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川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
★自分用メモは、新聞・Webなどのノート書きです。

<沖縄戦下の県立第一中学校> (8終) 米軍戦死傷増大 首里敗退路のありさま 沖縄一中生徒戦没数と生存数

2018-06-24 14:02:10 | Weblog
写真には「戦死した日本軍従軍看護婦とみられる女性」とクレジットが付されています。(毎日新聞写真特集 沖縄戦「鉄の暴風」死者20万人


2018/06/10
<沖縄戦下の県立第一中学校>(1)第一中学校奉安殿の昭和天皇皇后御真影(肖像写真)を米軍攻撃から退避させる
2018/06/13
<沖縄戦下の県立第一中学校>(2)召集令状伝達 最後の家族面会
2018/06/14
<沖縄戦下の県立第一中学校>(3)座間味・渡嘉敷で集団自決 合同卒業式 鉄血勤皇隊入隊 チービシ砲撃
2018/06/15
<沖縄戦下の県立第一中学校>(4)読谷・嘉手納・北谷海岸 4.1. 米軍無血上陸、内陸に進撃、4.4. 住民200人捕虜になる
2018/06/17
<沖縄戦下の県立第一中学校>(5)炊事班 壕堀り生活 対戦車爆雷訓練 大詔奉戴日 養秀寮炎上 独歩第13大隊戦力1/3に低下
2018/06/20
<沖縄戦下の県立第一中学校> (6) 厳しくなる戦場 小学校教員が殺された 電信連隊の中学2年生にも戦没者が次々と
2018/06/22
<沖縄戦下の県立第一中学校> (7) 前線に向かう連隊 前線へ弾薬を運ぶ住民 陸軍病院壕 総攻撃の敗北 一中生徒の戦没も続く
2018/06/24
<沖縄戦下の県立第一中学校> (8終) 米軍戦死傷増大 首里敗退路のありさま 沖縄一中生徒戦没数と生存数


6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄戦は「15年戦争」(別名「太平洋戦争」「大東亜戦争」)の末期、1945(昭20)年3月下旬~6月下旬にかけて戦われました。

当時の中学校生徒や高等女学校生徒、師範学校生徒、農林・水産・商業学校生徒らは鉄血勤皇隊という隊名で、教師らとともに学校単位で沖縄守備の第32軍に動員されました。もちろん親や家庭と離れて暮らします。高女学徒隊としてよく知られているのはひめゆり隊です。

ここで取り上げる沖縄県立第一中学校の淵源は、琉球国王尚温が1798(寛政10)年に開いた琉球最高学府「公学校所」です。その後琉球処分(琉球王国併合の過程)――1872(明治5)年琉球藩設置、1879(明治12)年沖縄県設置――を経て、1880(明治13)年に明治学制下の首里中学となり、1911(明44)年に沖縄県立第一中学校と改称しました。

 中学校は男子校5年制です。当時の中1~中5は今の中1~高2に相当します。前回につづいて『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上)』兼城 一・編著、高文研・刊という本から、沖縄第一中学の沖縄戦をアトランダムに紹介します。本書発行時に存命とみられる方について、すなわち証言者氏名について、ここではイニシャル表記にしました。

3月28日に一中鉄血勤皇隊が編成され、3年生~5年生、220名が同時に第5砲兵司令部(=球9700部隊)配属になりました。2年生115名は電信32連隊の第4、第5、第6、固定の4個中隊に配属されました。2年生~5年生でも、病弱その他の理由で編成除外されたり、直接に他部隊に志願入隊した生徒がいます。1年生は全員、戦時編成除外。

 このシリーズに出てくる「球部隊」とは第32軍直属部隊、独立混成第44旅団、独立混成第45旅団、独立混成第46旅団の傘下諸部隊で、本土各地の部隊から成っています。「石部隊」とは第62師団、歩兵第63旅団、歩兵第64旅団の傘下諸部隊です。第62師団は1944(昭19)年8月に北支から沖縄に転属してきました。首里・本島中部守備任務。「山部隊」とは第24師団傘下諸部隊で、1944(昭19)年8月に満州から沖縄に転属してきました。本島南部守備任務。
   ◇    ◇    ◇


 ■首里攻防戦 シュガーローフ(安里52高地)の激戦 5月12日
  5月12日。首里の最後の防衛線に米軍の猛攻が始まった。09:20、第6海兵師団第22海兵連隊第3大隊が天久台あめくだい頂上に達した。天久から那覇まではほんの一またぎの距離である。14:00、第1大隊は安里川北部高地に達した。
  第2大隊は目標のシュガーローフにG中隊がとりついたところで、日本軍の猛烈な砲撃のため前進できなくなり、第1小隊のうち5名が孤立した。G中隊第1小隊、第3小隊、戦車2両が16:00、救出に出発。16:45シュガーローフに達したが、戦車2両は地雷で撃破され、2個小隊とも小隊長、小隊付軍曹が戦死または負傷後送され、2個小隊とも戦死傷者が50%を超えて戦闘能力を失った。「沖縄戦史」

  ほかに、米軍にとっての沖縄戦の厳しさを示す記事がある。――海兵第1師団第5連隊第3大隊K中隊は1945(昭20)年4月1日、士官を含めて総員235人で上陸した。作戦中、補充兵250人が加わり、合計485人が所属したことになる。だが作戦終了時に残っていたのは50人。そのうち4月1日の上陸者はわずかに26人だった。9割の将兵が戦死、または負傷して後送された。(『ペリリュー・沖縄戦記 -P421-』ユージン・B・スレッジ著、講談社学術文庫)

  首里攻略をめざす米軍は5月12日、シュガーローフ高地の日本守備軍と激突し、10日近くも死闘を交えた。この戦闘で米第6海兵師団の2個連隊は、3個大隊が大隊長を失い、11個中隊で中隊長が死傷し、全師団で2662名の死傷者を出したほか、1299名の戦闘疲労症(激戦地でみられる一種の精神障害)をだした、と米軍戦史『日本最後の戦闘』は記録している。(『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上) -P269-』兼城 一・編著、高文研・刊)

 ■証言 T・K 篠原配属将校「戦争はもう負けです」 藤野校長「沖縄で負けることは絶対にない」5月上旬 -P248-
  雑炊だけの夕食後のひととき、先生方が希望的観測をまじえて勝ちいくさの話をしていた。そこに篠原教官が真顔で「こうなったら戦争はもう負けです」といった。ブーゲンビル島で米軍と戦った配属将校の発言だけに、まわりの先生方はしゅんとなった。それまで聞き役だった藤野校長は、きっとした表情で「沖縄で負けることは絶対にない。これから連合艦隊も出動してくるだろうし、援軍も逆上陸するはずだ。戦いはこれからが正念場だ。軍人のあなたがそんなことを言ってどうするんですか。あなたは配属将校ですぞ」とたしなめた。

 (注) そのころ、日本国民は連合艦隊がすでに壊滅していたことを知らなかった。戦艦大和がひきいる10隻の残存艦隊は4月6日、沖縄の海岸に乗り上げて一大要塞と化すべく片道燃料で瀬戸内海を発航した。しかし早くも翌4月7日午後2時過ぎ、九州西南方で米第58機動部隊艦載機386機の二波にわたる攻撃を受け、戦艦大和は伊藤整一中将以下約3000名の将兵といっしょに沈没しました。戦艦大和の沈没は日本敗戦を確定する象徴でした。昭和天皇以下、当時の日本の権力者がその時点で降伏しなかったことで、その後100万に近い生命が失われた。その生命の一つひとつにはみな名前があり、それぞれの生活史がありました。

  しかし、教官は、「戦争はもう負けです」とくり返した。それに対し校長も、「絶対に負けていない。何を根拠にそう言うのですか」と反論した。「われわれは壕にじっとしているだけで、外に出られるような状態ではない。これでは戦争に勝てるわけがありません。こういうのは負けいくさです」と声は低いが、はっきりした語調の篠原教官の声が、その場にたまたま居合わせたぼくの耳に聞こえた。だまって二人の話を聞いている先生方の前で、藤野校長は教官を叱咤していた。

 ■証言 I・K 篠原教官と藤野校長の論争を聞いた 5月上旬 -P249-
  教官は「5月27日の海軍記念日までに反撃に成功しなければ戦争は負ける」と言っていた。校長は大本営に絶対の信頼を寄せ、「日本は大本営が存在するかぎり不敗である」と反論していた。校長は沖縄で日本軍が敗北するとは夢にも思っていなかったのではないか。
 必勝の信念に徹していた藤野校長は、「この戦争がすんだら、破壊された校舎の再建や戦死した生徒たちの取り扱いはどうなるのか、まったく見通しがつかない」と早くも戦後処理のことを心配していた。

 ■証言 H・S 敗走部隊の兵隊が「壕を明け渡せ」 5月上旬 -P250-
 一中壕の入り口に部下を連れた大男の軍曹が立ちはだかり「この壕はわが隊が使うから明けわたせ」と威丈高にどなった。応対に出た糸数昌功教諭が、ここは一中鉄血勤皇隊の壕だと説明したが、軍曹は「壕を明けわたせ」と言うなり胸をどんと突いたので、糸数教諭はよろめいた。
  入り口の騒々しさに何事かと出てみた篠原教官は、このありさまに「きさまのような奴がのさばるから地方人は迷惑するんだ」と言うなり、軍刀でその軍曹をしたたかに打ちすえた。軍曹は最初の剣幕とはうってかわって平謝りに謝って立ち去った。前線から敗退してきた兵隊らしかった。

 ■証言 H・M 敗走部隊の兵隊が「壕を明け渡せ」 5月上旬 -P250-
  篠原教官はすごい人だ、と頼もしく思った。一中壕は地理的にいい場所にあったので、敗退してきた部隊からねらわれやすかった。その後も敗走部隊の兵隊が「壕に入れろ」と難題をふっかけてきたことがあったが、教官が出て撃退していた。

 ■金城和弘(5年生)、喜捨場一雄(4年生) 天久台の戦闘で戦死 5月中旬 -P251-
  首里防衛ラインの天久台の戦闘で、現役入隊していた金城和弘(5年生)は戦死したと聞いた、M・Hが語っている。入隊先は、独立混成第44旅団第15連隊と思われる。
  玉城村たまぐすくむら義勇隊員の喜捨場一雄(4年生)も天久台の戦闘に加わっていた。5月中旬、天久の戦闘で、敵の爆雷で破壊された壕から脱出して敵中突破をはかったが、泊国民学校付近にたどり着いたところで機銃掃射を浴び、つづいて投げつけられた手榴弾にやられて絶命した。彼の戦死の状況は、同じ義勇隊に入隊していた二中4年生・儀間昇氏が体験記にくわしく書いている。

 ■証言 A・E 首里を家族とともに離れて島尻にさがる 5月中旬 -P258-
  首里・汀良町てらちょうの福岡無線受信所から末吉の自宅に帰ったところ、軍から「敵が内間に進攻してきたので首里から退去せよ」との命令が出て、家族とともに兄嫁の実家をたよって真壁に行った。
 さいわいなことに集落の近くに地下十数メートルにも達する大きなガマ(天然の洞窟)があり、地元の人たち約90名が避難していた。入り口の大きさは人がやっとすれ違いができる程度だが奥は深く、なかにいるかぎり安全だった。ガマの中には泉があり、飲み水には困らなかった。

 ■証言 M・H 首里から島尻にさがる途中の暗渠でお産 5月中旬 -P259-
  島尻にさがる途中、与那原線よなばるせん南風原駅はえばるえき近くの暗渠に、家族ごと 仮住まいすることになった。兄が肩を負傷していたし、兄嫁は産気づいていた。
  コンクリート製の頑丈な暗渠は、命中弾でないかぎり砲撃にも安全だった。床下を流れる水を使って炊事もできた。暗渠の上は道になっていたので、砲弾に追われた兵隊がよく飛びこんできた。暗渠の中で兄嫁は女の子を出産した。祖母が取り上げた赤ちゃんは元気だった。ぼくは、この戦争に勝つようにという願いをこめて、勝子という名前をつけてやった。
  6月下旬、真栄平まえひらで家族そろって米軍に収容されたとき、勝子はかぼそい声で泣いていた。7月のはじめ、佐敷村の収容所に移されたころは、栄養失調のために泣き声もできなくなり、それからまもなく勝子は死んだ。カンカン照りの暑い日だった。

 ■艦砲、球9700部隊衛兵所に命中 死傷者7名 5月13日 -P269-
 5月13日、球9700部隊衛兵所に艦砲が命中。勤務中の玉那覇有成(5年生)即死、真喜志康栄(4年生)即死、伊豆見元三(3年生)は腕と腹をやられ、出血多量で医務室で死亡した。衛兵所に格納されていた対戦車用急造爆雷が誘爆し、衛兵所で仮眠中の4名が負傷した。

 ■証言 M・S 玉那覇有成の遺体を収容。埋葬した 5月13日 -P272-
  玉那覇有成がやられたと知らせを受けたのは午後2時ごろだった。遺体収容に派遣されたが、頭がい骨の上部が吹き飛ばされていたので、名札で本人と確認した。遺体を戸板に乗せて養秀寮の庭に運んで埋葬した。(翌年夏、玉那覇両親を案内して収骨した。)

 ■証言 T・T 真喜志康栄の遺体を収容、伊豆見元三は医務室で死亡 5月13日 -P273-
  真喜志康栄の四肢はばらばらになり、遺体の収容は困難をきわめた。拾い集めた遺体は毛布に包み、養秀寮庭の花壇に玉那覇有成と並べて葬った。
  腕と腹をやられた伊豆見元三は壕外にはいだし、兵隊たちが駆けつけてくるときまでのたうちまわっていたという。医務室に運び輸血の準備にかかったが、出血多量のため血管が細くなり、注射針が血管に通らなくなった。手間取っているうちに、採血した注射器の血液が固まって輸血不能になってしまった。伊豆見元三は手術台に乗せられながらも手当てがまにあわず、苦しみながら息を引き取った。(首里山川町にいた伊豆見元三の家族が全滅したため、叔母が戦後に収骨した。)

 ■一中鉄血勤皇隊、球9700部隊隷下の各部隊に分散配属へ 5月14日薄暮~15日未明 -P277~P290-
 5月14日の薄暮から翌未明にかけて、球9700部隊隷下の各部隊に分散配属された鉄血勤皇隊員は、それぞれの部隊所在地に向け一中壕を出た。

〇野戦重砲兵第1連隊
 3年生15人(戦没7人・生存8人)、4年生7人(戦没3人・生存4人)、
 5年生3人(戦没0人・生存3人)、計25人(戦没10人・生存15人)
〇独立工兵第66大隊
 3年生10人(戦没10人・生存0人)、4年生11人(戦没8人・生存3人)、
 5年生5人(戦没5人・生存0人)、職員1人、計27人(戦没23人・生存4人)
〇第5砲兵司令部
 5年生10人(戦没5人・生存5人)、計10人(戦没5人・生存5人)
〇独立測地第一中隊
 3年生1人(戦没1人・生存0人)、4年生3人(戦没3人・生存0人)、
 計4人(戦没4人・生存0人)
 〇独立重砲兵第100大隊 配属は約40人だが氏名判明は31人
 3年生13人(戦没12人・生存1人)、4年生15人(戦没14人・生存1人)、
 5年生2人(戦没2人・生存0人)、職員1人(戦没1人・生存0人)、
  計31人(戦没29人・生存2人)

各部隊に配属された一中鉄血勤皇隊員は160~170人と推測されるので、上記がすべてでは
  ない。


 ■独立重砲兵第100大隊で一中鉄血勤皇隊員の主任務は伝令 5月中旬~下旬 -P328-
  独立重砲兵第100大隊に配属になった鉄血勤皇隊員の主な任務は、東風平村志多伯こちんだむら したはくと大里村稲嶺にいる砲兵隊への伝令だった。重砲陣地との有線電話が切断されるので、兵隊といっしょに重砲陣地に観測結果を伝えに行く。伝令は必ず二人一組だった。

 ■証言 U・M 独立重砲兵第100大隊 5月中旬~下旬 -P329-
 観測班での主な任務は伝令だった。高台の頂上に据えつけた測定機で敵陣地に撃ちこんだ弾着の状況を観測し、その結果を後方の重砲陣地に伝達することだった。
 伝令は必ず二人一組だった。一人がやられても、もう一人が確実に命令を伝達できるように組み合わせてあり、伝令に出るときは必ず3メートルの間隔を置いて歩かねばならなかった。二人いっぺんにやられないためだった。
 伝令の道でグラマンに急襲され、畑の溝に飛びこんで難をのがれたことがあったが、機銃弾がプシュ、プシュと地面に突きささる音を聞くとき、生きている心地はしなかった。

  伝令の途中、道に転がっている兵隊の死体をよく見かけた。死体は腐敗が進み、軍服ははちきれんばかりにふくれあがっていた。顔の皮膚は黒くひからびて、骸骨になったものもあった。眼窩がんかがミイラのようにくぼんでいるが、鉄帽をかぶり軍服を着て横たわっていた。土をかけてやる人もなく、まったくの野ざらしだった。

 ■証言 S・K 独立工兵第66大隊 朝鮮出身私大出上等兵への差別 5月下旬 -P332-
  食糧運搬や玄米突きの精米作業をしているときに、奇異に感じたことがあった。それは金本という上等兵が他の兵隊から蔑視され、私たちのやる雑役にまわされていたことだ。東京の私大を出たインテリだが、朝鮮出身だからと差別されていたのである。
 朝鮮人というだけで、金本上等兵を差別する日本軍隊のあり方に、ぼくは日本人の醜い面を見せられたような気がした。他の兵隊たちは何もすることなく壕の中でごろごろしているときでも、金本上等兵は私たちとともに雑役に従事した。ぼくはそうした金本上等兵と親しくなっていた。

 ■第32軍 首里放棄、喜屋武きやん―摩文仁まぶにの線への後退を決定 5月22日 -P333-
 第32軍司令部はこの日の夜、最後まで首里で戦うか、それとも知念半島に退却するか、あるいは喜屋武・摩文仁方面に後退するか、を討議した。結局、喜屋武・摩文仁の線に後退し態勢を立て直して抗戦を続けることに決定した。
 軍司令部の後退は5月27日、第一線主力の後退は5月29日を予定し、負傷者及び軍需品の後送を直ちに開始するよう各部隊に命令した。

 ■証言 O・K 第5砲兵司令部後退 隊列先頭で道案内 5月27日 -P342-
  第5砲兵司令部の金良かねらから摩文仁まぶにへの後退が始まった。ぼくは南部の地理に明るいというわけで准尉殿に呼び出され、摩文仁岳への誘導役として副官とともに隊列の先頭に立つよう命じられた。小隊ごとに糧秣や弾薬を満載した輜重車しちょうしゃを大勢の兵隊が引き、後からも押して行進した。トラックも何台か使われた。
 隊列が長く伸び後尾は見えないが、伝わってくるざわめきで相当の兵員が後退中だとわかった。球9700部隊だけでなく他の部隊の隊列も並んで後退していた。

  武富を過ぎたところで、白衣をつけた1000人ぐらいの隊列とぶつかった。隊列はばらばらになり長くのびていた。陸軍病院から脱出してきた負傷兵である。水を欲しがる患者がいたので水筒を渡そうとしたら、いっしょに歩いていた准尉殿に「負傷者にかまうな。先を急げ」と叱責された。

  摩文仁に至るまでには賀数かかず、高嶺入り口、新垣など数カ所の交差路がある。ぼくは交差路にさしかかるたびに、後をふりむいて「たま、九、千、七、ひゃーく」と叫んだ。しばらくして後方から「たま、九、千、七、ひゃーく」と同様に叫ぶ声が返ってくる。分岐点で球9700部隊の進行方向を後続の隊列にリレー式に伝える声である。
  自宅のある賀数集落にさしかかったとき、副官に「ここは賀数というところで、私の住んでいる字です。摩文仁まであと9キロです」と説明した。道路沿いにある同期の照屋武君の家は焼け、そこから30メートルほど離れたぼくの家も焼け落ちていた。家族のことが心配でとんでいきたかったが、部隊誘導を中断できないので、家の前を黙って通り過ぎた。
  新垣十字路を過ぎて真栄平まえひらを過ぎると、前方に緑の丘があらわれた。目的地の摩文仁岳(標高89メートル)である。朝もやに包まれた樹林がかすんで見える丘には、久しぶりに陽がさしていた。隊列の兵隊たちはここに来ると、一様に「おおっ」と声を上げた。戦場にそぐわぬ穏やかな情景が広がっていたからだ。「ここもやがて戦場になるのだ」とぼくは摩文仁岳をつくづく眺めた。

 ■電信36連隊(一中鉄血勤皇隊2年生配属)も南部に後退 5月27日 -P345~P352-
 電信36連隊も第32軍司令部の南部後退決定に従って後退準備を始め、5月27日南部に後退した。

〇第4中隊 摩文仁海岸の絶壁下で分宿
 2年生35人(戦没19人、生存16人)
 〇第5中隊 摩文仁海岸の自然壕に集結
 2年生35人(戦没11人、生存24人)
 〇第6中隊 摩文仁に後退、その後喜屋武に移動
 2年生34人(戦没28人、生存6人)
 〇固定中隊 摩文仁に後退
  2年生11人(戦没7人、生存4人)


 ■電信36連隊第4中隊の後退 5月27日 -P350-
 持てるだけの荷物を持った第4中隊の隊員は、次々に繁多川の壕をあとにした。壕を出てすぐ、砲2門を引っぱった砲兵の一団に出会った。首里から後退する部隊を掩護するための砲兵だった。
 摩文仁に着いた第4中隊の学徒兵たちは、海岸の絶壁の下で数人ずつかたまって軍装を解いた。付近は大きな岩が重なり合って自然壕のようになっていた。その近くには清水がわき出る泉もあって絶好の隠れ場所だった。

 ■証言 K・T 第4中隊の後退 5月27日~28日 -P350~P352-
5月27日 わが中隊は全員が無事に南風原村本部はえばるむら もとぶに着いた。第6中隊の大きな壕が空き家になっていたので、そこに宿泊した。

5月28日 夜が明けると、第4中隊は津嘉山の近くに出て、山川から志多伯したはくを経て目的地の与座への道を南下した。与座岳へは一本道である。真昼間に歩くのだから、グラマン機に狙われた。2機のグラマン機から機銃掃射を浴びせられ、隊列は左右の畑に散った。グラマンが飛び去ると道にもどって歩き、襲われるとまた散る、という状態が何度かつづいた。
  われわれは数十人の小集団だが、大集団で歩いていたら艦砲のえじきになっただろう。3日前に、その付近で弾薬輸送隊を含む500人ほどが艦砲で全滅したと聞いた。

  道には死体がごろごろ転がっていた。とっさに飛びこんだ溝の鼻先に、ウジが塊になってむくむく動いている死体があったりした。すでに骸骨になっている死体もあった。頭がい骨には穴があいていて、脳みそは空になっていた。
 後退中もっとも怖かったのは榴散弾だった。頭上で榴散弾が炸裂すると、もう逃げ場はない。運を天にまかせるだけだ。敵の射程距離内にある山川付近までは、今にも榴散弾にやられはしないか、とびくびくし通しだった。

 第4中隊が南下するにしたがって、緑の色が多くなっていた。その日の夕方、第一の目的地である与座の陣地に着いた。壕は高い崖の下にあり、近くに泉もあった。木もうっそうと茂っていた。陣地でしばらく休み、夜の明けないうちに最終目的地の摩文仁への出発命令が出て、山を越して行った。

5月29日 摩文仁の朝の光景は今でも忘れられない。摩文仁岳は戦争の傷あともなく、野山は緑につつまれ、集落の家々から朝げの煙が立ちのぼっていた。荒涼たる廃墟ばかり見てきたぼくらは、こんなすばらしいところがあったのかと思った。しかし、この美しい山野が首里のような荒廃した光景に変わるのに、一週間とかからなかった。

 ■電信36連隊第5中隊の後退 5月27日 -P347-
  5月27日午後、敵の部隊が戦車を先頭に首里に進攻してきた。第5中隊は「闇にまぎれて繁多川から脱出し、与座岳に集結したのち摩文仁に後退せよ」との命令を受けた。出発前に乾パンや米が配られ、これまで丸腰だった学徒兵に戦死者の銃剣が支給された。

 ■証言 K・T 第5中隊の後退 5月27日~28日 -P348-
5月27日 負傷兵の担送班も編成された。古参兵2人に渡久山朝雄とぼくが加わり、四名一組で負傷兵を担送することになった。夜9時ごろ、担送班は負傷兵を担架に乗せて壕を出た。外は大雨だった。

  わが中隊は識名しきなの東側を南に降り、南風原村はえばるむらを経て東風平こちだいらに向かった。どこから集まってきたのか、いつのまにか雨のなかを南に行く大集団ができあがっていた。姿はよく見えないが、大勢の民間人が何か叫びながら、南へ南へと歩いていた。民間人と並んで行進する部隊の、相互に連絡しあう声も入りまじって、道路は喧騒をきわめていた。

  長雨で道路は田んぼのようにぬかるみ、ねばる泥に足をとられた。泥道を歩いているうちに、片方の靴底がとれてしまった。担架組の4人(※中学2年生であることに留意)は一方の方に銃と食糧をにない、もう一方の肩に担架をかついでいるが、負傷兵のかぶった毛布が雨を吸いこみ重くなっていた。ついに耐えられなくなって毛布を捨てた。
 近くに砲弾が炸裂すると、腰をかがめて姿勢を低くしていたが、担架と装備の重みでいちいちそうしておれなくなった。そのうち疲れてきて、担架から負傷兵を放りだしたくなった。ぼくが参りかけていることに気づいた渡久山朝雄は、何度も「祥徳! がんばれ、もうすぐだよ」と励ましてくれた。

  やがて夜が白み人の波が見えてくるようになると、目をおおいたくなるような光景があらわれた。兵隊や住民の死体が散乱し、あちこちに負傷した人たちがうごめいていた。部隊からも家族からも見捨てられた孤独な負傷者たちが、泥のなかでもがいていた。よつんばいになり泥まみれになりながら、南をめざす者もいた。われわれは中隊からはぐれたことに気がついたが、二日ばかり後に摩文仁まぶにの中隊本部に合流することができた。

 ■電信36連隊第6中隊の後退準備 5月23日~26日、後退 5月27日 -P345-
  5月22日夜、第32軍司令部は、首里から南部に後退する決定を下し、すぐ準備を始めるよう諸部隊に命令した。電信36連隊は5月27日に摩文仁まぶにへ後退する準備を始めた。第6中隊の学徒兵たちは、5月26日までに小型通信機や食糧などを南風原はえばるから摩文仁に数度にわたって移送したのち、5月27日に摩文仁に後退した。

 ■証言 K・Y 第6中隊 5月23日~26日 -P345-
  われわれ学徒兵は沖縄守備軍の島尻後退にそなえて、南風原はえばるの中隊壕から摩文仁に食糧と弾薬、小型無線機などを運ぶ任務についた。夕方8時ごろ、各隊員は対戦車用爆雷を1個ずつ背負い、その上に数袋の乾パンを乗せ、米8升を靴下に詰めて肩から左右に振り分けて吊るした。玄米1升≒1.5kg、白米1升≒1.4kg 玄米換算で1.5kg×8升=12kg
  全体の重量は当時のわれわれの体重をゆうに越えた。運搬途上の小休止のときは、腰をおろして休むわけにはいかなかった。いざ出発というときに立ちあがれなくなるからだ。石垣や土手にもたれるようにして、立ったまま一息いれた。

  食糧運搬の帰り道、手や足のない負傷兵の列が、とぎれとぎれに南下してくるのにぶつかった。野戦病院の後退だった。山川橋のたもとには、艦砲にやられた人たちが折り重なっていた。

 ■証言 M・M 第6中隊 5月23日~26日 -P346-
  佐藤分隊が首里の派遣先から南風原はえばるの中隊壕にもどると、すぐ南部後退の準備が始まった。われわれはまず摩文仁に食糧を運ぶことになった。米を靴下に入れ、端と端をむすんで四つで輪をつくり、それを二本、肩からたすき掛けした。与座に着いて米を下ろすと、休むことなく中隊壕に引き返した。
  そのころ玉那覇清一がぼくを訪ねてきた。彼の分隊も南部に後退するという。別れるときに、新品の地下足袋じかたびをくれた。めずらしくサイズがぴったりだったので、たいへんありがたかった。

 ■証言 K・Y 第6中隊 5月26日 -P346-
  「5月27日、字本部もとぶの壕から後退せよ」との命令がきた。普段はケチケチと食糧を切りつめていたのに、最後の日というわけか、飯がいっぱいでた。炊事場にある食糧は何でも自由に持って行ってよい、とのことだった。
  野戦病院からもどってきたばかりの古波蔵こわぐら信三などは、乾ぱん袋から金平糖だけを選び出し、ポケットに詰めていた。ついきのうまでひもじい思いをさせられていたのが、急にこのように食糧がいっぺんに放出されると、もったいないと思う反面、日本軍が敗走しているのは現実なのだとひしひしと感じた。
  いよいよ後退という日(5月27日)、かなたの丘陵に敵が陣地をかまえているのが遠望された。首里は占領され、敵は急進撃で南風原はえばるに迫りつつあったのだ。


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<沖縄戦下の県立第一中学校> (7) 前線に向かう連隊 前線へ弾薬を運ぶ住民 陸軍病院壕 総攻撃の敗北 一中生徒の戦没も続く

2018-06-22 05:14:00 | Weblog

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<沖縄戦下の県立第一中学校> (8終) 米軍戦死傷増大 首里敗退路のありさま 沖縄一中生徒戦没数と生存数


6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄戦は「15年戦争」(別名「太平洋戦争」「大東亜戦争」)の末期、1945(昭20)年3月下旬~6月下旬にかけて戦われました。

当時の中学校生徒や高等女学校生徒、師範学校生徒、農林・水産・商業学校生徒らは鉄血勤皇隊という隊名で、教師らとともに学校単位で沖縄守備の第32軍に動員されました。もちろん親や家庭と離れて暮らします。高女学徒隊としてよく知られているのはひめゆり隊です。

ここで取り上げる沖縄県立第一中学校の淵源は、琉球国王尚温が1798(寛政10)年に開いた琉球最高学府「公学校所」です。その後琉球処分(琉球王国併合の過程)――1872(明治5)年琉球藩設置、1879(明治12)年沖縄県設置――を経て、1880(明治13)年に明治学制下の首里中学となり、1911(明44)年に沖縄県立第一中学校と改称しました。

中学校は男子校5年制です。当時の中1~中5は今の中1~高2に相当します。前回につづいて『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上)』兼城 一・編著、高文研・刊という本から、沖縄第一中学の沖縄戦をアトランダムに紹介します。本書発行時に存命とみられる方について、すなわち証言者氏名について、ここではイニシャル表記にしました。

3月28日に一中鉄血勤皇隊が編成され、3年生~5年生、220名が同時に第5砲兵司令部(=球9700部隊)配属になりました。2年生115名は電信32連隊の第4、第5、第6、固定の4個中隊に配属されました。2年生~5年生でも、病弱その他の理由で編成除外されたり、直接に他部隊に志願入隊した生徒がいます。1年生は全員、戦時編成除外。

このシリーズに出てくる「球部隊」とは第32軍直属部隊、独立混成第44旅団、独立混成第45旅団、独立混成第46旅団の傘下諸部隊で、本土各地の部隊から成っています。「石部隊」とは第62師団、歩兵第63旅団、歩兵第64旅団の傘下諸部隊です。第62師団は1944(昭19)年8月に北支から沖縄に転属してきました。首里・本島中部守備任務。「山部隊」とは第24師団傘下諸部隊で、1944(昭19)年8月に満州から沖縄に転属してきました。本島南部守備任務。

   ◇    ◇    ◇


一中鉄血勤皇隊の一部、除隊措置始まる 4月下旬~5月1日 -P201,213-
 篠原配属将校は首里および近郊出身の体調の悪い隊員を、逐次除隊させていった。戦場になった中・北部の出身者や離島出身の隊員でも、首里に身元引受人がいる場合は除隊させた。一中グラウンドの糧秣が焼かれ、食糧事情のひっ迫したことが除隊の引き金になった。病弱の生徒の除隊につづいて、数名の職員にも除隊を命じた。

4月22日、沖縄守備第32軍司令部が第2線陣地に後退を決定-P203,216-
 日本軍は第62師団(石部隊)の戦力が低下したため、第32軍司令部は4月22日、戦線を宮城―仲間―前田―幸地こうち―翁長おなが―小波津こはつ―我謝がじゃの第2線陣地に後退整理することを決定し、島尻地区に控えていた第24師団(山部隊)と独立混成第44旅団(球たま部隊)を中部戦線に逐次投入していった。
 4月28日、「首里市民は3日分の食糧を持参して島尻に立ちのけ」と軍命令あり。

証言 Y・Y 電話線保線作業 4月22日 -P205-
 夕方、下士官にひきいられて浦添村前田まで電話線保線作業に出かけた。平良橋たいらばし手前の切り通しまではさしたる危険はなかったが、浦添に入るとそこからは地獄だった。迫撃砲の弾着を縫って20メートル走っては溝に伏せ、30メートル走っては隠れるといった調子で、やっとの思いで目的地に着いた。前方では敵兵がシャベルで塹壕ざんごうを掘り陣地を築いているようだった。

 命からがら駆けこんだ壕では、将校が20人ぐらいの兵隊に出陣前の注意を与えているところだった。これから戦闘場所に行く兵隊たちは訓辞が終わると銃をつかんで外に飛び出していった。壕には兵隊がぎっしり入っていた。
 負傷兵が横たわるかたわらで無傷の兵隊が携帯燃料で飯を炊いていた。奥のほうでは村の娘たちが臼うすで玄米をついたり、一升びんに入れた玄米を竹の棒でついたりして炊事の仕事をしていた。

 夜が明けないうちに首里に引返したが、途中、現役入隊した同期の真喜志まきし康秀とばったり出会って元気なことを互いに喜びあった。彼は独立混成第44旅団第二歩兵隊機関銃中隊に所属していた。真喜志康秀は4月末、前線へ出撃するため弁が岳で待機中、迫撃砲の直撃をうけて即死した。独混第44旅団の戦死第1号として丁重に埋葬された。同じ旅団に召集されていた高嶺恭則先生は、教え子の戦死を目撃したという。

 平良の切り通しのところで、浦添戦線に出動する連隊規模の集団に出会った。「山部隊の出陣だ」と下士官が教えてくれた。降りしきる雨に打たれながら、整然と十列ぐらいに隊伍を組んだ兵隊たちは全員が白布で小銃を巻き、隊列ははるか後方の道の曲がり角までつづいていた。
 隊の先頭には若い少尉が背筋をぴんと伸ばした姿勢で軍旗を奉持し、そのそばには背は低いが体格のがっちりした連隊長らしい年配の将校が凛として立っていた。久しぶりに見る友軍の堂々とした姿に、さすがは精鋭部隊だと頼もしく思いながら隊列とすれちがった。(※嘉数戦線の増援に北上する第24師団歩兵第32連隊ではないだろうか。そうであるなら、嘉数の激戦10日間で疲弊しきったはず。)

前線に向かったこの友軍の将兵は、多くが厳しい戦場で文字通り命を使い果たして死んでいっただろう。戦争中に沖縄新報の記者であった牧港篤三氏は1991.8.22.朝日新聞で「軍の参謀らは最後になって軍服を脱ぎ、民間人に化けて逃げました」と話している。沖縄だけではない。本土でもあちこちの外地でも、高級参謀は生き残った。

証言 M・S 戦車阻塞壁築造 4月下旬 -P207-
 金城町の道路に戦車阻止の障害壁を幾つか築いた。近くの民家の石垣をこわして石を運び、道幅いっぱいに丹念に積み上げていった。高さ2メートル、厚さ3メートルぐらいの石壁で、完成するのに2日ぐらいかかった。

証言 M・S 県庁壕連絡員 4月20日過ぎ -P208-
 4月20日を過ぎたころ、繁多川の県警本部の洞窟壕から首里高女グラウンド地下にある知事官房の壕に行き、重要文書を受領してくるように命じられた。この文書は4月末に繁多川の洞窟壕で開かれるはずの沖縄県市町村長・警察署長合同会議の具体的な実施要項である。知事官房の壕に着くと、仲宗根玄広主事から文書を直接渡された。
 文書は知事官房の職員2名にぼくを加えた3名で、繁多川の県警本部の洞窟壕に運んだ。知事官房の壕を出発するときは万一の場合のことを考え、決死隊さながらに3名とも同一文書を体にくくりつけ、30分おきに一人ずつ出発した。文書の運搬員が途中でやられても、3名のうちひとりぐらいは繁多川に到着するだろう、との判断による措置だった。片道約2キロなので、平時なら約30分の行程。そのときは砲撃の合間を縫いながらなので、ゆうに2時間を要した。
 国頭郡および中頭郡交戦地区を除く県下市町村長・警察署長合同会議は4月27日に県警察部の壕で開かれた。欠席者はなかった。

証言 Y・O 一中鉄血勤皇隊を除隊 首里市民は島尻へ避難を始める 4月28日 -P216-
 いっしょに鉄血勤皇隊を除隊になった嘉手納出身のK・M、浦添出身のS・Mと3人でぼくの下宿先の知念家の壕に身を寄せた。
 その夜、知念家の壕の人たちは島尻に避難する準備をしていた。軍命令が「3日分の食糧を持参して島尻に立ち退け」というものだったので、首里市民には、3日もすれば戦争に勝って首里にもどってこれるといった楽観的な空気もあった。しかし知念のおばさんは3日分では心もとないからと、1週間分の食糧を携えて行った。そのあと壕には友軍の兵隊たちがどっと入ってきた。
 知念家の人たちは「いっしょに島尻に避難しよう」と言ってくれたが、ぼくたち3人は残ることにした。平良町の造り酒屋・宮城家の壕には食糧が豊富に貯蔵されてあり、宮城氏は自由に食べてよいと許可してくださった。

一中鉄血勤皇隊19名に除隊命令 一中壕4月28日 -P213,221-
 4月28日夕方、篠原教官は一中壕の前に全隊員を集めて、19名の名前を読み上げて除隊命令を申し渡した。除隊者は4年生以下で、5年生で除隊になった者はいなかった。また、除隊を希望しても残留させられた者もいた。

 『沖縄県通史第8巻 沖縄戦通史』所収の年表によれば、第32軍司令部は4月24日、首里周辺の非戦闘員に島尻への立ちのき命令を出した。除隊になった金城幸裕ら3人はそれぞれ家族とともに島尻にさがったが、米軍の進攻にに追われて今日はここ、明日はあそこというふうに転々と逃げまわったあげく、6月中旬に金城幸裕は喜屋武村きゃんむら山城で新垣幸栄は糸満で捕虜になり、久場正良は真壁村糸洲で戦没した。

 4月19日除隊者19名のうち17名の名が判明しており、17名のうち新垣盛雄、新田保盛、大城長栄、喜瀬真昭、島袋盛範(以上4年生)、新垣良健、久場政良(以上3年生)の7名は除隊後に戦没している。

証言 H・S 男女30名ぐらいの一隊が通り過ぎた 4月29日 -P221-
 天長節の朝。篠原配属将校が壕の前で全生徒を整列させて戦意高揚の訓辞を述べていたとき、30名ぐらいの男女がかたわらをすり抜けるように通りすぎていった。外間ほかま政章教諭が「どこから来たか」と声をかけると「港川から来た」「前線に弾薬を運んでいるところだ」と答えていた。青年団のようだったが、半数は女だった。具志頭村ぐしちゃんむらあたりの壕からかりだされてきた人たちではなかったか。

 前述4月27日の市町村長・警察署長合同会議で、県民は軍の作戦に協力することが決定された。この決定に従って、洞窟などに避難している元気な男女が義勇隊として、南部から前線への弾薬・糧秣輸送に動員された。砲爆撃の激しいなかの人力輸送で、死傷者が多く出た。

一中鉄血勤皇隊、球9700部隊隷下の各部隊に分散配属へ 5月早々 -P224-
 5月早々、一中鉄血勤皇隊は球たま9700部隊隷下の各部隊に分散配属されることになり、編成が始まった。配属先は、①一中鉄血勤皇隊本部、②第5砲兵司令部、③独立重砲兵第100大隊、④野戦重砲兵第1連隊、⑤独立工兵第66大隊、⑥独立測地第1中隊である。

証言 N・K雄 野戦重砲兵第1連隊配属 5月初旬 -P226-
 配属部隊に行く前に、中学の校服を取りに大中町おおなかちょうの下宿・新里家に行き、卒業証書と知事賞の賞状をウトメおばさんに預けた。避難先の島尻まで大事に持ち歩いてくれて、戦争が終わって再会したとき、この二つを返してくださった。

 新里ウトメさんは長男・功(5年生)と次男・武(3年生)の教育のため、金武村きんむらから首里に移り住み下宿を営んでいた。長男の功は陸軍士官学校に合格していたが、本土渡航の船がなくなったために3月1日に新兵として入営し、戦没した次男の武も鉄血勤皇隊に入隊し、独立工兵第66大隊に配属になったが、島尻で戦没した

証言 K・N 負傷患者 南風原陸軍病院の状況 5月初旬 -P227-
 長堂ながどうから移されてきた南風原はえばる陸軍病院では、上下二段ベッドに負傷兵がぎっしり詰めこまれていた。ジャーガル質の通路は田んぼのようにぬかるみ、看護婦さんが握り飯をくばるときのランプ以外に明かりを見ることはなかった。一日中まっ暗だった。
 病院壕の中は、気が狂い通路にころがって泥まみれになっている者、大小便をたれ流す者、うじ虫だらけの者、一晩中わめく者、うめく者など、陸軍病院とはいうものの、兵隊のけがを早くなおして原隊に帰すというところではなく、負傷して戦えなくなった兵隊を1か所に集めておく場所にすぎなかった。
 楽しみといえば、ピンポン玉ほどの大きさの握り飯を食べることだった。朝と夕方、1個ずつ配られるが、患者のなかには2個取る者がいて数が足りなくなり、しばしば大騒ぎになった。ぼくもひもじさのあまり、一度だけごまかしたことがあった。人間らしさを失い、動物的な本能だけで生きていた。

証言 H・S智 日本軍総攻撃 一斉砲撃を遠望 5月4日明け方 -P232-
 5月4日明け方。第5砲兵司令部の壕で作業をしていた鉄血勤皇隊員のところに参謀肩章をつけた青年将校がやってきて「やあ、ご苦労、ご苦労」と笑顔で話しかけてきた。しばらくして参謀が「ついてこい」といって第5坑道の開口部まで行った。「もう5分もするとわが軍の砲撃が始まるからよく見ておけ」と言った。
 きっかり午前4時50分に、200門を超える砲が一斉に撃ち始めた。重砲の砲撃はズドン、ズドンと腹にこたえるような発射音で、火の玉のような砲弾が空を飛んでいくのが見えた。この砲戦では、水をかけたドンゴロスで砲身を冷やしながら、弾を使い果たさんばかりに重砲を撃ちまくった、という。

証言 志村常雄氏手記から 日本軍総攻撃に第32連隊第3大隊長として参加 5月4日 -P235-
 午前4時50分、わが砲兵隊は、敵の要部めがけて集中砲火をあびせかけた。攻撃部隊突進予定の右翼方面ではわが方の煙幕が戦場一帯をおおっていた。目視できないが、あの煙の中をわが突進隊が攻撃前進しているにちがいなかった。わが軍の攻勢を米軍はまったく予期していなかったらしく、しばらくの間は敵の砲火が低調で、総攻撃の前途に明るい希望を持たせた。
 だが、攻撃開始から2時間後に敵の大反撃が始まった。空からの爆撃、海からの艦砲射撃、われの何倍とも知れぬ砲兵火力の一斉集中のまえに、形勢は一挙に逆転した。わが砲兵は圧倒され沈黙させられた。突進中の第一線歩兵は、アッというまに壊滅的損害をこうむった。総攻撃は半日もたたないうちに攻撃全戦線で頓挫。5月5日午後6時、総攻撃は中止された。

米軍戦史「沖縄 陸・海・空の血戦」から 日本軍総攻撃 5月4日 -P235-
 日本軍地上部隊の主攻撃を支援する砲撃はしだいに激しくなってきた。その攻撃主力が第24軍団の陣地を突破しようとするころには、数千にのぼる迫撃砲弾が米軍戦線に落下した。日本軍の攻撃部隊は、この攻撃を支援する味方の弾幕射撃で損害を受けるほど、友軍砲火の落下点に接近して前進をくり返した。
 しかし、艦砲射撃、航空爆撃、師団砲兵16個大隊、増援された第24軍団砲兵隊の155ミリカノン砲、155ミリ榴弾砲、200ミリ榴弾砲などによるじゅうたん砲撃によって、全戦線にわたって日本軍の前進部隊は壊滅した。5月4日夜になって、米軍はいままでの陣地を完全に確保した。
 5月4日、5日の2日間の戦いで、米軍第7歩兵師団と第77歩兵師団の戦死、負傷、行方不明合計は717人。第1海兵師団の死傷者は649人であった。
 日本軍の損害は、攻撃のすさまじさと米軍の抵抗の強さを反映して、死体の数は6234体であった。そのほとんどがかけがえのないベテランで、日本軍は兵力の75%を失い、砲兵の数は半分になり、火砲59門が完全に破壊された。

 米軍はこのときから、以前に受けたような日本軍の激しい砲火に見舞われることがなくなった。

証言 K・T健 総攻撃参加砲兵の惨状 5月4日 -P236-
 5月4日総攻撃の日。わが軍の砲兵陣地は全砲門を開いた。とくに接近戦で威力を発揮する臼砲きゅうほうは砲弾の外径が33センチ、重さは300キロ、最大射程距離が1200メートル。砲身が無く、有翼の迫撃砲弾のお化けのようなものを発射し、砲弾の落下地点の半径100メートル以内は全滅するという。これだけ威力のある臼砲だから、敵もこの砲の所在捕捉に必死になった。やがて所在が知れて何十倍かの返礼砲撃に見舞われ、わが方はその主力を失うほどの被害を受けて後退したと砲兵たちは話していた。

 この後退した残存部隊が深夜、玉うどぅんの森の中で休息しているのを見たことがあった。その夜は雨が降っていたが、35名がかりでしか分解運搬できないというあの超重量級の臼砲が、森の中に運びこまれてあった。砲兵たちが杖がわりにしている小銃は泥にまみれ、赤錆が出ていた。いざというときに射撃できるかどうか疑わしいものだった。
 多くの兵が臼砲の発射音で鼓膜をつぶされ、三十過ぎの老兵数名は精神錯乱状態で、泥まみれの服に便も尿も垂れ流しだった。古参兵や班長がいくら気合いを入れても、まったく反応を示さなかった。見るのもいたましいこの状況は、第一線の攻防戦がどんなに凄惨だったかを思わせた。

■証言 F・Y景 鉄血勤皇隊無煙炊事場に直撃弾 死傷者出る 5月4日未明 -P239-
 無煙炊事場で仲泊良兼、安里清次郎、比嘉正範、恩河煕おんがひろしらと芋をふかしていた。ふかし終わって鍋から取りだそうとしたとき、目の前で火の玉が炸裂し、土砂がおそってきた。飛来音はなく砲弾はいきなり炸裂したので、立ったまま破片で左上膊部じょうはくぶをえぐられた。左腕をやられた比嘉正範は軍医の指示で南風原陸軍病院に担送されることになった。
 仲泊良兼は即死。破片で後頭部をやられて脳みそが飛び散っていた。安里清次郎は腹をやられて腸が飛び出ていた。
清次郎は何かしゃべりたいのか、しきりに口を動かしていた。医務室壕に運ばれたがまもなく絶命した。

証言 K・T健(担送班) 幼児を背にした婦人の死体 5月5日 -P241-
 比嘉正範を南風原陸軍病院へ担送する途中で、下宿していた崎山町を通過した。町全体が焼け落ちたり半壊していた。ナゲーラの道路に下りると、道端にモンペ姿の婦人が幼児を背にして死んでいた。至近弾の大きな破片に当たったのか腰から両断され、下肢は1メートルほど離れたところに転がっていた。腐敗の進んだ死体にウジや銀バエがたかり、死臭が鼻をついた。

証言 M・S(担送班) 死体を艦砲穴に投げこむ工兵隊 5月5日 -P242-
 比嘉正範を南風原陸軍病院へ担送する途中。兼城かねぐすく十字路の手前で、艦砲で道路にあいた穴を埋めている工兵隊に出会った。工兵たちは付近にいくつも転がっている死体をかたづけるため、両手と両足をつかんで無造作に艦砲穴に投げこんでいた。
 兼城十字路を通りこしてまもなく、兼城集落で1個分隊ぐらいの兵隊がかたまって死んでいるのにぶつかってびっくりした。遠目では、民家の石垣によりかかって休んでいるように見えたのだ。

証言 T・Y(担送班) 南風原陸軍病院壕外で手術 5月5日 -P243-
 比嘉正範の手術は壕外でおこなわれた。壕の入り口の隣接地に土のうを積んで爆風除けの壁を築き、その壁から丘の傾斜に柱や板を差しわたして作った囲いのなかが手術室だった。囲いの上は偽装網を張ってあったが、青天井でまったくの無防備だった。

証言 比嘉正範 麻酔無しで左腕切断 5月5日 -P242-
 病院壕に着いたときに意識がもどった。患者を乗せた担架の列が手術の順番を待っていた。われわれも順番待ちに加わった。道路や畑で砲弾が炸裂するさなかの順番待ちだったが、担送員はずっとついていてくれた。
 手術は麻酔を使わずにおこなわれた。肩からぶらさがっている腕を切り落とすため、付け根から手術用の鋸でゴシゴシ切断した。小刻みに伝わる鋸の振動に全身が揺さぶられるような感じだった。激痛が間欠的におそってくるが、腹に力を入れ、息をつめて耐えた。意識は混濁状態になり、幾度となく気を失った。

証言 N・K雄(担送班) 比嘉正範の手術 5月5日 -P244-
 比嘉正範は担送中は戸板でゆすられたせいか、痛がってうめいていた。手術がすんで壕内のベッドに運ばれるときは、気をしっかり保つためか、「仰げば高し弁が岳 千歳の緑濃いところ」と校歌を歌ったり軍歌を口ずさんだりしていた。片腕を失いながらも、心身の苦痛に耐えて校歌を歌っている彼に心を打たれた。

証言 M・S(担送班) 南風原陸軍病院壕の夜 5月5日 -P244-
 病院壕で夜を明かした。壕の通路の片側は2段のかいこ棚式寝台になっていて、すすだらけのランプがところどころに灯っていた。ほとんど物の見分けもつかぬ暗闇のなかで、上段の患者と下段の患者がほそぼそ話しているのが聞こえた。「本土ではもう花は散って葉桜のころでしょうね」などと、しんみりした調子で話していたが、翌朝、下段の患者は死んでいた。寝台をあけるため、看護婦が死体のわきの下に手を入れて、壕外に引きずっていった。


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 中学校は男子校5年制です。当時の中1~中5は今の中1~高2に相当します。前回につづいて『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上)』兼城 一・編著、高文研・刊という本から、沖縄第一中学の沖縄戦をアトランダムに紹介します。本書発行時に存命とみられる方について、すなわち証言者氏名について、ここではイニシャル表記にしました。

3月28日に一中鉄血勤皇隊が編成され、3年生~5年生、220名が同時に第5砲兵司令部(=球9700部隊)配属になりました。2年生115名は電信32連隊の第4、第5、第6、固定の4個中隊に配属されました。2年生~5年生でも、病弱その他の理由で編成除外されたり、直接に他部隊に志願入隊した生徒がいます。1年生は全員、戦時編成除外。

 このシリーズに出てくる「球部隊」とは第32軍直属部隊、独立混成第44旅団、独立混成第45旅団、独立混成第46旅団の傘下諸部隊で、本土各地の部隊から成っています。「石部隊」とは第62師団、歩兵第63旅団、歩兵第64旅団の傘下諸部隊です。第62師団は1944(昭19)年8月に北支から沖縄に転属してきました。首里・本島中部守備任務。「山部隊」とは第24師団傘下諸部隊で、1944(昭19)年8月に満州から沖縄に転属してきました。本島南部守備任務。

   ◇    ◇    ◇


 ■首里の防衛『沖縄・八十四日の戦い』からノート
 沖縄戦は首里の防衛が中心になっている。首里の防衛線は3次になっていた。

  〇第一防衛線
   宇治泊―牧港―嘉数かかず―我如古がねこ―南上原―和宇慶わうけの線。今の
  宜野湾市が中心。 1945(昭20)年4月8日ごろから24日ごろまでの主戦
  場。
  〇第二防衛線
   城間―屋富祖やふそ―安波茶あはちゃ―仲間―前田―幸地の線。今の浦添市
  が中心。 4月24日ごろから5月5日ごろまでの主戦場。
  〇第三防衛線
   安里の北―沢岻たくし―大名おおな―石嶺―弁ケ岳―運玉森うんたまむい―我
   謝がじゃの線。那覇市と首里市が中心 (戦後、両市は合併した)。首里城の
  第32軍司令部を守る線。 5月5日ごろから32軍司令部が南へ撤退する27
  日ごろまでの主戦場。

 ■H・H (4年生) 日本軍が恩納橋爆破、米軍が20分で再架橋 4月中旬 -P160-
  予科練入隊中に肋膜炎にかかって帰郷を命じられ、沖縄に帰った。まもなく戦争が始まったので家族といっしょに恩納岳おんなだけに避難した。山には日本軍もたてこもっていた。

 ある日、名護方面から敵が南下してくるとの情報が入った。白鉢巻き姿の兵たちが爆雷を背負い、手榴弾を帯革に吊るして山を下りていった。海岸沿いの道路にかかった恩納橋を爆破する決死隊だった。爆破が成功し、橋が折れて川に落ちていった。見ていた軍民の人々は、敵の南下は阻止されたと安堵した。

 しばらくして敵がやってきた。ジープを先頭に、兵隊を満載し大砲を一門ずつ引っぱったGMCトラックが何十台もつづいた。連隊規模の大部隊だった。橋の手前で車列が停止した。そしてトラックを順々に脇に寄せていって道の中央を開けた。そこへ後方からとてつもなく長大なトレーラーが、鉄橋を積んでやってきた。鉄橋をクレーンで吊りあげ、爆破された橋に平行に置いたかと思うとたちまちのうちに架橋が完成した。トラックの車列が流れるように渡っていった。その間わずか20分ほど。われわれは唖然として眺めていた。

 かつて泊りこみで参加した読谷飛行場建設現場の人海戦術を思い出した。何千という人たちがシャベルやツルハシをふるい、二人でモッコをかついで運んだ。米軍との戦力に差がありすぎる。民間人は抵抗しないほうがいい。イヌ死にするだけだと、このとき悟った。

 ■W・M子 (4年生・佐久川長正の妹)兄が米兵に射殺された 4月中旬 -P162-
  山原やんばるに疎開していたところに長正兄が学校から帰ってきた。戦争が始まったので兄と母が交替で病気の父を背負い、宜野座の安仁堂山に避難した。山中を逃げまわっているうちに、戦闘帽をかぶりカーキ色の校服を着た兄は日本兵にまちがわれ、米兵に射殺された。毎年4月になると、母は「せっかく首里から帰ってきたのに、目の前で殺されるとは」と、この日のことを思い出して涙ぐんでいた。

 ■T・Y 小学校教員が日本兵に殺された 4月下旬 -P162-
  祖父母、伯父夫婦、従姉二人とともに、今帰仁村なきじんむらの山中に壕を掘って避難していた。長岳原ながたけはらに芋畑を持っていたので当座の食糧はあった。八重岳の日本軍が崩壊したあと、山中の敗残兵にしばしば芋を提供した。

  6キロほど離れた兼次かねし集落で、小学校の教員がスパイとして日本兵に殺されるという事件がおきた。米軍に追いつめられ孤立無援になっていた日本兵の目には、米兵に英語で応対する学校の先生たちがスパイに見えたのだろう。私たちは米軍の投降勧告に応じて4月23日、家族そろって捕虜になった。
※日本兵による住民殺傷事件はほかにも数々報告されている。

 ■Y・H子 (上江洲うえず由和教諭の長女) 4月中旬 -P184-
 沖縄師範学校の野田貞雄校長の随員として首里城内の沖縄師範留魂壕にいたが、父に会いたい一心で一中壕を訪れた。一中壕までは数百メートルだったが、砲弾の炸裂するなかでは数キロも距離があるように感じられ、一中壕に行くのは命がけだった。

  お土産に師範鉄血勤皇隊員からわけてもらった煙草をあげたが、父はよっぽどうれしかったと見え、にこにこしながら一服していた。父の顔を見たのは、このときが最後になった。

 ■電信36連隊一中2年生徒兵の状況 3月28日~31日 -P59,189-
  一中3年生~5年生が球部隊に入隊したころ、2年生115名は学徒通信兵として電信第36連隊に入隊し、第4、第5、第6および固定中隊に配属された。中学2年生の子どもを想像してほしい。食糧受領と炊事の水汲み、壕堀りと土運び、通信用手廻し発電機の操作、立哨、伝令、自分の属する班の銃の手入れなどが任務だった。

 ■K・T介(電信連隊第4中隊) 4月~5月 -P189-
  食糧受領(飯上げと称していた)は夜間しかできなかった。当初は晩に2回だったが、首里から撤退することは1回になっていた。兵隊に率いられた一中2年生徒兵20名ぐらいが、繁多川はんたがわの斜面を下りて金城川をわたり、金城町の炊事場で食糧を受け取った。帰りは二人一組で飯や汁をかついで帰った。飯上げ場では第5中隊の学友としばしば出会った。

 ■Y・K(電信連隊固定中隊) 4月中旬以後 -190-
 危険度が日増しに高まり、食事が三度から二度に、二度から一度となり、とうとう二日間まったく食事のない日が重なるようになった。

 ■K・Y(電信連隊第6中隊) 4月中旬 -190-
  4月半ば、土運び作業中に砲弾の破片を受けて、徳村政仁が即死。そのとき負傷した比嘉祐茂は南風原陸軍病院退院した。日本軍崩壊後に敵中突破して浦添村前田まで北上したが、体力尽きて陽迎橋あたりで自決した。

 ■H・Y(電信連隊第5中隊) 4月中旬以後 -191-
  丘の上でたこつぼ壕に入って立哨していたとき、繁多川の後方に位置する識名しきなの友軍砲兵陣地から、砲を一発ぶっぱなすと何百発もの迫撃砲弾のお返しがきた。またトンボ(米軍の砲爆撃観測小型飛行機)のあまりの跳梁ぶりに、頭にきた兵隊が小銃を射っただけで、すかさず艦砲射撃の返礼がきた。昼間は壕から一歩も外に出られなかった。

 ■O・S(電信連隊第5中隊白沢分隊) 4月中旬以後 -192-
  入隊して二、三日後に渡久山朝雄(摩文仁海岸で自決)、伊波善一(摩文仁方面で戦没)ほか2名とぼくの5名が軍曹以下5名の白沢分隊に派遣された。始めの四、五日は壕外の茅ぶき宿舎で寝起きしたが、通信電波を発する回数が多くなるにつれて、艦砲の弾着が壕付近に集中してきた。樹木が焼かれ、岩肌がむき出しになった。通信用の空中アンテナが被弾のたびに吹き飛ばされ、補修にたいへん苦労した。

 ■A・A(電信連隊第5中隊白沢分隊) 4月中旬以後 -192-
 白沢班は伊江島守備隊と交信していた。1日に2回、司令部に伝令を走らせ、受信書を提出するとともに、送信書を受領することが白沢班の主な業務だった。24時間勤務で2交替制。非番のときは食糧不足のため、昼食は支給されなかった。
  司令部への伝令は真昼間に強行されたが、空には米艦載機グラマンが常時低空飛行していて、その機銃掃射をかわしながら30~40メートル走っては樹木や岩陰に身をかくし、石垣に沿って横歩きしたり、飛び跳ねてグラマンの銃撃から逃げたりして、ハンタン山の軍司令部壕に駆けこんだ。やがて伊江島守備隊が玉砕して交信が途絶えたので、4月22日ごろ、白沢班は中隊本部に引きあげた。

 ■H・Y敏(電信連隊第5中隊坂井分隊) 5月上旬 -193-
 日本軍の5月4日総攻撃が失敗した。守備軍主力はこれを機に、新鋭の第24師団が弱体化した第62師団にとって代わった。これにともなって、坂井分隊のうち一行6名が日没に、第24師団司令部のある高嶺村与座岳に向けて繁多川の中隊壕を出た。繁多川から識名を経て一日橋に出た。このコースは守備軍の重要な南下コースなので、米軍は間断なく艦砲と迫撃砲を撃ちこんでいた。

  われわれが一日橋付近に来ると、照明弾が上がり迫撃砲が撃ちこまれた。とっさに散開してあぜ道に伏せた。砲火がおさまって起きあがると、古兵の二等兵が倒れたまま動かない。体をゆさぶりビンタをはっても息を吹きかえすようすがないので、付近の砲弾穴に葬った。迫撃砲弾が飛び交うなかを、とりあえず南風原村はえばるむら字本部もとぶの第6中隊壕に向かった。
  道の両側にはふくれあがった死体が重なりあい、死臭が鼻をついた。その夜は第6中隊壕で1泊し、翌朝から雨降り。日中は危険で歩けないから日暮れに壕を出た。

 重い荷物を持ち背負い、泣きたい思いで雨中を歩き通して、夜明けに与座岳の司令部壕を探しあて、司令部壕に3号無線機を据えた。すぐに首里の第32軍司令部と交信した。与座岳にいる間は平穏な日がつづき食事もしっかりとれた。おかげで元気を回復した。

 ■K・Y(電信連隊第6中隊) 4月末ごろ -197-
  南風原村字本部はえばらむら あざもとぶ第6中隊壕。われわれは兵隊に1日1回以上なぐられた。なぐられない日はなかった。一中2年生兵の一人が小銃の手入れに使うトイヒモを紛失したときなどは、連帯責任ということで、全員整列させられて転倒してしまった。その仕返しでぼくはさんざんなぐられ、その晩は飯がかめず汁ばかり飲んでた。内務班付き上等兵というのは、学徒兵のアラ探しをするのが仕事のようだった。

 ■K・T介(電信連隊第4中隊) 4月29日 -198-
  この日飯あげの帰り、一中2年生兵が一列縦隊で歩いていて列の中ほどに砲弾の直撃を受けた。安里憲治、津嘉山朝偉、佐喜本英信、新垣照慶の4名が即死した。ほかに負傷3名。

 ■K・T介(電信連隊第4中隊) 5月11日 -199-
  ぼくと知念宏は午前9時ごろから壕掘り作業をしていた。午前10時ごろ土を運ぶ木箱を取りに壕を出たとたん、知念宏が至近弾をくらった。「やられたっ」という叫び声に壕から飛びだしてみると、知念は壕の入り口に土で築いた爆風除けにつかまって立ってはいたが、下半身は朱に染まっていた。
  とりあえず壕に運んで応急止血をし、軍医を呼びに走らせた。入隊時にこんもりしていた雑木林は際限ない砲撃で丸裸になっていた。上空には常時飛んでいるトンボ(米軍観測機)がぐるぐる旋回していた。知念を医務室壕に運びこめたのは、トンボが去ったあとの午後6時ごろ。知念宏は午後8時ごろに息を引きとった。出血多量、手遅れだった。

 砲爆撃が激しくなるにつれ、付近のようすが一変した。緑はすべてなくなっていた。川向こうの金城町や崎山町の家並はすべて黒い地肌と焼け跡になっていた。昼も夜も、町のなかで動くものはない。水汲みや移動は夜しかできなかった。米軍の照明弾が絶えず打ち上げられ、外に出る場合は止まっては歩き、歩いては止まるの連続だった。

 ■M・M彦(電信連隊第6中隊) 5月下旬 -199-
  5月20日ごろ、敵の戦車が安里から繁多川方面に攻めてくるのが見えた。まもなく沖縄守備軍は南部に撤退することになった。われわれ佐藤分隊は、撤退の命により南風原村本部はえばるむらもとぶの第6中隊に復帰することになった。
 中隊に帰ってみると、学友たちはまだ壕掘り作業をつづけていた。「敵はそこまで攻めて来ているのに、なんと悠長なことを」とあきれてしまった。だが、もっとひどいことがあった。作業を終えて点呼の際に「精神がたるんどるっ」と兵隊がどなり、相変わらず学友たちにビンタをはっていたことだ。しかし、ぼくも当山善栄も第一線帰りということで、壕掘り作業もビンタ制裁もまぬがれた。


コメント

<沖縄戦下の県立第一中学校>(5)炊事班 壕堀り生活 対戦車爆雷訓練 大詔奉戴日 養秀寮炎上 独歩第13大隊戦力1/3に低下

2018-06-17 21:53:47 | Weblog

6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄戦は「15年戦争」(別名「太平洋戦争」「大東亜戦争」)の末期、1945(昭20)年3月下旬~6月下旬にかけて戦われました。

当時の中学校生徒や高等女学校生徒、師範学校生徒、農林・水産・商業学校生徒らは鉄血勤皇隊という隊名で、教師らとともに学校単位で沖縄守備の第32軍に動員されました。もちろん親や家庭と離れて暮らします。高女学徒隊としてよく知られているのはひめゆり隊です。

ここで取り上げる沖縄県立第一中学校の淵源は、琉球国王尚温が1798(寛政10)年に開いた琉球最高学府「公学校所」です。その後琉球処分(琉球王国併合の過程)――1872(明治5)年琉球藩設置、1879(明治12)年沖縄県設置――を経て、1880(明治13)年に明治学制下の首里中学となり、1911(明44)年に沖縄県立第一中学校と改称しました。

中学校は男子校5年制です。当時の中1~中5は今の中1~高2に相当します。前回につづいて『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上)』兼城 一・編著、高文研・刊という本から、沖縄第一中学の沖縄戦をアトランダムに紹介します。本書発行時に存命とみられる方について、すなわち証言者氏名について、ここではイニシャル表記にしました。

3月28日に一中鉄血勤皇隊が編成され、3年生~5年生、220名が同時に第5砲兵司令部(=球9700部隊)配属になりました。2年生115名は電信32連隊の第4、第5、第6、固定の4個中隊に配属されました。2年生~5年生でも、病弱その他の理由で編成除外されたり、直接に他部隊に志願入隊した生徒がいます。1年生は全員、戦時編成除外。

このシリーズに出てくる「球部隊」とは第32軍直属部隊、独立混成第44旅団、独立混成第45旅団、独立混成第46旅団の傘下諸部隊で、本土各地の部隊から成っています。「石部隊」とは第62師団、歩兵第63旅団、歩兵第64旅団の傘下諸部隊です。第62師団は1944(昭19)年8月に北支から沖縄に転属してきました。首里・本島中部守備任務。「山部隊」とは第24師団傘下諸部隊で、1944(昭19)年8月に満州から沖縄に転属してきました。本島南部守備任務。

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米国軍政始まる 4月5日 -P102-
 米軍は4月5日に読谷村に海軍軍政府をもうけ、米太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥の名において、占領下にある南西諸島の日本の行政権・司法権の停止、住民の保護・管理の開始を宣言した米国海軍軍政府布告第1号(いわゆるニミッツ布告)を公布し、ただちに軍政をしいた。この日から1972年までの27年間におよぶ米国の沖縄統治が始まった。

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 沖縄米軍基地――1968年佐藤首相沖縄訪問演説と1947年昭和天皇沖縄メッセージ
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 の軍事占領とし 25年~50年以上の米国租借地に



証言 I・H 教導兵のしごき 4月上旬 -P105-
 飯上げは、各小隊の当番が炊事場に取りにくるのがしきたりだった。われわれ炊事班は、教導兵(※新兵教育係)も飯上げにくるものと思っていたし、ある時期までは実際に取りに来ていた。ところが、ある日、教導兵が突然、飯上げにこなくなった。不審に思ったが、事情をがわからないまま放っておいたところ、森伍長がやってきて「上官の食事はちゃんと運ぶものだ」とどなり、炊事班員を整列させて二人ずつ向かいあって対抗ビンタをさせた。炊事班員たちはあごが腫れるぐらい互いになぐりあった。

証言 O・I 教導兵のしごき 4月上旬 -P106-
 腹痛をおこし壕内で休んでいたところ、森伍長がやってきて「腹痛をなおしてやろう。歯をくいしばれ」と言い、3回ぐらい頬をひっぱたいた。「どうだ、なおったか」と言うので「なおりません」と答えたら、また4回ぐらい往復ビンタをくった。「これでなおったろう」と言うので、これ以上なぐられるとたまらんと思い、「はいっ、なおりました」と答えると、ビンタは止んだ。

証言 T・Y 教導兵のしごき 4月上旬 -P107-
 森伍長は「男らしさ」をよく説いた。ぼくが員数外の雑のうを持ていることを森伍長に告げ口した者がいた。すると「お前は男らしくない奴だ。ここは戦場ではないか。それを告げ口するとは何事だ。戦友はかばいあうものだ、ということを覚えておけ」と言って叱りつけた。ぼくには何のおとがめもなかった。

証言 N・K 戦場生活 4月上旬 -P115-
 沖縄戦を通じて朝と夕方、きまって1時間ぐらいずつ米軍の砲撃が弱まる時間帯があった。これは米軍の食事時間、兵員の交代時間などと言われていたが、日本軍とくらべて余裕しゃくしゃくたる戦闘ぶりであった。

 わが方は、この時間帯になると壕からぞろぞろ出てきて炊事、水汲みや食糧探し、排便など、もろもろの用事を短時間にすまさなければならなかった。

証言 N・K 食べる 4月上旬 -P116-
 壕を掘る作業などの使役に出たときの昼食は、飯盒にはいった玄米に中ぶたいっぱいのカンダバー(甘藷の葉)の味噌汁がつくだけだった。こま切れ芋のまじった飯だが、芋はヒームサー(虫食い芋)が多く、噛むと苦みが走った。腹が減っているので食うしかなかったが、いま考えると、よく食ったものだと思う。

証言 I・H 炊事班 4月上旬 -P116-
 炊事班の重要な仕事の一つに、食糧確保のための芋ほり作業があった。ある日の夕方、多和田教諭にひきいられて数名の生徒といっしょに芋ほりに行った。芋ほりをしている最中に迫撃砲弾が集中落下した。身を隠すもののない芋畑の中。隊員たちはわれがちに近くの壕に逃げこんだ。芋ほり作業はほんとうに命がけだった。

証言 O・S (5年生) 炊事班 4月上旬 -P120-
 T・Y、M・S、K・T、M・Tらと那覇久茂地くもじの民家に食糧探しに行った。無人になった民家の台所から、食糧の足しになるものが見つかることがあって、白昼堂々とあさり歩いた。その日は松尾の山形屋の寮から、幸運にも一袋のぜんざいのざいりょうを発見した。喜び勇んで一中壕に持ち帰り、炊事班におさめた。

証言 S・T 炊事班 4月上旬 -P120-
 芋ほり作業の合間に食糧運搬などもした。金城町の下の糧秣集積所から養秀寮に米俵を運んでいるとき、チービシの米軍長距離砲の破片で右肩に軽傷を負った。一中鉄血勤皇隊の負傷第1号だった。玉陵裏の医務室壕に毎日通って治療を受けた。医務室には軍医大尉と3人の看護婦がいた。負傷第1号のせいか大切に扱われ、治療が終わると飴玉や栄養剤をくれた。

 ※チービシ砲とは……米軍は沖縄本島への上陸に先立ち、那覇西方約10キロの海上に浮かぶ無人の神山島(俗称チービシ)に、155ミリカノン砲16門を据え付けた。以後、昼夜の別なく那覇・首里方面への砲撃をつづけて威力を発揮した。

証言 A・Y 炊事班 4月上旬 -P121-
 鉄血勤皇隊の副食用野菜類は、繁多川や松川あたりの畑から徴発していた。肉類や調味料は自己調達しなければならなかった。塩は池端町にある専売局の倉庫から相当の量を運びこみ、心配はなかった。味噌、醤油は大中町で醸造業を営んでいる玉那覇有成の家から供給してもらった。

証言 K・T 炊事班 4月上旬 -P121-
 玉那覇家の屋敷には、味噌貯蔵庫に利用している広く堅固な洞窟があり、戦争が始まってからは避難壕としても使っていた。味噌運搬に行った隊員たちは、この洞窟で銀飯と熱い味噌汁をいただいた。久しぶりにありつく御馳走だった。その玉那覇有成は5月13日、記念運動場裏で衛兵勤務中、チービシからの直撃弾で即死した。

証言 H・M 噂では軍参謀の妾 4月上旬 -P124-
 養秀寮の近くには、軍参謀の妾だと噂される女性が3人ほどいて、それぞれ民家を借りて住んでいた。はたちを過ぎたばかりの女性だったが。はでな衣服と色白の顔で辻遊郭の人だということはわれわれにもわかった。

 参謀ともなれば戦争中でも妾をかこうことができるのだ、とぼくらは複雑な気持ちで彼女らを見ていた。ある日、その一人が坂道の水運びにへたばっているのを見て、手助した。別れ際に彼女は顔をほころばせて礼を言い、頭をさげた。

2か月後の再会
 H・Mはそれから2か月後に彼女と再会した。彼は5月4日、無煙炊事場で負傷して、南風原はえばる陸軍病院で左腕切断。守備軍が首里主陣地帯から撤退するときに病院壕に置き去りになった。

 独力で病院壕から脱出して島尻を彷徨していたとき、彼女と再会した。励ましの言葉をかけられ、別れるときに海軍用の乾パンを一袋もらった。この乾パンが彼の生命を何日間かささえた、という。H・Mは戦後、隻腕ながら米国留学を経て琉球大学の教員になった。

連日、陣地構築に動員 4月上旬 -P126-
 鉄血勤皇隊員は連日、軍司令部や第5砲兵司令部の陣地構築に動員された。首里第二国民学校の校庭から軍司令部壕に通ずる第一坑道の貫通作業や、記念運動場脇の地上に出る第五砲兵司令部の「空気あな」掘削作業は、生命の危険をともなう難工事だった。

証言 S・K 壕堀り作業 4月上旬 -P126-
 いつものように私たち数名のグループは壕堀り作業に行くために、艦砲がヒューヒューと飛ぶなかを一団となって走っていた。守礼の門の近くに来たとき、いきなりヒュッと短い音がしたので、がばっと地面に伏せた。同時にブスッという音がした。頭をあげて見ると、4、5メートル斜め前方に落ちたばかりの砲弾から、煙がかすかに上がっていた。不発弾である。これがまともに爆発していたら、私たちは一瞬のうちに吹きとばされていたかと思うと、ぞっとした。こういう場面に何回となくぶつかった。

砲弾音…ヒュルヒュルは安心、ヒュッは近い、至近弾・命中弾は音なくいきなり炸裂 -P147-
 戦場では飛んでくる砲弾の音は、弾着の遠近をはかる重要な尺度だった。沖縄戦体験者の証言によれば、ヒュルヒュルという音をたてて飛んでいく砲弾は遠くへ飛んでいく。日中ならばそういう砲弾は、一直線に飛んでいくのが肉眼で見えた。夜間ならば、火の玉のように軌跡を描いて飛んでいくのがはっきり見えた、という。

 10メートルぐらい離れたところに落ちる砲弾は、短い音がヒュッと聞こえたとたんに炸裂した。体を伏せる時間の余裕はほとんどなかった。飛び散る破片でやられる場合もあるが、たいていは無傷だった。もっと近くに落ちる砲弾は、音もなくいきなり炸裂した。運よく死を免れても、たいていは破片で負傷した。無傷の場合でも爆風で耳をやられしばらく音が聞こえなくなった。

証言 S・K 壕堀り作業 4月上旬 -P127-
 軍司令部壕への空気あな貫通作業は難工事だった。壕のなかでローソクの明かりが次第に細くなって消えかかると、「酸欠だみんな外に出ろ」という号令がかかり、作業員は工具を放りだしていっせいに外に出た。

証言 S・T 壕堀り作業 4月上旬 -P131-
 鉄血勤皇隊の作業隊が司令部壕の入り口で作業しているところに、奥から和田中将が幕僚を従えてやってきた。和田中将はぼくのところに寄ってきて「やあ、君、元気でやっているな」と言うなり、両肩に手をかけて前後に軽くゆすりながら、がんばれよ、といったふうに親愛の情を示した。年格好や顔つきから一中学徒兵だしてということがわかったにちがいない。声をかけられたばかりか肩までゆすられたぼくは、体がかーっと熱くなるほど感激して「この閣下といっしょなら死ぬまでたたかうぞ」という気になった。

証言 K・Y 壕堀り作業 4月上旬 -P132-
 記念運動場の垂坑道の掘削作業中、酸欠で複数の兵隊が死んだ。これまで元気で作業していた兵隊があっけなく死んでしまったことに、酸欠の恐ろしさを思い知らされた。

対戦車爆雷訓練 4月上旬 -P133-
 鉄血勤皇隊員は、壕堀り作業の合間に、綾門通りのワイトゥイ(切り通し)入り口付近や養秀寮庭で、教導兵から対戦車攻撃の訓練を受けた。M・Sのほか、S・T、A・Y、M・Aも訓練を受けた。教導兵は「やりそこなったら、爆雷もろともキャタピラの下に身を投げ出せ」と教えていた。

証言 M・S 対戦車爆雷訓練 4月上旬 -P133-
 訓練はまず道路脇に自分のタコつぼを掘ることから始まった。タコつぼができあがると、爆雷を両手で抱いた格好で中にしゃがみこみ、敵の戦車が来るのをじっと待ち受けることになる。戦車をじゅうぶんに引きつけ、戦車が目の前に来たときにさっと飛び出して、爆雷をキャタピラの下に投げつけられてなければならない。それから元のタコつぼに退避することになるが、この動作を3秒以内で完了するという訓練だった。

 爆雷を投げてタコつぼにもどるまでには、どうやっても3秒以上はかかる。そこでぼくは「この方法では間に合わず、自分の爆雷で死ぬことになるんじゃないですか」と質問したら、教導兵は動ずることなく「間に合う者もいるし、間に合わない者もいる。だから間に合うように訓練するのだ」と答えた。

 「行動が早すぎると機関銃でやられるから、ぎりぎりまで動いてはいかん。飛び出すのは戦車の死角になってからだ。しかも爆雷の位置がキャタピラの真ん中にくるように仕掛けなければならない」とも言った。大事なポイントはタコつぼから飛び出すタイミングだが、ぼくらは敵の戦車を実際に見たこともなく、戦車の速度も知らない。ぼくは訓練を受けながら「戦車が来たら、それこそお陀仏だな」と思った。

大詔奉戴日たいしょうほうたいび 4月8日 -P137-
 大詔奉戴日。球9700部隊から菊の紋章入りの煙草と菓子(落雁)が支給された。「煙草は戦勝記念のおみやげにせよ」と言われた。

 大詔奉戴日は太平洋戦争開戦後、12月8日の対米英蘭宣戦布告日にちなんで、毎月8日を戦意高揚の日として制定された。各学校では朝礼で、校長が大東亜戦争完遂のための精神訓話をおこなった。必勝祈願のための神社参拝や境内の清掃作業をする学校もあった。

証言 M・S(3年生) 大詔奉戴日 -P138-
 恩賜の菓子は各人にゆきわあるほどの数がなかったので、炊事班はこの落雁でぜんざいをこしらえてくれた。炊事班から甘いものが出たのは、後にも先にもこのときだけだった。

養秀寮被弾炎上、死者3、重傷1、負傷2 4月12日夜 -P146-
 首里では砲弾がひっきりなしに飛んでいる状況になっていた。夜9時、養秀寮がとうとう被弾して炎上した。一中鉄血勤皇隊の炊事施設が焼失した。

証言 A・Y 養秀寮炎上 4月12日夜 -P148-
 午後9時ごろ、寮の敷地に数発の弾がたてつづけに落下した。「やられた」という悲鳴があがり、外は騒然となった。炊事場から飛び出してみると、生徒がひとり血だらけになって倒れていた。3年生の宮城吉良である。すぐに病院壕にかつぎこんだが、したたり落ちる血でぼくの軍服はびしょぬれになった。

証言 M・A 養秀寮炎上 4月12日夜 -P148-
 「輸血だ、AB型血液の者はすぐ集まれ」という声が飛んだ。宮城吉良はAB型だった。AB型のぼくは出ていって採血した。ほかにも何人かが名乗り出た。N・Nも左足に負傷し、病院壕に運ばれた。

証言 T・K 養秀寮炎上 4月12日夜 -P149-
 宮城吉良は首の付け根をえぐられ、一目で重傷とわかった。まぶたを開けたまま宙を見つめているといった状態で、二日ぐらい生きていた。

証言 I・H 養秀寮炎上 4月12日夜 -P149-
 宮城吉良、N・N、S・Sらは炊事班員ではなく、寮庭で隊の仕事をしていたところをやられた。

証言 N・K 養秀寮炎上 4月13日明け方 -P149-
 明け方、篠原教官にひきいられてK・T、O・Sらとともに煙がくすぶっている寮の焼け跡をさがした。教官はさすがにブーゲンビルでの実践の体験者だけに、瓦礫のなかから真っ先に池原吉清と佐久川寛弁の焼死体を発見した。口中を調べてこの二人だとわかった。

証言 N・Y子 養秀寮炎上 4月13日以後医務室壕 -P150-
 左足をけがした息子N夫はさいわいにも骨に異常はなかった。医務室壕にたまに顔を出す私を見ると、空腹を訴えて「お母さん、家に帰りたい」といって泣いた。友人のS・Tさんが桃原とうばる農園から食べ物を持ってきて食べさせてくれた。

炊事場再建――再び砲弾直撃 -P153-
 新しい炊事場は3日ほどで完成した。艦砲やチービシ砲を避けるために炊煙が目立たないよう工夫されて、無煙炊事場と呼んだ。無煙炊事場は南斜面ありチービシ砲の方向に面していた。安里洋太郎は再びチービシ砲にやられることを心配したが、この心配は当たった。

 5月4日の夕方、無煙炊事場はチービシ砲の直撃を受けた。仲泊良兼(3年生)、即死。安里洋太郎の弟・清次郎、腹部をやられてまもなく死亡。H・Mは重傷のため陸軍病院で左腕切断。

 ※チービシ砲とは……米軍は沖縄本島への上陸に先立ち、那覇西方約10キロの海上に浮かぶ無人の神山島(俗称チービシ)に、155ミリカノン砲16門を据え付けた。以後、昼夜の別なく那覇・首里方面への砲撃をつづけて威力を発揮した。

証言 A・Y 鉄血勤皇隊脱走 4月13日 -P153-
 仲のよかった池原善清と佐久川寛弁は戦死し、篠原教官には事あるごとに怒られるので、鉄血勤皇隊にいるより前線に行ったほうがいいと考え、脱走することにした。とりあえず自宅のある宜野湾村嘉数かかずに行くことに決め、暗くなってから誰にも告げずに一中壕を抜けだした。

A・Yは前線の独立歩兵第13大隊吉田中隊に志願入隊 4月14日 -P154-
 首里から約6km離れた嘉数かかずに布陣している石部隊の関谷准尉がA・Yの家の近くの民家を宿舎にしていて、互いに熟知の間柄だった。A・Yが独立歩兵第13大隊吉田中隊に志願入隊したころ、第13大隊は、嘉数高地を突破して首里に南下しようとする米陸軍第96師団主力と激戦をくり返していた。

証言 A・Y 独立歩兵第13大隊は戦力が1/3に低下-P154-
 志願入隊した独立歩兵第13大隊の壕は頑丈にできていた。迫撃穂の弾ぐらいなら何発くってもびくともしなかったが、壕のなかは連日の接近戦でやられた死傷者がごろごろしていた。

 浦添うらそえ城跡にある観測所に兵隊のお供をして伝令に行ったことがあった。観測所から大謝名おおじゃな、牧港まきみなと方面を眼下に見下ろせた。ブルドーザーで道幅をぐんと広げられた県道を、GMCトラックや兵員輸送車が何台も疾走し、上半身裸の米兵たちが悠々と歩いていた。

 そのころ一中野球部投手だった上原景真(56期生)、気さくな性格で下級生に人気のあった小橋川正夫(56期生)の二人の先輩と壕外で出くわした。石部隊の現役兵だった。ぼくを見て「良美、どうしてここにいるのだ」と聞いたので「志願して独歩13に入った」と答えた。別れ際に「良美、死ぬなよ」といって去って行ったが、二人とも戦没したことを後に知った。

 ぼくが嘉数にいたのは1週間ぐらいである。兵力、火力が圧倒的に優勢な敵と日夜死闘をまじえた独立歩兵第13大隊は3分の1程度の戦力に低下したため、師団長命令で独立歩兵第23大隊と交替し、4月19日夜半、2km後方の浦添村前田に後退した。

(注)嘉数戦線に関わった歩兵大隊や連隊はほかに幾つもあった。砲兵隊も加わっている。従って「戦力が1/3に低下」とは、それらの平均値ではないかと思われる。なぜなら、独立歩兵第13大隊について元宜野湾市助役・松川正義さんが次のように話している(『沖縄・八十四日の戦い』から)。

松川正義さんの証言 1944(昭19)年10月、現役志願で独立歩兵第13大隊に入隊した。われわれの大隊は1200人ぐらいだと思うが、4月下旬、嘉数を後退するときに100人いたかどうかわからない。
 4月19日未明、私は歩哨に立っていた。陣地は馬乗り攻撃(火炎放射器などで陣地や壕に隠れている日本兵を焼殺したり窒息死させる)を受けたが、私はタコツボに飛びこんで無事だった。午後3時、再び歩哨に立った。相方の古年兵が後方に立っていたが、迫撃砲の直撃弾で戦死した。その夜、命令があって斬りこみ隊に出た。150メートルほど前進したところで右足に迫撃砲の直撃を受けた。大きな石をぶつけられた感じで右ひざをなでるとそれは太ももだった。30分ほどして、衛生兵がぶらぶらになった足を短剣で切り捨てて助けてくれた。

※首里防衛戦はどこも激戦だった。そのなかでも4月19日嘉数最前線は、攻勢に出た米軍戦車隊30両のうち22両が擱座したほどの激戦の日でした。


 大隊が前田に後退するときに、吉田中隊長はぼくを呼んで、「われわれは前田でひとふんばりして最期を遂げることになろう。中学生の君は軍人のわれわれといっしょに死ぬことはない。後方に下がれ」と命じた。自分も前田に連れて行ってほしいと同行を願ったが、吉田中隊長は「俺の命令が聞けないのか」と軍刀を抜き、いまにも斬りつけんばかりに「さあ、行け」とうながしたので、一足先にさがることにした。



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6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄戦は「15年戦争」(別名「太平洋戦争」「大東亜戦争」)の末期、1945(昭20)年3月下旬~6月下旬にかけて戦われました。

当時の中学校生徒や高等女学校生徒、師範学校生徒、農林・水産・商業学校生徒らは鉄血勤皇隊という隊名で、教師らとともに学校単位で沖縄守備の第32軍に動員されました。もちろん親や家庭と離れて暮らします。高女学徒隊としてよく知られているのはひめゆり隊です。

ここで取り上げる沖縄県立第一中学校の淵源は、琉球国王尚温が1798(寛政10)年に開いた琉球最高学府「公学校所」です。その後琉球処分(琉球王国併合の過程)――1872(明治5)年琉球藩設置、1879(明治12)年沖縄県設置――を経て、1880(明治13)年に明治学制下の首里中学となり、1911(明44)年に沖縄県立第一中学校と改称しました。

中学校は男子校5年制です。当時の中1~中5は今の中1~高2に相当します。前回につづいて『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上)』兼城 一・編著、高文研・刊という本から、沖縄第一中学の沖縄戦をアトランダムに紹介します。本書発行時に存命とみられる方について、すなわち証言者氏名について、ここではイニシャル表記にしました。

3月28日に一中鉄血勤皇隊が編成され、3年生~5年生、220名が同時に第5砲兵司令部(=球9700部隊)配属になりました。2年生115名は電信32連隊の第4、第5、第6、固定の4個中隊に配属されました。2年生~5年生でも、病弱その他の理由で編成除外されたり、直接に他部隊に志願入隊した生徒がいます。1年生は全員、戦時編成除外。

このシリーズに出てくる「球部隊」とは第32軍直属部隊、独立混成第44旅団、独立混成第45旅団、独立混成第46旅団の傘下諸部隊で、本土各地の部隊から成っています。「石部隊」とは第62師団、歩兵第63旅団、歩兵第64旅団の傘下諸部隊です。第62師団は1944(昭19)年8月に北支から沖縄に転属してきました。首里・本島中部守備任務。「山部隊」とは第24師団傘下諸部隊で、1944(昭19)年8月に満州から沖縄に転属してきました。本島南部守備任務。

   ◇    ◇    ◇


読谷・嘉手納・北谷海岸 4月1日(晴) 米軍無血上陸、内陸に進撃 -P80-
 午前8時30分、米軍は大小各種の艦船1500隻余、航空機延べ600機の支援のもとに読谷よみたん、嘉手納かでな、北谷ちゃたん海岸一帯に上陸開始。その日のうちに米第10軍主力の6万余は、なんの抵抗も受けずに北・中両飛行場を占領した。

 米軍は前年の1944(昭19)年10月20日にフィリピンのレイテ島に上陸していた。日本軍は1944(昭19)年12月、沖縄守備第32軍の反対を斥けて、第32軍から精鋭第9師団をフィリピン方面に転出させた。沖縄守備軍はこのために、米軍に無血上陸をさせて内陸で抵抗を長引かせるという作戦へ大きく転換した。 ※「実際4月4日までは日本軍は発砲を禁止されていた」(『沖縄・八十四日の戦い』-P89-)

一方で上陸米軍を撃退する主役として守備軍が期待していた日本航空軍は1機も現れなかった。沖縄防衛の主力を担う第五航空艦隊(鹿児島県鹿屋)は3月18日~20日の九州沖航空戦で攻撃機の8割を喪失していた。米軍の上陸作戦に打撃を与える航空戦力が残っていなかった。

米従軍記者アーニー・パイル 沖縄上陸報道 4月1日 -P83-
 4月1日、水陸両用車に乗って上陸した米従軍記者アーニー・パイルがこの無血上陸を次のように報道している(「那覇市史」資料編)。

 「気温は暖かくて春のようだった。日はさんさんと照り輝いていた。風もなく、これ以上の天気があろうかと思われた」

 「われわれは上陸作戦開始後1時間半、弾も撃たれず足を濡らすこともなく沖縄にいたのである」

 「焼かれた車輛は1台もなかった。また海岸にも破壊されて横倒しになっている船1隻とてなかった。上陸作戦につきものの大量殺りくの場面は見事といっていいほどなかった」

 アーニー・パイルは4月18日、伊江島の戦闘で機関銃弾に倒れた。この著名な従軍記者の戦没はアメリカ中に伝えられた。伊江島守備隊の抵抗は激しく、4月16日米軍上陸から4月21日伊江島守備隊全滅までの戦闘は、米軍にとっても損害多大であった。米第307連隊第2大隊では伊江島の戦闘で将校30名が戦死・負傷し、上陸時の大隊将校はほとんど残っていなかった。

証言 K・N(4年生) 米軍上陸 4月1日 -P87-
 学校の推薦で2月初旬、沖縄地方気象台に就職した。沖縄戦がはじまると、陸軍野戦気象隊に属することになり、首里石嶺町の松の高地と呼ばれるところに移った。気象隊の任務は、1時間ごとに気象観測をおこない、軍司令部に定期報告することだった。観測データは特攻機出撃の際の参考にしたと思う。

 4月1日、気象隊は本土との交信で敵が上陸したことをいち早く知り、壕にこもっている住民たちに米軍上陸を知らせてやった。石嶺のような奥まったところには、戦況はまったく伝わってこなかった。

証言 T・F 米軍上陸 4月1日 -P89-
 中谷重憲とふたり、久志くし村汀間ていまに疎開しているそれぞれの家族に会いに行った。ふたりは面会を果たして西原に引返す途中、美里村東恩納ひがしおんので敵が嘉手納に上陸したことを知った。

 道端の民家の前に数名の憲兵らしい兵隊が立っていて、国頭くにがみに避難する者はどんどん通していたが、国頭から出て行こうとする者は「敵が上陸した、もどれ」といって追い返していた。その兵隊に上衣にに縫いつけてあった一中報国隊の菊水マークを示して、「鉄血勤皇隊にもどる」と頼んだらわけなく通してくれた。

 みんな避難してしまったのか人のいない道路を歩きに歩いて、西原村小那覇に着いたのは夜中だった。警防団の人たちが焼けてくすぶっている家屋に水をかけたり、焼け跡の後片付けをしたりしていた。付近に駐屯している砲兵隊があわただしく陣地を整備していた。

 T・Fといっしょに家族に会いに行った中谷重憲は予科練に合格し、本土行きの便船を待っているところだった。国頭に家族面会に行ったために鉄血勤皇隊に入隊する機会を失した彼は、戦争に勝った時に非国民といわれることをおそれ、西原村義勇隊に志願した。義勇隊の一員として最後まで行動し、6月上旬に東風平こちんだ村の八重瀬やえせ岳付近で戦没した。

証言 H・H(4年生) 米軍上陸 4月1日 -P90-
 最後の面会をすませて中城なかぐすく村伊舎堂いしゃどうの自宅から学校にもどろうとした時、郵便局長をしていた父に引き止められた。「学校にもどらないと国賊になるからもどる」と言いはる僕に、父は「もう戦争がはじまったのだ。危なくて帰すわけにはいかない。家にいるのだ」と言ってゆずらなかった。それで「国賊は銃殺されますぞ」と言うと、「戦争に参加しなかったからといって中学生を銃殺するというのなら、わしが代わって銃殺されよう」と父が言い切った。

 そうしているうちに米軍は上陸した。父が止めるのをふりきって首里に向かったが、行く手に銃爆撃が激しいのを見て首里行きを断念し、中城城跡の郵便局壕にもどった。夜が明けると、敵は北中城に進攻してきた。それからは2家族16人で南へ避難行をつづけた。弾雨の中を逃げつづけたこともあった。6月下旬、日本軍の壊滅後に中城にもどった。

証言 O・H 米軍上陸 4月1日 -P92-
 夕方、大中町の玉那覇有成の家で用事をすませて西森の壕に帰る途中、首里高女前の通りで同期の比嘉常雄がチービシ砲にやれているのにぶつかった。かたわらに常雄の両親がついていた。 ※「米軍のチービシ砲撃始まる 3月31日」の項参照

 常雄は制服、制帽にゲートル姿だった。比嘉常雄は鹿児島の第七高等学校の第一次試験に合格していた。戦争が始まったので鉄血勤皇隊に参加するため、浦添うらそえ村西原から両親に付き添われて学校に向かう途上、チービシ砲にやられた。

 常雄の父親とともに、遺体をもっこに入れて浦添村西原の家に運んだ。運び終わって首里にもどる時に、常雄のお父さんは「君は命を大切にして、常雄の分まで長生きしてくれよ」と言われた。

証言 N・T 米兵に遭遇 4月1日 -P92-
 米軍上陸北谷ちゃたん海岸正面の山の壕に義父の家族と隠れていたが、家の墓のなかに貯蔵してあった食糧のことが気になり義父と取りに行った。食糧を抱えて墓の入り口から外に出ようとしたとき、そこに米兵が二人立っていた。北谷海岸に上陸した米兵だった。

 初めて見る敵兵にびっくりして立ちすくんでいると、近寄ってきた米兵がほほえみを浮かべて煙草をすすめた。すすめられるままに煙草を手にすると、今度はマッチで火をつけてくれた。危害を加えないから安心せよという身振りをしたので、ほっとしていると米兵は「バイバイ」と言って立ち去った。

米軍の進撃 4月1日~3日 -P95-
 4月1日、北・中飛行場を占領。
 4月2日午後、太平洋側の中城なかぐすく湾を見渡せる高地に達して、沖縄本島を南北に分断した。
 4月3日、南に向かって進撃、普天間に進出する一方、米軍4個連隊が石川地峡を横断する線に到達した。

証言 I・S(3年生) 住民200人捕虜になる 4月4日雨 -P97-
 宜野湾村大山、真志喜ましき一帯に砲弾が落ちてくるようになると、祖父母と病弱の子をかかえた叔母をともなって近くの洞窟・マヤーアブに避難した。母は弟たち5人を連れて先月、国頭くにがみに疎開していた。マヤーアブには真志喜の住民がおよそ200人隠れていた。

 米軍は上陸したかと思うと、戦車を先頭に大山、真志喜に直進してきた。やがて集落のムイヌカー(樋川)で、米兵らしい姿を見たという者が出てきた。「敵が来たら竹槍で刺し殺してやる」と息巻く男がいたが、「そんなことをしたら大変なことになるぞ。女、子供を巻き添えにする気か」とみんなでやりこめる一幕があった。

 昼ごろ、日系二世が洞窟の入り口に現れた。「米軍は住民に危害を加えないから、みんな安心して出てきなさい」と説いたので、洞窟からみんな出ることになった。外に出ると、数人の男が米兵に銃を突きつけられて座らされていた。軍服を着た県庁の職員やの役員たちで、青ざめた顔をしていた。「殺されるのではないか」と身内の者はおろおろしたが、米兵の言いなりになるより仕方なかった。軍服姿の男たちはどこかに連行されていった。

 米兵の誘導で普天間までぞろぞろ歩いて行った。病人や幼児がいて何度も足を止めて休んだが米兵は文句を言わずに休ませてくれた。普天間宮前の広場に着くと、真志喜で銃を突きつけられていたの役員たちが先着していて、われわれを迎えてくれた。彼らは軍服姿だったので、兵隊ではないかと疑われたが、民間人とわかって釈放され、普天間に先に運ばれていたのである。


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6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄戦は「15年戦争」(別名「太平洋戦争」「大東亜戦争」)の末期、1945(昭20)年3月下旬~6月下旬にかけて戦われました。

当時の中学校生徒や高等女学校生徒、師範学校生徒、農林・水産・商業学校生徒らは鉄血勤皇隊という隊名で、教師らとともに学校単位で沖縄守備の第32軍に動員されました。もちろん親や家庭と離れて暮らします。高女学徒隊としてよく知られているのはひめゆり隊です。

ここで取り上げる沖縄県立第一中学校の淵源は、琉球国王尚温が1798(寛政10)年に開いた琉球最高学府「公学校所」です。その後琉球処分(琉球王国併合の過程)――1872(明治5)年琉球藩設置、1879(明治12)年沖縄県設置――を経て、1880(明治13)年に明治学制下の首里中学となり、1911(明44)年に沖縄県立第一中学校と改称しました。

中学校は男子校5年制です。当時の中1~中5は今の中1~高2に相当します。前回につづいて『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上)』兼城 一・編著、高文研・刊という本から、沖縄第一中学の沖縄戦をアトランダムに紹介します。本書発行時に存命とみられる方について、すなわち証言者氏名について、ここではイニシャル表記にしました。

3月28日に一中鉄血勤皇隊が編成され、3年生~5年生、220名が同時に第5砲兵司令部(=球9700部隊)配属になりました。2年生115名は電信32連隊の第4、第5、第6、固定の4個中隊に配属されました。2年生~5年生でも、病弱その他の理由で編成除外されたり、直接に他部隊に志願入隊した生徒がいます。1年生は全員、戦時編成除外。

このシリーズに出てくる「球部隊」とは第32軍直属部隊、独立混成第44旅団、独立混成第45旅団、独立混成第46旅団の傘下諸部隊で、本土各地の部隊から成っています。「石部隊」とは第62師団、歩兵第63旅団、歩兵第64旅団の傘下諸部隊です。第62師団は1944(昭19)年8月に北支から沖縄に転属してきました。首里・本島中部守備任務。「山部隊」とは第24師団傘下諸部隊で、1944(昭19)年8月に満州から沖縄に転属してきました。本島南部守備任務。

   ◇    ◇    ◇


米軍、慶良間諸島全島を占領 3月26日~29日 -P41-
 米艦船1200隻が沖縄本島を取り巻いた。米進攻軍は那覇西方20キロ~40キロの海上に散在する慶良間諸島の阿嘉島に3月26日午前8時4分に上陸を開始、つづいて慶留間げるま島、外地そとじ島、座間味島などに上陸した。翌27日、渡嘉敷島にも上陸し、29日の夕刻までには慶良間諸島の全島が米軍に占領された。

座間味島や渡嘉敷島で集団自決 3月26日~29日 -P41-
 島の住民は捕虜になることの恐怖感や食糧難から絶望状態におちいり、家族同士でカミソリや鎌で殺しあい、あるいは日本軍から渡された手榴弾で家族ごと爆死するなど、およそ700人の人たちが集団自決を遂げた。一中2年生の大城英治も、渡嘉敷島の集団自決に加わっていた。

証言 T・S(4年生) 3月26日 -P43-
 池原善清、宇久村精秀、仲吉朝元、真喜志康栄(いずれも4年生、4名とも戦没)らと誘いあって山川入り口まで行き、沖縄本島と慶良間諸島とのあいだに整然とならんでいる噂の米艦隊をはじめて見た。

 そのあと、反対側の中城なかぐすく湾の様子を見に弁が岳まで足をのばした。琉球王朝時代に、のろし台があったと伝えられる火立てぃ毛もうにのぼって湾を見下ろした。太平洋側にも無数の艦船群が浮かんでいるではないか。沖縄は完全に包囲されていた。

4年・5年合同卒業式 3月27日 -P46-
 3月27日夜、沖縄県立第一中学校の4年生と5年生の合同卒業式が養秀寮裏の空き地で挙行された。この年、1945(昭20)年から全国の中学校は5年修業年限が1年短縮になり、4年制になった。灯が外にもれるのを防ぐため、何かでかこんだローソクの明かりの周りに、およそ200名の生徒が集まった。空はどんよりとして湿っぽい風が吹いていた。

証言 S・M 3月27日 合同卒業式 -P46-
 午後8時ごろに始まった卒業式に父兄の姿はなかった。わずかに来賓として、中城ぐすくうどぅんを宿舎にしていた島田叡知事と、養秀寮を宿舎にしていた軍参謀・木村正治中佐が出席した。

 卒業生代表として宮城辰夫(5年生、戦没)が答辞を読んだ。卒業式に例年歌われる「仰げば尊し わが師の恩」の代わりに「海行かば水漬く屍みづくかばね 草生す屍くさむすかばね」の歌で式を終わった。

証言 N・K 3月27日 合同卒業式 -P48-
 宜野湾村上原の自宅で家族面会をすませて、帰路についた。卒業式に間に合うように、ひたすら夜の宜野湾街道を急ぐ。国頭くにがみ方面に避難する人たちが続々とやってくるが、首里方面に行くのは、砲をひっぱった牽引車や輜重車しちょうしゃをともなって島尻に移動する軍の隊列ばかりで、民間人の姿はほとんどなかった。

 西原入り口付近で、同期のO・Y弟の3年生O・Tとすれちがった。学校の用事で金武村に行くと言った。養秀寮に着いた時、卒業式は終わりかけていた。

証言 O・T 3月27日 -P48-
 仲本先輩とわかれて2時間ほどのちに、普天間の松並木のところで宮城吉良(3年生、4月12日養秀寮で被弾し死亡)と出会った。最後の家族面会を終えて、泡瀬から学校にもどるところだった。

 金武きんに着いて家族に会い、必要な用事をすませて帰校しようとした矢先、米軍が上陸したので家族ごと金武宮の洞窟に隠れた。この鍾乳洞には那覇方面の避難民が何百人も入っていた。

証言 K・T 3月27日 -P49-
 卒業式が終わったころから雨が降り、やがて土砂降りになった。深夜になって第5砲兵司令部から「タマウドゥン(玉陵)敷地に野積みしてあるガソリン入りドラム缶の疎開のため、ただちに使役を出せ」との最初の命令がきた。トラック10台分ぐらいの量があった。指揮者の伍長殿が「ドラム缶の疎開は夜明けまでに完了せよ。グラマンが飛ぶようになったらうるさいから、がんばってもらうぞ」とハッパをかけた。

証言 T・Y 3月27日 -P50-
 卒業式が終わるとただちに軍務につくことになった。与えられた任務は、玉陵周辺に分散してあるガソリン入りドラム缶をトラックで運び、崎山町の南側斜面にある岩陰に隠蔽格納する作業である。作業を始めたころから豪雨になって道路が泥沼になり、トラックが動けなくなった。そこで6人全員がトラックの荷台に肩を入れ担ぎはじめたところ、少し動いた。トラックをかついでは押し、押してはかつぐといった6人の苦闘は、寒川町の下から目的地の下から目的地の崎山町の岩陰まで延々数百メートルもつづいた。終わった時は、東の空が明るくなっていた。

一中鉄血勤皇隊入隊 3月28日 -P53-
 養秀寮に集まった一中生徒およそ220名と教職員が鉄血勤皇隊に入隊。篠原配属将校の指示に従って小隊を編成したが、意外なことに相当数の生徒が編成から外され、帰宅を命じられた。

 一中鉄血勤皇隊は球9700部隊に編入され、渡辺見習士官を長として山本軍曹ら下士官兵8名の教導班が派遣されてきた。彼らが一中隊員の訓練と指導に当たる。

証言 N・M 3月28日 -P54-
 具志堅政雄高江洲たかえす(両名とも4年生、戦没)がやってきて、「明朝、寮に集合せよ」との緊急連絡をしてくれた。朝早く寮に出かけたが、篠原配属将校に帰宅を命じられた。帰宅させられた者は体の小さい連中が多かった。数日後に識名しきな盛武(戦没)が、さっそうたる軍服姿で隣の壕にいる家族に面会に来た時は、鉄血勤皇隊に入隊ができなかったのがきまり悪くて、顔をあわさないように奥に引っ込んでいた。

証言 A・Y 3月29日 -P55-
 一日遅れて城間隆、久場くば政良、富名越ふなこし英一(いずれも3年生、3人とも島尻で戦没)らと登校したところ「昨日で入隊申し込みは終わった」という理由で帰宅を命じられた。翌日、城間隆の家に集まり、志願書に連署血判して篠原配属将校に提出、入隊を懇願してようやく許可された。

証言 N・M(旧姓・玉那覇5年生) 3月29日 -P55-
 西原村の2年生に召集令状を届けて帰校したところ、篠原教官に「入隊はもう終わった」と帰宅を命じられた。家族は疎開して家には誰もいない事情を知っていた桃原(とうばる)良謙教諭が、入隊できるように骨を折ったが駄目だった。南風原はえばる陸軍病院で看護婦として働いていた姉N・Y(ひめゆり学徒、沖縄師範本科2年)の世話で、陸軍病院軍属として採用された。7月下旬、姉とともに伊原の第3外科壕に移った。8月23日、姉とともに、米軍の勧告に従って兵隊や民間人といっしょに投降した。

軍装品支給 3月29日 -P65-
 養秀寮庭に整列した鉄血勤皇隊員(5年、4年、3年生の約220名)は、二等兵の襟章のついた軍服上下と軍帽、帯革、軍靴、飯盒、毛布などを支給された。一中教職員は軍属扱いになり、藤野校長は佐官待遇、野崎教頭は尉官待遇で軍属の階級章を渡された。

米軍のチービシ砲撃始まる 3月31日
 米軍は沖縄本島への上陸に先立ち、那覇西方約10キロの海上に浮かぶ無人の神山島(俗称チービシ)に、155ミリカノン砲16門を据え付けた。以後、昼夜の別なく那覇・首里方面への砲撃をつづけた。人々はこれをチービシ砲と呼んで恐れた。

上級学校合格者発表 3月31日 -P74-
 沖縄県庁内政部にもうけられた選考機関が、出身学校長の内申書にもとづいて第一次、第二次選考をおこない、首里高等女学校グラウンドの県庁壕で3月31日、昭和20年度上級学校合格者を発表した。この年は筆記試験を行わなかった。

証言 H・M(4年生) 3月31日 -P76-
 上級学校受験の結果は井口亀英先生から直接聞いた。藤野憲夫校長から「H君、上級学校合格おめでとう」と言われたが、試験も受けていないのに合格したと言われ、ピンとこなかった。

 校長は「一中から広島高等師範に一人、東京高等師範に5年生が一人合格した。君は広島高等師範に合格した」と言われた。壕のなかで仲間同士、だれそれはどこそこに合格したと話し合った。N・Eも七高に合格し、S・Mも五高に合格していた。 ※五高…旧制第五高等学校(熊本)、七高…旧制第七高等学校(鹿児島)





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<沖縄戦下の県立第一中学校>(2)召集令状伝達 最後の家族面会

2018-06-13 03:43:24 | Weblog

2018/06/10
<沖縄戦下の県立第一中学校>(1)第一中学校奉安殿の昭和天皇皇后御真影(肖像写真)を米軍攻撃から退避させる
2018/06/13
<沖縄戦下の県立第一中学校>(2)召集令状伝達 最後の家族面会
2018/06/14
<沖縄戦下の県立第一中学校>(3)座間味・渡嘉敷で集団自決 合同卒業式 鉄血勤皇隊入隊 チービシ砲撃
2018/06/15
<沖縄戦下の県立第一中学校>(4)読谷・嘉手納・北谷海岸 4.1. 米軍無血上陸、内陸に進撃、4.4. 住民200人捕虜になる
2018/06/17
<沖縄戦下の県立第一中学校>(5)炊事班 壕堀り生活 対戦車爆雷訓練 大詔奉戴日 養秀寮炎上 独歩第13大隊戦力1/3に低下
2018/06/20
<沖縄戦下の県立第一中学校> (6) 厳しくなる戦場 小学校教員が殺された 電信連隊の中学2年生にも戦没者が次々と
2018/06/22
<沖縄戦下の県立第一中学校> (7) 前線に向かう連隊 前線へ弾薬を運ぶ住民 陸軍病院壕 総攻撃の敗北 一中生徒の戦没も続く
2018/06/24
<沖縄戦下の県立第一中学校> (8終) 米軍戦死傷増大 首里敗退路のありさま 沖縄一中生徒戦没数と生存数


6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄戦は「15年戦争」(別名「太平洋戦争」「大東亜戦争」)の末期、1945(昭20)年3月下旬~6月下旬にかけて戦われました。

当時の中学校生徒や高等女学校生徒、師範学校生徒、農林・水産・商業学校生徒らは鉄血勤皇隊という隊名で、教師らとともに学校単位で沖縄守備の第32軍に動員されました。もちろん親や家庭と離れて暮らします。高女学徒隊としてよく知られているのはひめゆり隊です。

ここで取り上げる沖縄県立第一中学校の淵源は、琉球国王尚温が1798(寛政10)年に開いた琉球最高学府「公学校所」です。その後琉球処分(琉球王国併合の過程)――1872(明治5)年琉球藩設置、1879(明治12)年沖縄県設置――を経て、1880(明治13)年に明治学制下の首里中学となり、1911(明44)年に沖縄県立第一中学校と改称しました。

中学校は男子校5年制です。当時の中1~中5は今の中1~高2に相当します。前回につづいて『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上)』兼城 一・編著、高文研・刊という本から、沖縄第一中学の沖縄戦をアトランダムに紹介します。本書発行時に存命とみられる方について、すなわち証言者氏名について、ここではイニシャル表記にしました。

3月28日に一中鉄血勤皇隊が編成され、3年生~5年生、220名が同時に第5砲兵司令部(=球9700部隊)配属になりました。2年生115名は電信32連隊の第4、第5、第6、固定の4個中隊に配属されました。2年生~5年生でも、病弱その他の理由で編成除外されたり、直接に他部隊に志願入隊した生徒がいます。1年生は全員、戦時編成除外。

このシリーズに出てくる「球部隊」とは第32軍直属部隊、独立混成第44旅団、独立混成第45旅団、独立混成第46旅団の傘下諸部隊で、本土各地の部隊から成っています。「石部隊」とは第62師団、歩兵第63旅団、歩兵第64旅団の傘下諸部隊です。第62師団は1944(昭19)年8月に北支から沖縄に転属してきました。首里・本島中部守備任務。「山部隊」とは第24師団傘下諸部隊で、1944(昭19)年8月に満州から沖縄に転属してきました。本島南部守備任務。

   ◇    ◇    ◇


1945(昭20)年3月23日(晴) -P24-
 早朝、艦載機の大編隊による波状攻撃がはじまった。高度2、3千メートルの識名しきな上空から編隊機が1機ずつ、小禄おろく飛行場めがけてダイビングのような急降下爆撃をくりかえした。首里市街にも屋根すれすれの低空から銃撃をくわえた。はるか北飛行場(現在の米軍読谷よみたん補助飛行場跡)、中飛行場(現嘉手納飛行場)方面は黒煙に包まれていた。

延べ355機、沖縄全域にわたる空襲は終日つづいた。以後、米軍が上陸する4月1日までの10日間にわたる空襲は、とくに上陸空襲と呼ばれた。

1945(昭20)年3月24日(晴) -P25-
 来襲する敵機は600機に増えた。前日にまさる猛爆撃のなかで、米艦隊はまず具志頭ぐしかみ村港川沖に、つづいて那覇沖合に姿をあらわした。街は緊迫した空気に包まれた。

証言 F・T 3月24日 -P25-
 対空監視をしている一中養秀寮の貯水タンクの上から、慶良間けらまが艦砲を打ちこまれ黒煙をあげているのが見えた。その日、観音堂下の放送局の鉄塔めがけて艦載機が爆弾を投下したが、爆弾は目標からそれて道路ぎわに落ちた。

 これは首里に落とされた最初の爆弾だったが、横なぐりにおそいかかる熱風の物すごさに、先生方も生徒たちも肝をつぶした。その日は無事だった放送局の鉄塔は翌日、爆弾が命中して吹っ飛んでしまった。

3月24日召集令状伝達命令 対象は2年生~5年生 -P26-
 篠原保司一中配属将校が首里市内の生徒を数名呼びだし、2年生~5年生への召集令状の伝達を命じた。伝達は数日間にわたっておこなわれた。

証言 N・M (4年生) -P26-
 3月27日に卒業式があったことを知らずにいたところ、具志堅ぐしけん政雄高江洲たかえす (両名とも4年生、戦没)が夜おそくやって来て、翌日の鉄血勤皇隊編成のことを知らせてくれた。ふたりは土砂降りの雨をついて、生徒の家を一軒一軒まわっていた。

最後の家族面会 3月24日(土)~3月26日(月) -P27-
 養秀寮で合宿中の一中生徒は家族面会のため帰宅をゆるされた。北は北谷ちゃたん村から南は具志頭ぐしかみ村あたりまで、自宅で待機中の通信隊員(2年生)への召集令状伝達を兼ねたものだった。

証言 K・T(5年生) 3月24日 -P31-
 3月24日の晩、最後の面会のため越来ごえく村西里の自宅に帰った。首里から普天間までの宜野湾街道は、陽迎橋あたりから次第に人が増えだし、まもなく人の洪水のようになった。
 敵は港川から上陸する、島尻にいては一家全滅するので国頭くにがみに避難するという北上組。国頭にいったん避難したものの、どこもかしこも避難民がいっぱいで食糧はなく、餓死するから家に帰るという逆戻り組。歩きつかれた年寄りと女子供の阿鼻地獄で、悲惨な状況だった。

証言 S・K(4年生) 3月24日 -P28-
 弟の城間清の召集令状を自宅に持ちかえった。召集令状と知って母は「お父さんは防衛隊にひっぱられ、お前も鉄血勤皇隊に入るというのに、清まで連れて行くのか、家にいる幼い弟妹たちはどうなるのか」と叱った。

 戦争がすんで父は防衛隊から帰らず、通信隊員だった弟も真壁村真栄平まえひらで戦没した。祖母と妹二人も艦砲で死亡、そのときに重傷を負った母はコザの病院で死亡した。生き残った弟妹たちは養護施設に収容された。あの日の母の言葉は今も耳に残っている。

証言 Y・A(4年生) 3月24日 -P29-
 最後の面会の時、篠原配属将校に「鉄血勤皇隊の入隊申込書に親権者の承諾印をもらってこい」と言われた。帰宅して津嘉山つかざんの2年生・金城隆昌金城俊一(戦没)に召集令状を届けてから「はんこが必要だ」と言うと、父は「いよいよ入隊か、しっかり奉公してこい」と激励しながら押印してくれた。

 戦没した金城俊一の家族は防衛召集された父親も開南中学の鉄血勤皇隊員の兄も生還せず、母と妹二人だけが生き残った。戦後、女世帯になった遺族を見るにつけ心がいたんだ。


証言 S・H(1年生) 3月25日 -P31-
 篠原配属将校はこの日、養秀寮の1年生に帰宅を命じた。われわれは玉砕することになろう。お前たちは首里にいては犬死するだけだから、家族のところに帰れ、国頭くにがみに着いてもどうなるか分からないが、生きられるだけ生きよ」とさとした。

 道中の安全を考えて普天間→美里路線をとるよう指示され、飯盒、水筒のほか米一升、塩、黒砂糖などをあたえられた。同村出身の渡久山とくやま朝雄(2年生、通信隊に入隊、摩文仁海岸において米兵の眼前で自決)から彼の母親あての手紙を託されたあと、自分の兄の佐久川寛弁(3年生、4月12日養秀寮で戦没)に別れを告げた。

 渡久山朝雄から託された手紙を避難中の家族をさがして手渡した。この手紙は戦後、通信隊員唯一の遺書として残っている。

〇遺書
 母上様 永らく御無沙汰致し誠に済みません。お母さんもお祖母さんも、姉さんもお元気のことと推察致します。私も大元気で本分に邁進致して居ります。
 首里市は空襲も艦砲射撃もまだ受けません。こちらは大丈夫です。読谷よみたん方面はどうですか。敵の艦砲射撃も空襲もだんだん激しくなる筈ですが、お母さん達はなるべく国頭へ疎開した方がよいと思ひます。お祖母さんのことはくれぐれもよろしくお願ひ致します。
 私も愈々いよいよたま部隊の通信兵としてお役に立ちますことの出来ることを身の栄光と存じ、深く感謝致して居ります。若しもの事があったとしても、決して見苦しい死に方はしないつもりです。日本男子として男らしく死にます。
 もう時間がありませんから(寛勇君が帰るとのことで)呉々もお身をお大事に、私のことは少しも気にしないでください。ではさやうなら。3月25日夜9時40分 2年3組渡久山朝雄」


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<沖縄戦下の県立第一中学校>(1)第一中学校奉安殿の昭和天皇皇后御真影(肖像写真)を米軍攻撃から退避させる

2018-06-10 17:27:42 | Weblog

2018/06/10
<沖縄戦下の県立第一中学校>(1)第一中学校奉安殿の昭和天皇皇后御真影(肖像写真)を米軍攻撃から退避させる
2018/06/13
<沖縄戦下の県立第一中学校>(2)召集令状伝達 最後の家族面会
2018/06/14
<沖縄戦下の県立第一中学校>(3)座間味・渡嘉敷で集団自決 合同卒業式 鉄血勤皇隊入隊 チービシ砲撃
2018/06/15
<沖縄戦下の県立第一中学校>(4)読谷・嘉手納・北谷海岸 4.1. 米軍無血上陸、内陸に進撃、4.4. 住民200人捕虜になる
2018/06/17
<沖縄戦下の県立第一中学校>(5)炊事班 壕堀り生活 対戦車爆雷訓練 大詔奉戴日 養秀寮炎上 独歩第13大隊戦力1/3に低下
2018/06/20
<沖縄戦下の県立第一中学校> (6) 厳しくなる戦場 小学校教員が殺された 電信連隊の中学2年生にも戦没者が次々と
2018/06/22
<沖縄戦下の県立第一中学校> (7) 前線に向かう連隊 前線へ弾薬を運ぶ住民 陸軍病院壕 総攻撃の敗北 一中生徒の戦没も続く
2018/06/24
<沖縄戦下の県立第一中学校> (8終) 米軍戦死傷増大 首里敗退路のありさま 沖縄一中生徒戦没数と生存数


6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄戦は「15年戦争」(別名「太平洋戦争」「大東亜戦争」)の末期、1945(昭20)年3月下旬~6月下旬にかけて戦われました。

当時の中学校生徒や高等女学校生徒、師範学校生徒、農林・水産・商業学校生徒らは鉄血勤皇隊という隊名で、教師らとともに学校単位で沖縄守備の第32軍に動員されました。もちろん親や家庭と離れて暮らします。高女学徒隊としてよく知られているのはひめゆり隊です。

ここで取り上げる沖縄県立第一中学校の淵源は、琉球国王尚温が1798(寛政10)年に開いた琉球最高学府「公学校所」です。その後琉球処分(琉球王国併合の過程)――1872(明治5)年琉球藩設置、1879(明治12)年沖縄県設置――を経て、1880(明治13)年に明治学制下の首里中学となり、1911(明44)年に沖縄県立第一中学校と改称しました。

中学校は男子校5年制です。当時の中1~中5は今の中1~高2に相当します。前回につづいて『[証言・沖縄戦] 沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上)』兼城 一・編著、高文研・刊という本から、沖縄第一中学の沖縄戦をアトランダムに紹介します。本書発行時に存命とみられる方について、すなわち証言者氏名について、ここではイニシャル表記にしました。

3月28日に一中鉄血勤皇隊が編成され、3年生~5年生、220名が同時に第5砲兵司令部(=球9700部隊)配属になりました。2年生115名は電信32連隊の第4、第5、第6、固定の4個中隊に配属されました。2年生~5年生でも、病弱その他の理由で編成除外されたり、直接に他部隊に志願入隊した生徒がいます。1年生は全員、戦時編成除外。

このシリーズに出てくる「球部隊」とは第32軍直属部隊、独立混成第44旅団、独立混成第45旅団、独立混成第46旅団の傘下諸部隊で、本土各地の部隊から成っています。「石部隊」とは第62師団、歩兵第63旅団、歩兵第64旅団の傘下諸部隊です。第62師団は1944(昭19)年8月に北支から沖縄に転属してきました。首里・本島中部守備任務。「山部隊」とは第24師団傘下諸部隊で、1944(昭19)年8月に満州から沖縄に転属してきました。本島南部守備任務。

   ◇    ◇    ◇

著者は執筆に際して次の留意事項を自分に課したと本書前文に書いています。

(1) たとえ証言があっても、事実と違うと思われることや不確かなことは取り
 あげない。
(2) そして場面の再現をするに際して、各人の証言をつないでいく。つながれ
 た各個の証言が相互に裏付けあうことになる。
(3) 文体を簡潔にし修飾語後の使用をできるだけ控える。
(4) 草稿ができると必ず、証言者の点検を受ける。1回だけでなく、一人の証
 言者に3~4回は点検を受けた。
(5) 第一中学校鉄血勤皇隊の出来事を戦線とのかかわりの中に位置づける。た
 とえば、4月12日に養秀寮(一中生徒寮)が炎上し最初の犠牲者がでたのは、
 日本軍初の夜襲と無関係ではない。
(6) 住民の動きを視野に入れるよう努めた。戦場であってもそこには住民、沖
 縄県民がいる。

   ◇    ◇    ◇


1944(昭19).10.10.米軍初の大空襲 -P1-
 最初の米軍大空襲である1944(昭19).10.10.米第58機動部隊の艦載機延べ1300機による空襲で、沖縄守備の第32軍は大損害を被りました。沖縄各地の飛行場、港湾などの軍事施設は、午前6時40分の第一波から夕方までに5波の反復攻撃を受けて、那覇市街の9割が灰じんに帰した。

桃原とうばる昌徳(3年生) -P4-
 1945(昭20).2.6. 久米島真泊港を出た那覇行き定期船・嘉進丸が、出港後まもなく米軍機に撃沈された。乗船客全員死亡。久米島の親元に帰省していて、年が明けて帰校する中学生や女学生が多数乗船していた。
 戦後、仲里小学校の裏山に建立された慰霊碑に、戦争犠牲者の一人として桃原昌徳の名前がきざまれている。

証言 伊集いじゅ盛吉(教諭) -P3-
 御真影奉護委員として、県下の各学校に下賜されていた天皇・皇后の写真を国頭くにがみに移送し、守護する任務についた。御真影奉護委員会の構成員は
1945(昭20)年2月上旬に県当局が任命し、渡嘉敷とかしき真睦委員長以下6名で構成されていた。

 奉護委員たちは1945(昭20)年3月初旬、名護北方の稲嶺国民学校(小学校)に移送してあった天皇・皇后の写真を、さらに北の羽地はねじ村源河げんか川の上流およそ12キロの山奥に移した。4月29日の天長節(天皇誕生日)には、米軍に追われながらも拝賀式を行い「君が代」を歌った。

証言 N・K -P4-
 沖縄一中奉安殿の天皇・皇后の写真を国頭くにがみに移送する際、写真の集結場所になっていた(那覇市の)崇元寺そうげんじ交番前まで運んだが、藤野校長の乗った人力車の前に2名、後に2名、生徒たちが着剣した銃をにない、物ものしく警護しながら崇元寺に向かった。白い手袋をはめた藤野校長は、紫に袱紗ふくさに包んだ写真を目の高さに捧げ持った。尋常でない車の警護ぶりに、すれちがう軍の将校などは天皇・皇后の写真とわかるのか、歩行を停止して人力車が通り過ぎるまで挙手の礼をしていた。崇元寺交番前に集められた写真は軍のトラックで国頭に運んだ。

   ◇    ◇    ◇


首里の沖縄一中にあった天皇・皇后の御真影(肖像写真)は1945(昭20)年2月のうちに名護市北方の稲嶺に退避し、3月初旬には名護市からさらに北の羽地村山奥に退避し、その安置先で4月29日天長節に天皇・皇后御真影(肖像写真)拝賀式が行われました。

一方で、那覇市崇元寺交番前で各所の御真影を集めて国頭に運んだとあります。国頭村は沖縄本島の相当北部にあるので沖縄一中の御真影は国頭まで行かずに、一中所在の首里からより近い名護市稲嶺国民学校に一時退避したのかもしれません。

いずれにしても、米軍の進撃に際して天皇・皇后の御真影(肖像写真)を各所の奉安殿から安全な場所へ退避させるのが、大変だったことがうかがえます。

学校で教育勅語を朗誦する時代はこのようでありました。安倍首相夫妻や稲田朋美前防衛相、日本会議の政治家・大臣や評論家・著述家の皆さん、そして彼らをなんでも支持する皆さんたちが推奨する教育勅語。その朗誦が当たり前であった社会では、各所に配布されていた天皇皇后の肖像写真――「写真」をこのようにして米軍の攻撃から退避させました。



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1日1食…虐待死5歳女児 残されたノート「もう おねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」全文掲載

2018-06-06 21:34:08 | Weblog

きょう2018(H30).6.6.のテレビ朝日ニュースです。

1日1食…虐待死5歳女児「もう おねがい ゆるして…」

 東京・目黒区の住宅で5歳の長女が衰弱しているにもかかわらず、虐待の事実を隠すため、医師による診察を受けさせずに死亡させたとして両親が逮捕されました。

 船戸優里容疑者(25)と夫の雄大容疑者(33)は、長女の結愛ちゃんに対して今年1月ごろから十分な食事を与えずに殴ったほか、嘔吐(おうと)したにもかかわらず、医師による診察を受けさせずに死亡させた疑いが持たれています。警視庁によりますと、船戸容疑者らは結愛ちゃんに1日1食しか与えないこともあり、結愛ちゃんは栄養失調になっていました。自宅からは結愛ちゃんが書いたノートが見つかっていて、「もうお願い、許して下さい」などと書かれていたということです。2人は容疑を認めています。

   ◇    ◇    ◇

上のニュースで、結愛ちゃん(5才)が書いた文章のワープロ清書画像が放送されました。その全文を紹介します。読めば…読めば……。可愛く賢い子であったにちがいなく……。

もう おねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします

ママもうパパとママにいわれなくても しっかりとじぶんから
きょうより もっともっと あしたはできるようするから
もう おねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします
ほんとうに もうおなじことはしません ゆるして
きのう ぜんぜん できてなかったこと
これまでまいにちやってきたことを なおします
これまでにどれだけ あほみたいにあそんだか
あそぶってあほみたいだからやめるので
もうぜったい ぜったい ぜったいやらないからね
ぜったいやくそくします
あしたのあさはきょうみたいにいっしょうけんめいやるんだ
あしたはぜったいやる


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<加計問題> 加計は贈収賄事件、安倍首相の職務権限は100%あると江田憲司議員は言う――サンデー毎日記事から

2018-06-02 02:26:42 | Weblog

2017-10-13「国家戦略特区は「利益誘導」事業に、成り得る 中心的唱道者・竹中平蔵氏は大物『規制緩和ビジネスマン』である」の記事で次のように書きました。

○国家戦略特別区域諮問会議運営規則 (平成26年1月7日)
 第4条4 会議は、その決定するところにより、会議に付議される事項について直接の利害関係を有する議員を、審議及び議決に参加させないことができる。← 利益誘導防止の規則

上の第4条第4号の規定を実行するならば、今治特区(加計学園獣医学部新設)審議・決定では、安倍晋三諮問会議議長を外す。神奈川特区(家事支援外国人在)審議・決定では、竹中平蔵有識者議員を外す。――ということになります。しかし、この規定はお飾りにすぎなかった。


サンデー毎日5月29日号では江田憲司議員が「加計は贈収賄事件だ」と言っています。

---------------------------------------------------------------

(サンデー毎日2018年5月29日号)


「首相の職務権限は100%ある」

 まずは、江田憲司氏だ。元通産官僚。橋本龍太郎政権で2年7カ月、首相秘書官を務めた。経産支配といわれる今の官邸事情に精通、加計疑惑について最も本質に迫った追及をしている。

 加計は贈収賄事件だと。

「刑法には単純収賄として『公務員が、その職務に関し、賄賂を収受し、又(また)はその要求若(も)しくは約束をしたときは、5年以下の懲役に処する』(197条)とある。首相は公務員だし、国家戦略特区の議長だから職務権限は100%ある」

「問題は賄賂性。金銭の収受だけでなくていい、というのが20年前の大蔵省接待スキャンダルの時の捜査当局の方針転換だった」

 1998年の橋本政権時に発覚した金融業界と監督官庁の大蔵官僚(当時)の癒着が問われた事件だ。

「あの時、東京地検特捜部は大蔵省証券局課長補佐、日銀証券課長らキャリア官僚を収賄容疑で逮捕した。従来は金銭収受があったかどうかが重要とされたが、時の熊崎勝彦特捜部長は、飲食接待だけで立件し、有罪となっている」


「今でも思い出す。大蔵官僚たちがなぜ急に方針が変わったのかと文句を言っていた。僕も通産官僚として先輩から聞いていたのは、金銭の授受だけは絶対ダメ、だが、飲食やゴルフはいくらでもやっていい、ということだった。そういう感覚があった」

 今でもそういう認識の役人もいる。だが、20年前に180度転換した。その意味が今また問われている。

「安倍首相は加計孝太郎理事長との間で、第2次政権だけで19回の会食、ゴルフをしたことを明らかにした。奢(おご)られた場合もあると明言している」

接待は金額の多寡は問われないのが通説だ。問題は対価性の認識。加計氏側に獣医学部新設認可をしてもらおうという接待の意図があり、安倍氏がそういう趣旨で接待を受けた、という認識があればアウトだ」

 安倍氏がいつ加計の獣医学部新設計画を知ったかが、重要になる。

「安倍氏が2017年1月20日(の加計が特区申請した時)に初めて知った、となぜ答弁を変更したのか。それ以前は、国会答弁や質問主意書で『今治市が特区申請した15年6月4日に知った』と言っていた」


 大臣規範に触れる、というのが変更の理由という。

「そんな軽い話ではない。加計が申請業者と知りながら許認可権者である首相が接待を受けたのでは、さすがにやばいと判断した。ことの流れが贈収賄に当たりかねない。その後、一貫して『17年1月20日』ラインを死守しようとしていることでも見て取れる」

 だからこそ、柳瀬唯夫元首相秘書官が15年4月2日に加計、今治市、愛媛県側担当者と官邸で面談したことも認めたくなかった。だが、愛媛県、農水、文科省文書によって面談の事実と中身が詳(つまび)らかにされてしまった。

「柳瀬氏が加計側とそれを含めて前後3回も官邸で会っていたのには驚いた。しかも、相手は首相が許認可権限を持つ利害関係者だ。私の官邸経験では100%あり得ない話だ」

「首相秘書官は、首相にとっては夫人よりも時間を長く共有する。毎日夕方には打ち合わせをするし、昼食を共にすることも多い。首相の息遣いや体温までも感じる間合いで仕事をしている。17年1月20日までの1年9カ月の間、首相と秘書官の間でこの話題が出なかったことは到底あり得ない」

 首相側は、19回の会食等が加計認可に関する特別なものではなかった、という立場だ。過去何度も行われてきた中の一つで新規性はなく、従って認可とは対価性はない、という論法だ。

「いみじくも僕がひっかけ質問した。『第1次安倍政権(06年9月~07年8月)では一回も加計氏との飲食ゴルフはなかったようだが』と。通告せずいきなり質問したら、安倍氏は『首相動静に載ってないこともある。1次政権でもやっていた』と答弁した。認可との対価性を消すために接待を常態化しようとしたが、結果的に墓穴を掘った形だ。動静に載ってないこともあると答弁したわけだ」

 そこで、最新の愛媛県文書だ。それによると、15年2月25日に安倍首相、加計理事長との15分間の面談があり、加計氏が「今治市に設置予定の獣医学部では、国際水準の獣医学教育を目指すこと」などを説明、安倍氏は「そういう新しい獣医大学の考えはいいね」と応じている。これは「首相動静」には載っていない。

「この事実が判明したのは重い。これまでの話だと、安倍、加計会食の最後は14年12月で、15年4月2日の柳瀬・加計面談までは間があった。今回の文書ですべてが氷解する。柳瀬氏の3度の面談には、安倍、加計トップ会談という前段があり、そこから官邸が総がかりで加計認可のバックアップ態勢に入った


安倍首相が「進退答弁」をした理由

 トップ会談は加計氏から請託があった場面、とも受け取れる。

「そうだ。少なくとも獣医学部問題が話し合われたことははっきりした。請託が立証されると受託収賄になる。裁判であれば証拠能力の高い文書ばかりだ。県知事が保証役だ。文科相も『官邸の最高レベルが言っている』とか『総理のご意向である』という一連のやりとりを真正文書として認めた。前川喜平前文科事務次官の一連の証言も然(しか)り。裁判所であれば、書いた人に出廷を要請し証人尋問し、信憑(しんぴょう)性を確認して証拠資料として採用するが、本件は100%の確度で証拠資料として採用されるものだ

加計問題の本質は、疑惑とか忖度(そんたく)ではない。官僚は忖度なんかで危ない橋を渡らない。つまり、首相指示による贈収賄事件の疑いが濃厚ということだ。検察が捜査するかは別にして告発はできる。状況証拠はすべて固まっており、後は本人自白だけという局面だ」



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