川本ちょっとメモ

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ノモンハン戦争 1939年8月20日 ソ連・モンゴル軍総攻撃始まる

2023-12-28 17:37:49 | Weblog
 
   <ノモンハン戦域図>  『ノモンハンの戦い P15』シーシキン他著(岩波現代文庫)
    
     ※1. ウズールノール …〈日本名〉ウズル水  ※2. ノモンハン・ブルド・オボー(上掲図        
     ※3. 上掲図に地名記載がないが、〈日本名〉ノモンハン (日本軍中継地点) は、ノモンハン・ブルド・
       オボーより北にあり、さらにその北方向に日本軍拠点の〈日本名〉将軍廟がある。
     ※4. 〈日本名〉 ハルハ河 … 上掲図。河流が西北西方向からほぼ北に向きを変え、上掲図の外へ出てま
        もなく西方向に再び向きを変えて、ボイル湖という大湖に流入する。ノモンハン関連記述では、
        流入方向の右側を「右岸」または「東岸」、左側を「左岸」または「西岸」と呼ぶ。
     ※5. ハイラースティーン河 …〈日本名〉ホルステン … 東から西へ流れてハルハ河に流入する。ノモ
                 ンハン関連記述では、流入方向の北側を「北岸」、南側を「南岸」と呼ぶ。
     ※6. 〈日本名〉川又 … ホルステン河がハルハ河に流入する合流地点。上掲図に地名記載なし。
     ※7. ノゴー高地 … 〈日本名〉ノロ高地 ≒ 742高地
     ※8. レミゾフ高地 … 〈日本名〉バルシャガル高地 ≒ 733高地 (バルシャガル高地の西部)
     ※9. フイ高地=721高地  ※9. バイン・ツァガーン … 日本側渡河点対岸の高地

<戦域図余談>
1.ノモンハン … 岩波新書 田中克彦 著『ノモンハン戦争 モンゴルと満洲国』P4,5, に
  
(上図赤丸)  よれば、日本軍がノモンハンと呼んだ地の由来は、ノモンハーニー(ノ
        モンハンの)・ブルド・オボーという塚 (オボー) があったことによる。

         モンゴル人は山を越えてゆくときの峠道とか、牧地の境界などに石を積
        み上げて塚 
(オボー) を作り、そこを通り過ぎていく旅人たちは、旅の安
        全を祈って、思い思いに、オボーに建てた樹木の枝に布帛を結んだり、
        たばこを置いたり、時には馬の毛のしっぽの毛を一つまみ抜いて供えた
        りして通り過ぎていくのである。今日ではそのほかに小銭や、ときには
         紙幣も置かれている。ブルドとは、水が湧き出して、小さな湿地や沼が
         できるような場所をいう。

2.ハイラースティーン河(日本名 ホルステン河)… 田中克彦氏は2005年、ノモンハー
  (上図青線)  ニー・ブルド・オボーを訪ねた。一帯にはいくつかの沼や湖水があっ
          て、ブルドの名にあたいする所だった。これらの水源としてハイラー
        スティーン河が東から西に向かって流れ、ハルハ河に流入する。

4.ハルハ河 … 南から北へ北流している。戦域図上端の外、図外へ少し北流したところ
        で西に向かい、まもなくボイル湖に流入する。

5.ボイル湖 … ハルハ河は戦域図上端より少し北流したところで西方向に向かい、まも
        なくボイル湖に流入する。ボイル湖 (ブイル湖) の面積は615k㎡で、琵琶
        湖面積670k㎡の9割という大きさ。豊富な水のおかげで、モンゴル高原
        のうでは歴史的に栄えてきた地域である。

6.ソ連・モンゴル側主張の国境線 … オレンジ色線、ノモンハン戦争の結果、確定し
                  た。

7.日本・満洲国側主張の国境線 … ハルハ河=青線、ノモンハン戦争の結果、取下げ。


<戦場の範囲と地形の特質>
1.戦場範囲 … オレンジ色線とハルハ河との間、
         東西方向へ20km。南北方向へ60km~70kmの範囲。

2.ハルハ河西岸の地形 … 上の戦域図を見ると、皺のような等高線がハルハ河西岸 (左
              岸) に沿って南北に長く伸びている。等高線の間隔がこのよ
              うに狭いことは急斜面や断崖の地形を示し、西岸高地に布陣
              するソ連軍にとって実に有利、日本軍には甚だ不利な地形で
              ある。ソ連軍は、主戦場であるハルハ河とノモンハンライン
              の間の日本軍の動向をつぶさに監視できた。高台からの自由
              自在な火砲つるべ撃ちは日本軍に大きな打撃を与えた。


 ジューコフ中将指揮下の第1軍団司令部は1939年8月17日、指揮下の南方兵団、中央兵団、北方兵団に総攻撃開始を8月20日とする命令を下した。
    ※この項はシーシキン他著『ノモンハンの戦い』P57~62の「ソ・モ軍司令部作戦計画」による。

<南方兵団> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P58
 傘下部隊は、第57狙撃師団、モンゴル人民革命軍第8騎兵師団、第8装甲旅団、第6戦車旅団 (1個大隊欠) 、第11戦車旅団 (2個大隊欠)、第185砲兵連隊第1大隊、第37対戦車師団、T130型戦車中隊。
 任務は、ノモンハン・ブルド・オボー方向を攻撃し、中央軍・北面軍と協力して、ハイラースティーン河 (ホルステン河) 南北の日本軍部隊を包囲し、殲滅すること。

<南方兵団正面の日本軍部隊> 五味川純平著『ノモンハン(上)』P242
 ・ノロ高地 … 長谷部支隊 (第8国境守備隊から8・3支隊編成 ) 
         梶川大隊 (7師団歩兵28連隊第2大隊、8・4長谷部支隊に配属)
 ・ノロ高地南東要地 … 森田徹部隊 (23師団歩兵71連隊) 
 ・森田徹部隊の左翼 … 満洲国軍

 <中央兵団> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P59 
 傘下部隊は、第82狙撃師団 (601狙撃連隊欠) 、第36自動車化狙撃師団、第5狙撃機関銃旅団。これら諸部隊は、第1軍団の直接指揮下に入った。
 任務は、日本軍の両翼を包囲する任務を担う南方兵団と北方兵団の間の中央で、中央兵団諸隊による正面攻撃によって日本軍の主勢力を牽制し、日本軍が両翼に作戦をしかけるのを阻止すること。
 
<中央兵団正面の日本軍部隊>  五味川純平著『ノモンハン(上)』P242  
・バルシャガル高地北部の右翼隊 … 須美部隊 (7師団歩兵26連隊、6・20 23師団へ配属)  
                  一部その他 ※バルシャガル高地はソ連名「レミゾフ高地」 
・バルシャガル高地西部の左翼隊 … 小林部隊(小林歩兵団) は山県連隊 (歩64) と酒井連隊 
                 (歩72) とで構成していたが、20日ソ連軍の総攻撃開 
                     始を受けて、山県連隊長指揮下に歩兵3個大隊、迫 
                  撃砲、速射砲10門、工兵1個中隊を左翼隊として残 
                  し、酒井連隊ほかは20日日没後からホルステン河  
                   (上掲地図ソ連名 ハイラースティーン河) 工兵橋北  
                 方地区へ配置換えされた   

<北方兵団> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P60
 傘下部隊は、第82狙撃師団第601狙撃連隊、モンゴル人民革命軍第6騎兵師団、第7装甲旅団、第11戦車旅団のうち2個大隊、第82榴弾砲連隊、第87対戦車師団。
  任務は、「廃墟」より北東方向8kmの線に出発位置をとり、ノモンハン・ブルド・オボー北西6kmの無名の湖沼群の方向を攻撃し、第36自動車化狙撃師及び南方兵団と協力して、ハルハ河北方の日本軍を包囲、殲滅すること。 

<北方兵団正面の日本軍部隊>  五味川純平著『ノモンハン(上)』P242  
・フイ高地 … 井置支隊 (23師団捜索隊、7・10井置支隊編成) を主力とする混成部隊 
 
<歩兵支援砲兵隊> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P61
 ・南方兵団第57狙撃師団支援 …  第57砲兵連隊、第57榴弾砲連隊 
 ・中央兵団第36自動車化狙撃師団支援 … 第175砲兵連隊 
 ・中央兵団第82狙撃師団支援 … 第82砲兵連隊、第5狙撃機関銃旅団のうち砲兵大隊
 ・北方兵団歩兵支援 … 第82榴弾砲連隊
 任務は、前縁においては日本軍の火器を破壊圧倒する。攻撃ゾーンにおいては攻撃時の師団防御、攻撃時の歩兵と戦車の掩護砲撃。特に砲兵中隊は、歩兵の後に速やかにつき従って前進するよう、前もって命じられていた。 

<遠距離作戦砲兵隊> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P61 
・南方兵団 … 第185砲兵連隊第1大隊
・中央兵団 … 第185砲兵連隊第2大隊、第3大隊、第175砲兵連隊のうち1個大隊、
        122ミリ遠距離砲兵中隊
  任務は、ホルステン河 (ソ連名 ハイラー・スティーン河) 北岸地区、南岸地区の日本軍砲兵隊を圧倒する。ノモンハン・ブルド・オボー地区とホルステン河南東7kmの砂地にある日本予備軍を圧倒し、さらに、将軍廟地区及びノモンハン・ブルド・オボー地区からの日本備軍の接近を抑える。

 
<8・20払暁  ソ・モ軍総攻撃布陣整う> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P55  
 
 ソ・モ軍(ソ連・モンゴル軍)は1939年8月18日までに、ハルハ河東岸から3km~5km東進したあたりに、モンゴル第8騎兵師団、ソ連第82狙撃師団 (1個連隊を除く) 、ソ連第5狙撃・機関銃旅団、ソ連第36自動車化狙撃師団を配置した。
 
 ソ・モ軍のほかの部隊は、8月19日夜、すなわち総攻撃の開始一昼夜前に、ハルハ河西岸から東岸へ渡河を開始した。8月20日払暁には、第6戦車旅団を除く全部隊がハルハ河東岸に布陣を終えた。
 
 ソ・モ軍司令部は決定的攻撃作戦のために、歩兵35個大隊、騎兵20個中隊、機関銃2255挺、軽砲・重砲合わせて216門、対戦車砲と大隊規模の砲286門、迫撃砲40、戦車498、装甲車346を集結させた。
 

ソ・モ軍と日本軍の兵力格差大> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P57 
 ソ・モ軍の歩兵は日本軍に対して1・5倍、機関銃は1・7倍、砲の数はほとんど2倍、戦車は4倍。日本軍は8月作戦では戦車を用いなかったので、戦車・装甲車については絶対的優勢があった。とりわけ火炎放射戦車は食糧、衣料、人、兵器、弾薬を一気に焼き尽くす効果が甚大であった。

 勝てるわけがないこんな戦争を、勝てるつもりで始めた関東軍植田謙吉司令官、関東軍服部卓四郎作戦主任参謀、同辻正信作戦参謀、荻洲立兵第六軍司令官、小松原道太郎第23師団長らが、一人一人の苦楽哀歓が詰まった人間生命を使い倒した果ての戦死戦傷。その数をノモンハン戦争後の第6軍軍医部が公表している。 

 戦死者数は7696人、戦傷者数は8647人。大方が二十歳代の青年。生き残るため人を殺した末に、運拙く自らも殺されて戦地に斃れた青年は、時空を超えて家族のもとへ還ったでしょうか。母のもとへ還ったでしょうか。戦死公報で帰郷した子の親はいつまでも子を思って、悲しみ慈しむのでありましょう。 


<8・20ソ・モ軍総攻撃の戦術> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P90、91 
 ハルハ河における日・満軍の防衛陣地は、戦術的に好都合な高地や小丘を利用した
抵抗結節点と拠点システムに沿って構築されていた。
 
 ソ連側の戦闘経験によれば、そのような防御システムを打破する効果的な方法は、それら拠点と拠点との中間を撃つことである。
 
 ソ連軍は抵抗拠点と拠点の割れ目に進攻し、
 日本軍拠点相互の共同作戦を打ち砕き、 
 日本軍の全防衛陣地を相互に連絡のとれないばらばらな地域に分断したうえで、
 個々に包囲封鎖し、
 そして日本軍の抵抗拠点を一つ一つ潰していった。
 

 1939/8/20快晴 ソ連軍総攻撃始まる 破竹の勢い】 
   アルヴィン・D・クックス著『ノモンハン③ 第23師団の壊滅』P.9
05:45 ・ ソ連軍砲兵部隊が自軍航空部隊の襲撃目標表示のために発煙弾打ち上げ
     ・ 航空支援砲撃 … 日本軍の対空火器と機関銃陣地に連続砲撃
     ・ 9機1編隊、150機以上の爆撃機と護衛戦闘機数百機が日本軍散兵線、高射砲
       や火砲の放列、後方予備部隊も至るまで猛爆を加えた。これはソ連航空軍の歴 
       史上初の戦爆連合攻撃だった。 
08:15 ・ ソ連軍全砲兵部隊が、あらゆる口径の砲を技術的極限まで駆使して、陸上部隊
       出撃準備集中砲撃を開始した。 
08:30 ・ ソ連航空隊第2波空爆で、日本軍陣地を痛打。
08:45 ・ ソ連軍、15分後に総攻撃開始する旨の暗号電文で命令下達
09:00 ・  野砲による熾烈な掩護砲撃のもと、歩兵と装甲部隊が攻撃開始。

 戦爆連合空軍の大規模空襲と全砲種の全力準備砲撃によって、8月20日ソ・モ軍の総攻撃開始までに、日本軍砲兵部隊の通信、観測所、火砲の放列が大打撃を受けた。高射砲部隊も位置を露呈して沈黙させられた。火の手が上がっていないところはなかった。日本軍砲兵部隊は、ソ・モ総攻撃が始まってもすぐに応射できなかった。 
  

8・20  ソ・モ軍南方兵団 アルヴィン・D・クックス著『ノモンハン③ 第23師団の壊滅』P.10、11
     ・ 8・20戦闘では、南方兵団が最大の成果を上げた。モンゴル騎兵第8師団が満
     洲国軍 (以後「満軍」と称する) の騎兵部隊を殲滅して、モンゴルの主張する国  
     境線 (※上掲地図のオレンジ色線) に進出した。

     ・ ノロ高地の南と南東からソ連57狙撃師団、293連隊、127連隊が前進。127
     連隊は東北へ向かい757高地方向に進出した。293連隊は日本軍防衛陣地
     への前進を強行し、主要拠点の前衛を制圧しようとしたが失敗した。

     ・ ソ連127連隊の右翼では、80連隊が「大砂丘」と呼ぶ780高地から791高地に 
     至る高地帯に向かって進撃し、午後7時にはその先端にとりついた。

     ・ ソ連第8装甲旅団は20日夜、進撃困難な砂丘を突破し、ノモンハン西南3~4 
     kmの地域に進出した。偵察部隊は東南方面でモンゴルが主張する国境線 (上  
      掲 地図のオレンジ色線) に到達した。

     ・ ソ連第57狙撃師団、127連隊、第8装甲旅団は、8月20日に最も近い日本軍目 
       標まで約12km前進した。

8・20  ソ・モ軍中央兵団 アルヴィン・D・クックス著『ノモンハン③ 第23師団の壊滅』P.10、11
     ・ ソ連82狙撃師団はホルステン河 (ソ連側呼称 上掲地図ハイラースティーン河) 
     岸のノロ高地側に進出した。

     ・ ソ連602連隊は、西側のクイ高地方面から742高地に向けて攻撃した。

     ・ ソ連603連隊は南方兵団ソ連57狙撃師団の左翼に隣接して展開し、西南方向か
     ら754高地に向けて攻撃した。

     ・ ソ連82狙撃師団 (601狙撃連隊を除く) は奮戦したが、602連隊、603連隊とも
     に、日本軍の強い抵抗に遭い、夜半までに500~1500m前進できたにすぎ
     ず、752高地、754高地ともに制圧できなかった。 

8・20  ソ・モ軍北方兵団 シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P.67
     ・ 北方兵団は猛烈な襲撃によって、満洲国軍バルガ騎兵隊2個連隊をソ連・モン
     ゴルが主張する国境線の向こうに撃退し、日本軍の前哨線を占拠し、ただちに
     フイ高地地区に敷かれていた日本軍の強力な抵抗拠点に接近した。
     ・ しかしフイ高地の日本軍はすさまじい抵抗を示し、ソ連・モンゴル軍北方兵団
     諸隊のあらゆる攻撃を跳ね返した。



2023-07-10
1時間42分の戦闘で沈没した戦艦大和の戦死3056名 輸送船富山丸の魚雷沈没あっという間の2個旅団消滅
2023-07-20
<ノモンハン捕虜帰還兵軍法会議> 自決未遂で重営倉3日の上等兵、敵前逃亡で禁錮2年10カ月の戦闘機曹長
2023-08-22
<ノモンハン捕虜帰還将校2名> 日本軍の自決システム──撃墜されて捕虜 → 帰還 → 陸軍病院 → 軍説得の拳銃自殺
2023-09-04
<ノモンハン捕虜帰還兵> 壊滅陣地 → チタ捕虜収容所 → 陸軍病院 → ソ満国境へ転属 → 兵役満期除隊 → 軍属徴用で奉天へ
2023-09-14
ノモンハン生還衛生伍長(1) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2023-09-18
ノモンハン生還衛生伍長(2) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2023-12-09
ノモンハン生還衛生伍長(3) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
  

コメント

ノモンハン生還衛生伍長(3) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった

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ノモンハン生還衛生伍長(2) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった




〇 旭川第7師団歩兵第26連隊 (1939・6・20  第23師団へ配属)
  連隊長    大佐  須見新一郎
 
 〇 第1大隊   (1939・8・1  第23師団長直轄へ配属 )
  大隊長    少佐  生田準三  着任 7・13   戦死 8・29    
   副官    少尉  渡部一雄  戦死 8・20
    付    軍医中尉  中村芳正
   第1中隊長 中尉  青木 香  転出 6・27
    〃    中尉  坂本竹雄  戦死 7・3
    〃(代) 准尉  能登与八郎
    〃(代) 少尉  野坂鉄男
    小隊長  少尉  前田正義  戦傷 7・3
     〃   中尉  牧野義勝  戦傷 7・3
     〃   准尉  井上喜一  戦傷 7・3
   第2中隊長 中尉  相田重松  戦死 7・4
    〃    中尉  中森光長  戦傷 8・25
    小隊長  少尉  古川一男  戦傷 7・5
     〃   少尉  岩崎咲雄  戦死 7・3
     〃   准尉  藤井亀次
   第3中隊長 中尉  鶴見筆上  着任8・1   戦死 8・20 
    〃    中尉  平野義雄
    小隊長  少尉  安達吉治  戦傷 7・3
     〃   少尉  古川義英
     〃   准尉  伊良原義晴
   第1機関銃中隊長 中尉 近藤幸治郎 転出 7・3
    〃(代) 少尉  秋野英二  転出 8・1
    〃    中尉  小林司郎  戦死 8・25
   連隊砲小隊長 中尉 長尾雄次

   歩兵第25連隊連隊砲中隊(8・5出動 歩兵第26連隊第1大隊に配属 ) 
   連隊砲中隊長 中尉 海辺政次郎  戦死8・29
      小隊長 少尉 沢田八衛   戦傷8・20  
       〃  少尉 山田四郎   戦傷8・25
     通信隊長 少尉 片岡義市

   *ソ連軍包囲下の死守陣地消耗戦闘で隊長・隊長代理もめまぐるしく替わっています。上
    掲表は将校だけですが、この表から、戦争がいかに多くの招集兵を死なせ、い かに多く
    の健常招集兵に身体障害者として生きる人生を強いるものか、お察しください。

 上の表は、アルヴィン・D・クックス著  朝日文庫1994.7.1.第1刷発行『ノモンハン④  教訓は生きなかった』P355, 356 記載の第26連隊第1大隊のノモンハン戦争従軍将校名簿です。生死未確認の者は「戦死」の分類に入っています。 


1939年
6月  ・小野寺哲也(22才)、半年間の下士官候補者教育隊卒業
     ・ 〃 チチハル待機第7師団軍医部衛生隊所属伍長勤務
6・20  ・チチハル待機中の第7師団に出動命令 歩兵第28連隊は待機
            ・歩兵第26連隊に第23師団配属命令、即日出動
7月  ・チチハルで、26連隊がソ連軍との対戦車戦で全滅したと噂が流れた
7・3  ・歩兵第26連隊第1大隊長安達千賀雄少佐、川又攻撃中に戦死 衛生兵も
      戦死、第1大隊兵員半減して731高地に退却
      ※川又 …… ハルハ河にホルステン河が流入する合流点、ソ連軍渡河施設がある
7・13  ・生田準三少佐が歩兵第26連隊第1大隊長に着任
7・20  ・歩兵第26連隊衛生兵欠員補充のため、小野寺伍長に26連隊配属命令
8・1  ・小野寺伍長、7月戦闘の痛手を補充中だったノロ高地の歩兵第26連隊
(須見
     部隊)本部に出頭。第1大隊本部付に配属。

8・5  ・第1大隊、本隊の歩兵26連隊指揮下から第23師団長直轄へ配属
    ・第1大隊、日の丸高地(ホルステン河北側=右岸)に向けて展開命令
    ・当日現在の第1大隊(生田大隊)兵力は第1、第2、第3中隊、連隊砲小
     隊、第1機関銃中隊、歩兵26連隊連隊砲中隊

8・7~8・20 鶴見第3中隊壊滅までは、9月14日付け記事「ノモンハン生還衛生伍長
(1) 」、8・20~8・25の生田第1大隊の状況は、9月18日付け記事「ノモンハン生還衛生伍長(2) 」  をご覧ください。 

  
8・25  ・この日から、敵戦車は榴散弾を使い始めた。この砲弾1発は、地上から10
     メートルくらいの高さで炸裂、10メートル四方くらいの面積に直径1セン
     チくらいの弾丸の雨を降らす。これは兵員の被害が大きく広がる。榴弾砲
     がこの方式だし、現代のクラスター爆弾がこの方式です。

    ・生田大隊の戦場出動時戦闘要員は約850名だったが、この日の戦闘可能人
     員は約120名に減っている。

    ・小野寺伍長は故郷北海道厚岸の鴨撃ちの光景を思い出した。猟師が散弾銃
     で鴨を撃つ。戦車砲の榴散弾はそれの大規模なもので、小野寺たちは水も
     食糧も戦車に対抗できる武器もない鴨だった。戦車砲や機銃掃射から逃れ
     るために走った。小野寺はもはや、死ぬことを恐れてはいなかった。衛生
     兵として多くの負傷者を見てきた彼は、負傷だけはしたくなかった。

8・28  ・生田大隊長は未明に、残兵を率いて731高地前面の敵陣へ肉弾夜襲を決行
     しようとしたができなかった。生き残り兵は手分けして負傷者の世話をし
     たり、わずかに水の出る柳の 根もとを掘りに出向いた。夜もない昼もない
        忙しい陣中生活のうちに夜が明けて、対戦車戦がまた始まった。

    ・大隊本部の鳴瀬・外山上等兵が大隊長の身をかばって戦車群の先頭車を擱
     座させたが、他戦車の機銃弾を浴びて二人とも戦死した。この後に敵の一
     部が陣地内に入ってきて、戦闘中に生田大隊長は大腿部に重傷を負った。

    ・大隊には戦う手立てが残っていない。夜襲しかなかった。生田大隊長の傷
     は重かったが、聯隊砲の海辺中尉と近藤曹長に介添えされて指揮をとるこ
     とになった。大隊の生き残り将校は、大隊長を含めて3名のみ。使える重
     火器は、10分しかもたない弾薬残量の重機1挺、擲弾筒1筒のみ。彼我の
     距離は50メートル。重機が射撃を始め、擲弾筒が榴弾と手榴弾を撃った。
     敵側から沸き立つような激しい応射が始まった。

    ・先頭に立つ海辺中尉の「突っ込めぇ」という叫び声で、死に物狂いの突撃
     が始まった。激しい混戦の後に敵が後退した。夜襲兵は敵の遺棄死体など
     から水筒や食料を奪い陣地に戻り、喉と腹を癒した。この夜、大隊兵は3
     度突撃をくり返し夜襲を終えて、陣地に落ち着いた。敵の包囲網は後退し
     たが、海辺中尉が戦死。生田大隊長は生きて陣地にもどった。この日、
     100名ほどの大隊残兵が60名に減った。

      ※歩兵第25連隊連隊砲中隊長 海辺政次郎中尉
       この連隊砲中隊は 8・5出動、 歩兵第26連隊第1大隊(生田大隊)に配属された。

8・29  ・午前1時、山県支隊(23師団歩兵64連隊)から伝令着。撤退命令を伝えた。
      ※生田大隊の原隊は旭川第7師団歩兵第26連隊(連隊長・須美新一郎大佐)。
       1939・6・20  第23師団へ配属。 同年8・1 小松原第23師団長直轄へ。 

    ・御田重宝著『ノモンハン戦壊滅篇』P164には、「29日午前2時、山県連隊
     長は独断で撤退命令を下した」とある。

    ・五味川純平『ノモンハン下』P182には、
      「山県大佐は野砲兵第13連隊長伊勢大佐と相談して、師団主力に合流する
     ためノモンハンに向って後退する決心をした」
      「8月29日午前2時、撤退命令を下達した」
      「撤退開始は8月29日午前3時であった」 ──とあります。

8・29   ・生田大隊は現在地731高地から4km南の山県支隊に合流することにな
     り、砂に埋めるゆとりのなかった遺体を浅く砂で覆って出発した。重傷者
     は体力の残っている者が交代で背負った。大隊の傷病者は全部で120名余
     り。

    ・山県部隊陣地には1000名ほどの兵員がいたが、半数は負傷兵だった。生田
     大隊を収容した山県部隊は闇の中を、ただちに満洲国領内の「将軍廟」目
     指して出発した。

    ・五味川純平著『ノモンハン下』P182には、行動を共にした部隊は、山県部
     隊(歩兵64連隊)本部、同第2大隊、同第9中隊、生田部隊(歩兵26連隊生田第1大
     隊の生き残り)、伊勢部隊(野砲兵13連隊)本部、同第2大隊(第4中隊欠)、同第8
     中隊、工兵2個小隊と記されている。この撤退行軍の中には、山県、伊勢両
     連隊長もいた。

8・29  ・ホルステン河からハルハ河にさしかかるあたりで、まだ昼にならないうち
     だったが、山県退却部隊はソ連軍戦車約50台の攻撃を受けた。戦車50台に
     対峙できるはずもなく、山県退却部隊は蹂躙されつくした。抵抗する兵士
     たちは刻々に死に絶えた。砂上に置き去りになった重傷者は戦車のキャタ
     ピラで轢きつぶされた。戦車隊は日が暮れるまでその場所を離れず、徹底
     的に日本兵を掃討した。「山県、伊勢部隊の末路は悲惨であった」と『ノ
     モンハン戦壊滅篇』P165が記している。、

    ・『ノモンハン下』P184
     「山県(歩64)、伊勢(野砲13)両連隊長、歩兵連隊副官、同連隊旗手代理、命
     令受領の工兵軍曹、兵1名とともに新工兵橋に近い元日本軍の野砲陣地
     の掩体壕内孤立し、敵歩・戦の包囲攻撃を受けた」

    ・『ノモンハン下』P185 連隊長自決
    「軍旗は焼かれ、両連隊長は自決した。8月29日午後4時半ごろであったら
      しい。他の2名の将校もこれに殉じた。下士官と兵は脱出して、両連隊長
      の自決を報告したという」

8・29午後~日暮れ
    ・夜になるまで身をひそめることができた者だけが、生き残った。小野寺伍
     長は数々のノモンハン戦闘を生き抜いてきたが、これほど無惨な犠牲を生
     んだ戦闘を見たことが無いと戦後に語った。

    ・小野寺伍長はたこつぼを見つけて、夜が来るまで一人そこにもぐってい
     た。少しでも頭を出せば執拗に銃撃される。しらみつぶしに掃討されてゆ
     く時間のなんと長いことだったか。耳には断続して聞こえる銃声砲声。近
     くを駆け回る戦車のキャタピラの音が遠のいたり近づいたりする不気味
     さ。ほかの人のことはまったくわからずに、無抵抗で身ひとつ隠れている
     つらさ。


8・29夜  戦場離脱
    ・日暮れまで身をひそめていた者たちが這い出して「将軍廟」への引き揚
      げを開始することになった。集合した人員は、歩行可能な負傷者を含め
      て300名ほどに激減した。うち生田大隊生き残りは8月5日戦場出動時
      850名のう36名だった。生田大隊長はいなかった。


 2015年8月9日、生田大隊長の子息まこと氏が731高地ほかの戦跡を訪れ、次のように語っています。(十勝毎日新聞2010年8月)

生田まこと氏 父の最後の場所は,旧工兵橋付近と思います。戦死公報では731高地となっています。遺体は停戦後発掘され、血染めの軍靴(皮の将校長靴)が遺骨とともに戻ってきました。


   ※「ノモンハン生還衛生伍長(4終)」は小野寺伍長の北海道帰国後の兵役を
      伝えます。出典は、伊藤桂一著『静かなノモンハン』です。



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