川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
★自分用メモは、新聞・Webなどのノート書きです。

母のこと――脳梗塞を発症したときのもよう(1)

2007-10-31 10:08:06 | Weblog


私の母は1924年(大正13年)12月生まれですが、戸籍では大正14年1月生まれになっています。

1983年(昭和58年)夏、母が京都を引き払って私と同居しました。母はそれからずっと、最寄の県立病院で糖尿病の通院治療を受けてきました。長い年月の間、糖尿症状は一貫して悪化していきました。それでも余病併発はありません。

母は地元の油絵クラブやシルバークラブに入っていました。その催しでとった写真を見返してみますと、2003年(平成15年)の写真では体調の良くない顔をしています。近年はそれが常の体調でした。母は気丈なたちですし、入院をいやがっていました。弱音をはきませんが、本来なら入院が必要な状態だったでしょう。

糖尿の状態が悪いと、そのころの母は顔がめだってむくんできます。そしてまぶたが腫れてたれさがるような風になり、涙目になります。糖尿の状態が良いと顔もまぶたもきれいになります。

2004年(平成16年)10月、油絵クラブの写生先へ母を車で連れていきました。そのとき、聞いたばかりのクラブ教室の次回日時をぼくに「覚えといて」と言いました。このごろおかしいんや、聞いてもすぐ忘れるんや。母はそう言いました。

それが脳血管の異常シグナルだったと、後に気づきました。

そしてこれから記す12月21日の脳梗塞発症のとき、それが脳梗塞発症の症状であるとは知らず、結局このことがその後2年以上の間、母の健康を害し、母を死に至らしめました。取り返せぬ過ちでした。私は母のことを思い返すたびに今も、「おかあちゃん、かんにんや、かんにんしてや」と一人つぶやいて、母に詫びています。叶うことならば、私自身が彼岸に渡った折に再び母に会って親孝行をしたい。


■2004年(平成16年)12月21日

午後、母は天王寺に出て近鉄百貨店に行きました。一番近い大阪のデパートです。しんどいのにやっとこさ出かけるという風でした。夕方6時ごろ王寺駅に着いて、私が車で迎えに行きました。

しんどい、しんどい。もう倒れそうや。なんでこんなしんどいのやろ。車に乗りこんで、母がそう言いました。

帰宅して茶の間で一息入れて、それからふとんを敷いて横になりました。微熱がありました。


■2004年(平成16年)12月21日深夜

そのころの母の日課は、いつも午後9時に寝て、午前2時~3時に起きます。それから猫のチイに餌をやり、私ににコーヒーや熱いお茶を入れてくれます。私は普通、午前2時~5時に寝ていました。

12月21日の母は午後11時に起きました。元気です。母は若いころから微熱くらいではへこたれません。

私と自分用のコーヒーを作りました。そのコーヒーのカップが二つとも、いつも使っているものと違いました。そして私の分のコーヒー皿は、台所に置いていた洗う前の汚れたものでした。ちょっとようすが違いました。

その後、自室の八畳間にもどって、まともに転んだ。倒れるようにではなく、崩れるように転んだ。しかし、けがもなく幸運でした。転んだのはガスストーブとタンスの間の狭いところで、何にもぶつからずにすみました。

その後、母はうたた寝をしたり目を覚ましたりしていましたが、。午前2時ごろ再び起きてきました。家族で起きていたのは私だけでした。母はいつも通りにまたコーヒーをくれて、いつもと何の変わりもありませんでした。

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母のこと――糖尿病でも二十年無病息災だった

2007-10-30 00:06:30 | Weblog


私の母は二十年ほどの間、糖尿病でした。近くの県立病院に月一回通院し、はじめは血糖降下剤をもらっていました。錠剤の量がそのうちに増え、次に錠剤がインシュリン注射に変わり、その次は徐々にインシュリンの投与量が増え、またその次は自宅で血糖値を測って記録するよう求められました。

その間に2回入院しました。糖尿食は実にまずいといって、その後は医師がいかに警告しても入院しませんでした。家族を呼びなさいと言われたことがあって、私が検診に同行したこともありました。

母は肉が好きで甘いものが好きで、その二十年、ほとんど食養生をしませんでした。どうなっても知りませんよ。いつ何が起きるかわからん状態ですよ。月一回の検査数値を見るたびに、医師が母を叱っていました。

好きなもん食べるなて無理や。病院を出るとそう言って、駅前のファミリーレストランに立ち寄るのが母の常でした。

医師は本当に恐ろしげに、血液検査のたびに、これがどんな数字がわかっているんですか、と言います。それでも何の余病もありませんでした。二十年、糖尿のほかは無病息災で元気でした。

母の最晩年は、インシュリン投与が朝16単位、夕6単位でした。朝食前の血糖値は低くて250くらい。これくらいの数値で、私は良しとしていました。

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父が死んだときのもよう

2007-10-27 05:36:25 | Weblog


私が20才のとき、父が亡くなりました。1965年(昭和41年)5月5日、よく晴れた明るい日でした。

その日、父が川へ投網をしに行こうといいました。そのころの父は、気が向くと田舎の川へ投網をしに行きました。投網といっても、1時間か2時間ばかり水遊びをするていどです。名も知れぬ小魚が少し網に入っていれば楽しかったのです。

乗用車のトランクに長靴と投網を入れっぱなしにしていました。私と、1才年上で仲良しの学生と、父と、あわせて3人で出かけました。その学生は西村さんといって、当時、私の近所(京都市中京区)に住んでいました。

行き先は京都府亀岡市でした。川の名も場所も覚えていませんが、千代川という川だったように思います。死亡診断書では、亀岡市河原林農協付近となっています。

投網を始めてすぐに、父が水際でうつぶせに倒れました。指先を針で突いたくらいの血が口元ににじんでいました。口の内側にほんの小さな傷ができたのでしょう。

西村さんと二人で父を川原に座らせました。父はひざを抱え、頭を下げ、苦しい息に耐えています。まともに話すこともできません。そして、苦しさが少しやわらいだかと思うまもなく、座った姿勢のままで横倒しに倒れました。意識不明の状態です。

私は救急車を呼びに車で走りました。ゴールデンウィークのことであり、わざわざ人気の無いところへ行ったのですから、なかなか人に出会いません。土地勘がゼロですし、今のように携帯電話もありません。救急車といっしょに現場にもどったのは30分後でした。

父はすでに死んでいました。口元にほんのわずか血がにじんでいました。はじめに川の水際で顔から突っ伏したようで、顔に少し土がついていました。背広に長靴といういでたちでした。「克己、克己」と何度か私の名を呼んでいたと、西村さんが言いました。

父は、八木町の公立南丹病院に救急車で運ばれました。診断は急性心不全でした。平静な死に顔でした。すぐに看護婦の手で父の遺体の清拭がなされましたが、少し手荒でした。

その日、父はひげを剃らなかったようで、無精ひげが生えていました。看護婦がひげを剃りました。頬に水も湯も石鹸も当てず、乾いたまま直に剃りました。頬のいくつもの毛穴から血がにじみました。ひどい!それでも20才の私に抗議する力はなく、それを見ていました。

母には病院から電話で知らせました。市中の家から病院まで時間がかかります。母は知人に連れられて病院に来ました。その日の私の記憶はそこで終わっています。


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国際治安支援部隊、急進的な小沢論法に民主党内動揺

2007-10-08 09:49:09 | Weblog


毎日新聞の記事を次に部分転載します。

<毎日新聞2007.10.08.朝刊から>

海上自衛隊のインド洋での給油を継続するための「新テロ対策特別措置法」をめぐり、民主党・小沢一郎代表の主張が波紋を広げている。安全な活動とされる給油に反対しながら、憲法が禁じる海外での武力行使につながりかねないアフガニスタンでの地上軍(国際治安支援部隊、ISAF)に自衛隊が参加すべきだと言い出したからだ。9日から始まる衆院予算委では政府予算委では政府が骨子を示した新法と並ぶ焦点になりそうだ。

小沢氏の地上軍参加は、党内論議もないまま先週、唐突に明らかになった。小沢氏が給油に反対する理由は「前提となる国連決議がない」という原則論。

ところが、ISAFは根拠となる国連決議がある。小沢氏の「国連決議至上主義」の論理に基づけば、給油はダメでも地上軍参加は「武力行使を含んでも憲法に抵触しない」という理屈だ。この急進的な小沢論法に民主党内は動揺した。



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小沢代表(民主党)提唱の国際治安支援部隊はこれまで死者多数

2007-10-06 11:07:14 | Weblog


海上自衛隊の外国軍艦への洋上給油について、民主党は反対しています。が、この民主党は「平和」主導の党というわけではありません。毎日新聞の記事を次に転記します。また、自民党案のシビリアンコントロールについても問題を提起しています。

 <毎日新聞2007.10.06.朝刊から>
   海上自衛隊のインド洋での給油活動を続けるための「新テロ対策特別措 置法」(仮称) の骨子案が5日、政府・与党から野党に示された。


◇小沢代表(民主党)提唱の国際治安支援部隊はこれまで死者多数

毎日新聞2007.10.06.朝刊は上のように報じました。そして、小沢民主党が平和の旗手ではないことを次のように指摘しています。

――小沢代表は5日付の党機関紙で「民主党が政権を取った後、国連決議があ る国際治安支援部隊(ISAF)に参加する」と表明。もっと前のめりな対テロ 貢献策を強調し、協議呼びかけをはねつける構え。

  死者も多数出ているISAFは、憲法が禁じる海外での武力行使につなが る可能性があり、政府与党は「非現実的」と否定的。民主党内にも「本当 に派遣して死者が出れば大変な責任だ」(中堅幹部)との懸念がある。


◇文民統制を弱めると与党内に批判

新法案では文民統制を弱めていると、上の毎日新聞記事は次のように伝えています。

――5日の自民党合同部会で新法の骨子案に批判が出た。

  「2院制を取っている以上、軍隊を動かす時は衆参両院の承認が必要。大 前提をゆがめ、危険だ」(河野太郎衆院議員)

  現行法と新法案の一番の違いは、国会承認規定の有無。現行法では、衆参 どちらかが承認しなければならないが新法案ではこの規定が削除される。 文民統制(シビリアンコントロール)を弱めることになるとの批判は与党内 にもあり、特に公明党で強い。
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