川本ちょっとメモ

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<ノモンハン捕虜帰還将校2名> 日本軍の自決システム──撃墜されて捕虜 → 帰還 → 陸軍病院 → 軍説得の拳銃自殺

2023-08-22 08:37:28 | Weblog




 1939年(昭和14年)は年初からモンゴルと満洲国の国境で小競り合いがつづきました。そして日本軍とソ連軍が本格的に衝突した1939年(昭和14年) 5月11日に始まり、日ソ停戦が成立した9月15日までのおよそ4カ月間の国境戦争をンモンハン戦争と言います。

 ノモンハン戦争はモンゴル領土内で戦われ、日本・満洲国連合軍とソ連・モンゴル連合軍の双方ともに2万人前後の死傷者を出しました。



〇 第7飛行団  飛行第1戦隊(戦闘)(1939.6.22.戦場出動)
  戦隊長    中佐  加藤敏雄  戦傷 7・12
   〃    少佐  原田文男  戦死 7・29
   〃     少佐  吉田 直
  戦隊付    大尉  牧野靖雄
   第1中隊長 大尉  高梨辰雄  戦傷 7・22
    〃    大尉  井上重俊
     付   中尉  小泉正三  戦死 7・23
     付   中尉  本間富士雄 戦死 7・24
     付   中尉  安原三郎  戦死 8・22
   第2中隊長 大尉  山田計介  戦死 7・21
    〃(代) 中尉  伊東 俊  戦死 7・24
    〃    大尉  増田 巌  戦死 8・24    
    〃(代) 中尉  谷島喜彦  戦死 8・25
    〃    大尉  小柳武次郎  
     付   中尉  野口久七 
     付   少尉  田口長蔵  
   第3中隊長 大尉  岩橋譲三 第11戦隊第4中隊長より
     付   中尉  福田徳郎

〇 第12飛行団  飛行第11戦隊(戦闘)(1939.5.23.戦場出動)
  戦隊長    大佐  野口雄二郎  8・31転出
   〃     少佐  岡部 貞
   第1中隊長 大尉  島田健二  戦死 9・15
     付   中尉  光富貞喜  戦死 6・27 
     〃   中尉  三浦正治  戦傷 7・6
     〃   少尉  長谷川智在
     〃   准尉  篠原弘道  戦死 8・27          
   第2中隊長 大尉  本村孝治  戦死 8・22
     〃   大尉  谷口正義  
     付   中尉  天野逸平  戦死 6・24     
     〃   中尉  井上重俊  
     〃   中尉  滝山 和   
     〃   少尉  山口末雄  戦死 7・23    
     〃   准尉  花田 守     
   第3中隊長 大尉  藤田 隆  戦傷 7・4
     付   中尉  大徳直行  戦死 7・6       
     〃   准尉  東郷三郎        
   第4中隊長 大尉  岩橋譲三 第1戦隊第3中隊長へ 

 上の表は、アルヴィン・D・クックス著『ノモンハン④  教訓は生きなかった』P372、374記載のノモンハン戦争従軍将校名簿です。生死未確認の者は「戦死」の分類に入っています。



 ノモンハン戦争の翌年春、1940年(昭和15年) 4月27日、ソ連のチタ収容所から日本軍捕虜77人と満洲国軍39人が釈放されて、日本側に引き渡されました。捕虜受け取り側の代表は第6軍参謀長藤本鉄熊少将。第6軍は壊滅した第23師団の上部組織です。

 捕虜たちは痩せ衰えた体に、半年前に捕虜になったときと同じ汚れた軍服を着ていました。多くの者は重傷で憲兵の助けがなければトラックに乗ることもできなかった。捕虜たちの中には、失明した者、手や足を失った者がおり、お互いに助け合って懸命になっていました。

 これらの兵たちが戦場で敗れたとき、彼らに自決する力すらなかったのは明らかだ。『ノモンハン④ 教訓は生きなかった』の著者アルビン・D・クックスは、そう書いています。

 著者は、ノモンハン戦争について多くの資料に当たり、150人以上の日本人に会って、朝日文庫4冊本1584ページにまとめました。当然、日本軍の「捕虜になる前に死ね」という教えを知っているのです。


 釈放捕虜の中には、飛行第1戦隊長原田文男少佐と飛行第11戦隊の大徳直行中尉がいました。二人とも陸軍士官学校出身です。それぞれ、7月6日と7月29日の空戦で撃墜され、戦死したと思われていました。大徳の顔は熱傷でひどくただれていた。意識を失っている間に捕虜になったのです。

 藤本少将は捕虜引き取りに来た折に、整列した捕虜たちを前にして、これまでの苦労をねぎらいました。このことで原田少佐は自分はもはや生きるわけにはいかないと、自決する覚悟ができたという。逃げるわけにはいかない軍の自決文化に、殉じる決意が定まったということだと私は理解しています。


 原田少佐と大徳中尉は、ほかの捕虜たちとともにぼろぼろの軍服から白衣に着替えて、清潔な病院列車で吉林まで護送されました。憲兵が客車の両側の入り口を警備し、自殺しないようにと便所の戸はつねに開けたままにされていました。

 捕虜一行は真夜中に吉林にある新京陸軍病院分院病院に到着し、入れられた部屋の窓は開かないようしっかりと固定されていました。


 病院で藤本少将は、原田少佐と大徳中尉の心が和らぎ早々と自殺することがないよう願って、二人に酒、チョコレート、果物などを与えたりしました。

 しかし自決させないということではなく、藤本少将は軍法会議などの手続きを整えたうえでの自決をねがっていたのだと、私は思います。


 軍に定着している規範に、「敗軍の将校指揮官は生かすな」があります。
 これは自殺的に戦死すれば良し、敗軍して生還すれば自殺に追いこみます。

 これとワンセットになる規範があります。「捕虜になるな、その前に死ね」。
 この原則は初年兵に至るまで全軍対象の規範です。


 全滅近い指揮官は身の回りを整理し、上級指揮官に最後の戦闘報告をする伝令を定めたうえで、戦闘前線で拳銃自殺(自決)するか、自殺突撃をして果てるのです。指揮下の兵士も追従しなければなりません。これが、壊滅戦闘部隊を統制する師団長らが期待する最良の終わり方なのです。


 航空将校をこれにあてはめると、墜落する事態になぜ生き残るような操縦をしたのか、捕虜になる前にピストル自殺できなかった理由は何か、という取り調べを受けたのではないかと思います。

 これに対して軍の側は、個別の実情に合わせて陸軍刑法の条項を適合させ、これは最高の不名誉である、軍もこのようなことを進めたくないと説諭します。そして当人の敢闘をたたえ、故郷の家族も喜ぶだろうと軍人にとって「名誉の自決」を進めます。 ……このようにしてピストルを目前に置いて「当人の決意による自殺」という形式を勧めます。


 病院で勤務する者の大多数が憲兵でした。訊問は、最初の間は捕虜になったときの状況についてでした。軍法会議の前夜、衛生兵が棺桶を二つ病院に持ちこむのを見た、と言う人が何人かいる。警備にあたる憲兵ですら、二人の将校の部屋に近づくのを禁じられていました。

 そのあと、拳銃の発射音が聞こえた。原田少佐と大徳中尉が、自決に追いこまれたのでした。ある憲兵の話によると、非公開の6時間にわたる特別査問のあと、将校に拳銃が与えられたといいいます。原田少佐と大徳中尉が心を開いて話したのは航空参謀の三好康之大佐で、二人の自決を確認しました。三好大佐は自決の立会人を務めたのです。


 二人の自決をハイラルで聞いて悲しんだ者の中に、捕虜を出迎えに行った一行の一人であった特務機関員がいました。

 自殺に追いこまなければならない論理的根拠について彼が上司にただしたところ、機関長は「神さまのいたずら」だと答えたという。

 すなわち、「靖国7神社に英霊として祀られるには天皇のご裁可がいる。生きて帰ってきたのでは、天皇に対してだけではなく、靖国神社も冒とくしたことになる。この矛盾を、どう解決するか。それには自決しかない」と機関長は語った。


   ──今回の記事は、主に、朝日文庫『ノモンハン④ 教訓は生きなかった』
    アルヴィン・D・クックス著 P114~117に基づいています。




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