徳川時代の日本、『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』 ノエル・ペリン 著 中公文庫
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合戦、鉄砲量産、武器輸出国の16世紀日本~『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』
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鉄砲伝来32年で量産・大量実戦配備できた16世紀日本四つの理由~『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』
2019-12-30
鉄砲量産から製造制限へ 刀狩令~諸国鉄砲改め ノエル・ペリン『鉄砲を捨てた日本人日本史に学ぶ軍縮』
鉄砲を忌避した徳川期日本 そうなるにはどんなことがあったのか 『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』
『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』を以下、「上掲書」と表記します
<上掲書P32 鉄砲伝来>
1543年、中国の貨物船が種子島の小さな入江に漂着した。船の名前はあったにしても、記録に残っていない。しかし百余名の乗組員についてはかなりの記録がある。乗組員の多くは当時どこにもいた海賊兼商人の中国人で、うち一人は字を解した中国人船乗りで、名を五峯ごほうといった。ほかにポルトガルの冒険家が三人いた。冒険家は当時はめずらしくなかった。ポルトガルは1510年以来、インドに領有地をもち、ポルトガル人とポルトガル船は広く極東地域に進出し始めていた。乗船していたポルトガルの海賊三名は、日本にたどりついたことの知られている最初のヨーロッパ人である。
そのポルトガル人のうち二人が火縄銃と弾薬をもっていた。その一人が標的を定めて鴨を撃つのを、種子島の領主時尭ときたかが見たのが契機となって、鉄砲は日本史に登場することになった。時尭は五峯を通訳とし、射撃の訓練を受ける取決めをし、それから一ヵ月と経たぬうちにポルトガルの鉄砲を二挺とも購入した。時尭は一挺に金千両を投じたといわれる。
その額が今日にしてどの位のものか、正確な換算はむつかしい。だが、その七十年後には立派な鉄砲一挺が日本では二両で買えた。それはあたかもウインチェスター・ライフル銃が当初一挺一万ドルであったのが、やがて二十ドルに下落したようなものだ。
ノエル・ペリンは鉄砲伝来を上のように書いています。日本史では、鉄砲を伝えたのはポルトガル船というのが一般的ですが、ノエル・ペリンは、船は中国(※明)船で、乗船していたポルトガル人が鉄砲を持っていたと書いています。
種子島時尭(たねがしまときたか)は慧眼でした。刀槍弓の世界しか知らない武士の時代に、一見で、武器としての鉄砲の卓越性を見抜きました。そして、鉄砲を購入した日、ただちに家臣の刀工の八板金兵衛に命じて、鉄砲の製作にあたらせました。――これが日本の鉄砲普及の始まりです。
<上掲書P33> 一年と経たぬ間に、八板は十挺の鉄砲を処女製作し、それから十年もすると、日本じゅうの鉄砲鍛冶がこの新式の武器を大量に製造するにいたった。
1543年(天文12) 種子島に鉄砲伝来、コペルニクスが地動説発表
1549年(天文18) キリスト教伝来(フランシスコ・ザビエルが鹿児島上陸)
同年 ノエル・ペリン「織田信長が五百挺の種子島銃を注文したと
いう史料が現存する」
同年 松平竹千代(後の徳川家康)が今川氏の人質となる
1560年(永禄 3) 桶狭間の戦い 織田家武将佐久間盛重が鉄砲傷を受けて死去
1573年(天正 1) 武田信玄が鉄砲傷を受けて死去
※定説は病死。三河野田城攻城戦勝利後に死去したことから、徳川軍の狙
撃による鉄砲傷が死因とする異説がある。ノエル・ペリンは異説を採用
している。
1575年(天正 3) 長篠の合戦 織田信長軍が3000挺の鉄砲隊で武田勝頼軍の
騎馬隊に大勝した。
織田信長軍鉄砲隊の働きについて、ノエル・ペリンは「二世紀後のバンカー・ヒルでのアメリカ人の場合と同じだ」と書いています。「バンカーヒルの戦い」は1775年、アメリカ独立戦争での独立軍とイギリス軍の激戦の一つです。1776年(安永5) アメリカ独立宣言。
ノエル・ペリンは長篠の合戦についてこう書いています。
<上掲書P54>
かつては熱心な長槍信奉者であった信長は、長篠においては、三万八千の軍勢をひきつれて合戦にのぞんだのであるが、うち一万が鉄砲隊でそのうちのよりぬき鉄砲隊三千によって、信長の大勝利はもたらされた。信長は、鉄砲隊に名乗りをあげさせる考えなど毛頭なく、敵前に正々堂々と鉄砲隊をさらそうともしなかった。鉄砲隊は滝川の対岸に敵から見えぬように隠された。
刀槍弓隊と騎馬隊の戦法から鉄砲隊の戦法へ、体をさらし名乗りをあげて始める武士の戦法から足軽鉄砲隊の戦法へ、長篠の戦いが鉄砲による新しい戦争の時代を開きました。
<上掲書P63>
(※長篠の合戦後)鉄砲は、遠く離れた敵を殺す武器としてその優秀性をだれにも認められるところとなり、戦国大名はこぞってこれを大量に注文したのであった。少なくとも鉄砲の絶対数では、十六世紀の日本は、まちがいなく世界のどの国よりも大量にもっていた。
ノエル・ペリンは長篠の戦いが同時代16世紀ヨーロッパに比して、鉄砲の装備数量と動員兵数においてはるかに上回っていたことを示すために、当時ヨーロッパの先進地であったフランスにおけるクトラの戦い(1587年)を紹介しています。それは長篠の戦いの12年後、1587年(天正15)は織田信長すでに亡く、豊臣秀吉の天下になっていました。
<上掲書P58>
その当時のスコットランドは後進国であったが、フランスはヨーロッパ文化の精華を誇っていた。そうではあったが、長篠の合戦から十二年後、フランスのクトラにおけるアンリ四世の勝利も、長篠の勝利と比べると、まだまだ古めかしい観がする。もっともこの戦いでフランスの地主階級はそれ以前のいかなる内戦にもまさる多大の死者を出したのである。
クトラでは多数の火器が使用された。アンリ四世の側には大砲二門、対するジョワィユーズ公の側には大砲が七門。アンリ四世が各槍隊の間に二十五名の鉄砲隊を配する軍略をたてたり、三百名の部下にピストルをもたせたといっても、これを長篠における信長の軍勢と対比するならば、大したものではない。しかし一般にこの戦術こそアンリ四世に勝利をもたらし、かつ、両軍の死傷者数に大差の生じた原因と目されている。アンリ四世の側では死者二百人未満、それに対し敵側は二千七百名。長篠の合戦ではしかし一万六千名の死者を数えたのである。
「長篠の合戦で信長が勝利をおさめたのち半世紀は、火器の使用が日本で最高潮に達した時代である」とノエル・ペリンは書く。豊臣秀吉の朝鮮侵略1592年~1598年の7年間、1年目は破竹の進軍でしたが、2年目からは明の朝鮮救援軍によって進軍は停滞し、鉄砲が渇望されるようになります。
1575年(天正 3) 織田信長 長篠の合戦
1582年(天正10) 織田信長 天目山の戦い 武田勝頼を破り武田滅亡
同 年 本能寺の変(織田信長自害)、山崎合戦(明智光秀敗死)
1583年(天正11) 羽柴秀吉 賤ケ岳の戦い(柴田勝家敗死)
1584年(天正12) 秀吉 小牧・長久手の戦い(徳川家康和睦)
同 年 秀吉 11月 権大納言
1585年(天正13) 秀吉 四国平定(長曾我部元親降伏)
同 年 秀吉 3月 正二位内大臣、7月従一位関白
1586年(天正14) 秀吉 9月 正親町天皇から豊臣姓を賜る
同 年 豊臣秀吉 12月 太政大臣
1587年(天正15) 豊臣秀吉 九州平定(島津義久降伏)
同 年 豊臣秀吉 キリスト教禁教令、宣教師国外追放を命じる
1588年(天正16) 豊臣秀吉 刀狩令を発布(※兵農分離の実施)
1590年(天正18) 豊臣秀吉 小田原平定(北条氏滅亡)
同 年 豊臣秀吉 奥州平定(伊達政宗が臣属)
1591年(天正19) 豊臣秀吉 3月 人掃令(ひとばらいれい)発布、8月 身分統制令発布
1592年(文禄 1) 文禄の役 豊臣秀吉 朝鮮侵攻
1597年(慶長 2) 慶長の役 豊臣秀吉 朝鮮侵攻
1598年(慶長 3) 8月、豊臣秀吉死去 朝鮮侵攻軍召喚、11月 島津殿軍撤退
1600年(慶長 5) 関ヶ原の戦い
1612年(慶長17) 徳川家康 直轄領にキリスト教禁教令
1613年(慶長18) 徳川家康 全国にキリスト教禁教令
1614年(慶長19) 大坂冬の陣
1615年(元和 1) 大坂夏の陣 豊臣氏滅亡 元和偃武
1616年(元和 2) 徳川家康死去
同 年 徳川秀忠 明船以外の来航を平戸・長崎に限定
1619年(元和 5) 京都六条河原、キリスト教徒52人を火あぶりの刑に処す
1637年(寛永14) 島原の乱
<上掲書P70>
(※明の朝鮮救援軍のため)今度は多勢に無勢、日本軍は衆寡敵せず圧倒されてしまい、朝鮮側の厳しい巻き返しに直面することになった。かくて日本の諸将のなかには、全軍に鉄砲をもたせたい、という考えをもつ者が出はじめた。一五九〇年代に朝鮮から日本に送られた二、三の書状にはその見解がかなりはっきり書かれている。一つは一五九二年、朝鮮に弓矢隊約干五百、鉄砲隊約千五百、槍隊約三百を率いていった地方大名の書き送った書状で、家老に宛てた書面には武器構成の変更が望まれ、「鉄砲と弾薬を送るよう手配されたい。槍はまったく必要ない」とある。
このときすでに長篠の合戦からは十七年の歳月が流れていた。したがって鉄砲が槍に優るというのは国元の家老にほことさら目新しく思えたことではあるまい。新しいのは主君の鉄砲に対する態度の変化である。
ちなみに、日本には送れる鉄砲はまだ十分あった。フロレンスの商人フランセスコ・カルレッチは朝鮮の役〔慶長の役〕が苛烈をきわめていた最中の一五九七年、日本船に乗ってフィリピン経由で来日した。カルレッチが後に大公フェルディナンド・デ・メジチにあてた報告にあるごとく、日本人はそのときにはすでに約三十万人〔文禄の役ではおよそ十六万人、慶長の役では十四万人〕もが朝鮮に出兵していたが、それでもなお日本には多勢の武士が残っていた。
そのほとんどが鉄砲を一挺ないし二挺所有していたという。このことをカルレッチほ狩猟に招かれたときに発見した。武士は戦場では刀や弓をどれほど好むにしても、雁、雉、鴨を撃つには鉄砲を愛好し、「侍はこれら野鳥を鉄砲によって一発でしとめる」とフェルディナンド大公に書き送っている。
もう一通の書状は朝鮮の役が終りに近づいたころのものである。それより先、日本軍は、いったん鴨録江まで破竹の進撃をした後、今やそこから中国軍のために退却を余儀なくされていた――その有様は三百五十年後、朝鮮戟争のときのアメリカ人とかなり似たところがある。ちなみにそのときも中国の人口は世界総人口の四分の一であった。
武将浅野幸長は数の上で圧倒的にまさる中国・朝鮮連合軍に対して蔚山城(うるさんじょう)で防戦しており、浅野は父宛に武器の調達を求め、「できるかぎり多くの鉄砲をよこしてください。ほかのものは必要としません。武士ともども全員が鉄砲を携えてくるよう厳命してください」と書状に認めている。
<上掲書P39>
しかし、日本で、もっとも大量に製造されていた物が何かというと、それは武器であって、二百年間ぐらい日本は世界有数の武器輸出国であった。日本製の武器は東アジア一帯で使われていた。一四八三年、この年は例外であったにせよ、中国向けだけで六万七千におよぶ日本刀が輸出されている。
それから百十四年経て来日したイタリア商人フランセスコ・カルレッチは、日本の盛んな武器輸出に言及し、「攻撃用、防御用を問わず、ありとあらゆる武器があり、この国は世界で、最大の武器供給国だと思う」と記している。時代が下り、事情の変わりはじめた一六一四年になっても、その年、平戸の小港からシャムに向かった貿易船に積載されていた主な荷物は、一具につき四・五両の輸出用の武具が十五具、一刀につき〇・五両の小刀が十八刀、一刀につき〇・二両の小刀が二十八刀、一挺につき三両の鉄砲が三挺、一挺につき二・五両の鉄砲十五挺といった具合であった。