私の母は1924年(大正13年)12月生まれですが、戸籍では大正14年1月生まれになっています。
1983年(昭和58年)夏、母が京都を引き払って私と同居しました。母はそれからずっと、最寄の県立病院で糖尿病の通院治療を受けてきました。長い年月の間、糖尿症状は一貫して悪化していきました。それでも余病併発はありません。
母は地元の油絵クラブやシルバークラブに入っていました。その催しでとった写真を見返してみますと、2003年(平成15年)の写真では体調の良くない顔をしています。近年はそれが常の体調でした。母は気丈なたちですし、入院をいやがっていました。弱音をはきませんが、本来なら入院が必要な状態だったでしょう。
糖尿の状態が悪いと、そのころの母は顔がめだってむくんできます。そしてまぶたが腫れてたれさがるような風になり、涙目になります。糖尿の状態が良いと顔もまぶたもきれいになります。
2004年(平成16年)10月、油絵クラブの写生先へ母を車で連れていきました。そのとき、聞いたばかりのクラブ教室の次回日時をぼくに「覚えといて」と言いました。このごろおかしいんや、聞いてもすぐ忘れるんや。母はそう言いました。
それが脳血管の異常シグナルだったと、後に気づきました。
そしてこれから記す12月21日の脳梗塞発症のとき、それが脳梗塞発症の症状であるとは知らず、結局このことがその後2年以上の間、母の健康を害し、母を死に至らしめました。取り返せぬ過ちでした。私は母のことを思い返すたびに今も、「おかあちゃん、かんにんや、かんにんしてや」と一人つぶやいて、母に詫びています。叶うことならば、私自身が彼岸に渡った折に再び母に会って親孝行をしたい。
■2004年(平成16年)12月21日
午後、母は天王寺に出て近鉄百貨店に行きました。一番近い大阪のデパートです。しんどいのにやっとこさ出かけるという風でした。夕方6時ごろ王寺駅に着いて、私が車で迎えに行きました。
しんどい、しんどい。もう倒れそうや。なんでこんなしんどいのやろ。車に乗りこんで、母がそう言いました。
帰宅して茶の間で一息入れて、それからふとんを敷いて横になりました。微熱がありました。
■2004年(平成16年)12月21日深夜
そのころの母の日課は、いつも午後9時に寝て、午前2時~3時に起きます。それから猫のチイに餌をやり、私ににコーヒーや熱いお茶を入れてくれます。私は普通、午前2時~5時に寝ていました。
12月21日の母は午後11時に起きました。元気です。母は若いころから微熱くらいではへこたれません。
私と自分用のコーヒーを作りました。そのコーヒーのカップが二つとも、いつも使っているものと違いました。そして私の分のコーヒー皿は、台所に置いていた洗う前の汚れたものでした。ちょっとようすが違いました。
その後、自室の八畳間にもどって、まともに転んだ。倒れるようにではなく、崩れるように転んだ。しかし、けがもなく幸運でした。転んだのはガスストーブとタンスの間の狭いところで、何にもぶつからずにすみました。
その後、母はうたた寝をしたり目を覚ましたりしていましたが、。午前2時ごろ再び起きてきました。家族で起きていたのは私だけでした。母はいつも通りにまたコーヒーをくれて、いつもと何の変わりもありませんでした。