川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
★自分用メモは、新聞・Webなどのノート書きです。

京都・百万遍と出町柳「柳月堂」

2005-10-28 23:32:41 | Weblog


◇京都・百万遍
今夜のNHKテレビ「関西もっといい旅・京都百万遍 学生街の青春」という30分番組を見ました。なつかしかった。

私は立命に進みましたが、二条城裏の堀端にある朱雀高校の同級生で親友だったMは京大に現役合格しました。大学に入ってすぐ、Mが「ドイツ語をいっしょに習いに行こう」というので、ドイツ文化センターの語学講座に入りました。私はすぐにやめて、ドイツ語などわからずじまいでした。ドイツ文化センターは京大テリトリーにありました。

 Mは京大でHという親友ができて、私もHと親しくなりました。Hは法然院を哲学の道からちょっと西に入ったところの下宿屋に下宿していました。

Hが住んでいた関係で、Mと3人で哲学の道を折々に散策したものです。法然院の境内で夜中に話しこんだこともありました。哲学の道はすでに西田幾多郎で有名でしたが、今のような観光地ではなく、落ち着いていい風情がありました。
 
私は当時、二条城正面向かいの東堀川通に住んでいました。けれども、友人Hの下宿に住みたいという思いが募って、Hを訪ねた折に下宿屋の奥さんに「下宿したいんですけど」と頼んだことがありました。

奥さんはやわらかなふわっとした京ことばで、「どこさんどす?」
「立命です」
「うちは京大はんだけどすねん」
再びやわらかなきょうことばでした。
京都市中に「京大はん、同やん、立ちゃん」という愛称が生きていた時代です。私も京都育ちなので、京都人の京大への愛着が格別であることはよくわかります。

大学1年のころは、こんな事情で京大やその周辺、中西書店なんかにもよく行っていましたから、立命大生だった私にも「百万遍」はとりわけなつかしいところの一つなのです。

◇京都・出町柳「柳月堂」
今夜のNHK「関西もっといい旅・京都百万遍 学生街の青春」 終わり近くに、出町柳にある名曲喫茶「柳月堂」が出てました。画面には73歳の夫と72歳の妻の上品な夫婦が映っています。主人が京大生時代にバイオリンを弾いていて、ピアノをやっていた奥さんに出会ったのがきっかけで結婚したそうです。ずっと二人で柳月堂に通っています。

この柳月堂がまたなつかしかった。私が一人で通っていた昔の古い「柳月堂」 は、両側床置きの特大スピーカーのうち片側一つの布張りが少し破れていました。椅子のビニール張地にも破れているものがありました。大音量のクラシックに空気が振動しているかのようでした。

ほとんどが男子学生らしき一人客でした。大音量のクラシックだけが空気を圧する中で、静かに曲に聴き入っていたり、本を読んだり、何かを書いたりしていました。

私はそういう場所の空気が心地よくて通っていました。バッハの無伴奏チェロ組曲というのは、柳月堂で初めて知りました。そこでぼんやり過ごしていると、日ごろ考えていることについて、いろいろな想念の切れ端が脈絡なく浮かびます。私はそれをメモに書き留めたりしていました。

「柳月堂」がある所は百万遍ではありません。叡電「出町柳駅」の向かい側にありました。

当時、私が通った立命・法は河原町広小路にありました。京都御所の東にある清和院御門が目の前にありました。河原町通りの丸太町から今出川までは立命テリトリーでした。

京都御所の北側は今出川通りで、同志社が面してありました。今出川通りの河原町から新町までは同志社テリトリーでした。河原町今出川が立命と同志社の接点でした。河原町今出川東すぐ、鴨川です。鴨川には賀茂大橋がかかっていて、ここは賀茂川と高野川が合流して鴨川と名を変える地点です。この橋の北東すぐ、叡電出町柳駅があります。今出川通りをもっと東に行くと百万遍ですから、出町柳は京同立三大学の接点に位置していました。

それだけではありません。出町柳辺で賀茂川に合流している高野川を少しさかのぼると京都工繊大があります。出町柳は叡山電鉄の始発駅であり、この沿線には学生下宿や学生アパートがたくさんありました。ですから出町柳は、京都の学生たちが行き交う地点でもありました。

◇片想い
柳月堂の思い出はいろいろとあります。そのなかの極めつけは、片想いでふられた一件です。高校のときから片想いをしている相手がいて、その相手は同志社の英文に進みました。

大学1年だったか、2年だったか、記憶はあいまいになりましたが、夏の暑い日暮れに、私は遂に告白をしました。大学近くの公衆電話から相手の家に電話をして、つきあってほしいと告白したのです。あっさり断られました。「私は別の人が好きなんです」という意味のことを相手はいいました。

私は失意落胆、どん底の気持ちで柳月堂に行きました。柳月堂ではレコード演奏している曲名を前に張り出していました。店に入ったときの曲名はチャイコフスキー「悲愴」でした。字を見ただけで気持ちはどん底からもっと暗い奈落の底へおちこみました。

それから店を出て、二条城前の自宅めざしてとぼとぼと歩いて帰りました。夕立のあとの御所を横切って歩きました。その夏の夜、京都御所は夕立の後に蒸せて、靄っていました。外灯がぼうっとかすんで、悲しさをいっそうかきたてていました。御所の中の公衆電話から、私は当時の親友Mに電話をしました。
Mがなぐさめてくれました。

柳月堂がテレビに出たとたん、こんな若い日の記憶が蘇りました。テレビに写った柳月堂は近年、新築なったように見えました。私の学生時代のように、今も、聴き入ったり想念を泳がせている学生が、多く通っているのでしょうか。
そうあってほしいと願いますが……。

コメント

あぁ、阪神タイガース……!

2005-10-27 10:26:49 | Weblog


あぁ、阪神タイガース……! まさかの4連敗、絶句です。

私は京都育ちです。ふるさとはと問われれば、京都です。ですが、小学校1年2学期から中学校1年まで、ゆえあって大阪の祖母に預けられて育ちました。大阪市西淀川区の塚本小学校を卒業しました。子どもたちの間では空き地での草野球が盛んでした。

塚本の隣は尼崎で、甲子園は近かった。西淀川区の小学校全部の合同体育祭を甲子園球場でやったという記憶があります。その記憶は騎馬戦です。全部の小学校を紅白に二分して騎馬戦をやるのですから、勇壮でした。私は騎馬戦が好きでしたが、同世代の間では背が高いものですから、いつも馬の役でした。

当時、塚本小学校ではほとんどの男の子が野球ファンであったように思います。野球選手はヒーローでした。子どもたちのひいきのチームは阪神タイガースか南海ホークスでした。甲子園に近い土地柄のせいか、阪神ファンは南海ファンの倍も居たように思います。南海ファンは肩身の狭い思いをしていました。ごくごくたまに巨人ファンがいたようです。しかし、巨人ファンは隠れファンでした。わかればいじめられるにちがいありません。要するに、「阪神ファンにあらずば人にあらず」というのが当時の柏里小学校男児の世論でありました。私は当然、阪神ファンでした。

塚本を離れて京都に帰って以来、野球から離れました。住んでいた京都市中心部には、ボール遊びをする空き地もありませんでした。それに京都の世間は、「阪神」には燃えません。1962年と1964年のリーグ優勝は記憶にありません。

1983年、奈良県の現在地に移住してきました。当地に住んでみてわかったことは、奈良県というよりも「大阪府奈良郡」といった方が適切なほど、大阪と親密な土地柄だということでした。

そのせいか、なんとなく阪神の様子がわかります。阪神のクセはだいたい、春の間好調で、夏近くなると「今年もやっぱりあかんか」という境地になり、死のロード(夏の高校野球期間)が終わると「絶望」状態を迎えます。そういう阪神なので、1985年のリーグ優勝に皆が興奮しました。

日本シリーズ4連敗、試合内容も大敗。……思い返せば、2003年、そして今年のリーグ優勝は、望外の幸せでした。連年の敗退の年と同じように、「耐えてこそ阪神ファン」という気持ちが蘇りました。

きょうの朝日新聞に、1946年京都市生まれ、京大卒のノンフィクション作家・後藤正治さんがこう書いています。

「幾星霜、ファンたちの想いが染み込んだ甲子園球場とタテ縞のユニホームはだれの私有物でもない。共同幻想として存立するタイガースはもはや文化財なのであって、こういう世界に、あざといマネーゲームはなじまない。ムラカミ氏に恨みはないが、カネもうけはせいぜい他でやってくれよといいたいのである。」

「いや、ボロ負け日本シリーズの鬱憤が飛び火した。完敗の心の傷をいかに癒すべきかが今日的命題である。ファン歴およそ半世紀、馬齢を重ねたオールドファンにも取りえがあるとすれば、敗北感に強いということである。」

「思えばわれら、長く日本シリーズなど無縁の歳月を送ってきた。美酒は20年に1度で十分、今生での喜びはもはやないと覚悟した日もあったではないか。それを思えば今日の事態、なんとあろう。」


コメント

臨時大統領 ジョンソンの北爆とトルーマンの原爆投下

2005-10-24 04:43:02 | Weblog


1963年11月、アメリカのケネディ大統領が暗殺され、ジョンソン副大統領が大統領に昇格しました。1965年、トンキン湾事件の報復として、アメリカは北爆を開始しました。

トンキン湾事件は、1964年8月、北ベトナム(当時)魚雷艇がアメリカ駆逐艦を魚雷攻撃したもので、アメリカによるデッチ上げ事件といわれています。北爆は1965年2月に始まり、北ベトナム(当時)の首都ハノイなどをB52による大規模爆撃でした。この北爆以後、アメリカはベトナム戦争にのめりこみました。10月18日のブログで書いた「ワンス・アンド・フォーエバー」は1965年11月、カンボジア国境に近い南ベトナム(当時)のイアドラン渓谷であった戦闘の記録です。

1945年4月、アメリカのルーズベルト大統領が死去し、トルーマン副大統領が大統領に昇格しました。そして同年7月、原爆投下を命令しました。

北爆は、B52による猛烈な破壊力で北ベトナムを屈服させようとするものでした。原爆は地獄の破壊力で日本の息の根を止めようとするものでした。二つともに、政策上、軍事作戦上の数多くの選択幅があったにちがいありません。にもかかわらず、強者にとって最も単純な結論をとったのです。

ジョンソンが北爆を実行したのも、ルーズベルトが原爆投下を実行したのも、思いがけず昇格した臨時大統領のときでした。選挙を経ていません。必要以上に自分の能力を誇示したかったのかもしれません。

国内のいろいろな政治勢力を統御するために、最も過激な方策をとる必要に追い込まれていたのかもしれません。

強国の権力者にとって最も安易な方策-圧倒的な軍事力を行使するしか、大統領の能力がなかったのかもしれません。なにしろ、元々副大統領なのですから。

いずれにしても、対戦国民の不幸の根に、「臨時大統領」があるように思います。

コメント

アメリカ騎兵隊映画の思い出

2005-10-18 12:36:50 | Weblog


いつだったか最近のこと、テレビで「ワンス・アンド・フォーエバー」という映画を見ました。ベトナム戦争の時の激戦の物語です。これは映画館でも一度見ました。

私はいつも「平和、平和」といっています。しかし、勇敢なことや英雄の話は人並みに好きです。私が小学生のころは、アメリカ映画でも西部劇がたくさんありました。とりわけ好きだったのは騎兵隊ものです。

後年、先住民の人権問題などから、騎兵隊ものもほとんど見られなくなりましたが、そのころは騎兵隊は絶対に「善玉」で、インディアンは絶対に「悪玉」でした。紺にオレンジ色のラインのユニフォームやオレンジのスカーフ。そのうえにスマートな馬。騎兵隊は、かっこよかった。

騎兵の一隊がインディアンに包囲されて、馬を下りて円陣を組んで対戦しています。もうあかんというときに、ぎりぎりはらはらという場面で、援軍の突撃ラッパがかすかに聞こえます。兵隊はそれを聞いて元気を取り戻します。そこへサーベルをかざした将校、吹きつづけるラッパ手、勇猛な軍曹らの援軍が突撃して行きます。全部、騎兵です。かっこよかった。

インディアンが撃たれてばたばた倒れます。落馬していきます。騎兵隊も死んだり負傷したりします。でも、そのころの映画の中では、死人もけが人も、血が出ません。脚や腕がちぎれたりという場面はありません。撃たれてウーンといって倒れたり、落馬したりするだけです。

そのころのストーリーは決まってこういうものでした。

騎兵隊ものでいちばん有名なのが、実際にあった第7騎兵連隊の全滅物語です。そして「ワンス・アンド・フォーエバー」は第7騎兵連隊第1大隊の物語で、これも実際にあった話です。

コメント

警察庁はバイクメーカーの営業マンか? 「東名で転倒、二輪の男女死傷」

2005-10-11 09:26:22 | Weblog


東名で転倒、二輪の男女死傷…後続の7台絡み2人けが (読売新聞) - goo ニュース

高速道路の自動二輪二人乗りは禁止すべきです。従来、高速道路二人乗りは禁止でした。然るに事故や死傷者の増加を承知の上で、二人乗りを解禁したことに怒りを覚えています。バイクはちょっとしたことで転倒する危ない乗り物です。全国各地の高校では原付通学を原則禁止していますし、放課後でも乗らないよう指導しています。事故の危険性が高いからです。

ずっと以前に四輪自動車のシートベルトが義務づけられました。事故の生存率が高くなるからという理由です。でも、そのかわり、ベルトに締め付けられて事故時の脱出は不可能です。負傷後に車外に出て救援を求めることができる場合でも、シートベルトの締め付けによって脱出できないまま、死に至るかもしれません。海や川に落ちた場合はシートベルトのおかげで、水死は確実です。事故で車が燃えた場合も、シートベルトの締め付けによる脱出遅れや脱出不能で、焼死する危険性が大いにあります。

私は、シートベルト着用の法的強制には反対です。上のようなマイナス面がありますから怖いのです。これにくらべて、二輪は簡単に転倒し、転倒すれば必ず大けがすることは誰だって知っています。また、スピードが出るに連れて事故の危険率が高まるから、40km/hとか60km/hとかの制限時速があるのです。

誰が見ても転倒事故と死傷の危険率の高い自動二輪。おまけにもっと運転が不安定になる二人乗り。誰が考えても、運転の緊張感が高まり大事故につながりやすい高速道路。それなのに、警察庁は自動二輪の高速道路二人乗りを、禁止から解禁に変更しました。

交通事故の死傷率について言えば、「シートベルトの強制着用」は、その減少に役立つのかもしれません。「高速道路二人乗り解禁」は反対に、死傷者増大に貢献します。警察庁の相反する交通行政に共通するのは、シートベルト製造・販売関連企業に貢献し、大型バイク製造・販売関連企業に貢献するということです。「高速道路二人乗り解禁」は、大企業であるバイクメーカーと政官の癒着の結果、と勘ぐりたくなります。

私もバイクが好きで、40歳くらいまではトレールモデルに乗って山道を走りました。今は家庭の事情で乗ることができませんが、時至ればまた乗りたいと思っています。トレールが好きでしたから、エンジンは200ccでした。西名阪高速道路を走ってみたこともありましたが、一人乗りで走っていてもこわかった。一般道で二人乗りを試しにやってみましたが、どうも危なっかしいので、以後二人乗りはしていません。
コメント

村上ファンドは強盗ファンド

2005-10-07 17:47:28 | Weblog


◇強盗ファンド

テレビ朝日のスーパーモーニングという朝の番組で、キャスターが村上ファンドが阪神タイガースの株式上場を要求していることで、ゲストの大学教授に聞いていました。

キャスター ファンドっていうのは、たとえば私が100万円投資したいと言ったらやってくれるんですか?

教 授 うーむ、まぁそうなんですが、1000億とかのお金を動かしますから、出し手は外国の機関投資家とか……。

キャスター とすると、ファンドというのは、「一般の人のお金を集めて」というのではないんですね。村上さんは、「タイガースをファンの皆さんに開放しなきゃいかん」って言ってましたよ。そうじゃないんですね。

教 授 うーむ、それは…。運用しなきゃいけませんから。

キャスター 株式の莫大な上場利益ですね。

言葉のやりとりは上の表現とはちがっていると思いますが、私の記憶ではこういう趣旨のものでした。村上ファンドのような人気ファンドは、一般人から見れば天文学的な資金を運用しています。一時、マスコミでも「ハゲタカ・ファンド」という言葉がはやりました。

村上ファンドが阪神電鉄の株を買い占める目的は、金儲けです。あたりまえのことです。これで儲けるということは、阪神電鉄をネタにして莫大な利益を稼ぐわけです。多くの従業員と経営者、それに株主で築き上げてきた10年、20年、あるいは何十年分の蓄積利益を右から左に持ち去るわけです。

株買い占めを武器にして、力づくで莫大な利益を持ち去る。これは合法的であっても、道徳的には「強盗行為」でしょう。時代劇に出てくる悪人の豪商といっしょです。

ファンドの資金に国境はありません。彼らにとっては半年、1年の間に、何%あるいは何十%の運用利益を上げるかが仕事です。彼らは、大義名分や美辞麗句で語ります。しかしその本質は、対象の企業がその結果どうなろうと、日本の資産が外国に移ろうと、どうだっていいんですね。

私は、どうあってもファンドを好きになれません。営々と働く人々の頭越しに莫大な富を持ち去って後は知らん顔、というのが趣味に合いません。
コメント

81歳母親、脳梗塞発症のこと

2005-10-03 03:53:47 | Weblog


9月20日に「81歳母親の失禁」を書きました。母がこうなったきっかけは、昨年末に脳梗塞を起こしたことです。脳梗塞を起こしたそのまた原因は、糖尿病です。

母は長年、糖尿病を患っています。最初の発症からもう20年を超えています。食養生はほとんどしません。間食をやめることはできません。あんぱんもおまんじゅうも食べます。アイスクリームも食べます。放っておけば、一時に2つか3つ食べます。朝食前の血糖値は常に200を超えています。でも、元気でした。高血糖が長年つづいていても、不思議にも余病併発はなかった。

昨年12月、とうとう脳梗塞という事態に至りました。大阪のデパートから帰ってきた夜、顔色悪く疲れ切っていました。その翌日も臥せっていました。微熱が出て、少し吐きました。本人も私も、「かぜ」だろうと思っていました。

ところが2日目の夜、トイレに立った母がよろよろと台所に行きました。次に風呂場に行きました。トイレのありかがわからないのです。3日目、県立病院の通院日(糖尿病月例検診)でした。CTスキャンなどの検査をして、即日入院となりました。

さいわいなことに、身体機能その他は平常でした。脳梗塞発症以後の記憶だけがだめになりました。過去のことは覚えていますし、知人・家族のこともこれまで通り、平常に認識しています。

しかし入院中、病棟のトイレを覚えられず、トイレに行くと自分の病室に戻れません。お見舞いに来てくれた人のことも、その事実さえも、すぐに忘れています。妄想も出ました。母の話によれば、世話している猫が1匹か2匹、病室に出入りしています。

入院中、すっと熱は出ていません。病状が安定しているということで、3週間で退院しました。

コメント