まえひらを過ぎると、前方に緑の丘があらわれた。目的地の摩文仁岳(標高89メートル)である。朝もやに包まれた樹林がかすんで見える丘には、久しぶりに陽がさしていた。隊列の兵隊たちはここに来ると、一様に「おおっ」と声を上げた。戦場にそぐわぬ穏やかな情景が広がっていたからだ。「ここもやがて戦場になるのだ」とぼくは摩文仁岳をつくづく眺めた。
■電信36連隊(一中鉄血勤皇隊2年生配属)も南部に後退 5月27日 -P345~P352-
電信36連隊も第32軍司令部の南部後退決定に従って後退準備を始め、5月27日南部に後退した。
〇第4中隊 摩文仁海岸の絶壁下で分宿
2年生35人(戦没19人、生存16人)
〇第5中隊 摩文仁海岸の自然壕に集結
2年生35人(戦没11人、生存24人)
〇第6中隊 摩文仁に後退、その後喜屋武に移動
2年生34人(戦没28人、生存6人)
〇固定中隊 摩文仁に後退
2年生11人(戦没7人、生存4人)
■電信36連隊第4中隊の後退 5月27日 -P350-
持てるだけの荷物を持った第4中隊の隊員は、次々に繁多川の壕をあとにした。壕を出てすぐ、砲2門を引っぱった砲兵の一団に出会った。首里から後退する部隊を掩護するための砲兵だった。
摩文仁に着いた第4中隊の学徒兵たちは、海岸の絶壁の下で数人ずつかたまって軍装を解いた。付近は大きな岩が重なり合って自然壕のようになっていた。その近くには清水がわき出る泉もあって絶好の隠れ場所だった。
■証言 K・T 第4中隊の後退 5月27日~28日 -P350~P352-
5月27日 わが中隊は全員が無事に南風原村本部はえばるむら もとぶに着いた。第6中隊の大きな壕が空き家になっていたので、そこに宿泊した。
5月28日 夜が明けると、第4中隊は津嘉山の近くに出て、山川から志多伯したはくを経て目的地の与座への道を南下した。与座岳へは一本道である。真昼間に歩くのだから、グラマン機に狙われた。2機のグラマン機から機銃掃射を浴びせられ、隊列は左右の畑に散った。グラマンが飛び去ると道にもどって歩き、襲われるとまた散る、という状態が何度かつづいた。
われわれは数十人の小集団だが、大集団で歩いていたら艦砲のえじきになっただろう。3日前に、その付近で弾薬輸送隊を含む500人ほどが艦砲で全滅したと聞いた。
道には死体がごろごろ転がっていた。とっさに飛びこんだ溝の鼻先に、ウジが塊になってむくむく動いている死体があったりした。すでに骸骨になっている死体もあった。頭がい骨には穴があいていて、脳みそは空になっていた。
後退中もっとも怖かったのは榴散弾だった。頭上で榴散弾が炸裂すると、もう逃げ場はない。運を天にまかせるだけだ。敵の射程距離内にある山川付近までは、今にも榴散弾にやられはしないか、とびくびくし通しだった。
第4中隊が南下するにしたがって、緑の色が多くなっていた。その日の夕方、第一の目的地である与座の陣地に着いた。壕は高い崖の下にあり、近くに泉もあった。木もうっそうと茂っていた。陣地でしばらく休み、夜の明けないうちに最終目的地の摩文仁への出発命令が出て、山を越して行った。
5月29日 摩文仁の朝の光景は今でも忘れられない。摩文仁岳は戦争の傷あともなく、野山は緑につつまれ、集落の家々から朝げの煙が立ちのぼっていた。荒涼たる廃墟ばかり見てきたぼくらは、こんなすばらしいところがあったのかと思った。しかし、この美しい山野が首里のような荒廃した光景に変わるのに、一週間とかからなかった。
■電信36連隊第5中隊の後退 5月27日 -P347-
5月27日午後、敵の部隊が戦車を先頭に首里に進攻してきた。第5中隊は「闇にまぎれて繁多川から脱出し、与座岳に集結したのち摩文仁に後退せよ」との命令を受けた。出発前に乾パンや米が配られ、これまで丸腰だった学徒兵に戦死者の銃剣が支給された。
■証言 K・T 第5中隊の後退 5月27日~28日 -P348-
5月27日 負傷兵の担送班も編成された。古参兵2人に渡久山朝雄とぼくが加わり、四名一組で負傷兵を担送することになった。夜9時ごろ、担送班は負傷兵を担架に乗せて壕を出た。外は大雨だった。
わが中隊は識名しきなの東側を南に降り、南風原村はえばるむらを経て東風平こちだいらに向かった。どこから集まってきたのか、いつのまにか雨のなかを南に行く大集団ができあがっていた。姿はよく見えないが、大勢の民間人が何か叫びながら、南へ南へと歩いていた。民間人と並んで行進する部隊の、相互に連絡しあう声も入りまじって、道路は喧騒をきわめていた。
長雨で道路は田んぼのようにぬかるみ、ねばる泥に足をとられた。泥道を歩いているうちに、片方の靴底がとれてしまった。担架組の4人(※中学2年生であることに留意)は一方の方に銃と食糧をにない、もう一方の肩に担架をかついでいるが、負傷兵のかぶった毛布が雨を吸いこみ重くなっていた。ついに耐えられなくなって毛布を捨てた。
近くに砲弾が炸裂すると、腰をかがめて姿勢を低くしていたが、担架と装備の重みでいちいちそうしておれなくなった。そのうち疲れてきて、担架から負傷兵を放りだしたくなった。ぼくが参りかけていることに気づいた渡久山朝雄は、何度も「祥徳! がんばれ、もうすぐだよ」と励ましてくれた。
やがて夜が白み人の波が見えてくるようになると、目をおおいたくなるような光景があらわれた。兵隊や住民の死体が散乱し、あちこちに負傷した人たちがうごめいていた。部隊からも家族からも見捨てられた孤独な負傷者たちが、泥のなかでもがいていた。よつんばいになり泥まみれになりながら、南をめざす者もいた。われわれは中隊からはぐれたことに気がついたが、二日ばかり後に摩文仁まぶにの中隊本部に合流することができた。
■電信36連隊第6中隊の後退準備 5月23日~26日、後退 5月27日 -P345-
5月22日夜、第32軍司令部は、首里から南部に後退する決定を下し、すぐ準備を始めるよう諸部隊に命令した。電信36連隊は5月27日に摩文仁まぶにへ後退する準備を始めた。第6中隊の学徒兵たちは、5月26日までに小型通信機や食糧などを南風原はえばるから摩文仁に数度にわたって移送したのち、5月27日に摩文仁に後退した。
■証言 K・Y 第6中隊 5月23日~26日 -P345-
われわれ学徒兵は沖縄守備軍の島尻後退にそなえて、南風原はえばるの中隊壕から摩文仁に食糧と弾薬、小型無線機などを運ぶ任務についた。夕方8時ごろ、各隊員は対戦車用爆雷を1個ずつ背負い、その上に数袋の乾パンを乗せ、米8升を靴下に詰めて肩から左右に振り分けて吊るした。※玄米1升≒1.5kg、白米1升≒1.4kg 玄米換算で1.5kg×8升=12kg
全体の重量は当時のわれわれの体重をゆうに越えた。運搬途上の小休止のときは、腰をおろして休むわけにはいかなかった。いざ出発というときに立ちあがれなくなるからだ。石垣や土手にもたれるようにして、立ったまま一息いれた。
食糧運搬の帰り道、手や足のない負傷兵の列が、とぎれとぎれに南下してくるのにぶつかった。野戦病院の後退だった。山川橋のたもとには、艦砲にやられた人たちが折り重なっていた。
■証言 M・M 第6中隊 5月23日~26日 -P346-
佐藤分隊が首里の派遣先から南風原はえばるの中隊壕にもどると、すぐ南部後退の準備が始まった。われわれはまず摩文仁に食糧を運ぶことになった。米を靴下に入れ、端と端をむすんで四つで輪をつくり、それを二本、肩からたすき掛けした。与座に着いて米を下ろすと、休むことなく中隊壕に引き返した。
そのころ玉那覇清一がぼくを訪ねてきた。彼の分隊も南部に後退するという。別れるときに、新品の地下足袋じかたびをくれた。めずらしくサイズがぴったりだったので、たいへんありがたかった。
■証言 K・Y 第6中隊 5月26日 -P346-
「5月27日、字本部もとぶの壕から後退せよ」との命令がきた。普段はケチケチと食糧を切りつめていたのに、最後の日というわけか、飯がいっぱいでた。炊事場にある食糧は何でも自由に持って行ってよい、とのことだった。
野戦病院からもどってきたばかりの古波蔵こわぐら信三などは、乾ぱん袋から金平糖だけを選び出し、ポケットに詰めていた。ついきのうまでひもじい思いをさせられていたのが、急にこのように食糧がいっぺんに放出されると、もったいないと思う反面、日本軍が敗走しているのは現実なのだとひしひしと感じた。
いよいよ後退という日(5月27日)、かなたの丘陵に敵が陣地をかまえているのが遠望された。首里は占領され、敵は急進撃で南風原はえばるに迫りつつあったのだ。
■首里攻防戦 シュガーローフ(安里52高地)の激戦 5月12日
5月12日。首里の最後の防衛線に米軍の猛攻が始まった。09:20、第6海兵師団第22海兵連隊第3大隊が天久台あめくだい頂上に達した。天久から那覇まではほんの一またぎの距離である。14:00、第1大隊は安里川北部高地に達した。
第2大隊は目標のシュガーローフにG中隊がとりついたところで、日本軍の猛烈な砲撃のため前進できなくなり、第1小隊のうち5名が孤立した。G中隊第1小隊、第3小隊、戦車2両が16:00、救出に出発。16:45シュガーローフに達したが、戦車2両は地雷で撃破され、2個小隊とも小隊長、小隊付軍曹が戦死または負傷後送され、2個小隊とも戦死傷者が50%を超えて戦闘能力を失った。(「沖縄戦史」)
ほかに、米軍にとっての沖縄戦の厳しさを示す記事がある。――海兵第1師団第5連隊第3大隊K中隊は1945(昭20)年4月1日、士官を含めて総員235人で上陸した。作戦中、補充兵250人が加わり、合計485人が所属したことになる。だが作戦終了時に残っていたのは50人。そのうち4月1日の上陸者はわずかに26人だった。9割の将兵が戦死、または負傷して後送された。(『ペリリュー・沖縄戦記 -P421-』ユージン・B・スレッジ著、講談社学術文庫)
首里攻略をめざす米軍は5月12日、シュガーローフ高地の日本守備軍と激突し、10日近くも死闘を交えた。この戦闘で米第6海兵師団の2個連隊は、3個大隊が大隊長を失い、11個中隊で中隊長が死傷し、全師団で2662名の死傷者を出したほか、1299名の戦闘疲労症(激戦地でみられる一種の精神障害)をだした、と米軍戦史『日本最後の戦闘』は記録している。(『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上) -P269-』兼城 一・編著、高文研・刊)
■証言 T・K 篠原配属将校「戦争はもう負けです」 藤野校長「沖縄で負けることは絶対にない」5月上旬 -P248-
雑炊だけの夕食後のひととき、先生方が希望的観測をまじえて勝ちいくさの話をしていた。そこに篠原教官が真顔で「こうなったら戦争はもう負けです」といった。ブーゲンビル島で米軍と戦った配属将校の発言だけに、まわりの先生方はしゅんとなった。それまで聞き役だった藤野校長は、きっとした表情で「沖縄で負けることは絶対にない。これから連合艦隊も出動してくるだろうし、援軍も逆上陸するはずだ。戦いはこれからが正念場だ。軍人のあなたがそんなことを言ってどうするんですか。あなたは配属将校ですぞ」とたしなめた。
(注) そのころ、日本国民は連合艦隊がすでに壊滅していたことを知らなかった。戦艦大和がひきいる10隻の残存艦隊は4月6日、沖縄の海岸に乗り上げて一大要塞と化すべく片道燃料で瀬戸内海を発航した。しかし早くも翌4月7日午後2時過ぎ、九州西南方で米第58機動部隊艦載機386機の二波にわたる攻撃を受け、戦艦大和は伊藤整一中将以下約3000名の将兵といっしょに沈没しました。戦艦大和の沈没は日本敗戦を確定する象徴でした。昭和天皇以下、当時の日本の権力者がその時点で降伏しなかったことで、その後100万に近い生命が失われた。その生命の一つひとつにはみな名前があり、それぞれの生活史がありました。
しかし、教官は、「戦争はもう負けです」とくり返した。それに対し校長も、「絶対に負けていない。何を根拠にそう言うのですか」と反論した。「われわれは壕にじっとしているだけで、外に出られるような状態ではない。これでは戦争に勝てるわけがありません。こういうのは負けいくさです」と声は低いが、はっきりした語調の篠原教官の声が、その場にたまたま居合わせたぼくの耳に聞こえた。だまって二人の話を聞いている先生方の前で、藤野校長は教官を叱咤していた。
■証言 I・K 篠原教官と藤野校長の論争を聞いた 5月上旬 -P249-
教官は「5月27日の海軍記念日までに反撃に成功しなければ戦争は負ける」と言っていた。校長は大本営に絶対の信頼を寄せ、「日本は大本営が存在するかぎり不敗である」と反論していた。校長は沖縄で日本軍が敗北するとは夢にも思っていなかったのではないか。
必勝の信念に徹していた藤野校長は、「この戦争がすんだら、破壊された校舎の再建や戦死した生徒たちの取り扱いはどうなるのか、まったく見通しがつかない」と早くも戦後処理のことを心配していた。
■証言 H・S 敗走部隊の兵隊が「壕を明け渡せ」 5月上旬 -P250-
一中壕の入り口に部下を連れた大男の軍曹が立ちはだかり「この壕はわが隊が使うから明けわたせ」と威丈高にどなった。応対に出た糸数昌功教諭が、ここは一中鉄血勤皇隊の壕だと説明したが、軍曹は「壕を明けわたせ」と言うなり胸をどんと突いたので、糸数教諭はよろめいた。
入り口の騒々しさに何事かと出てみた篠原教官は、このありさまに「きさまのような奴がのさばるから地方人は迷惑するんだ」と言うなり、軍刀でその軍曹をしたたかに打ちすえた。軍曹は最初の剣幕とはうってかわって平謝りに謝って立ち去った。前線から敗退してきた兵隊らしかった。
■証言 H・M 敗走部隊の兵隊が「壕を明け渡せ」 5月上旬 -P250-
篠原教官はすごい人だ、と頼もしく思った。一中壕は地理的にいい場所にあったので、敗退してきた部隊からねらわれやすかった。その後も敗走部隊の兵隊が「壕に入れろ」と難題をふっかけてきたことがあったが、教官が出て撃退していた。
■金城和弘(5年生)、喜捨場一雄(4年生) 天久台の戦闘で戦死 5月中旬 -P251-
首里防衛ラインの天久台の戦闘で、現役入隊していた金城和弘(5年生)は戦死したと聞いた、M・Hが語っている。入隊先は、独立混成第44旅団第15連隊と思われる。
玉城村たまぐすくむら義勇隊員の喜捨場一雄(4年生)も天久台の戦闘に加わっていた。5月中旬、天久の戦闘で、敵の爆雷で破壊された壕から脱出して敵中突破をはかったが、泊国民学校付近にたどり着いたところで機銃掃射を浴び、つづいて投げつけられた手榴弾にやられて絶命した。彼の戦死の状況は、同じ義勇隊に入隊していた二中4年生・儀間昇氏が体験記にくわしく書いている。
■証言 A・E 首里を家族とともに離れて島尻にさがる 5月中旬 -P258-
首里・汀良町てらちょうの福岡無線受信所から末吉の自宅に帰ったところ、軍から「敵が内間に進攻してきたので首里から退去せよ」との命令が出て、家族とともに兄嫁の実家をたよって真壁に行った。
さいわいなことに集落の近くに地下十数メートルにも達する大きなガマ(天然の洞窟)があり、地元の人たち約90名が避難していた。入り口の大きさは人がやっとすれ違いができる程度だが奥は深く、なかにいるかぎり安全だった。ガマの中には泉があり、飲み水には困らなかった。
■証言 M・H 首里から島尻にさがる途中の暗渠でお産 5月中旬 -P259-
島尻にさがる途中、与那原線よなばるせん南風原駅はえばるえき近くの暗渠に、家族ごと 仮住まいすることになった。兄が肩を負傷していたし、兄嫁は産気づいていた。
コンクリート製の頑丈な暗渠は、命中弾でないかぎり砲撃にも安全だった。床下を流れる水を使って炊事もできた。暗渠の上は道になっていたので、砲弾に追われた兵隊がよく飛びこんできた。暗渠の中で兄嫁は女の子を出産した。祖母が取り上げた赤ちゃんは元気だった。ぼくは、この戦争に勝つようにという願いをこめて、勝子という名前をつけてやった。
6月下旬、真栄平まえひらで家族そろって米軍に収容されたとき、勝子はかぼそい声で泣いていた。7月のはじめ、佐敷村の収容所に移されたころは、栄養失調のために泣き声もできなくなり、それからまもなく勝子は死んだ。カンカン照りの暑い日だった。
■艦砲、球9700部隊衛兵所に命中 死傷者7名 5月13日 -P269-
5月13日、球9700部隊衛兵所に艦砲が命中。勤務中の玉那覇有成(5年生)即死、真喜志康栄(4年生)即死、伊豆見元三(3年生)は腕と腹をやられ、出血多量で医務室で死亡した。衛兵所に格納されていた対戦車用急造爆雷が誘爆し、衛兵所で仮眠中の4名が負傷した。
■証言 M・S 玉那覇有成の遺体を収容。埋葬した 5月13日 -P272-
玉那覇有成がやられたと知らせを受けたのは午後2時ごろだった。遺体収容に派遣されたが、頭がい骨の上部が吹き飛ばされていたので、名札で本人と確認した。遺体を戸板に乗せて養秀寮の庭に運んで埋葬した。(翌年夏、玉那覇両親を案内して収骨した。)
■証言 T・T 真喜志康栄の遺体を収容、伊豆見元三は医務室で死亡 5月13日 -P273-
真喜志康栄の四肢はばらばらになり、遺体の収容は困難をきわめた。拾い集めた遺体は毛布に包み、養秀寮庭の花壇に玉那覇有成と並べて葬った。
腕と腹をやられた伊豆見元三は壕外にはいだし、兵隊たちが駆けつけてくるときまでのたうちまわっていたという。医務室に運び輸血の準備にかかったが、出血多量のため血管が細くなり、注射針が血管に通らなくなった。手間取っているうちに、採血した注射器の血液が固まって輸血不能になってしまった。伊豆見元三は手術台に乗せられながらも手当てがまにあわず、苦しみながら息を引き取った。(首里山川町にいた伊豆見元三の家族が全滅したため、叔母が戦後に収骨した。)
■一中鉄血勤皇隊、球9700部隊隷下の各部隊に分散配属へ 5月14日薄暮~15日未明 -P277~P290-
5月14日の薄暮から翌未明にかけて、球9700部隊隷下の各部隊に分散配属された鉄血勤皇隊員は、それぞれの部隊所在地に向け一中壕を出た。
〇野戦重砲兵第1連隊
3年生15人(戦没7人・生存8人)、4年生7人(戦没3人・生存4人)、
5年生3人(戦没0人・生存3人)、計25人(戦没10人・生存15人)
〇独立工兵第66大隊
3年生10人(戦没10人・生存0人)、4年生11人(戦没8人・生存3人)、
5年生5人(戦没5人・生存0人)、職員1人、計27人(戦没23人・生存4人)
〇第5砲兵司令部
5年生10人(戦没5人・生存5人)、計10人(戦没5人・生存5人)
〇独立測地第一中隊
3年生1人(戦没1人・生存0人)、4年生3人(戦没3人・生存0人)、
計4人(戦没4人・生存0人)
〇独立重砲兵第100大隊 配属は約40人だが氏名判明は31人
3年生13人(戦没12人・生存1人)、4年生15人(戦没14人・生存1人)、
5年生2人(戦没2人・生存0人)、職員1人(戦没1人・生存0人)、
計31人(戦没29人・生存2人)
※各部隊に配属された一中鉄血勤皇隊員は160~170人と推測されるので、上記がすべてでは
ない。
■独立重砲兵第100大隊で一中鉄血勤皇隊員の主任務は伝令 5月中旬~下旬 -P328-
独立重砲兵第100大隊に配属になった鉄血勤皇隊員の主な任務は、東風平村志多伯こちんだむら したはくと大里村稲嶺にいる砲兵隊への伝令だった。重砲陣地との有線電話が切断されるので、兵隊といっしょに重砲陣地に観測結果を伝えに行く。伝令は必ず二人一組だった。
■証言 U・M 独立重砲兵第100大隊 5月中旬~下旬 -P329-
観測班での主な任務は伝令だった。高台の頂上に据えつけた測定機で敵陣地に撃ちこんだ弾着の状況を観測し、その結果を後方の重砲陣地に伝達することだった。
伝令は必ず二人一組だった。一人がやられても、もう一人が確実に命令を伝達できるように組み合わせてあり、伝令に出るときは必ず3メートルの間隔を置いて歩かねばならなかった。二人いっぺんにやられないためだった。
伝令の道でグラマンに急襲され、畑の溝に飛びこんで難をのがれたことがあったが、機銃弾がプシュ、プシュと地面に突きささる音を聞くとき、生きている心地はしなかった。
伝令の途中、道に転がっている兵隊の死体をよく見かけた。死体は腐敗が進み、軍服ははちきれんばかりにふくれあがっていた。顔の皮膚は黒くひからびて、骸骨になったものもあった。眼窩がんかがミイラのようにくぼんでいるが、鉄帽をかぶり軍服を着て横たわっていた。土をかけてやる人もなく、まったくの野ざらしだった。
■証言 S・K 独立工兵第66大隊 朝鮮出身私大出上等兵への差別 5月下旬 -P332-
食糧運搬や玄米突きの精米作業をしているときに、奇異に感じたことがあった。それは金本という上等兵が他の兵隊から蔑視され、私たちのやる雑役にまわされていたことだ。東京の私大を出たインテリだが、朝鮮出身だからと差別されていたのである。
朝鮮人というだけで、金本上等兵を差別する日本軍隊のあり方に、ぼくは日本人の醜い面を見せられたような気がした。他の兵隊たちは何もすることなく壕の中でごろごろしているときでも、金本上等兵は私たちとともに雑役に従事した。ぼくはそうした金本上等兵と親しくなっていた。
■第32軍 首里放棄、喜屋武きやん―摩文仁まぶにの線への後退を決定 5月22日 -P333-
第32軍司令部はこの日の夜、最後まで首里で戦うか、それとも知念半島に退却するか、あるいは喜屋武・摩文仁方面に後退するか、を討議した。結局、喜屋武・摩文仁の線に後退し態勢を立て直して抗戦を続けることに決定した。
軍司令部の後退は5月27日、第一線主力の後退は5月29日を予定し、負傷者及び軍需品の後送を直ちに開始するよう各部隊に命令した。
■証言 O・K 第5砲兵司令部後退 隊列先頭で道案内 5月27日 -P342-
第5砲兵司令部の金良かねらから摩文仁まぶにへの後退が始まった。ぼくは南部の地理に明るいというわけで准尉殿に呼び出され、摩文仁岳への誘導役として副官とともに隊列の先頭に立つよう命じられた。小隊ごとに糧秣や弾薬を満載した輜重車しちょうしゃを大勢の兵隊が引き、後からも押して行進した。トラックも何台か使われた。
隊列が長く伸び後尾は見えないが、伝わってくるざわめきで相当の兵員が後退中だとわかった。球9700部隊だけでなく他の部隊の隊列も並んで後退していた。
武富を過ぎたところで、白衣をつけた1000人ぐらいの隊列とぶつかった。隊列はばらばらになり長くのびていた。陸軍病院から脱出してきた負傷兵である。水を欲しがる患者がいたので水筒を渡そうとしたら、いっしょに歩いていた准尉殿に「負傷者にかまうな。先を急げ」と叱責された。
摩文仁に至るまでには賀数かかず、高嶺入り口、新垣など数カ所の交差路がある。ぼくは交差路にさしかかるたびに、後をふりむいて「たま、九、千、七、ひゃーく」と叫んだ。しばらくして後方から「たま、九、千、七、ひゃーく」と同様に叫ぶ声が返ってくる。分岐点で球9700部隊の進行方向を後続の隊列にリレー式に伝える声である。
自宅のある賀数集落にさしかかったとき、副官に「ここは賀数というところで、私の住んでいる字です。摩文仁まであと9キロです」と説明した。道路沿いにある同期の照屋武君の家は焼け、そこから30メートルほど離れたぼくの家も焼け落ちていた。家族のことが心配でとんでいきたかったが、部隊誘導を中断できないので、家の前を黙って通り過ぎた。
新垣十字路を過ぎて真栄平まえひらを過ぎると、前方に緑の丘があらわれた。目的地の摩文仁岳(標高89メートル)である。朝もやに包まれた樹林がかすんで見える丘には、久しぶりに陽がさしていた。隊列の兵隊たちはここに来ると、一様に「おおっ」と声を上げた。戦場にそぐわぬ穏やかな情景が広がっていたからだ。「ここもやがて戦場になるのだ」とぼくは摩文仁岳をつくづく眺めた。
■電信36連隊(一中鉄血勤皇隊2年生配属)も南部に後退 5月27日 -P345~P352-
電信36連隊も第32軍司令部の南部後退決定に従って後退準備を始め、5月27日南部に後退した。
〇第4中隊 摩文仁海岸の絶壁下で分宿
2年生35人(戦没19人、生存16人)
〇第5中隊 摩文仁海岸の自然壕に集結
2年生35人(戦没11人、生存24人)
〇第6中隊 摩文仁に後退、その後喜屋武に移動
2年生34人(戦没28人、生存6人)
〇固定中隊 摩文仁に後退
2年生11人(戦没7人、生存4人)
■電信36連隊第4中隊の後退 5月27日 -P350-
持てるだけの荷物を持った第4中隊の隊員は、次々に繁多川の壕をあとにした。壕を出てすぐ、砲2門を引っぱった砲兵の一団に出会った。首里から後退する部隊を掩護するための砲兵だった。
摩文仁に着いた第4中隊の学徒兵たちは、海岸の絶壁の下で数人ずつかたまって軍装を解いた。付近は大きな岩が重なり合って自然壕のようになっていた。その近くには清水がわき出る泉もあって絶好の隠れ場所だった。
■証言 K・T 第4中隊の後退 5月27日~28日 -P350~P352-
5月27日 わが中隊は全員が無事に南風原村本部はえばるむら もとぶに着いた。第6中隊の大きな壕が空き家になっていたので、そこに宿泊した。
5月28日 夜が明けると、第4中隊は津嘉山の近くに出て、山川から志多伯したはくを経て目的地の与座への道を南下した。与座岳へは一本道である。真昼間に歩くのだから、グラマン機に狙われた。2機のグラマン機から機銃掃射を浴びせられ、隊列は左右の畑に散った。グラマンが飛び去ると道にもどって歩き、襲われるとまた散る、という状態が何度かつづいた。
われわれは数十人の小集団だが、大集団で歩いていたら艦砲のえじきになっただろう。3日前に、その付近で弾薬輸送隊を含む500人ほどが艦砲で全滅したと聞いた。
道には死体がごろごろ転がっていた。とっさに飛びこんだ溝の鼻先に、ウジが塊になってむくむく動いている死体があったりした。すでに骸骨になっている死体もあった。頭がい骨には穴があいていて、脳みそは空になっていた。
後退中もっとも怖かったのは榴散弾だった。頭上で榴散弾が炸裂すると、もう逃げ場はない。運を天にまかせるだけだ。敵の射程距離内にある山川付近までは、今にも榴散弾にやられはしないか、とびくびくし通しだった。
第4中隊が南下するにしたがって、緑の色が多くなっていた。その日の夕方、第一の目的地である与座の陣地に着いた。壕は高い崖の下にあり、近くに泉もあった。木もうっそうと茂っていた。陣地でしばらく休み、夜の明けないうちに最終目的地の摩文仁への出発命令が出て、山を越して行った。
5月29日 摩文仁の朝の光景は今でも忘れられない。摩文仁岳は戦争の傷あともなく、野山は緑につつまれ、集落の家々から朝げの煙が立ちのぼっていた。荒涼たる廃墟ばかり見てきたぼくらは、こんなすばらしいところがあったのかと思った。しかし、この美しい山野が首里のような荒廃した光景に変わるのに、一週間とかからなかった。
■電信36連隊第5中隊の後退 5月27日 -P347-
5月27日午後、敵の部隊が戦車を先頭に首里に進攻してきた。第5中隊は「闇にまぎれて繁多川から脱出し、与座岳に集結したのち摩文仁に後退せよ」との命令を受けた。出発前に乾パンや米が配られ、これまで丸腰だった学徒兵に戦死者の銃剣が支給された。
■証言 K・T 第5中隊の後退 5月27日~28日 -P348-
5月27日 負傷兵の担送班も編成された。古参兵2人に渡久山朝雄とぼくが加わり、四名一組で負傷兵を担送することになった。夜9時ごろ、担送班は負傷兵を担架に乗せて壕を出た。外は大雨だった。
わが中隊は識名しきなの東側を南に降り、南風原村はえばるむらを経て東風平こちだいらに向かった。どこから集まってきたのか、いつのまにか雨のなかを南に行く大集団ができあがっていた。姿はよく見えないが、大勢の民間人が何か叫びながら、南へ南へと歩いていた。民間人と並んで行進する部隊の、相互に連絡しあう声も入りまじって、道路は喧騒をきわめていた。
長雨で道路は田んぼのようにぬかるみ、ねばる泥に足をとられた。泥道を歩いているうちに、片方の靴底がとれてしまった。担架組の4人(※中学2年生であることに留意)は一方の方に銃と食糧をにない、もう一方の肩に担架をかついでいるが、負傷兵のかぶった毛布が雨を吸いこみ重くなっていた。ついに耐えられなくなって毛布を捨てた。
近くに砲弾が炸裂すると、腰をかがめて姿勢を低くしていたが、担架と装備の重みでいちいちそうしておれなくなった。そのうち疲れてきて、担架から負傷兵を放りだしたくなった。ぼくが参りかけていることに気づいた渡久山朝雄は、何度も「祥徳! がんばれ、もうすぐだよ」と励ましてくれた。
やがて夜が白み人の波が見えてくるようになると、目をおおいたくなるような光景があらわれた。兵隊や住民の死体が散乱し、あちこちに負傷した人たちがうごめいていた。部隊からも家族からも見捨てられた孤独な負傷者たちが、泥のなかでもがいていた。よつんばいになり泥まみれになりながら、南をめざす者もいた。われわれは中隊からはぐれたことに気がついたが、二日ばかり後に摩文仁まぶにの中隊本部に合流することができた。
■電信36連隊第6中隊の後退準備 5月23日~26日、後退 5月27日 -P345-
5月22日夜、第32軍司令部は、首里から南部に後退する決定を下し、すぐ準備を始めるよう諸部隊に命令した。電信36連隊は5月27日に摩文仁まぶにへ後退する準備を始めた。第6中隊の学徒兵たちは、5月26日までに小型通信機や食糧などを南風原はえばるから摩文仁に数度にわたって移送したのち、5月27日に摩文仁に後退した。
■証言 K・Y 第6中隊 5月23日~26日 -P345-
われわれ学徒兵は沖縄守備軍の島尻後退にそなえて、南風原はえばるの中隊壕から摩文仁に食糧と弾薬、小型無線機などを運ぶ任務についた。夕方8時ごろ、各隊員は対戦車用爆雷を1個ずつ背負い、その上に数袋の乾パンを乗せ、米8升を靴下に詰めて肩から左右に振り分けて吊るした。※玄米1升≒1.5kg、白米1升≒1.4kg 玄米換算で1.5kg×8升=12kg
全体の重量は当時のわれわれの体重をゆうに越えた。運搬途上の小休止のときは、腰をおろして休むわけにはいかなかった。いざ出発というときに立ちあがれなくなるからだ。石垣や土手にもたれるようにして、立ったまま一息いれた。
食糧運搬の帰り道、手や足のない負傷兵の列が、とぎれとぎれに南下してくるのにぶつかった。野戦病院の後退だった。山川橋のたもとには、艦砲にやられた人たちが折り重なっていた。
■証言 M・M 第6中隊 5月23日~26日 -P346-
佐藤分隊が首里の派遣先から南風原はえばるの中隊壕にもどると、すぐ南部後退の準備が始まった。われわれはまず摩文仁に食糧を運ぶことになった。米を靴下に入れ、端と端をむすんで四つで輪をつくり、それを二本、肩からたすき掛けした。与座に着いて米を下ろすと、休むことなく中隊壕に引き返した。
そのころ玉那覇清一がぼくを訪ねてきた。彼の分隊も南部に後退するという。別れるときに、新品の地下足袋じかたびをくれた。めずらしくサイズがぴったりだったので、たいへんありがたかった。
■証言 K・Y 第6中隊 5月26日 -P346-
「5月27日、字本部もとぶの壕から後退せよ」との命令がきた。普段はケチケチと食糧を切りつめていたのに、最後の日というわけか、飯がいっぱいでた。炊事場にある食糧は何でも自由に持って行ってよい、とのことだった。
野戦病院からもどってきたばかりの古波蔵こわぐら信三などは、乾ぱん袋から金平糖だけを選び出し、ポケットに詰めていた。ついきのうまでひもじい思いをさせられていたのが、急にこのように食糧がいっぺんに放出されると、もったいないと思う反面、日本軍が敗走しているのは現実なのだとひしひしと感じた。
いよいよ後退という日(5月27日)、かなたの丘陵に敵が陣地をかまえているのが遠望された。首里は占領され、敵は急進撃で南風原はえばるに迫りつつあったのだ。