川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
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ダニエル・デフォーの『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の4)

2021-01-30 20:57:38 | Weblog

 オリンピックを中止して、コロナ禍脱出に専念する政治を期待します。
 〇事業補償を中止して、コロナ理由生活難に貸付金でなく給付金支給を。


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 2021-01-19 ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(上)
 2021-01-20 ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(中)
 2021-01-22 ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の1)
 2021-01-24 ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の2)
 2021-01-29 ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の3)
 2021-01-30 ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の4)  





ロンドン1665年。ペスト死者の埋葬は夜だけと定められていました。

大流行期の死者の数があまりにも多いので、大きい窪地を作って(本書では「大きな穴」となっています)、荷馬車から遺体を放り投げ、投げ入れしだいにすぐさま土をかけて、遺体が見えないていどに覆います。次の荷馬車が来ると、薄く土に覆われた先の遺体の上に今運んできた遺体を投げ入れます。そしてまた土をかけます。窪地が満杯になるまで、これをくり返します。すぐさま土で覆うのは人目をはばかってのことでしょうが、防疫上の要請でもありました。

また、遺族親族知人といえども埋葬に立ち会うなどのことは禁じられていました。感染予防のためです。この定めのことは、前回記事(下の3)末尾のところに注記しました。

このたびの新型コロナで亡くなられた方が、遺族のもとに遺骨で帰ってきた、というニュースがありました。1665年のロンドンと、2020年2021年の日本と。……死に立ちあうことさえもできなかった悲しみは同じです。




【大きい穴に死体を投げ入れて土をかける】
『ロンドペストの恐怖』P70


 オールゲイト教区内の別の場所に穴がいくつも掘られたのは、悪疫がわれわれの教区にも広がりはじめたころだった。

  (注) オールゲイト教区は「わたし」の地元教区で、旧市街地シティの中に
   ある。「わたし」はこの教区の教会墓地に作られた埋葬用の大きな穴を
   見ているが、そのサイズは、長さ12m、幅4・5m~5m、深さ3m。
   その後6m近くまで掘り下たところで地下水が出た。


 ちょうどそのころから、8月はじめまではわれわれの教区で見かけなかった 死体運搬馬車が走りまわりはじめた。こうした穴には、それぞれ50から60体の死体が埋められたが、やがてもっと大きな六が掘られるようになった。

 そして運搬馬車が運んできた死体が、片っ端からその穴のなかへ放りこまれたのだ。その 数は、8月中旬から下旬にかけて、週に200から400だった。

  ―― 略 ――

 9月はじめになると、疫病はおそろしい勢いで蔓延し、われわれの教区の死亡者数は、ロンドン近辺の、広さがほぼ同じ教区ではかつてなかったほどの数に達した。そういうわけで、この、穴というには大きすぎる、すさまじい深淵が新しく掘られたのである。

 穴が完成したのはたしか9月4日、埋葬をはじめたのが9月6日だったが、ちょうど2週間後の9月20日までに、1114体の死体を投げ入れていた。

  (注)一つの穴に埋葬する遺体の数が、50~60体 → 200~400体 →
   1114体‥‥急速にふえていきます。新しく掘るたびに穴のサイズが
   大きくなっています。歴史に残るペスト大流行のすさまじさが表れてい
   ます。

   本書で「穴」と呼ぶものが、1カ所でこれほどの遺体を埋めることがで
   きるので「窪地」と呼ぶ方がふさわしい。訳者栗本慎一郎氏の「死体」
   という訳語は、犠牲者を思いやって「遺体」が良いのではないか、とこ
   れは私の読者感想です。






【死体の埋葬 ― 点景】 
『ロンドペストの恐怖』

 <死体運搬馬車 ①> 
P74
 そのときミノリーズ通りのはずれから、二本の松明
たいまつが近づいてくるのが見え、触れ役の鳴らす鐘の音が聞こえたと思ったら、死体運搬馬車が通りをこちらへ走ってきた。

 <死体運搬馬車 ②> P184
 ある運搬馬車がショーディッチを通っている最中に、ひとりで乗っていた御者が死んでしまい、手綱を取る人がいなくなった。でも、馬は足を止めるどころか、運搬車をひっくり返して遺体をあちこちにばらまいて行き、まさにおぞましい情景を繰り広げた。

 <死体運搬馬車 ③>    P184
 オールドゲイトのわたしたちの教区では、死体を山ほど積んだ死体運搬馬車が教会墓地のの門前に置き去りにされていたことも何度かあったらしい。鐘を持った触れ役も御者も、車についている者はひとりもいなかったという。

  こういう場合には、車に積まれた亡骸
なきがらの身元が皆目わからなかった。でも、身元がわからなかったことはこれ以外にもよくあったのだ。死体はたいていベランダや窓からロープでつるして下ろされるか、運び人などが運搬馬車までかついで行っていたからだ。運び人たちは、いちいち死体を数えている暇はない、と開き直っていた。

 <埋葬地の明かり>     P77 
 穴の周囲の土の山には、一晩じゅうランタンとろうそくが7つか8つ、あるいはそれ以上おいてあって、充分な明かりがあった。
 

  (注) ここでいう「穴」は、集団埋葬用に作られた大きく深く掘られた窪地のこと
   で、1カ所あたり何百体もの遺体を埋めることができる。


 <無造作に積まれた遺体>       P77  
 荷馬車(※死体運搬馬車のこと)には16、17体の死体が積まれていた。リンネルのシーツや上掛けに包まれている死体も、裸同然の死体もあった。

 だが、いずれにしろ、巻きつけてあるだけだったので、荷馬車から放り投げられた拍子に、どの遺体も丸裸になってしまうのだった。

 もっとも、彼らにとってはどうでもいいことだったし、だれもわいせつだと思ったりしなかった。彼らはみな、いうなれば人類の共同墓地のなかで、寄りそって死んでいた。そこにはどんな違いもなく、金持ちも貧乏人も、一緒に横たわっていた。

 ほかに埋葬の仕方はなかった。あるはずもなかった。このような大災厄のさなかに、膨大な数にのぼる死者を、いちいち棺桶におさめるわけにはいかなかったのだ。
   



 ペスト菌はコロナウイルスとは違って細菌の一つで、ノミにかまれることによって人間に感染しますが、これが明らかになるのはこの時代から230年後のことです。

 今の日本は、毎日毎日コロナニュースがトップになってから1年を越えようとしています。わたしたちみんなが、たとえ感染していなくとも日夜コロナの悩みを抱えて暮らしています。

 このときのロンドン・ペスト大流行は1665年の春先から流行の勢いが始まりました。そしてすぐに、ペスト、死の伝染病に席巻されます。身内やご近所や親類知人のうちから誰かが、次々に亡くなっていったことでしょう。こんな時代環境の中で恐れ暮らす気持ちというものは、わたしたちの不安や想像をはるかに超えて、想像を絶するものと思います。

 下に書き写す1665年8月9月がピークであり、やがて寒い季節の訪れにつれてペスト流行の勢いが衰える兆しを見せ始めます。しかし渦中にある人々に、その夜明けの兆しはまだ見えません。人々はペストに席巻された世界の底で身も心もすくめて生きていました。




【絶望のピーク:8月後半から9月第3週まで 死に絶える家々】
                    『ロンドン・ペストの恐怖』P171

 人々は、こんなに激しく手のほどこしようのない疫病からはどのみち逃れられないし、もう生きのびられないのだという失意に沈んでいた。実際、病気の猛威がピークに達した8、9月の約2カ月間に感染して命が助かった者は、まずいなかった。

 そして、そのころには、(※1665年)6月と7月、および8月の初旬によく見られた病気の症状とは正反対の特徴が表れてきた。

 6、7月ころには人々は感染してもすぐに死ぬことはなく、長い間血液を疫病に毒されたまま生き長らえていた。

 しかし疫病の絶項期にはこれとまったく逆のことが起こり、8月の後半2週間と9月の第3週までに感染した人々は、長くてもほんの2、3日わずらってあっけなく息をひきとった。そして、多くは感染したその日に死ぬという変わりようだった。

 その理由はいろいろいわれたが、わたしにはなんともわからない。季節が暑い盛りだった せいかもしれないし、はたまた占星術師たちが吹聴したように狼星が悪い影響をおよぼしていたのかもしれない。人々のからだにずっと潜んでいた病の趣旨が一気に成熟したとも考えられる。

  が、ともかくこの時期には、一晩のうちに3千人以上の人間が死んだと報告されてい た。

 そして、さらにくわしく調査したと称する人々によれば、病人たちはみんな午前1時から 3時の2時間のうちに息絶えたそうだ。

 この時期になって、突然の死を迎える人々が前より増えたことは、数えきれない実例が裏づけている。現にわたしの近所にもそういう家が何軒かあった。

  わたしの家からそう遠くなく、シティの関門の外に住んでいたある家では、月曜日には10人の家族全員が元気そうにしていたのに、その晩にメイドと徒弟にひとりずつ感染者が出て、翌朝帰らぬ人となった。

 そして、そのときにはすでにもうひとりの徒弟とふたりの子供たちにも病気がうつっていて、ひとりは同じ日の夕方に、あとのふたりは一夜明けて水曜日に死んだ。

 そうこうして土曜日の正午までに、その家の主人と妻、4人の子供、そして4人の使用人がひとり残らずこの世を去ってしまった。がらんとした家には、そこの主人の兄弟に頼まれ て家財道具の始末をしにきた老女がひとりいるだけだった。その兄弟はそれほど遠くないところに住んでいたが、病気にはかかっていなかったそうだ。

 住人はみんな死んで運びだされてしまい、無人の廃屋と化した家が街のいたるところに見られた。(※シティの)関門の向こうに、「モーゼとアーロン」という標識が出ていた。その標識をわきに入った路地では、とくにひどい状況だったらしい。

  話によると、そこには何軒も家が連なっていたが、住人は人っ子ひとり助からなかったそうだ。そのうえ、最後に息を引きとった数人の遺体はそのまま家のなかに放置され、運びだ して埋葬されたのは死んでからしばらくたってからのことだった。生きている人間がほとん どいなかったから死人の埋葬がとても追いつかなかったのだ、といいかげんな理由をこじつけて書いた人もいる。

 が、本当のところは、その路地ではあまりにたくさんの死者が出たので、葬らなければならない死体があることを埋葬人や墓掘り人に連絡する者がいなかったのだ。

 どこまでが事実 かは知れないが、そのような遺体のいくつかは傷みがひどく腐敗が進んでいて、運搬するのにたいそう苦労したという。死体運搬馬車は路地に面した大通りまでしか行けなかったので、なおさら運ぶのがたいへんだった。
     



「ペスト菌が人々の家庭に忍び込むと、16~23日後になってようやく最初の症状が出る。症状が出て3~5日後には患者は死亡する。」 National Geographic 日本語版 2020.5.24.「ペストの歴史」(  ←クリック )




【ペスト最盛期:ロンドンの死者、5週間で約4万人】
                    『ロンドン・ペストの恐怖』P178

  過去ロンドンが災害に見舞われたときの報告を全部調べてみても、この9月ほどひどい被害が出たことはなかった。死亡週報には、8月22日から9月26日までのわずか5週間に約4万人の死者が出たと記されていた。詳細は次の通りだ。

   8月22日から29日まで  7496人
        9月 5日まで  8252人
          12日まで  7690人
          19日まで  8297人
          26日まで  6460人
             合計 38195人

 けたはずれな数字だが、実はこの統計でも網羅しきれてはいなかった。その理由を述べ れば、この期間に毎週1万人をこえる人々が死に、その前後の数週間でも相当数の死者がで ていたことを読者も信じてくれるだろう。

 人々は激しく動揺し、ことに当時のシティの混乱は大変なものだった。死体の運搬を任さ れていた人たちも、あまりの恐ろしさにとうとうおじけづく始末だった。

 運搬人が実際に死ぬこともあった。が、そういう目にあったのは以前に一度病気にかかっ て回復した人たちだったらしい。せっかく墓穴のそばまで死体を運んで行きながら、さあ投げ込もうというときに自分がばったり倒れ込んでしまうという例もあった。




コメント

ダニエル・デフォーの『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の3)

2021-01-29 20:44:39 | Weblog

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2021-01-19
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2021-01-20
『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(中)
2021-01-22
『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の1)
2021-01-24
『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の2) 



1665年当時のロンドンには「疫病患者隔離病院」がありました。2000年前後に読み、このたび再読したダニエル・デフォーの『ロンドン・ペストの恐怖』小学館1994年初版第1刷 82ページには、隔離病院はたった1軒、とあります。

然るに同書184ページに、「ロンドンに疫病患者隔離病院はウェストミンスターとオールドストリートの先の野原の2カ所しかなかった」と書かれています。またこのカ所の訳注に、「史料ではペスト流行中に5つの隔離病院があったとされ、急遽設置された隔離病院の患者収容能力は60~90人ていどだった」と記されています。

どれが本当のことなんでしょうか。上の本書184ページの記述と訳注の記述から思うに、既設の疫病隔離病院は一つで、ほかは急ごしらえで臨時のペスト対策隔離病院だったのではないでしょうか。




【疫病患者隔離病院――重大な手抜かりだった】
『ロンドペストの恐怖』P82

  ロンドンのような大都市に、たった一軒しか疫病患者隔離病院がなかったのは、重大な手抜かりだった。

 バンヒルフィールズの先の、せいぜい2、300人ほどの患者しか収容できない疫病患者隔離病院だけではなく、ひとつのベッドにふたり寝かせたり、1部屋に2台のベッドを置いたりすることなしに1,000人の患者を収容できる隔離病院をいつか建てておくべきだった。

 
  ※この叙述は身につまされます。パンデミックという苦難のもとで生活した
   体験を持つ世代が絶えると、その後に生まれ育ち生きる子孫たちは、同様
   の「重大な手抜かり」をくり返します。私たちにはそういう宿痾がつきま      
   とっているものと見て、すべからく謙虚に向き合って生きていきたい。


 そして家のだれか、とくに奉公人が発病したら、戸主は希望に応じて(実際、ほとんどの者が希望していた)、即座にもよりの隔離病院に送らなければならず、貧しい人々が疫病で倒れた場合には、検査員が入院させてやらなければならないことにしておけばよかったのである。

 強制的にではなく本人の希望に応じて隔離病院に収容される決まりになっていて、家屋閉鎖という措置がとられていなかったなら、何万人ものおびただしい死者が出ることはなかっただろう。いまにいたるまで、わたしはそう確信しつづけている。

 というのも、わたし自身が見聞きした実例をいくつもあげることができるのだが、たとえ奉公人が感染しても、患者をよそに移したり、病人を家に残して自分たちが避難したりする暇があった家族はみな命拾いしたのに対して、家族のうちのひとりかふたりが発病したために家を閉鎖された一家は全滅してしまったからだ。

 そういう家では、やがて亡骸
なきがらを戸口まで運べる家族がいなくなり、ついにはひとり残らず死んでしまったので、運搬人がなかに入って死体をとってくるしかなくなるというありさまだった。



家庭用冷蔵庫も冷凍食品もない。保存食品は漬物やパンなどごく少ない品目しかない時代のことです。ペストは怖いけれど、市場通いから逃げては生きていけません。これと同じように、現代の主要都市では莫大な数の通勤者は、密閉密集密接三密の箱、通勤電車から逃れるわけにはまいりません。世上最大のクラスターが通勤電車であることは、きっとまちがいではないけれど‥‥。




【毎日の食料品買い出しが災難の大きな原因だ】
『ロンドペストの恐怖』P86

 もう一度いおう。家を出て食料品を買いにいかなければならないということが、ロンドン全市が見舞われた災難の大きな原因だったのだ。人々は、何度も買い物に出ているうちに、疫病に感染してしまったのだ。

  ―― 略 ――

 しかし、食料品の買いだめなど、貧乏人にできるものではなかったから、どうしても市場に買い物に行かなければならなかった。奉公人や子供に行かせるものもいた。

 しかも買い物は毎日しなければならないから、おびただしい数の健康な人々が市場に通っていた。そして市場に買い物に行くまでは健康だった大勢の者が、家に死を持ち帰っていたのだ。

 たしかに市民は、できるかぎりの予防策を講じていた。市場でひとかたまりの肉を買うときは、肉屋の手から受けとらないで、自分で肉を鈎
かぎからはずしていた。一方、肉屋のほうも。酢を満たした壺を用意しておいて、代金をそのなかへ入れさせ、自分では受けとろうとしなかった。客はどんな半端な値段でも釣り銭をもらわないですむよう、いつも小銭を用意していった。



やむを得ず買い物の使いに出歩く人たちのなかから、「なんの前触れもなしに、街路であっけなく死んでしまう」人が珍しくなくなりました。それはペストの一般的な症状によるものでした。

新型コロナで、平熱か微熱から驚くほどに急変悪化して亡くなられた方が多いことに思いが及びます。

「ペスト菌が人々の家庭に忍び込むと、16~23日後になってようやく最初の症状が出る。症状が出て3~5日後には患者は死亡する。」 National Geographic 日本語版 2020.5.24.「ペストの歴史」(  ←クリック )




【街なかであっというまに息絶えてしまう人たち】
『ロンドペストの恐怖』P88

  (※それでも人々は運を天にまかせて市場に出かけたり、取りやめることのできない所用で出歩くしかなかった。) まさに、この点に関して、数えきれないほどの悲惨な話を、毎日のように聞いたものだった。

 市場の真ん中で男や女がばったり倒れて死んでしまうこともときどきあった。ペストにかかっているのに、自分では少しも気づかないことが多かったのだ。

 そういう人々は、体内の壊疽
えそに中枢器官を冒されて、あっというまに息絶えてしまうのだった。大勢の市民が、なんの前触れもなしに、街路であっけなく死んでしまうことが、日常茶飯事になっていたのだ。

 もよりの露店や屋台店や、近くの戸口やポーチまでたどりつく者もいたが、そこで腰をおろすや、たちまちこと切れてしまうのだった。

 こうした出来事が街なかでしょっちゆう起こったので、疫病がロンドン東部で最高潮に達 したころには、街を歩けば、いくつもの死体が道端のそこここに転がっているのを、必ずといっていいほど見かけるようになった。

 人々もはじめのうちこそ行き倒れの死体に出くわすと、立ちどまって近所の者を呼びだし ていたものだったが、やがてまったく気にかけないようになった。それどころか、路上の死 体を見つけると、近寄らないように、避けて通ったものだった。もしそこが狭い路地なら、 きびすを返し、ほかの道を探して用事をすませた。

  そのような場合には、役人が気づいて片づけるまで、つまり夜になってから、死体運搬馬車に従う運搬人たちが持っていくまで、死体はそのまま放っておかれた。 
 (注) 埋葬は「夜間」と定められていました。


 
 (注) 法令により、疫病による死者の埋葬は次のように決められていました。
  ①死者の埋葬は教区役員または警吏の同意を得て、日の出前・日没後の適切な
   時刻に行う。
  ②隣人・友人であっても、教会まで死体につきそうこと、感染した家屋に立ち
   入ってはならない。違反者は家屋閉鎖または投獄の刑に処する。
  ③教会、教会墓地、埋葬地における死体埋葬の際、子供を死体、柩、墓穴に
   近づけてはならない。
  ④今回の疫病流行中は、疫病以外による葬式にあっても会葬者の惨烈を禁止す
   る。
  ⑤教会で祈禱、説教、講話が行われている最中に、教会内に埋葬またはとどめ
   置くことを禁ずる
  ⑥墓穴の深さは1・8メートル以上とする。





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ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の2)

2021-01-24 16:05:43 | Weblog

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 2020-12-10
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2020-12-28
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2021-01-19
ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(上)
2021-01-20
ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(中)
2021-01-22
ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の1) 



当時のロンドンには、疫病患者向けの隔離病院が常設・臨時各1、ありました。しかし、1665年のペスト大流行期には入院できない人が出てきます。

入院できないペスト患者を隔離するために「家屋閉鎖」の制度がありました。ペスト患者、その家族、奉公人同居者など全員ひとまとめに一定期間外出禁止。外部からの訪問禁止。――指定された閉鎖家屋には監視人が配置されます。

他所の疫病患者を訪ねたり、許可なく感染家屋に立ち入った者が居住する家屋も同様に処置されました。 

そして家に閉じ込められたままの人の多くは、それでも感染しなかった少数例を除いて、みんな死んでしまいました。閉鎖家屋は死の家でした。 

死の家に閉じこめられた住人は、いろいろな手段を講じて監視をかすめて逃亡し、行方知れずになる者が続出しました。 逃避行中に発病した逃亡者は立ち寄り先や路傍や叢の中で命を落としました。



【家屋閉鎖――家族・同居人もろとも外出禁止】
『ロンドペストの恐怖』P62

 市民の家の戸口を閉鎖して、その前に昼も夜も監視人をつけて、外へ出ることも、だれかが入ってくることもできないようにしたのだから、血も涙もない仕打ちに思えたのはたしかだった。なにしろ、家族のうちで健康な者は、病人のもとを離れさえすれば、ひょっとしたら助かるかもしれなかったのだ。

大勢の人々が、このような悲惨な監禁状態で死んでいった。たとえ家でペストが発生しても、自由の身でさえあったなら、病に倒れることもなかっただろう。

当初、庶民は動揺し、騒ぎたてた。閉鎖された家屋の監視を命じられていた男たちが暴行を受けたり、けがをさせられたりする事件が続発した。また、腕ずくで自宅から脱出するという事件も各所で発生した。

 それでも、家屋閉鎖には個人の犠牲を正当化できるだけの公共の利益があった。だから、当時、いくら治安判事や政府当局に泣きついたところで、なんの役にも立たなかった。少なくとも、わたしの聞いたところではそうだった。


死の病ペストを患った人々の多くは自分の家で静養するより方法がなかった。1665年のペスト禍ロンドンでその時代なりの医療を受けることができたのは、例外を除けば、富裕層だけでした。とはいっても、当時、ペストに有効な治療薬はありません。

現代にあっても、インフルエンザの治療薬はありません。新型コロナの治療薬もありません。1665年ロンドンの殺人ペストも、2021年日本や世界の急死コロナも、治療薬が無いという点で共通しています。

コロナについて通常の医療サービスを受けられない現代日本と1665年ロンドンを比較してみました。

◎東京都 コロナ2021.1.22.-20:00時点
 入院・療養等調整中 6,276人 自宅療養 8,814人 宿泊療養 873人
 院外合計15,963人 入院(軽症・中等症・重症)2,746人 入院率14.7%

◎大阪府コロナ 2021.1.22.時点
 入院・療養等調整中 1,434人 自宅療養 2,493人 宿泊療養 1,089人
 院外合計5,016人 入院(軽症・中等症・重症)1,161人 入院率18.8%

2021.1.24.毎日新聞朝刊1面トップ記事「自宅療養中21人死亡 昨年12月以降 新型コロナ」現代に生きる私たちの中から、1665年ロンドンと同じ「自宅死」がじりっじりっと上積みされつつあります。



【検査員が家を閉鎖しに行ってみると‥‥】
『ロンド・ペストの恐怖』P168
 

  (注) 検査員は、各自の教区内のどの家で病気が発生し、だれが病気にかかり、
   それがどのような病気なのかを調査・確認する。また疫病の疑いあるとき
   は、病名が判明するまで外部との交渉を禁じる。疫病患者を発見したら、
   その家屋を閉鎖するよう警吏に命令する。


 家を閉鎖しに行ってみると、もう手遅れの状態になっていたのだ。家に残された人々がみんな永眠してしまってから、ようやく検査員の耳に入ることも珍しくなかった。

 ぺティコートレインぞいにある2軒の家ではそろって感染者を出したが、病気のことはひた隠しに隠し、担当の検査員の目をたくみにあざむいていた。この検査員はわたしの隣人だったが、両家の人間がみんな死んだので死体を運ぶ荷馬車がいるという知らせがきて、やっと事のしだいに気づいたという。

 両家の主たちは結託して、検査員が近所に見回りに来たらかわるがわる外に出て質問に答えようと、申しあわせていたのだった。つまり、お互いに相手のために嘘をついたのだ。

 また、近くの家々にも頼んで、みんな元気にしているといってもらっていた。たぶん死に見舞われるまでは、これよりうまい手はないと思っていただろう。

 が、死人となってはもう秘密を守ることもできず、夜の間に両家に死体運搬馬車が呼ばれてすべてが表ざたになってしまった。けれども、検査員が警吏に命じて家を閉鎖させたときには、家のなかにはたった3人しか残っていなかった。一方の家にふたりと、もう片方の家にいまにも死にそうな病人がひとりだ。

 それぞれの家の家政婦が話したところでは、家に最初の病人が出たのは10日ほど前で、すでに5人を葬った、ということだった。この2世帯にはそのほかにもたくさんの家族がいたが、みんな逃げてしまっていた。病気の者も健康な者もいたし、どちらともつかない者もいたという。


歴史に残るペスト大流行。ロンドン人口に対するペスト死者数は2割に上るとも言われていて、戦争以上の犠牲者がそこここで毎日つづいていました。



【家屋閉鎖――家族・同居人もろとも外出禁止】
『ロンドペストの恐怖』P171

 人々は、こんなに激しく手のほどこしようのない疫病からはどのみち逃れられないし、もう生きのびられないのだという失意に沈んでいた。実際、病気の猛威がピークに達した(※1965年)8月、9月の約2カ月問に感染して命が助かった者は、まずいなかった。

 そして、そのころには、(※1965年)6月と7月、および8月の初旬によく見られた病気の症状とは正反対の特徴が表われてきた。

 (※1965年)6月、7月ころには人々は感染してもすぐに死ぬことはなく、長い間血液を疫病に毒されたまま生き長らえていた。しかし疫病の絶頂期にはこれとまったく逆のことが起こり、(※1965年)8月の後半2週間と9月の第3週までに感染した人々は、長くてもほんの二、三日わずらってあっけなく息をひきとった。そして、多くは感染したその日に死ぬという変わりようだった。

   ―― 略 ――

 この時期になって、突然の死を迎える人々が前より増えたことは、数えきれない実例が裏 づけている。現にわたしの近所にもそういう家が何軒かあった。

 わたしの家からそう遠くなく、シティの関門の外に住んでいたある家では、月曜日には10人の家族全員が元気そうにしていたのに、その晩にメイドと徒弟にひとりずつ感染者が出て、翌朝帰らぬ人となった。

 そして、そのときにはすでにもうひとりの徒弟とふたりの子供たちにも病気がうつっていて、 ひとりは同じ日の夕方に、あとのふたりは一夜明けて水曜日に死んだ。

 そうこうして土曜日の正午までに、その家の主人と妻、4人の子供、そして4人の使用人がひとり残らずこの世を去ってしまった。

  (注1) この時代のロンドン都市部には王族や有爵位の宮廷貴人、高位要職者や新興
    商工業者が集住して栄えていました。これら貴人、要人、商工業者に使われ
    ている奉公人・職人は多くが、そういった人々の家・屋敷の内に住んでいま
    した。彼らは教区の住民記録簿では、間借り人、と分類されていました。


 (注2)間借り人は主人の家内で食事・寝床付の生活をしていました。ペスト大流
    行のために、商工業者の大半が使用人を解雇しました。解雇された奉公人・
    職人は多くが間借り人だったので、失業と同時に「食べる物・寝るところ」
    を失いました。

 (注3)首都東京にはアパート代が払えなくなったり、食べる物に事欠く若い学生・
    店員・勤め人がたくさんいるのではないか。全国にはそういった人たちがた
    くさんいるのではないか。事業者補償は、不公平な政策です。このたびのコ
    ロナ襲来規模は天災に見立てた方がいい。天災の被災対策は事業者補償では
    なくて、生きている一人一人の生命・生活の救済です。天災被災者への事業
    者補償をしても、大方のアルバイト・パート・派遣社員・契約社員などコロ
    ナ被災者の助けにはなりません。生きている一人一人に対する最低限の生活
    費補助こそ、この急場の国の仕事ではないでしょうか。


 がらんとした家には、そこの主人の兄弟に頼まれ て家財道具の始末をしにきた老女がひとりいるだけだった。その兄弟はそれほど遠くないと ころに住んでいたが、病気にはかかっていなかったそうだ。

 住人はみんな死んで運びだされてしまい、無人の廃屋と化した家が街のいたるところに見られた。開門の向こうに、「モーゼとアーロン」という標識が出ていた。その標識をわきに入った路地では、とくにひどい状況だったらしい。

 話によると、そこには何軒も家が連なっていたが、住人は人っ子ひとり助からなかったそうだ。そのうえ、最後に息を引きとつた数人の遺体はそのまま家のなかに放置され、運びだしけて書いた人もいる。

 が、本当のところは、その路地ではあまりにたくさんの死者が出たので、ほうむらなければならない死体があることを埋葬人や墓掘り人に連絡する者がいなかったのだ。

 どこまでが事実かは知れないが、そのような遺体のいくつかは傷みがひどく腐敗が進んでいて、運搬するのにたいそう苦労したという。

 死体運搬馬車は路地に面した大通りまでしか行けなかったので、なおさら運ぶのがたいへんだった。何体くらい死体が捨て置かれていたかはわからないが、普通に考えればそう多くなかったはずだ。




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ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の1)

2021-01-22 21:15:24 | Weblog


 オリンピックを中止して、コロナ禍脱出に専念する政治を期待する。
 〇事業補償を中止して、コロナ廃業・失業・給与減に即時生活支援を。

 2020-12-10
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2020-12-11
<コロナ> 基幹病院「旭川厚生病院」 covid-19 院内感染対応状況の記録 2020.11.22.~2020.12.31. 日報追記12月31日まで
2020-12-28
<コロナ急死> 羽田雄一郎参院議員 24日深夜発熱、25・26日自宅静養、27日PCR検査に向かう車中で死去
2021-01-11
今はスペイン風邪パンデミック(1918年~1919年)以後で最大のウイルス・ストームに見舞われている
2021-01-16
自宅コロナ死は他人事でない 私は自然の猛威に臆病です 台風・地下水・雨、『ロンドン・ペストの恐怖』
2021-01-19
ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(上)
2021-01-20
ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(中) 



チャールズ二世、1660年亡命先ハーグからロンドン入り、1661年国王戴冠。王政復古をきっかけに、王党派が続々とロンドンに戻りました。ロンドンの人口は急増し、人々は活況に沸いていました。



【浮かれていたロンドン】
 『ロンドンペストの恐怖』P29

 このペスト大流行当時の、というよりも流行しはじめたころのロンドンとその近郊の人口が、とほうもない数に達していたことを忘れてはならない。

  この記録を執筆している現在
(本作発表は1722年)、ロンドンの人口はますますふくれあがって、膨大な数の人々が住んでいるが、あのころの人口の激増ぶりは、それはすさまじいものだった。

 戦争は終わる、軍隊は解散する、王室と王政は復活するというぐあいで、多くの人々が商売をはじめたり、報酬や立身出世を求めて宮廷に仕官したりしたため、ロンドンの人口は、一挙に10万人増えた、いや王党派が一族を引き連れて押し寄せてきたせいで倍増したといわれたものだった。

 かつての兵士がみなここで商いをはじめたし、数えきれないほどの家族がここに移り住んだのだ。

 宮廷は、またしてもおごりたかぶり、あさはかな風潮をもたらしていた。だれもが浮かれ、ぜいたくになっていた。こうして、王政復古の喜びが、多くの家族をロンドンに引き寄せていたのである。

   (注) クロムウエルの市民革命(別名 清教徒革命)
    1649年 チャールズ1世、処刑
    1658年 クロムウエル死去
    1660年 スコットランド軍、ロンドン入り 旧議会を復活させた
     同年  議会が亡命中のチャールズ2世を国王に招く 王政復古
    1665年 ロンドン、ペスト大流行 死亡週報 年間疫病死68,590人
        別調査 年間疫病死10万人 デフォー推測 年間ペスト死10万人

    


1964年の終わりごろに、ロンドンで初めてのペスト死者が出ました。1965年2月ごろから目に見えて死者数が増えました。6月にはもう、ロンドンの街はペストの恐怖に覆われていました。

前年にひきつづいて1665年も、盛んで希望にあふれたロンドンであるはずでした。ロンドンの人々の誰がこうなることを想像し得たでしょうか。

2020年正月の日本が重なってきます。昨年の年明け、誰が新型コロナの襲来を想像し得たでしょうか。



【ロンドンから逃げ出す富裕層】
 『ロンドンペストの恐怖』P21

 6月第2週にはいると、あいかわらず疫病がはびこっているセント・ジャイルズ教区では、死亡者は120名にのぼった。

死亡週報によれば、ペストによるものは68名にすぎなかった。だが、この教区のいつもの埋葬数から考えて、どう少なく見積もっても100人はペストで死んだにちがいない、というのがもっぱらの噂だった。

わたしが住んでいたのは、オールドゲイトの外側で、オールドゲイト教会とホワイトチャペル開門のほぼ中間にあたり、街路の左側、つまり北側だった。

ペストはまだシティのこちら側(東部)にはおよんでいなかったので、近所の人たちもまったく心配していなかった。しかし、ロンドンの西側の住人はあわてふためいていた。裕福な人々、とくに貴族や紳士たちは、家族と使用人を引き連れ、次から次へと、あわてふためいてシティの西部から脱出していった。

そのような一行がとりわけたくさん見られたのがホワイトチャペル、つまりわたしが住んでいた大通りだった。

実際、家財道具や女や使用人や子供などを乗せた荷馬車だの、もっと上流の人々を乗せた御者つきの四頭立て馬車だので、通りが埋めつくされるほどだった。どの一行も大急ぎで市外をめざしていた。また残った人々を迎えにいくために、田舎から送られてきたか、折り返し戻ってきたにちがいない空の荷馬車や馬車、それに使用人が引く空の乗馬も見られた。このほか、おびただしい数の馬に乗った人々も混じっていた。

 ひとりきりの人も、従者を連れている人もいたが、ほとんどは馬に荷物をのせており、 ひとめでそれとわかる旅支度をしていた。こういった市民の動揺は数週間つづいた。





【住人の避難つづく】
 『ロンドンペストの恐怖』P29

 そして、ついにシティにもペストが広がりはじめた。もっともおびただしい数の市民が疎開したあとなので、人口は激減していたし、7月中も、以前ほどの数ではないにしても、住人の避難はつづいていた。8月に入っても疎開者はあとを絶たなかった。

  
 (注) シティ‥‥別称「城内」。ロンドン130教区のうち、旧市街地97教区を指す。

市民が続々とロンドンをあとにしている一方で、宮廷も早々に6月にはロンドンを出て、オックスフォードに移ることになった。神の思し召しで、宮廷人たちは無事だった。

  ロンドンは唖然とするほど変貌してしまった。建物という建物も、城内も、特別行政区 も、郊外も、ウエストミンスター地区もサザーク地区も、すべてが一変してしまったのだ。 シティと呼ばれる特別な地域、つまり城内は、まだそれほど汚染されていなかった。しかし 全体として、ロンドンの様子はすっかり変わってしまっていた。

 どの顔を見ても、悲しげで憂鬱そうだった。そしてまだ壊滅的な打撃を受けていないと ころもあったのだが、だれもが不安でたまらないという表情をしていた。市民は自分や家族 に危険がひしひしと迫っていると感じていたのだ。

  ―― 略 ――

 死を悼む声は街々に響いていた。道を歩いていると、最愛の家族が息をひきとろうとしているか、ひきとつたばかりなのだろう、家の窓や戸口から、女性や子供の悲鳴が聞こえてくることもしばしばあった。どんなに情がない人間でも、それを聞けば胸がはりさけそうになる声だった。流行の初期には、涙と悲嘆は死者が出たどの家でも見られた。

 ところが、あとになると、あまりにも目の前で人がばたばた死にすぎたせいで、市民の感 情はすっかり麻痺し、近親を失ってもたいして悲しまなくなってしまった。次に召されるの は自分だなと思うだけになっていたのだ。




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ダニエル・デフォーの『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(中)

2021-01-20 16:54:41 | Weblog

 オリンピックを中止して、コロナ禍脱出に専念する政治を期待する。
 〇事業補償を中止して、コロナ廃業・失業・給与減に即時生活支援を。

 2020-12-10
<コロナ> 北海道旭川市は「医療崩壊」状態、大阪府は医療危機、北海道医療センター院内クラスターの経緯、オリンピック中止を
2020-12-11
<コロナ> 基幹病院「旭川厚生病院」 covid-19 院内感染対応状況の記録 2020.11.22.~2020.12.31. 日報追記12月31日まで
2020-12-28
<コロナ急死> 羽田雄一郎参院議員 24日深夜発熱、25・26日自宅静養、27日PCR検査に向かう車中で死去
2021-01-11
今はスペイン風邪パンデミック(1918年~1919年)以後で最大のウイルス・ストームに見舞われている
2021-01-16
自宅コロナ死は他人事でない 私は自然の猛威に臆病です 台風・地下水・雨、『ロンドン・ペストの恐怖』
2021-01-19
ダニエル・デフォーの『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(上) 



ペスト禍のロンドンでも今の日本以上に経済活動が止まっていました。『ロンドン・ペストの恐怖』では、疫病流行の初期のこととして、経済活動の概況を記録しています。ロンドン市が疫病(ペスト)対策の法律を施行して精力的に取り組みが始まったのが1665年6月ですから、この記録が描写しているのは7月ごろのことかと想像しています。

1665年夏、ロンドンのペスト理由失業者はおびただしく、今の日本のコロナ失業とまったく同じ状態です。

現代日本の非正規・アルバイト失業者に対して、昨年に実行された全国民一律10万円以外に何かの特別支援金措置があるのでしょうか? 356年前のロンドン失業者と大して変わらない状態で放置されているのでしょうか? 未だ東京オリンピックゲームに呆けている、事業者ばかり助けている、安倍・菅二代の「自助」政権は、国民の中の多数派である使われる人々(被用者)を「自助」を矛にして見殺しにしているのではありませんか? 

「盾にして見殺し」ではありません。「自助」を矛にして突き殺すような見殺しのやり方で、放置しているのではありませんか?



【あらゆる商売が事実上停止してしまった】
『ロンドン・ペストの恐怖』P98

 疫病流行の初期、もはや希望はなくなり、全市に蔓延するのはさけられなくなったころ、 つまり田舎に友人や地所がある市民はみな疎開してしまい、ロンドンそのものが門外へ逃げ だして、人っ子ひとり残らないのではないかと思われはじめたころから、当然のことながら、生活に直接関連する品物をべつにすれば、あらゆる商売が事実上停止してしまった。

  これは非常になまなましく、市民の窮状を伝えられる例なので、このような状況におちいったとたん、生活が苦しくなってしまった職業や階級の人々について、いくつか実例をあげることにしよう。

(一)製造業、とりわけ装飾品、実用的ではない衣服、家具などの製造にた
  ずさわっていた親方全員。

   たとえば、リボンなどの織工、金銀モール、金線・銀線などの製造
  業、お針子、婦人帽、靴、帽子、手袋などの製造業である。

   その他、椅子類張り替え業、木工、指物師、鏡の製造など、数えきれ
  ないほどの職種がここにあてはまった。このような親方衆は仕事をやめ
  て、職人や徒弟など、すべての雇い人を解雇してしまった。

(二)商売が完全にストップしてしまったので、テムズ河をさかのぼってく
  る船はそのほとんどがなくなり、また、出てゆく船はまったくなくなっ
  た。

   そのため臨時雇いの税関職員や、船員、荷馬車の御者、荷揚げ作業員
  などの、貿易商人に使われていた貧しい労働者たちは、ことごとくくび
  にされ、仕事にあぶれてしまった。

(三)家の新築や修理に従事していた雇い人は完全に失業してしまった。無
  数の家の住人があっというまにいなくなっているようなありさまでは
  だれも家を建てようなどと思わなくなった。したがって、そういったた
  ぐいのごく普通の職人は、みな仕事にあぶれた。

   たとえば、煉瓦職人、石工、大工、建具工、左官、ペンキ屋、ガラス
  屋、鍛冶屋、配管工などである。

(四)海運がとまって、以前のように船の出入りがなくなったので、船員の
  仕事はまったくなくなり、その多くはにっちもさっちもいかない苦境に
  追いこまれてしまった。

   船員のほかにも、船の建造や艤装にかかわるさまざまな商人や職人も
  窮地におちいった。たとえば船大工、コーキング工、縄職人、乾物用の
  樽職人、縫帆工、錨などの鍛冶工、さらには滑車製造工、彫刻工、鉄砲
  鍛冶、船舶雑貨商、船首彫刻工などである。

   こうした職種の親方は財産を食いつぶして暮らせたが、貿易商が例外
  なしに仕事をやめてしまったため、職人たちはひとり残らずくびを切ら
  れた。

   そのうえ、テムズ河をはしけが一隻も走っていないも同然のありさま
  だったため、大部分の船員、はしけ船頭、船大工、大工もまた仕事がな
  くなり、失業してしまった。

(五)避難した家族も、とどまった家族も、できるだけ生活費を切り詰め
  た。そのため、おびただしい数の召し使い、従僕、店員、職人、帳簿係
  などの人々、わけてもメイドが解雇された。彼らは仕事も家も失って孤
  立無援になってしまい、悲惨きわまる境遇におちいった。




【無症状で健康な保菌者から伝染が広がった】
『ロンドン・ペストの恐怖』P190

 ここでまた、感染経路について彼の世代が参考にできる見方を残しておかなければならない。それは、病人からだけではなく、健康な人からも疫病に感染するということである。

病人とはすなわち、病気であることがわかっていて、病床につき、治療を受けており、腫れものやできものができている人を意味する。これらの人々については、だれもが用心する。ベッドに横たわっているか、隠しようがない症状が現われているからである。

だが、ここでいう健康な人とは、感染して病毒が体内の血に入り込んでいるが、症状が外部に現われておらず、本人も感染に気がついていない人をいう。

多くの場合、数日間も感染に気がつかないため、このような人々は行く先々で、間近に接 したすべての人に死を吹き込む。これらの人々が着ている衣服には病毒が染み込んでおり、 とくに手が温かくて汗で湿っているときは、さわったものも汚染される。病毒に感染してい る人の手は、おおむね汗で湿っていることが多い。

いまのところ、人々が感染しているかどうか判断するのは不可能で、本人も感染しているかどうかわからない。路上に倒れて気を失うのは、おもにこういう人々だった。通りを歩き 回っているうちに突然汗をかき、気が遠くなり、通りに面した家の玄関先にすわりこみ、死んでしまう。

このような人々は自分が病気だとわかると、なんとしてでも自宅に帰ろうとした。また、家に帰り着いたとたんに死んでしまう人もいた。病気の兆候が現われるまで歩き回り、それと気づかないまま家に帰り着いて一、二時間で死ぬこともある。屋外にいる間は元気だったのだ。

人が用心しなければならないのはこのような人々だ。ところが、このような人々を見わけることはできないのである。

 ペスト襲来のときには最大限の注意を払っても病気の蔓延を防げないが、その理由はここにある。感染者とそうでない者を見わけられないのだ。感染者自身も自分がそうであるか どうか知らなかった。




【用心してもしようがない】 
『ロンドン・ペストの恐怖』P192

この話からわかるように、病気が蔓延している街をむやみに歩き回るような人は疫病の感染をまぬがれることはできないのだった。

このような人は気がつかないうちに感染し、気がつかないうちに人に感染させている。 ― 略 ― いつ、どこで、どのようにして、だれから感染したか、だれひとりわからないのだから。

 非常に多くの人々が、「空気が汚染され、病毒がまき散らされている。病毒は空中にある のだから、だれと接触しようと、しまいと、用心してもしようがない」などと口にするよう になったのは、このせいだと考える。

 ― 略 ― 感染した者は「伝染病にも感染者にも近づいたことはないのだから、空気のせいにちがいない」と、叫び続ける。

「息と一緒に死を吸い込むのだから、これは神の思し召しで、防ぐことはできない」

 こうして、ついには多くの人が危険に対して無頓着になり、病気を意に介さなくなり、 大流行に対して用心しなくなったのである。そして感染の勢いが最高潮に達すると最初に病 気にかかるのはこういう人たちだった。

 病気に感染してしまうと、東洋的な運命決定説を持ち出して、「病気にかかるのが神の思 し召しならば、外出しようが家に閉じこもつていようが、どのみち逃れることはできない」といった。

 そして人々は大胆にも感染した家に立ち寄り、感染した仲間とつき合い、病人を見舞い、 また感染している妻や家族と一緒のベッドに寝たりした。

 それがどういう結果をもたらしたか。トルコやそのほかの国と同様に、このようなことをした人々は疫病に感染し、何百人、何千人という単位で死んでいった。




【用心と理性的な行動で感染の危険が減る】 
『ロンドン・ペストの恐怖』P202

 病気が人から人へ感染するということについて正しい知識を持つようになる前、人々は帽 子をかぶった男や、首に布を巻いた男など、病気にかかっていることがはっきりわかる人に だけ用心した。帽子をかぶったり、布を巻いているのはそこが腫れているということで、そ れは見るだけで恐ろしいことだった。

 ところが、白い襟をつけ、手袋を持ち、頭には帽子をかぶり、髪にきちんと櫛を入れた紳 士にはまったく不安を感じず、とくにそれが隣人や知人だったりすると、人々はのんびりと 長い時間話をした。

  しかし、医者が、健康に見える人も病人と同じように危険であり、まったく安全だと思っていた人々が死んでしまうことが多いと断言した。またそのことが一般に知られるようにな って、人々が用心し、理性的に行動するようになったともいった。

 すると人々はだれに対しても用心深くなり、大勢の人が家に鍵をかけて閉じこもるようになった。それは外出して人と接触しないためであり、見さかいなく人と接した人が家に来たり近寄ったりしないようにするためであり、そのような人の息がかかったり、臭いを感じるほど近寄らないようにするためだった。

 面識のない人間と遠くからでも話す必要が生じたときは、感染しないように口に予防薬を 含んだり、それを衣服に振りかけたりした。

人々がこのように慎重な態度をとりはじめると、病気に感染する危険は減り、以前用心が 足りなかったときに比べ、病気に襲われなくなったことは確かである。しかるべき神のお導 きがあったとはいえ、このような方法で何千もの家族が助かったのだ。


 ◎ダニエル・デフォー著『ペスト』(中公文庫)をお勧めします。


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ダニエル・デフォーの『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(上)

2021-01-19 00:59:37 | Weblog


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2021-01-11
今はスペイン風邪パンデミック(1918年~1919年)以後で最大のウイルス・ストームに見舞われている
2021-01-16
自宅コロナ死は他人事でない 私は自然の猛威に臆病です 台風・地下水・雨、『ロンドン・ペストの恐怖』



1665年、ペスト大流行当時のロンドンはのうちシティ(城壁の内側、旧市街地)97教区は市長・市会議員以下、独立した自治都市として組織されていました。

さらにシティの外側の28教区、特別行政区5教区を加えて、ロンドンは英国国教130教区に分けられていました。「教区」といっても行政組織の単位でもありました。

1665年、デフォーは5歳でした。毎日毎日、多くの人が死んでゆく街の光景は彼の心身に刻み込まれて、終生彼とともに生きていたことでしょう。

彼が「ロンドン・ペストの恐怖」を上梓したのは1722年62歳のときでした。政治のことにもかなり深くかかわった経歴があり、ジャーナリストとしての名声もよく知られ、「ロビンソン・クルーソー」で作家としての評判も確立していました。なお、彼は英国国教徒ではありません。

円熟期のデフォーが書いたロンドンのペストは1665年の資料をそのまま使っていることも多く、読む者にはペスト禍の生活を目の前に見ているような臨場感があります。作品は小説仕立てになっているのですが、私はルポルタージュだと思ってこの本を買ったのです。それほどに本書の事実について評価が高い。

歴史を読んで、それと同時代の歴史小説などを読み重ねると、史実の中の人たちや情景が生き生きとふくらんできます。この「ロンドン・ペストの恐怖」を読んだのはずいぶん前のことなので、昨春にあらためて再読しました。

これに併せて「緑の世界史(下)」朝日選書2005.4.30.第5刷の部分再読をしました。私はこれら過去の歴史を見て、このたびのコロナ禍の収束に少なくとも2年は要すると思っております。オリンピックをやればもっと長引くでしょう。

 ※ダニエル・デフォーのロンドン・ペストは、中公文庫で手に入ります。
  お勧めします



【ペスト死が始まった】 『ロンドンペストの恐怖』P14

 1664年11月末か12月はじめに、ロンドンのロングエイカーだかドルアリーレインだかで、ふたりの男――ふたりともフランス人だったそうだ――がペストのために死亡したのだった。彼らが滞在していた家の者はなんとかそれを隠そうとしたが、近所の噂になってしまい、それが役人の耳に届いたのである。

 当局は調査に乗りだし、真相を究明すべく、ふたりの内科医とひとりの外科医をその家に派遣し、検視をおこなわせた。はたして、医者たちはどちらの死体からも明らかな疫病の兆候を発見し、両名の死因はペストであるという所見を公表した。このことは教区役員(
教区は教会行政区分の最小単位で、教区司祭2人と教区役員2人が管理運営を行っている)に報告され、彼はそれを教区役員本部に通報した。死亡週報は、いつもと変わりなく、次のように報じた。

 ペスト死 2  感染教区 1

 これを見た市民のあいだで不安が高まり、市中は騒然としはじめた。そのうえ、同じ年の1664年12月の最後の週に、同じ家でまたひとり、同じ病気で死んだ。
 

 *死亡週報 18世紀以降さまざまな形で不定期に発行されていた死亡週報は、
       1636年ごろロンドンの各教区ごとに教区役員が死者数と死因とを
         集計し、全130教区をまとめて編集・発行するという形になった。


だが、それから6週間ほどは、疫病の兆候を示している死者がまったく出ない、平穏な日々がつづいた。ペストは去ったのだという噂が流れたりもしたが、その後、翌年2月の12日ごろだったと思うが、別の家でもうひとり死んだのだった。家は違ったが、同じ教区だったし、症状も同じだった。

 そのため、市民はその界隈に注目するようになった。やがて死亡週報から、セント・ジャイルズ教区ではいつもより死亡者が増えていることがわかった。

 つまり、この教区ではペストが広がっていて、大勢が死んでいるのだが、表ざたにならないように住民がひた隠しにしている恐れがあった。

 市民は心底から震えあがって、やむをえない、よほど特別な用事でもないかぎり、ドルアリーレインや、そのほかの疑わしい通りをさけるようになった。

  
(※注)死亡週報のからは「うちペスト死」の数はわかりませんが、青文字あたり
     からの状況に、コロナ禍の私たち自身の喜憂の姿を私は映し見ています。


通常、死亡週報にのる死亡者の数は、合計で240前後から300までのあいだでした。1664年12月20日から1週間の死亡者数 291。4週間後の1665年1月17日から1週間の死亡者数 474。増勢が異常になっています。



【ペストが広がっていく】 『ロンドンペストの恐怖』P17

 この最後の数字など(※1665年1月17日から1週間の死亡者数 474)はまさに恐るべきほどで、1週間の死亡者数としては、1656年のペスト流行以来の多さだった。

 ところが、疫病はまたしてもすっかりしずまった。天候が寒くなり、1664年12月にはじまった冷えこみは1665年2月末までおとろえることがなかったうえ、さほど強くはないが身を切るような風も吹いていたので、死亡者数はふたたび減少し、ロンドンは生気を取り戻した。そしてだれもが、危機は過ぎさったと思いこんだのだった。

 もつとも、セント・ジャイルズ教区の死亡者は多いままだった。
 とりわけ1665年4月の上旬からは、毎週25人に達していた。

 そして4月18日から25日にいたる1週間では、この教区で30人が埋葬されていた。このうち、ペストによるもの2名、発疹チフスによるもの8名となっていたが、どちらも同じ病気だとみなされていた。

 また、先週は8名だったのが、今週は3名というぐあいに、発疹チフスによる死亡者の総数も増えていた。
 ※発疹チフスの原因がシラミを媒介とする伝染病であるとわかったのは1903年です。

 だれもがまたしてもぎょつとした。そして市民のあいだに動揺が広がった。なにしろ、天候も暖かくなりかけていたし、夏が間近に迫っていたからだ。それでも、翌週には、またまた希望の光がほの見えた。死亡者が減少し、合計で388名、ペストによる死者なし、発疹チフスによる死者4名になったのだ。

 しかし、翌週には元のもくあみだった。疫病はほかの二、三の、すなわちホーボン区のセント・アンドルー教区にも、セント・クレメント・デインズ教区にも飛び火してしまったのだ。そのうえ、市民を愕然とさせたことに、いわゆる城内のセント・メアリ・ウール・チャーチ教区でも1名の死亡者が出た。くわしくいえば、食料品市場の近くのベアバインダーレインだった。

 (注) それまでセント・ジャイルズ教区以外の城内、すなわち旧市街地のシティから
   ペストが出ていなかったので、シティの住民は恐れおののきました。


 合計で、ペストによる死亡者9名、発疹チフスによるもの6名であった。しかし、調べてみると、ベアバインダーレインで死亡したフランス人は、ロングエイカーの、例のペストを出した家の近くに住んでいたことがわかった。疫病を恐れて引っ越したのだが、時すでに遅く、感染していたというわけだ。

 市民も数日間ははかない望みをいだいていた、が、文字どおり数日に過ぎなかった。もはやそんなことではごまかせなくなっていたのだ。家々の調査が進むと、ペストはいたるところで蔓延しており、毎日多数の人々が死んでいることが判明した。そういうわけで、希望的観測を信じつづけることはまったく不可能になった。

 ペストがいまや下火になることもないほど広がってしまっているという事実は、隠しきれるものではなかった。いや、一目瞭然というべきだった。

 たとえばセント・ジャイルズ教区では、ペストはあちこちの通りに侵入しており、一家全員が病の床についている家族も多かった。そして翌週の死亡週報から、疫病がいよいよ猛威をふるいはじめたことがわかった。

 週報には、ペストによる死亡者はわずか14名しか記載されていなかったが、これはまったくのごまかしであった。

 セント・ジャイルズ教区では計40名が埋葬されているが、たとえ死因がほかの病名になっていても、その大部分がペストによる死者なのは明らかだった。

 また、死亡者が32名しか増えておらず、週報に記載された総数が385名でも、発疹チフス14、ペスト14という数字が示されていたのである。その一週間で、ペストにかかって死亡した者は、およそ50人と見積もられた。

 次の死亡週報は1665年5月23日から30日までの分だったが、ペストによる死者は17名だった。

 だが、セント・ジャイルズ教区での死者は全部で53名にのぼった。そらおそろしい数だ! このうち、ペストによるものは9名になっていた。

 けれども、市長の要請にもとづいて、治安判事たちが徹底的に調査すると、この教区で実際にペストで死んだ者は、このほかに20人もいたことがわかった。それなのに、週報では発疹チフスなどのほかの病名になつていたのだ。

 もっとも、この直後に生じた事態に比べたら、そんなことは取るに足りなかった。というのも、天候は暑くなってきたし、1665年6月の第1週から、疫病はみるみるうちに広がったからだ。

 死亡者数ははね上がり、熱病だの、発疹チフスだのという項目がふくれあがった。なにしろ、だれもができるかぎり病名を隠そうとしていたのだ。隣人たちからつまはじきにされるのではないか、当局に家を閉鎖されるのではないかという恐れからだった。

 家屋閉鎖は、当時はまだ実施されていなかったが、市民はこの措置をことのほか恐れていたのだ。

  (注) ペスト感染者が一人でも出て家屋閉鎖の命令が出ると、その家に住む者は一歩
   も戸外に出ることが許されなかった。それゆえその家屋内に住む家族も多くが
   感染して死んだ。


 1665年6月第2週にはいると、あいかわらず疫病がはびこっているセント・ジャイルズ教区では、死亡者は120名にのぼった。

 死亡週報によれば、ペストによるものは68名にすぎなかった。だが、この教区のいつもの埋葬数から考えて、どう少なく見積もっても100人はペストで死んだにちがいない、というのがもっぱらの噂だった。


1664年12月初のペスト死から1665年5月まで半年間でペストがロンドンに蔓延し、ロンドン住民の生活が様変わりしていきました。表通りに人出はほとんど見えなくなりました。

他人事とは思えません。ウイルスはこの世界に常住していて、絶えず変異をつづけています。ウイルスに対する特効薬はまだありません。ワクチンだけが頼りですが、ワクチンの効果日数は長くなく、新しい型のウイルス疾患が流行するたびに、対応できるワクチンの開発が必要になります。間に合いません。

経済振興だ、事業支援だ、いつまでも自粛なんかやってられるか、と言ったところで、ウイルスに謙虚に向き合って共住できる生き方を見つけていくのが、一番良いと思います。

ウイルスに勝った証のオリンピック開催などという思考様式は、愚かなことこのうえないと考えます。



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自宅コロナ死は他人事でない 私は自然の猛威に臆病です 台風・地下水・雨、『ロンドン・ペストの恐怖』

2021-01-16 15:22:08 | Weblog

2020-12-10



私は自然の力、猛威については臆病です。

懸命にコロナ院内感染の医療危機に向き合ってきた旭川厚生病院は今、立ち直りました。


■台風の経験 
30年ほど前に和歌山県白浜に上陸、奈良県直撃台風がありました。このとき住んでいた自宅茶の間の北向きの窓ガラスが内側にしなりました。ガラスが割れて、風と雨がどうっと入ってきたらどうしようと、怖い思いをしました。

関西国際空港が水没した台風の折に、自宅の瓦が何枚かずれました。ご近所で屋根の一部がはがれた家がありました。大屋根の半面の瓦が全部無くなった家もありました。近年、瞬間風速50mなどという台風ニュースを見ますが、今住んでいる家はこれになると潰れるだろうと思い、戦々恐々の思いがします。


■地下水のこわさ
1980年代、90年代のころは奈良県でもまだ、100万㎡~200万㎡の大住宅地造成がいくつか進められていました。大手建設会社現場事務所長の経歴を持つ叔父が言いました。大規模造成工事をしていていちばんこわいのは地下水だと。

そういう大規模宅地造成工事では当然、事前の地下水脈調査もしているはずですが、事前調査で見つけられなかった地下水脈に叔父の工区がぶつかったのです。出水の勢いが止まらず造成工事中止。工事中止日数が、あるいは月数がどれほど要したのか聞き洩らしました。しかし、その地下水問題による採算ベースが社内的に大問題になったようで、工事現場所長であった叔父への批判が激しく、叔父を登用した役員も守り切れなかったようです。結果、叔父は退職しました。地下水出水の結末がどうなったのか、それは聞いておりません。


■雨水のこわさ 
地下水の話を聞いたときに、宅地造成の県の竣工検査で、係官が最も注意してみるのは宅地擁壁であると、叔父が話していました。

宅地擁壁の外側には、小さいパイプが適当な間隔で口を出しています。これは宅地に降る雨水が地中に溜まらないよう、浸透した雨水を外に逃す仕組みになっています。

この浸透雨水を逃す擁壁パイプの内側(宅地側)に土が少しづつ固まって浸透雨水の流れが止まると、擁壁内側に水溜まりができて擁壁が倒れる原因になります。擁壁が倒れたり傾くと、家が傾きます。

このため、宅地擁壁の築造に際して擁壁裏側に砕石を詰める技術基準になっています。浸透雨水の流れが地中の土といっしょに泥水になってパイプを詰まらせないためです。竣工検査のとき、検査員は宅地擁壁の裏側のコンクリートまじかの所を鉄棒で何回か突き刺して砕石が詰められているかを確かめます。


■本川が氾濫していなくても流入河川が氾濫する
奈良県で「五七水害」と呼ばれる水害が昭和57年(1982年)にありました。奈良県中部の大和川に流入する大和川水系葛下川かつげがわが、その合流口にあたる王寺町で氾濫しました。大和川そのものは氾濫していません。

大和川が氾濫していないということは、大和川自体は支流河川からの合流水を呑めるはず。それなにの何で葛下川が氾濫するのか? 叔父に教えてもらいました。

私が知った答えは――大きな河川の方が水圧が強く、流入する支流河川の方が水圧が弱い。そのために、葛下川の水が大和川に入ることができず、大和川合流口手前で氾濫した、ということでした。

水害半年後だったか1年後だったかに、私は大和川の堤防道路を歩いて合流地点を見に行きました。見た目に確認できたことは、支流葛下川の川面が大和川の川面より狭いということだけでした。あたりまえのことなのに、このときはなぜか現地を見たかった。

でも、堤防を歩いてみて新しい発見がありました。大和川流下方向は西行、大阪府行きです。葛下川が氾濫したのは大和川左岸(南側)にある王寺町で、私が歩いて見て回ったのは右岸(北側)三郷町側の大和川堤防でした。

この三郷町側堤防内側には、大小いくつものヒューム管が口を開いていました。三郷町は信貴山縁起絵巻で知られる信貴山の麓にあります。先ごろNHK大河ドラマ『麒麟』で松永弾正信貴山城滅亡の舞台にもなりました。町域全体に信貴山麓から大和川に向かって傾斜が大きい。山手からの雨水がすべて大和川に入ります。

開口小河川、開口用水路、都市雨水排水路など、すべての水が堤防の上面より下に設置されたヒューム管をくぐって大和川に入っています。

ということは、大和川の水面が流入してくるヒューム管の高さに達すると、流入ストップになります。堤防の外側の大和川への入り口で、小河川、用水路、都市雨水排水路などが溢れ始めるという理屈になります。

そして、大和川に流入している小河川、用水路、都市雨水排水路の地盤高が大和川の堤防高を越えるあたりで止まります。ここまでくれば、大和川水面が堤防より低ければ、溢水が堤防を越えて大和川に流入します。大和川が氾濫していれば、氾濫している水面と同じ地盤高まで水浸かりになります。

堤防を観察して歩いて、こんなことがよくわかりました。特に身に染みて思ったことは、川水が堤防を越えたら水害が始まるとは限らないということでした。


■私の身辺にまつわる伝染病――結核、赤痢
私の祖父は母が小学校2年生のときに、肺結核で転地療養の末に亡くなりました。

2歳下の私の弟は、私のおぼつかない記憶ではたぶん3歳か4歳のころだったと思いますが、伝染病である赤痢になりました。そのころ住んでいた家に何人かの人が消毒に来たこともうっすらと記憶に残っています。私も母も感染してはいませんでした。

そんなに幼いころのおぼろげに残っている記憶の断片なので、伝染病で怖い思いをしたという気持ちは残っていません。


■『ロンドン・ペストの恐怖』 伝染病の恐ろしさを身近に感じた
2000年前後のことだったと思いますが、歴史上有名なペストの流行を書いた本を読みました。小学館地球人ライブラリー 「ロンドン・ペストの恐怖」 ダニエル・デフォー著 1994年7月20日初版第1刷発行。ダニエル・デフォーはロビンソン・クルーソーの作者ということで、今でもよく知られている著作です。アマゾンの読者批評のうちアルベール・カミユの「ペスト」よりこちらの方がいい、と評していた人がいます。



 『ロンドン・ペストの恐怖』 ―本書のプロフィール― から

 1665年、当時のロンドン市の人口は約50万、実にその6分の1の命を奪ったペスト禍。その恐ろしさは知っていたが、治療法を知らない当時の人々は、家の中に閉じこもるか、逃げ出すか、あるいは座して死を待つかしか方法はなかった。

 当時、まだ幼少であったデフォーは長じてから、その酸鼻のようすを生き残った人々を訪ね歩いて、精細に描出する。極限の状況に置かれた人間はどんな行動を取るのか。ペストの恐怖もさることながら、デフォーは詳細な数字を示しながらそれも明かしていく。

 ダニエル・デフォーは1660年生まれ。『ロビンソン・クルーソー』の代表作を残した小説家・ジャーナリスト。 1722年に刊行された本書の原題は『A Journal of the Plague Year』という。その後、世界各国で翻訳され、疫病流行・疫病史研究の古典となった。



 『ロンドン・ペストの恐怖』 ―表紙カバーのコピー― から

50万都市ロンドンから8万の命が奪われた。死体を運ぶ御者さえ途中で死ぬ。たった2名の死から始まったそのペスト菌の猛威の前に治療法を知らぬ市民はなすすべもない。ロビンソンクルーソーの著者が描き出した迫真のルポルタージュ。

 1665年8月22日から9月26日までの5週間の死亡者合計38,195名。――デフォーは期日と死亡者数を執拗に書き連ねていく。当時のロンドン市の人口は約50万、実にその6分の1がペストに命を奪われた。

「死体運搬を受け持つ御者が墓地に着くまでに疫病に倒れることもあった。馬はそのまま歩いて行き、車はひっくり返って死体がちらばる。教会墓地の門前にそんな御者のいない死体運搬馬車がぞろぞろといることもあった。」

始まりはドルアリ小路に住む二人の男の突然の死からだった。死亡週報に、さりげなく「疫病死2」の記事が出た。それから数カ月後、同じ教区の死亡者の数がみるみる増えていく。1週間ごとの統計で、16名、12名、18名…24名。ついに違う教区にもこの疫病は魔の手をひろげていく。

治療法もいまだ知らない当時の人々は、家の中に閉じこもるか、逃げ出すか、あるいは死を覚悟するしか道はない。‥‥路地裏から人影は消えた。

『ロビンソン・クルーソー』の作者、ダニエル・デフォーが疫病流行の恐怖を精細に描き出した知られざる傑作。


次回は、私たちが新型コロナに謙虚に対峙していくために、『ロンドン・ペストの恐怖』の一部分を紹介するつもりです。当時のペストと今の新型コロナと、私たちが身を慎んで立ち向かわねばならないことに、なんら変わることはありません。歴史から学べることは多い。


東京オリンピック開催などという世迷いごとを言う森や小池や菅や安倍、よく聞け。一日も早く、オリンピック中止宣言を世界に発信するべきでしょう。




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今はスペイン風邪パンデミック(1918年~1919年)以後で最大のウイルス・ストームに見舞われている

2021-01-11 22:20:12 | Weblog



〇今の世界も日本もスペイン風邪パンデミック(1918年~1919年)以後で最大のウイ
 ルス・ストームに見舞われている。コロナ災禍は安倍晋三氏が好んで使った偽物「国難」ではなく、本物の「国難」ではありませんか。

〇「コロナに勝った日本をオリンピックで世界に見せる」と浮かれていないで、
 オリンピックを中止してコロナ禍の制御・脱出に専念し、地道に日本の再建に
 集中するべき時だ。

〇今の飲食事業支援策は片手落ち。盛り場飲食店への支援金は店舗賃料の支払い
 の足しに消え、店舗所有権者の不動産収入になるだけ。一方、アルバイトから正
 規従業員まで、収入減コロナ生活苦者すべてへの救済は「放置」に等しい

今のコロナ経済は長期に続く。コロナ不振事業の支援をしても、不振事業が助か
 のは無理ですGoTo政策も財政の浪費財政は息をして生きている個人の
 収入減生活援助に振り向けるのが良い必ず社会全体の立ち直りにつながる

〇上のコロナ生活苦援助制度は、コロナ廃業事業主、コロナ倒産事業主、コロナ失
 業者を含むすべての生活苦個人対象に、生活保護制度とは別に3年ていどの期間
 限定臨時制度として、生活再建につなげてほしいという国政指導者への夢です

コロナ禍が収束するころにはコロナ特別資金制度を創始してコロナに倒れた事
 業者による新規起業に対する、あるいはまったく新たな新規起業者に対する
 い切った起業資金供給をすることが経済活性化につながる。もちろん資金の取り
 逃げを計る倒産詐欺師のような悪党には注意が必要だ。

 政商・竹中平蔵の言う「ベーシックインカム7万円」計画など相手にできませ
 ん。彼は新自由主義経済の権化。人の価値を金利計算で値踏みする人です。



<目次>
・昨年12月、英国コロナ変異株・南アコロナ変異株を英国政府が確認
・「新型コロナ変異株、世界に拡大 収束に向けたシナリオ狂い生じる」
・私たちはまだまだ、新型コロナ世界大流行の渦中にあります
 収束時期は見えていません
・ウイルス感染症への予防法――隔離
・自宅待機陽性者1月2日時点――全国6271人、うち東京都3056人
・ノーテンキなGoTo政治の悪影響と見られる数字
 自宅待機やホテル療養で症状急変に対応できず死亡している
・医療危機、医療崩壊という現実が始まっている
・ワクチンさえあれば、は間違いのもと
・オリンピック7月開催前に全国民にワクチン接種完了はできない
・オリンピック選手、オリンピック大会運営関係者にワクチン優先接種
 それでも外国から選手村や競技施設に新型コロナ侵入の恐れあり
・オリンピックで外来コロナが侵入すれば医療崩壊まちがいなし




■昨年12月、英国コロナ変異株・南アコロナ変異株を英国政府が確認
イギリスは今、コロナ大流行に大変苦しんでいます。この大流行は日本に先駆けて実施したGoTo政策が影響したかもしれない、とボリス・ジョンソン英首相が記者会見で話していました。

そのイギリス首相は、昨年2020年12月20日に、英国変異種を確認したと発表しています。英国変異種は感染力がcovid-19よりも強く、年少者への感染率もcovid-19より高い傾向にあるそうです。

その3日後、昨年12月23日に、英国のハンコック保健相が第二の英国変異種が2例見つかった、この2例とも感染者は発表時より過去2週間に南アフリカへの渡航歴がある、と発表しました。これは南アフリカ変異種と見られています。


■「新型コロナ変異株、世界に拡大 収束に向けたシナリオ狂い生じる」
これは1月10日産経新聞の見出しです。

1月8日時点で、英国変異種の感染者は、英仏独など欧州、米国、日韓などアジア、中東の34カ国・地域で確認されていると産経は伝えています。 

また、別のニュースでは、日本の変異株感染例は1月10日現在で、海外諸国から帰国入国した人から33例確認されていて、33例中の1人との会食者から国内感染1例の計34例確認されています。


■私たちはまだまだ、新型コロナ世界的大流行の渦中にあります
■収束時期は見えていません
新しい変異株=突然変異新型ウイルスの確認報告が相次いでいます。このように次々にウイルスが突然変異を遂げているということは、ウイルスがヒトを宿主にして大いに活発に、増殖していることを表しています。

今の情勢は、新型コロナ世界的大流行のさ中にあって、収束に向かう兆しさえ見えない。逆に、大流行が今以上に深刻になる勢いを表しています。

私たちは今、1918年~1919年スペイン風邪の世界大流行以後では最大のウイルス・ストームに見舞われているのだと正確に状況を見極める必要があります。

かつて死の病であった結核は「抗生物質」ができてから、生の病へ劇的に変わりました。


■ウイルス感染症への予防法――隔離 
ウイルス感染防御法で中世の昔から取られてきた対策は「隔離」です。

2000年前後にダニエル・デフォー「ロンドン・ペストの恐怖」を読んで、このたび再度ところどころ読み流していますが、17世紀のロンドンで、ペスト患者を隔離病院に入れるという原則が書かれてあります。この本は事実を詳細に調べてうえで1722年に小説仕立てで発表され、死者数や症例や生活の描写が事実通りでルポルタージュのようだと今でも評価が高い。 

隔離病院に入れない場合は、ペスト患者を家族と別の場所に住まわせる。それもできない場合は、家族ごと家に閉じ込めて見張り番を立てる一軒封鎖。感染していない同居人も含めて家ごと隔離するのです。金銭的な事情によるもの(格差問題)と思われますが、一軒封鎖が死者数を大きくしたという記述が本書中にあります。感染家屋で一家丸ごとの死滅も日常的のことでした。

亡き私の叔母は二十歳前のころ、1年ほど結核療養所に入っていたと言っていました。私の母方の祖父は結核のため大阪府堺市の海べりに転地療養をして三十代後半の歳で亡くなりました。漁師が毎朝地引網を引き上げている浜のそばの林の中の広い一軒家を借りていたと亡母から聞きました。「隔離」という予防法が日常生活の中で定着していました。

今のホテル療養は「隔離医療」療養の例であり、今あるコロナ病床は「隔離医療病棟」の例です。


■自宅待機陽性者1月2日時点――全国6271人、うち東京都3056人 
ホテル療養や入院ができないで自宅待機中のコロナ陽性者が、1月2日時点全国で6271人(千葉日報2021.1.11.―厚生労働省発表)。

同様の自宅待機者数、1月2日時点で東京都内で3056人(読売新聞2021.1.6.厚生労働省発表)。

コロナ陽性患者の自宅待機というのは、「放置に等しく」、上記に触れた17世紀ロンドン・ペストの1軒封鎖と同類です。隔離宿舎療養でさえ確保できないというのは、安倍晋三前首相―菅義偉首相が余りにも無能無責任すぎるので激しい憤りを覚えております。もちろん東京都については小池都知事、大阪も同じ状態のはずなのでそうであれば吉村大阪府知事も同じことでです。


■ノーテンキなGoTo政治の悪影響と見られる数字 
■自宅待機やホテル療養で症状急変に対応できず死亡している
(読売新聞 2021.1.6.)
 東京都  2020.12.5.までの自宅待機感染者 のべ  745人
      2021.1.2.までの 自宅待機感染者 のべ3,056人
(千葉日報 2021.1.11.)
 全国  2020.12.5.までの自宅待機感染者  のべ1,096人
     2020.1.2.までの自宅待機感染者  のべ6,271人

これまでの病院外死亡者の例では、自宅待機で数日間経過観察をしていて、平熱から9度近くまで乱高下することがわかっている。下がったからと安心していると急死してしまったという例ばかりです。これはコロナの癖と見ておいた方がいい。

スペイン熱のときも急死が多く、解剖結果では肺臓そのものが異常に膨れていたりする例があって、呼吸困難の時間を長く経過せずに死に至る者が多かったといいます。新型コロナとスペイン風邪には、急死に到る例で似たところがあります。


■医療危機、医療崩壊という現実が始まっている
私は医療危機がいかに深刻な状態にあるかを知りたいと同時に、他の人にも知ってほしいと思って医療危機に関するブログ記事をいくつか書きました。

2020-12-10付ブログは、北海道医療センター(国立、札幌市在)のクラスター発生の経緯を書きました。入院の時はPCR検査陰性だった患者が、実際には感染者だったのが発生原因でした。 参照クリック → <コロナ医療危機> 北海道旭川市は「医療崩壊」状態、大阪府は目前の危機、北海道医療センター院内クラスター発生の経緯 「北海道医療センター(国立、札幌市在)でクラスター 」の項)

北海道医療センターのクラスター発生源患者は、入院前PCR検査「陰性」で一般病棟に入院しました。しかし入院後の2回目PCR検査では陽性になっていました。

その後の一般病棟や介護施設などでは、2回目の陰性を確認した後に入院・入所するよう慎重に対応しています。コロナは病院や介護施設などの従事者の方々に、寝ても覚めても心安らぐ暇もなく精神的緊張を強いています。

また、新型コロナウイルスの特徴は、感染者で無症状の人がいること。症状が出る前の2~3日が最も他への感染力が強いこと。陽性反応が出る前の段階で、すなわちまだ陰性反応の段階でも他への感染力が強いのかもしれません。このうえなく厄介な代物です。

2020-12-11付ブログでは,大クラスターが発生した旭川厚生病院の毎日の広報を追いました。追記を重ねて、2020,11.22.~12.31.まで記載しました。毎日の院内感染発生数、看護師さんの毎日の感染数と職場復帰数を見ていると、院内感染が1回起きるだけでも病院が大きなダメージを受けることがわかります。 必見クリック →  旭川厚生病院60日間の記録

旭川厚生病院は12月31日現在でも、正常な外来診療が止まっています。救急車の受け入れもほとんど止まっています。その行えなくなった救急診療や外来診療は旭川市内の他の病院が引き受けています。一つの病院での院内感染は直ちに他の病院の医療業務に影響を及ぼします。

看護師さんの職場復帰数を見ていると、院内感染者の職種が何であれ、あるいは患者であれ、接触者は一定期間、職場から離れなければなりません。その間、職場内の業務従事時間数が殺人的なほどに増えて、関係者は疲れ切ってしまいます。

2020-12-22付ブログでは,医師会、病院会、看護師協会、歯科医師会、薬剤師会など医療関連9団体共同の「医療緊急事態宣言」を転載しました。

――新型コロナウイルスの感染拡大はとどまることを知らず、このままで は、新型コロナウイルス感染症のみならず、国民が通常の医療を受けら れなくなり、全国で必要なすべての医療提供が立ち行かなくなります。医療崩壊を防ぐために最も重要なのは、新たな感染者を増やさない ことです。(宣言文の一部)

必要な時に診察と治療が受けられない。医療崩壊はたいへん恐ろしいことですが、すでに始まっている。医療崩壊したから自宅待機者が居るのです。あちこちの病院で、あちこちの医院で、その兆候はすでに現れているはずです。

私たちに医療崩壊の現実を突きつけて見せているのは、コロナ感染者の自宅待機者数です。この人たちは医療サービスを受けられていない。感染者も同居家族も大変な苦労をしなければなりません。自宅待機者やホテル療養者の中から、現実にコロナ死亡が起きているのですから。

2020-12-23付ブログでは、日本看護協会会長メッセージ2020.11.26.を転載しました。

   国民の皆さまにお願いします。
   医療現場は限界に近づいています。
   医療が崩壊すれば救うことのできる命も助から なくなります。
   医療現場をお支えください。
   看護職をはじめとする医療従事者を物心両面から支えてください。

   そして最大の支援はご自身が感染しないことです。
   規則正しい生活を心がけ免疫力を低下させないこと、マスクをする
   こと、こまめな手洗い、3 密を避けるなどの感染予防の徹底をお願
   いします。 (以上2020.11.26.メッセージの一部)

治療現場に立つ切実なメッセージが胸に迫ります。自分自身が感染しないという心構えで日常を送ることが医療従事者を支えることになり、自分自身のためにもなるというお願いです。「自他共の喜なり」、「自利他利」の精神の一つであります。

2020-12-22付ブログでは,病院外でのコロナ急死の実例2件を記載しました。先進国日本で、有ってはならないことが起きているのです。


ワクチンさえあれば、は間違いのもと
今度の新型コロナは感染力が強い。後遺症に悩んでいる人の例もいくつか報告されている。命を落としている陽性者は、つるべ落としのように急激な症状悪化の末に落命している。

一方、ワクチンは万能ではありません。インフルエンザ・ワクチンの発症抑制効果は50%以下であるようです。有効期間も長くはないようです。したがって一般的なインフルエンザ・ワクチンは流行季節より少し前に接種しています。


■オリンピック7月開催前に全国民にワクチン接種完了はできない 
ワクチン接種がオリンピック7月開催前に全国民に行き渡ることはありません。まだワクチン接種が始まっていないのですから、「全国民に」ということであれば、オリンピック7月開催日までに完了することは不可能です。

昨年2月、3月ごろからPCR検査を全国民にという声があがっているにもかかわらず、検査能力の整備さえできなかった安倍政権でした。菅政権はそのまま踏襲しています。


■オリンピック選手、オリンピック大会運営関係者にワクチン優先接種 
■それでも外国から選手村や競技施設に新型コロナ侵入の恐れあり 
オリンピック選手、ボランティアやアルバイトに至るまでの運営関係者に優先的にワクチン接種することになるでしょう。

5月ごろから外国のオリンピック関係者の入国が始まると思いますが、ワクチン接種不完全な外国関係者の入国をどうしてチェックできるのでしょうか? こういうときの入国検疫、すなわち水際ストップ作戦は困難なのですが、一定期間に大変な多人数の入国をチェックしきれるでしょうか? 何かのまちがいが発生する、と考えておくべきでしょう。

入国時にワクチン接種の証明書があっても、抗体効果を発揮しない場合もあります。北海道医療センターで起きたように、入院前PCR検査で陰性だった患者が調査の結果、院内感染源になっていたということがあります。

一時期に世界中の国々から多数の人々が集まってきて、短期間とは言え、選手村やホテルで暮らします。今日までの日本国内のクラスター発生状況から見れば、クラスター発生を根絶することは不可能です。

オリンピック関係施設や宿泊先ホテルでクラスターが必ず発生することでしょう。そうなれば、外国人相手で言葉が通じませんから、医療現場は今以上に人手を集中的に要するでしょう。

今、日本は医療崩壊が始まっている状態です。1月2日現在で、コロナ感染者6271人が自宅にいます。病院の隔離病棟か専用宿泊施設に隔離すると決められているにもかかわらず、6271人が自宅に居ます。その中にはコロナ症状が出ている人が多数いるはずです。

コロナは発症すると軽症でもきつい。中等症なら、私たちの普通の感覚では「重病」だ。そういう状態でも自宅待機を余儀なくされている人々がいる。

そして、2020-12-28付ブログでは,病院外でのコロナ急死の実例2件の日時を追った経過を記載しました。先進国日本で情けないことが起きているのです。


■オリンピックで外来コロナが侵入すれば医療崩壊まちがいなし 
オリンピックをやって、オリンピック関連クラスターが発生したり、オリンピック関連の選手団や観光客といっしょにコロナが入国する恐れが強い。もし、そうなれば日本のコロナ収束の希望は来年に持ち越しとなるでしょう。

オリンピックは一日も早く中止決定するべきだ。



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<コロナ> 紫外線照射でコロナ消毒の新製品発表 ついでに流水手洗い効果がすごいことも知りました

2021-01-08 11:38:07 | Weblog


コロナの紫外線照射による消毒新製品のニュースを毎日新聞で知りました。
ただ、プレスリリースには紫外線の健康副作用について触れておりません。


 日亜化学が深紫外LED開発 30秒照射でコロナウイルス99.99%不活化 
                  
(毎日新聞 2021年1月9日 11時04分)

 日亜化学工業(徳島県阿南市)は、新型コロナウイルスの不活化効果を持った深紫外LEDを開発した。一定条件の下、ウイルスに30秒間照射すると、99・99%不活化させることも実証した。既に量産体制を整え、空気清浄機やエアコンなどへの応用が期待できるとしている。

 同社は、波長を280ナノメートルとした分、光出力を70ミリワットまで高めた深紫外LEDを12個使った「ハンディUV照射機」を試作。徳島大の実験で、ウイルスから5センチの位置から30秒間照射したところ、99・99%不活化すると確認した。

開発・販売について、国内メーカーと協議を進めている。
 


日亜化学2020.12.17.プレスリリース
( ←クリック )に実験結果の数値や試作品など、詳細が掲載されています。詳しく知りたい方はクリックしてご覧ください。

このプレスリリースを読んで、新知識や、と私が喜んだのは手の消毒効果について、同じ効果を得るのに「流水手洗い15秒、消毒用アルコール30秒」という記載でした。今の季節は流水は冷水でなくて温水ですね。‥‥この部分の叙述を下に記載します。


   当社製深紫外LEDの新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)に対する
 不活化効果(99.99%)について
 
日亜化学プレスリリース 2020.12.17.

 日亜化学工業株式会社(本社:徳島県阿南市、社長:小川裕義 以下「当社」)は、当社製280nm深紫外LEDを用いた実験において新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の不活化効果(99.99%)を確認しましたので、下記のとおりお知らせいたします。

1.実験結果の概要
 この実験は、徳島大学大学院医歯薬学研究部 野間口 雅子 教授および 駒 貴明 助教が実施いたしました。
 
 この結果、新型コロナウイルスに対して、30秒の紫外線照射で99.99%の不活化効果を確認いたしました。

 新型コロナウイルスに対する代替消毒方法の有効性評価(経済産業省)は、除去効果について99.99%以上の感染価減少率を目安として有効性を判断しています。

 感染症防止対策として推奨されている手洗い等の殺菌効果は、
 ・ 流水で手洗いを行った場合は、15秒で99%程度)
 ・ 一般的な消毒用アルコール(エタノール濃度77~81%)を用いた場合
  は、30秒で99.99%


 ――とされておりますが、流水でより高い除去効果を得るためには十分なもみ洗いが必要であり、また消毒用アルコールを用いる場合は対象物に十分量のアルコールが接触することが必要となり時間や手間を要します。

 深紫外LEDを用いることにより、短時間で手間をかけることなく高い殺菌効果が期待できることが分かりました。
 
3.試作機の寄付について
  今回の不活化実験を行うために試作したハンディUV照射機は、徳島県に20台、徳島大学に30台を寄贈いたします。充電式で持ち運びも非常に容易であるため、アルコール消毒ができない箇所や共同スペースでの除菌等に、ご活用いただきたいと考えております。

 ※以上、実験結果の数値など技術的な部分を除いて一部のみ抜き書き
  しました。


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