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鉄砲量産から製造制限へ 刀狩令~諸国鉄砲改め ノエル・ペリン『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』

2019-12-30 21:20:20 | Weblog
2020-01-15

※『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』ノエル・ペリン著(中公文庫)を以下、「上掲書」  と表記します。


【 関係年表 】 
1543年(天文12) 種子島に鉄砲伝来、コペルニクスが地動説発表
1549年(天文18) キリスト教伝来(フランシスコ・ザビエルが鹿児島上陸)  
  同 年   ノエル・ペリン「織田信長が五百挺の種子島銃を注文した
        史料が現存する」 
  同 年     松平竹千代(後の徳川家康)が今川氏の人質となる
1560年(永禄 3) 桶狭間の戦い 織田家武将佐久間盛重が鉄砲傷により死去
1573年(天正 1) 武田信玄が鉄砲傷を受けて死去
         ※定説は病死。三河野田城攻城戦勝利後に死去したことから、 徳川軍の 
           狙撃による 鉄砲傷が 死因とする異説がある。  
1575年(天正 3)  織田信長 長篠の合戦 織田鉄砲隊が武田騎馬隊を破砕
1582年(天正10) 織田信長 天目山の戦い 武田勝頼を破り武田滅亡 
   同 年    本能寺の変(織田信長自害) 山崎合戦(明智光秀敗死)  
1583年(天正11) 羽柴秀吉 賤ケ岳の戦い(柴田勝家敗死) 
1584年(天正12) 秀吉 小牧・長久手の戦い(徳川家康和睦)
    同 年    秀吉 11月 権大納言 
1585年(天正13) 秀吉 四国平定(長曾我部元親降伏)
    同 年    秀吉 3月 正二位内大臣、 7月 従一位関白 
1586年(天正14) 秀吉 9月 正親町天皇から豊臣姓を賜る 
    同 年    12月、  豊臣秀吉 太政大臣  
1587年(天正15) 豊臣秀吉 九州平定(島津義久降伏) 
    同 年    豊臣秀吉 キリスト教禁教令、 宣教師国外追放を命じる 
1588年(天正16) 豊臣秀吉 刀狩令を発布 
          ※奉公人に武器所持を認め、百姓・町人の武装解除、武器所持を禁止。  
           武器統制政策は身分固定化策を伴い、1591年(天正19)の人掃令、 
           身分統制令 につながっていく。  
1590年(天正18) 豊臣秀吉 小田原平定(北条氏滅亡)
    同 年    豊臣秀吉 奥州平定(伊達政宗が臣属) 
1591年(天正19) 豊臣秀吉 3月 人掃令(ひとばらいれい)、 8月 身分統制令発布  
          ※「人掃令」は豊臣秀吉による戸口調査(全国人口調査)のことである 
1592年(文禄 1)  文禄の役 豊臣秀吉 朝鮮侵攻 
1597年(慶長 2)  慶長の役 豊臣秀吉 朝鮮侵攻 
1598年(慶長 3)  8月、豊臣秀吉死去 朝鮮侵攻軍召喚 11月 島津殿軍撤退 
1600年(慶長 5)  関ヶ原の戦い
1607年(慶長12) 徳川家康 国友鉄砲鍛冶統制を始め、鉄砲代官を置く  
          ※国友と同時に堺鉄砲鍛冶を統制する余力がなく、堺統制は後年になる。 
           しかし、これ以後、徳川幕府治世下の鉄砲製造を幕府が全国管理した。 
1612年(慶長17) 徳川家康 直轄領にキリスト教禁教令 
1613年(慶長18) 徳川家康 全国にキリスト教禁教令 
1614年(慶長19) 大坂冬の陣
1615年(元和 1)  大坂夏の陣 豊臣滅亡 元和偃武 
1616年(元和 2)  徳川家康死去 
    同 年    徳川秀忠 明船以外の来航を平戸・長崎に限定 
1619年(元和 5)  京都六条河原、キリスト教徒52人を火あぶりの刑に処す 
1637年(寛永14) 徳川家光 島原の乱
1687年(貞享 4)  徳川綱吉 諸国鉄砲改め 

前回と前々回、鉄砲生産と鉄砲戦争があれよあれよという間に16世紀日本社会を席捲したありさまを見ました。ノエル・ペインが『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』を書いた理由は、それほどに鉄砲を使いこなし量産し得た日本人が、鉄砲を使わない徳川日本を築いたことにあります。 今回は、16世紀末から17世紀前半の日本人が鉄砲を放棄した経緯を紹介します。

ただ、上掲書の中で豊臣秀吉の業績の重要性についてはまったく触れていません。

1588年「刀狩令」については、上掲書第四話の章「日本はなぜ鉄砲を放棄したのか」の冒頭にたった一言あるだけです。 ――ノエル・ペリン「秀吉の刀狩令のようなものはヨーロッパにはなかった。」(上掲書P77) 

1591年「人掃令(ひとばらいれい)  」における人口調査については、――ノエル・ペリン「武士はその人口調査に入っていない」(上掲書P79) という解説で触れているだけです。

ノエル・ペリンは広範な文献を渉猟していますから、刀狩令や人掃令・身分統制令の重要性を承知しているはずです。そのうえで、徳川治世下の「鉄砲」に焦点をしぼって「上掲書」を書いたのかもしれません。

刀狩令は百姓・町人・浪人の鉄砲を含む武装解除です。刀狩令による武装解除の流れと、人掃令・身分統制令による武士優先の身分固定化の流れは、直接的には朝鮮侵攻に備えるものでした。しかしそれは、豊臣秀吉が構想した戦国後の安定した新しい日本社会の姿でもありましたし、徳川家康の構想する日本社会も基本的には同じものでした。徳川時代の安定した社会システムが豊臣秀吉の着手に始まるという観点を忘れるわけにはいかないという意味で、上記年表に書きこみました。

豊臣秀吉が戦国時代を終わらせるには、圧倒的に強大な豊臣軍事力でさえ、まだ不足するものがありました。百姓出身の秀吉が戦国の群雄をまとめて新しい統一日本を作っていくために、軍事力を補う力は何か。それが、天皇の権威を身にまとうことでした。群雄にとっても民衆にとってもわかりやすいもの、それが官位を得ることでした。上記年表に秀吉の官位を書きこんだ理由です。

キリスト教排除についても重要な事項で、ノエル・ペリンも上掲書に書いています。これも、上記年表に書きこみました。上記年表が日本近世史における「鉄砲時代の盛衰」を見ていく一助になれば幸いです。

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朝鮮の役が終わったころ(1598年慶長3)からヨーロッパは急速に火器を発達させたのに、なぜ日本は火器に背を向けたのか。ノエル・ペリンは、その理由を五つあげています。

第一の理由 
鉄砲を蔑視していた武士階級の人口が多かった。ノエル・ペリンは1597年冬の武士人口を約200万人、総人口の8%弱と見積もっています。推計根拠にした文献名が上掲書に掲載されています。

これに対応する1597年イギリスの騎士階級人口は家族も合わせて3万人で、イギリス総人口の0.3%です。「ヨーロッパのどの国をとっても、騎士階級が優に1%を越すような国はなかった」とノエル・ペリンは書いています。

鉄砲を蔑視していた日本の支配階級である武士人口の比率がヨーロッパ諸国にくらべて飛躍的に多い。その武士階級が鉄砲を蔑視する価値観を持っていたことが、徳川幕府治世下の鉄砲軍縮の理由の一つであると、ノエル・ペリンは説いています。

武士の頭数を数えるのは品位をけがすという名目から、日本で武士人口の調査はされてこなかった。武士人口の質問に対する 「YAHOO知恵袋」(←クリック)の回答が詳細な数字根拠を示していて、明治3年ごろの武士人口を220万人、総人口対比7%と推計しています。武士人口の数え方についていろいろ条件があることがわかります。クリックして閲覧されることをお勧めします。

第二の理由 
日本の島々は自然条件によって侵略が困難でした。そして日本は軍事強国でした。 ――ノエル・ペリン 「したがって外国に対する日本の国家的統合の維持は通常兵器(※刀槍弓)によっても果たすことができた。」(上掲書P80)

(上掲書P80、81)
 日本は中国を征服するには小国すぎた。実際、秀吉が1598年に亡くなるや、たちまち征服事業は放棄されたのである。一方、どの国にせよ、敢えて日本の征服に乗りだすには日本は強国すぎた。

 ポルトガル人は日本征服どころか、その考えすら起こさなかった。スペイン人は一度日本の征服を考えたかに思われるが、その思惑はたちどころに一蹴された経緯がある。 1609年、太平洋方面の総督に対し勅令が送られ、日本軍の前に「わが軍隊と国家の名誉をそこなうような危険を冒さぬように」という厳命が下っているのである。

 ただ一度、日本の不正規軍(浪人と呼ばれる寄るべなき侍が主体)とスペイン人との間で会戦が行なわれたことがある。1620年代、シャムにおいてである。どちらが負けたのか。敗れたのはスペイン人。 ※勝ったのは山田長政

(上掲書P81、82)
 中国人について言えば、朝鮮の役中のいくつかの小競り合いで中国人が勝ったことはある。だが、戦役それ自体に中国が勝利をおさめたわけではない。このことは中国人自身が明言している。

 戦役は中国側からいうと明朝時代におこり、中国の史書には朝鮮の役に関して以下のごとく概括しているのである。

 「関白秀吉の侵略はほぼ七年にわたった、死傷者は十万をくだらない。朝鮮と中国は連合して戦ったが、勝利の見込みはなかった。関白の死のみが戦争の惨禍に終末をもたらした」と。

 さらに続けて次のように付言されている。1664年に滅ぶ明朝の最期に至るまで、この恐るべき侵略者の記憶は生々しく残り、「日本人というだけで、人民は神経をとがらせ、女子供は警戒し、息を殺した」と。


第三の理由 
日本における刀剣は、ヨーロッパよりもはるかに大きな象徴的意味をもっていた。

日本刀は、ヨーロッパの騎士とは比較にならないプライドの象徴「武士の魂」であった。
日本刀には、「名字帯刀の特権」のように重要な社会的意味がこめられていた。
日本刀は、通常の武器であるとともに代表的な美術品でもあった。

――ノエル・ペリン 「日本人はいまでも生活態度の堕落を『身から出たサビ』と表現する。『この比喩で自分の身体と刀とを同一視している』とは人類学者ルース・ベネディクトの指摘である」(「菊と刀――日本文化の型」社会思想社1972年 P343、344)  

(上掲書P83、84)
 日本の刀剣は通常の武器であるとともに代表的な美術品でもあった。400年ほど前に関白秀吉は、本阿弥光悦をもって刀剣のめききの第一人者とした。日本の文部省は現在でも刀剣の鑑定・登録を行なう役人を雇っている。刀剣はその等級に応じて重要美術品、重要文化財、国宝に分けられる。

 日本の刀剣は、言うまでもなく世界のいたるところで美術品として評価されている。だがだれも日本人の熱心さにはかなわない。1582年(天正10)の次のような出来事が起こりえたのはおそらく日本だけだろう。

 羽柴秀吉方の将堀秀政は、明智光秀方の将明智秀満を坂本城に攻め、包囲攻撃した。それは陣取り合戦といったスポーツ的余裕が皆無の死に物狂いの戦闘であった。ところがである。

 戦闘の帰趨が定まったとき、秀満はいかんともしがたく、国行の刀、吉光の脇差を蒲団につつみ、目録を添えて寄せ手によびかけ、「城は炎上、まもなく我が身は果てるとも、ここに生涯大切にしたる名刀……この道具は私ならぬ事、天下の道具なれば、是にて滅し侯事は、弥平次〔秀満は明智光秀の娘婿となる前、三宅弥平次といった〕傍若無人と思召すべく侯間、相渡申侯」と述べ、しばらく攻撃を止めれば敵方へ刀を送り届け、悔いなく命をまっとうする旨を伝えた。

 堀はこれに同意し、何と、攻撃を中止したのである。そしてその間に刀は蒲団にくるまれて炎上する城からおろされた。そのあと戦闘再開となり、翌日には城は焼け落ち、明智秀満は自刃して果てた。おそらく思い残すことなく……。

(上掲書P84、85)
 しかし、まことに驚かされるのは、刀と鉄砲のどちらの価値が高いとみなされたのか、両者の優劣が比べられる事例である。事例は二つだけで十分であろう。

 第一の事例は、1575年、長篠の合戦において、弱冠24歳の若武者・奥平平八郎信昌が鉄砲隊を主体に小さな長篠城を守り切った軍功により、合戦後に主君徳川家康からあまたの褒美を賜ったときのことである。

 褒美にはその軍功にふさわしい身分の昇格、側室、領地、そして武器が含まれていたが、その武器が何かというと、最高級の火縄銃ではなく、かつて将軍が所持していた長光の刀一振であった。

 第二の事例は、それから三十年余り後の1607年(慶長12)、鉄砲鍛冶年寄四人〔寿斎、徳左衛門、善兵衛、兵四郎〕が駿府に召出されて家康に御目通りを許される厚遇をうけたうえ、帯刀を許されたこと、これである。

                 
ノエル・ペリンによれば、16世紀以前の西洋でも、宝石をはめ込んだ刀剣が象徴的意味合いを担っていました。しかしその後の西洋では、観賞用と実用とをはっきり区別するようになりました。
    

 「審美性と実用性の分離は、武器につきものである。しかし日本の武士の場合は、審美的なものと実用的なものとを分けるのは性分に合わなかったようである。」(上掲書P86)

「奥平信昌の拝領した褒美の長光の一振りは、その後の合戦で使われて然るべきものであって、トロフィー展示室にしまい込んでおくためのものではなかったのである。」(上掲書P87)


第四の理由   
鉄砲放棄の第四の理由は、武士階級が戦争で弓刀槍より実力ある鉄砲を軽視していたことによります。なぜ軽視していたのか。鉄砲は西洋から渡来したものであり、キリスト教宣教師への警戒感やヨーロッパ商人への嫌悪感と結びつくところがありました。
                                           

(上掲書P87)
 鉄砲放棄の四番目の理由は、鉄砲が軽視されていった背景として、外国人の思想わけてもキリスト教と商業に対する西洋人の態度は受け入れがたい、とする反動的な潮流が存在したことである。 ※「反動的」と決めつける視点には同意できません。

 キリスト教は、1616年に禁じられた。そして1636年には宣教師の入国禁止を主目的とする鎖国政策がとられた。
 ※キリスト教禁教は何次にもわたっていて、1616年(元和2)だけではありません。同様に
  鎖国政策も何次にもわたっていて、1636年(寛永13)に唐突に鎖国を実行したわけでも
  ありません。


 ヨーロッパ商人について将軍は「利得を好み、欲ぼけの者どもである。かような唾棄すべき輩にはいずれ天罰が下るであろう」といった観察を下している。

              

第五の理由                                          
1500年代後半から1600年代前半、日本の戦を決する主力武器が鉄砲になりました。それでも日本人と日本の武士は、刀そのものや太刀さばきを美しいと感じる。しかし鉄砲を美しいとは感じられない。美醜の感覚はどうにもなりません。
                 
鉄砲足軽の操作する鉄砲が、目に見えない弾で練達の刀槍武士を斃す。封建武士にとって鉄砲は、武士が長くつづけて磨き上げてきた武技の鍛錬や身体作法、そして戦場作法などになじまない。
 
ノエル・ペリンはこのあたりの武士の気持ちを『稲富流鉄砲伝書』という1595年(文禄4)著述の古書を詳細に紹介しています。この『伝書』は火縄銃を撃つ姿勢をことごとく示した32枚の絵図からなっています。『鉄砲を捨てた日本人…』には、うち7枚の絵図を掲載してあり、各図には稲富流砲術家による注釈が付されています。

鉄砲の無視しえない強力な実用性を認めて鉄砲さばきを学びつつ、武士の矜持との間合いを量る微妙な気持ちが察せられて、不謹慎ながら笑えてきます。その部分を下に紹介します。

(上掲書P102、103)
 しかし注釈のなかにはかなり趣きの異なった記述がある。たとえば、火縄銃の銃身を石の上にのせ、膝をついた男を描く第三姿勢というのをみると、何だか弁解がましいことが書きつらねてある。まずは石が使われることについての弁解。

 続けて「かつて武勇の者は剣術によって手首と腕とが強くなるように鍛えた。しかし鉄砲を撃つには、これまでと勝手が違い、このような膝をついた不格好な姿勢をとらねばならない。肘は傷み、腎部には妙な筋肉痛を覚えるであろう」とある。

 さらに武士クラスの鉄砲初心者に向けて、行儀のことを考えるのは無用、という注意をわざわざ書き添えている。正確に標的を撃とうと思うならば行儀作法には構わず「膝と膝との間を開くべし。そして撃て」と。

 まことに日本人は鉄砲についてさえ、できうるかぎりの上品さを保とうとした観がある。膝をついた姿勢を描く第四図の注釈には「膝まずくとき親指と親指との間隔は正確に7インチに保て。もう1インチ広げると見栄えがよくない」とある。

 稲富流はかつて剣術も教えていたから、稲富流砲術家は昔ながらの流儀を完全には払拭できな かったものとみえる。しかし、『伝書』を通観すれば、全体としては、格好は見苦しいながらも効率的な射撃法を説いているものと言えよう。ただし弁解付きであるが。

 そこにはまた、かなりの階級意識を垣間みることができる。この書は武士向けのものでありながら、図に描かれている男は、いずれも農民の髪型で、身にまとっているのは褌ふんどし一枚である。

 あたかもそこにはこのようなぶざまな格好をしたジェントルマンたる武士を描くのは忍びない、との心情が吐露されているかのようである。加えて書体さえも、剣術の極意を書いた奥義書にみられるものより粗っぽくぞんざいである。

 おそらくは武士といえども、合戦の最中にあっては、鉄砲を撃つのにこのような不格好な姿勢を甘受したのであろう。しかし、いったん戦闘が終わったあとは、立派な作法にたち戻った。たいていの武士が1600年(慶長5)以降そのようにしたことは確実である。


もう一度、「鉄砲離れ五つの理由」をまとめてみます。
〇第一の理由は、
 鉄砲は足軽が持つもので、武士は鉄砲を蔑んでいた。
 ※足軽は下級武士で、徳川期にあって士卒という場合には、武士は「士」で足軽は
 「卒」である。
〇第二の理由は、外国の侵略を恐れがなく、鉄砲を必要としない地政条件に恵
 まれていた。
〇第三の理由は、 刀剣はプライドの象徴で「武士の魂」であった。そして「名
 字帯刀」と言われるように、刀剣は社会的地位を表徴していた。
〇第四の理由は、キリスト教禁教政策と鎖国政策によって西洋由来の文物と
 ともに鉄砲も忌避する風潮が高まった。
〇第五の理由は、日本人と日本の武士は刀そのもの(例:工芸美)や太刀さば
 きを美しいと感じる。鉄砲や鉄砲さばきに美を感じない。

第一、第三、第五の理由には共通するものがあります。刀には工芸美・躍動美や社会的地位という特別の価値があり、鉄砲にはそれがない。これを一つの理由にまとめて良いのではないかと思います。

■刀に対する美意識
刀槍弓は古来伝統の武器であり、愛着の度合いで新来の鉄砲 は比較になりません。剣術・槍術は身体手足の動きが多様で、一瞬に反応する動きも要求され、絶えず鍛錬が必要であることに、人は美を見出すものと考えます。さらに武具・防具・戦装束にも上級武士になると美々しいものがあります。鉄砲、射撃術、下級武士の陣笠装束は美意識の競争に勝つことは難しい。

■実利の裏付けあればこその美意識
さらに名字帯刀は武士階級だけに許されるもので、末端の下級貧乏武士であっても支配階級の一員である自尊心を満足できます。これは一つの社会的な「力」です。刀と剣術は、社会的に得られる処遇という実利を表す道具であって、しかも美を表す道具でもあります。

たとえて言えば、ニューヨークやパリやローマの高級ブランド品で身を飾ることは、富裕者の仲間であるというシグナル発信であり、富裕者人脈の交友による実利機会のめぐり合いや高級ブランド品の美に包まれることでもあって、帯刀美と帯刀の社会的実利に似ているところがあります。

ただ刀には、世界の古代文明以来、それぞれの土地、それぞれの時代に応じて、人々から精神性を帯びた価値を付与されてきたという歴史があるということに注意を払っておきたい。

ノエル・ペリンはこのあと、鉄砲軍縮の物語でもっとも大切な徳川期の鉄砲政策について書いています。このことは次回につづけます。

■地政的条件、キリスト教排除、鎖国政策
ノエル・ペリンは徳川期の鉄砲軍縮について文化的要素に偏重するきらいがありますが、侵略される恐れのない地政的条件に恵まれていたという第二の理由はわかりやすいものです。そして、これは重視しておくべき与件です。

また、キリスト教禁教・鎖国政策という時代環境の中で、西洋外来物を避ける世情が鉄砲忌避につながったということも、私たち自身の現代生活の経験、すなわち処世術からもわかりやすいものです。私も含めて大衆は、政治権力者をはじめとする社会的指導者が先導することに迎合しやすいものですから。

支配階級としての武士階級固定化や鉄砲の幕府独占政策が徳川期日本の長期平和社会を築きました。一方、この二大政策の先駆として、豊臣秀吉の太閤検地、刀狩令、人掃令の歴史上の位置については忘れるわけにはまいりません。

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鉄砲伝来32年で量産・大量実戦配備できた16世紀日本四つの理由~『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』

2019-12-06 23:24:45 | Weblog
2020-01-15

  ※『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』ノエル・ペリン著(中公文庫)を以下、
   「上掲書」と表記します。


 鉄砲伝来は、1543年(天文12)。同時代世界史でトップの鉄砲戦である長篠の戦が1575年(天正 3)。その間、32年。当時の日本がそれほどの短年数の間に鉄砲を量産し、鉄砲戦が合戦を左右するほどに大量の鉄砲を実戦配備できた事情を、ノエル・ペリンは4点あげています。


 [1] 「何よりも当時の日本は武家社会であった」(ノエル・ペリン上掲書P35)

「十六世紀の日本にあっては、文人としての栄光を人生の目標とする少数の京都の貴族をのぞけば、まともに育った男子ならば誰しも武勲をたてることをもって本懐とした」(ノエル・ペリン上掲書P35)



[2] 鉄砲伝来から量産に至る時代の日本は戦国時代であった

「数多の戦国大名が、将軍を傀儡化しかいらいかし――天皇はそれ以前から将軍の操り人形同然であった――、天下の覇権を握ろうと相争っていた。そこで当然のこととして戦国大名は、新式の武器をはじめ、その他自分を優位に立たせてくれるものには、何にでも関心を示した」(ノエル・ペリン上掲書P36)



[3] 当時のヨーロッパに対抗できるほどに日本の技術水準が高かった

(※日本製銅・鉄は当時のヨーロッパ製より良質で)
 「きわめて安価だったことから、日本銅は、十七世紀には世界中に輸出された」(ノエル・ペリン上掲書P36)
 「たとえばオランダ人は、日本の銅を何千マイルも離れたアムステルダムへ運んでなお利益をあげていた」、 「オランダの鋳物工はたいてい好んでそれを銅製の大砲の鋳造に利用していた」、 「鉄の価格も、日本鉄はイギリス鉄よりも安かった。そのイギリスはヨーロッパ随一の鉄生産国であった」 (ノエル・ペリン上掲書P37)


 ノエル・ペリンは当時の日本がすぐれた工業国であったとして、紙製品の例をあげています。

 イエズス会の一宣教師は、当時、日本には紙の種類がヨーロッパの十倍はあろうと推定している。日本の紙の中には今日使うクリネックス、つまり、ちり紙やはな紙もあった。アメリカ人は今でこそ自分たちがこの便利な品物の発明者だと考えているだろう。だが、それよりも少なくとも三世紀も前に、日本人はこれをつくっていた。それどころか輸出さえしていた。

 1637年、ピーター・マンディなるイギリス人がたまたま中国の沿岸マカオにいた。その地で彼は、大坂商人の一行が、はな紙を使っているのを見てはなはだ感心したのであった。

 マンディは、そのときの模様を後に次のように記している。「この都市で数人の日本人を見かけた。彼らは何やら柔らかくで丈夫そうな紙を小さく折りたたんで所持しており、これで鼻をかむ。鼻をかんだあとどうするかというと、もうその紙は汚いものという体ていで捨ててしまう。顔を拭うには日本人はリネンのハンカチーフ〔てぬぐいのことか?〕をもっていた」。

 マンディが感心したのは無理もない。当時のイギリスでは、たいていの人は服の袖で鼻をかんでいたのだから。(ノエル・ペリン上掲書P37)


 ノエル・ペリンは、当時の日本刀製造技術が高水準であったことを示す事実もあげています。

 オランダ人アーノルド・モンタナスは当時「日本人の使うアラビア・ペルシャ風の彎刀型の太刀は出来ばえが見事で、すばらしい焼きが入っているから、ヨーロッパ製の剣など、菖蒲や灯心草をなで切るように真二つに切り裂いてしまう」という観察を下している。(ノエル・ペリン上掲書P40)

 ……先のモンタナスの話は検証できるものであって、実際検証されたことがある。傑出した今世紀の武器収集家ジョージ・キャメロン・ストーンが、十六世紀の日本刀によって近代ヨーロッパ製の剣を真二つに切る実験に立ち合ったのがそれだし、また十五世紀の名工兼元(二代目)の作になる日本刀によって機関銃の銃身が真二つに切り裂かれるのを映したフィルムが日本にある。(ノエル・ペリン上掲書P41)

 ……こうした高級な日本刀を作ることのできた日本人であるから、その技術を鉄砲に適用するのに、さほどの困難はなかったのである。(ノエル・ペリン上掲書P41)

 ……(※高い建築技術を示す織田信長新築安土城を見た、1596年のイエズス会士ルイス・フロイスは)上司宛に次のように書いている。「私はみずからがすぐれた建築家であれば、と思います。そうでなくともせめてここで見た一つ一つをうまく描写できるだけの才能に恵まれていればと思います。と申しますのも、これまでポルトガル、インド、日本でみてまいりました宮殿、家屋敷の中で、これに比肩しうる斬新さ、優美さ、清らかさをかつて見たことがない、ということを強調したいからです。」(ノエル・ペリン上掲書P42)



[4] 人口2500万、識字率・文化水準が高く、躍動感にあふれていた

 当時の日本は、戦国の世と呼ばれようが、ほかに何と名づけられようと、ともかく躍動感にあふれていた。まず十六世紀の日本の人口2500万は、その当時のヨーロッパのどの国の人口よりも多い。フランスの人口は1600万、スペインの人口は700万、イギリスの人口は450万であり、今日のアメリカ合衆国の地にはおよそ100万の人口しかいなかった。(ノエル・ペリン上掲書P42)

 ……教育について言えば、仏教僧は「大学」を五つもっていた。もっとも小規模の大学でも当時のオクスフォード大学やケンブリッジ大学を凌いでいたのである。(ノエル・ペリン上掲書P43)

 ……たとえば1547年、足利学校には三千人の学生がいた(Boxer,Christian Century,p.44)。オクスフォード大学もケンブリッジ大学も二十世紀に至るまでその規模に達しなかった。(ノエル・ペリン上掲書P157 注28)

 ……精確な統計はないが、1543年当時の日本人の識字率は、ヨーロッパのいかなる国よりも高かった、と信じるにたる十分な理由がある。(ノエル・ペリン上掲書P43)

 ……文芸に対する関心も高いものがあった。武士階級の者は、戦場を駆けめぐる合間には、典籍に親しむのが当たり前のこととされていた。1588年、時の日本の軍事統率者・豊臣秀吉は、聚楽第で和歌御会わかぎょかいを催している。(ノエル・ペリン上掲書P44)

 ……十六世紀後半に日本に滞在していた別の宣教師オルガンティノ・グネッチは、宗教を措けば日本の文化水準は全体として故国イタリアの文化より高い、と思ったほどである。当時のイタリアは、もちろん、ルネッサンスの絶頂期にあった(ノエル・ペリン上掲書P45)


 前フィリピン総督のスペイン人ドン・ロドリゴ・ビベロが1610年、上総に漂着した際にも、ビベロの日本についての印象は、グネッチの場合と同様の結論であった。(ノエル・ペリン上掲書P45)



 
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