川本ちょっとメモ

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合戦、鉄砲量産、武器輸出国の16世紀日本~『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』

2019-11-26 22:02:29 | Weblog
2019-11-03
徳川時代の日本、『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』 ノエル・ペリン 著 中公文庫
2019-11-26
合戦、鉄砲量産、武器輸出国の16世紀日本~『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』
2019-12-06
鉄砲伝来32年で量産・大量実戦配備できた16世紀日本四つの理由~『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』
2019-12-30
鉄砲量産から製造制限へ 刀狩令~諸国鉄砲改め ノエル・ペリン『鉄砲を捨てた日本人日本史に学ぶ軍縮』 
2020-01-05
鉄砲を忌避した徳川期日本 そうなるにはどんなことがあったのか 『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』
2020-01-15
徳川期日本は兵器の発達を後退させると同時に民生用技術や学問を前進させた 『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』・終 

  『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』を以下、「上掲書」と表記します

<上掲書P32 鉄砲伝来>
 1543年、中国の貨物船が種子島の小さな入江に漂着した。船の名前はあったにしても、記録に残っていない。しかし百余名の乗組員についてはかなりの記録がある。乗組員の多くは当時どこにもいた海賊兼商人の中国人で、うち一人は字を解した中国人船乗りで、名を五峯ごほうといった。ほかにポルトガルの冒険家が三人いた。冒険家は当時はめずらしくなかった。ポルトガルは1510年以来、インドに領有地をもち、ポルトガル人とポルトガル船は広く極東地域に進出し始めていた。乗船していたポルトガルの海賊三名は、日本にたどりついたことの知られている最初のヨーロッパ人である。

 そのポルトガル人のうち二人が火縄銃と弾薬をもっていた。その一人が標的を定めて鴨を撃つのを、種子島の領主時尭ときたかが見たのが契機となって、鉄砲は日本史に登場することになった。時尭は五峯を通訳とし、射撃の訓練を受ける取決めをし、それから一ヵ月と経たぬうちにポルトガルの鉄砲を二挺とも購入した。時尭は一挺に金千両を投じたといわれる。

 その額が今日にしてどの位のものか、正確な換算はむつかしい。だが、その七十年後には立派な鉄砲一挺が日本では二両で買えた。それはあたかもウインチェスター・ライフル銃が当初一挺一万ドルであったのが、やがて二十ドルに下落したようなものだ。

 

 ノエル・ペリンは鉄砲伝来を上のように書いています。日本史では、鉄砲を伝えたのはポルトガル船というのが一般的ですが、ノエル・ペリンは、船は中国(※明)船で、乗船していたポルトガル人が鉄砲を持っていたと書いています。

 種子島時尭(たねがしまときたか)は慧眼でした。刀槍弓の世界しか知らない武士の時代に、一見で、武器としての鉄砲の卓越性を見抜きました。そして、鉄砲を購入した日、ただちに家臣の刀工の八板金兵衛に命じて、鉄砲の製作にあたらせました。――これが日本の鉄砲普及の始まりです。


<上掲書P33> 一年と経たぬ間に、八板は十挺の鉄砲を処女製作し、それから十年もすると、日本じゅうの鉄砲鍛冶がこの新式の武器を大量に製造するにいたった。

 

1543年(天文12) 種子島に鉄砲伝来、コペルニクスが地動説発表
1549年(天文18) キリスト教伝来(フランシスコ・ザビエルが鹿児島上陸)
  同年    ノエル・ペリン「織田信長が五百挺の種子島銃を注文したと
        いう史料が現存する」
  同年    松平竹千代(後の徳川家康)が今川氏の人質となる
1560年(永禄 3) 桶狭間の戦い 織田家武将佐久間盛重が鉄砲傷を受けて死去
1573年(天正 1) 武田信玄が鉄砲傷を受けて死去
         ※定説は病死。三河野田城攻城戦勝利後に死去したことから、徳川軍の狙
           撃による鉄砲傷が死因とする異説がある。ノエル・ペリンは異説を採用
            している。

1575年(天正 3) 長篠の合戦 織田信長軍が3000挺の鉄砲隊で武田勝頼軍の
        騎馬隊に大勝した。

織田信長軍鉄砲隊の働きについて、ノエル・ペリンは「二世紀後のバンカー・ヒルでのアメリカ人の場合と同じだ」と書いています。「バンカーヒルの戦い」は1775年、アメリカ独立戦争での独立軍とイギリス軍の激戦の一つです。1776年(安永5) アメリカ独立宣言。

 ノエル・ペリンは長篠の合戦についてこう書いています。 

<上掲書P54>
 かつては熱心な長槍信奉者であった信長は、長篠においては、三万八千の軍勢をひきつれて合戦にのぞんだのであるが、うち一万が鉄砲隊でそのうちのよりぬき鉄砲隊三千によって、信長の大勝利はもたらされた。信長は、鉄砲隊に名乗りをあげさせる考えなど毛頭なく、敵前に正々堂々と鉄砲隊をさらそうともしなかった。鉄砲隊は滝川の対岸に敵から見えぬように隠された。


刀槍弓隊と騎馬隊の戦法から鉄砲隊の戦法へ、体をさらし名乗りをあげて始める武士の戦法から足軽鉄砲隊の戦法へ、長篠の戦いが鉄砲による新しい戦争の時代を開きました。

<上掲書P63>
(※長篠の合戦後)鉄砲は、遠く離れた敵を殺す武器としてその優秀性をだれにも認められるところとなり、戦国大名はこぞってこれを大量に注文したのであった。少なくとも鉄砲の絶対数では、十六世紀の日本は、まちがいなく世界のどの国よりも大量にもっていた。


ノエル・ペリンは長篠の戦いが同時代16世紀ヨーロッパに比して、鉄砲の装備数量と動員兵数においてはるかに上回っていたことを示すために、当時ヨーロッパの先進地であったフランスにおけるクトラの戦い(1587年)を紹介しています。それは長篠の戦いの12年後、1587年(天正15)は織田信長すでに亡く、豊臣秀吉の天下になっていました。

<上掲書P58>
 その当時のスコットランドは後進国であったが、フランスはヨーロッパ文化の精華を誇っていた。そうではあったが、長篠の合戦から十二年後、フランスのクトラにおけるアンリ四世の勝利も、長篠の勝利と比べると、まだまだ古めかしい観がする。もっともこの戦いでフランスの地主階級はそれ以前のいかなる内戦にもまさる多大の死者を出したのである。

 クトラでは多数の火器が使用された。アンリ四世の側には大砲二門、対するジョワィユーズ公の側には大砲が七門。アンリ四世が各槍隊の間に二十五名の鉄砲隊を配する軍略をたてたり、三百名の部下にピストルをもたせたといっても、これを長篠における信長の軍勢と対比するならば、大したものではない。しかし一般にこの戦術こそアンリ四世に勝利をもたらし、かつ、両軍の死傷者数に大差の生じた原因と目されている。アンリ四世の側では死者二百人未満、それに対し敵側は二千七百名。長篠の合戦ではしかし一万六千名の死者を数えたのである。


「長篠の合戦で信長が勝利をおさめたのち半世紀は、火器の使用が日本で最高潮に達した時代である」とノエル・ペリンは書く。豊臣秀吉の朝鮮侵略1592年~1598年の7年間、1年目は破竹の進軍でしたが、2年目からは明の朝鮮救援軍によって進軍は停滞し、鉄砲が渇望されるようになります。

1575年(天正 3)  織田信長 長篠の合戦
1582年(天正10) 織田信長 天目山の戦い 武田勝頼を破り武田滅亡
   同 年    本能寺の変(織田信長自害)、山崎合戦(明智光秀敗死)
1583年(天正11) 羽柴秀吉 賤ケ岳の戦い(柴田勝家敗死)
1584年(天正12) 秀吉 小牧・長久手の戦い(徳川家康和睦)
   同 年   秀吉 11月 権大納言
1585年(天正13) 秀吉 四国平定(長曾我部元親降伏)
   同 年   秀吉 3月 正二位内大臣、7月従一位関白
 1586年(天正14) 秀吉 9月 正親町天皇から豊臣姓を賜る
   同 年   豊臣秀吉 12月 太政大臣
1587年(天正15) 豊臣秀吉 九州平定(島津義久降伏)
   同 年    豊臣秀吉 キリスト教禁教令、宣教師国外追放を命じる
1588年(天正16) 豊臣秀吉 刀狩令を発布(※兵農分離の実施)
1590年(天正18) 豊臣秀吉 小田原平定(北条氏滅亡)
   同 年    豊臣秀吉 奥州平定(伊達政宗が臣属)
1591年(天正19) 豊臣秀吉 3月 人掃令(ひとばらいれい)発布、8月 身分統制令発布
 1592年(文禄 1)  文禄の役 豊臣秀吉 朝鮮侵攻
 1597年(慶長 2)  慶長の役 豊臣秀吉 朝鮮侵攻
1598年(慶長 3)  8月、豊臣秀吉死去 朝鮮侵攻軍召喚、11月 島津殿軍撤退
1600年(慶長 5)  関ヶ原の戦い
1612年(慶長17) 徳川家康 直轄領にキリスト教禁教令
1613年(慶長18) 徳川家康 全国にキリスト教禁教令
1614年(慶長19) 大坂冬の陣
 1615年(元和 1)  大坂夏の陣 豊臣氏滅亡 元和偃武
1616年(元和 2)  徳川家康死去
   同 年    徳川秀忠 明船以外の来航を平戸・長崎に限定
1619年(元和 5)  京都六条河原、キリスト教徒52人を火あぶりの刑に処す
1637年(寛永14) 島原の乱

<上掲書P70>
(※明の朝鮮救援軍のため)今度は多勢に無勢、日本軍は衆寡敵せず圧倒されてしまい、朝鮮側の厳しい巻き返しに直面することになった。かくて日本の諸将のなかには、全軍に鉄砲をもたせたい、という考えをもつ者が出はじめた。一五九〇年代に朝鮮から日本に送られた二、三の書状にはその見解がかなりはっきり書かれている。一つは一五九二年、朝鮮に弓矢隊約干五百、鉄砲隊約千五百、槍隊約三百を率いていった地方大名の書き送った書状で、家老に宛てた書面には武器構成の変更が望まれ、「鉄砲と弾薬を送るよう手配されたい。槍はまったく必要ない」とある。

 このときすでに長篠の合戦からは十七年の歳月が流れていた。したがって鉄砲が槍に優るというのは国元の家老にほことさら目新しく思えたことではあるまい。新しいのは主君の鉄砲に対する態度の変化である。

 ちなみに、日本には送れる鉄砲はまだ十分あった。フロレンスの商人フランセスコ・カルレッチは朝鮮の役〔慶長の役〕が苛烈をきわめていた最中の一五九七年、日本船に乗ってフィリピン経由で来日した。カルレッチが後に大公フェルディナンド・デ・メジチにあてた報告にあるごとく、日本人はそのときにはすでに約三十万人〔文禄の役ではおよそ十六万人、慶長の役では十四万人〕もが朝鮮に出兵していたが、それでもなお日本には多勢の武士が残っていた。

 そのほとんどが鉄砲を一挺ないし二挺所有していたという。このことをカルレッチほ狩猟に招かれたときに発見した。武士は戦場では刀や弓をどれほど好むにしても、雁、雉、鴨を撃つには鉄砲を愛好し、「侍はこれら野鳥を鉄砲によって一発でしとめる」とフェルディナンド大公に書き送っている。

 もう一通の書状は朝鮮の役が終りに近づいたころのものである。それより先、日本軍は、いったん鴨録江まで破竹の進撃をした後、今やそこから中国軍のために退却を余儀なくされていた――その有様は三百五十年後、朝鮮戟争のときのアメリカ人とかなり似たところがある。ちなみにそのときも中国の人口は世界総人口の四分の一であった。

武将浅野幸長は数の上で圧倒的にまさる中国・朝鮮連合軍に対して蔚山城(うるさんじょう)で防戦しており、浅野は父宛に武器の調達を求め、「できるかぎり多くの鉄砲をよこしてください。ほかのものは必要としません。武士ともども全員が鉄砲を携えてくるよう厳命してください」と書状に認めている。


<上掲書P39>
 しかし、日本で、もっとも大量に製造されていた物が何かというと、それは武器であって、二百年間ぐらい日本は世界有数の武器輸出国であった。日本製の武器は東アジア一帯で使われていた。一四八三年、この年は例外であったにせよ、中国向けだけで六万七千におよぶ日本刀が輸出されている。

それから百十四年経て来日したイタリア商人フランセスコ・カルレッチは、日本の盛んな武器輸出に言及し、「攻撃用、防御用を問わず、ありとあらゆる武器があり、この国は世界で、最大の武器供給国だと思う」と記している。時代が下り、事情の変わりはじめた一六一四年になっても、その年、平戸の小港からシャムに向かった貿易船に積載されていた主な荷物は、一具につき四・五両の輸出用の武具が十五具、一刀につき〇・五両の小刀が十八刀、一刀につき〇・二両の小刀が二十八刀、一挺につき三両の鉄砲が三挺、一挺につき二・五両の鉄砲十五挺といった具合であった。




   
 
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徳川時代の日本、『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』 ノエル・ペリン 著 中公文庫

2019-11-03 15:27:41 | Weblog
2020-01-15

  著者ノエル・ペリン氏は23歳のとき、陸軍中尉として朝鮮戦争に従軍しました。その経験が青年のノエル・ペリン氏を変えました。 ペリン氏は1951年に横浜近くの基地に着き、そこから佐世保まで汽車で輸送され、米軍艦に乗り換え、米陸軍将兵の一人として朝鮮半島に上陸しました。

 私は朝鮮戦争時期の日本の世情の雰囲気を経験していませんが、この本を読みながら、ペリン氏や彼と同世代のアメリカ兵の部隊が何百人、何千人とアメリカから軍用船で神奈川県横須賀に着き、トラックか鉄道で順次、米陸軍基地キャンプ座間に着き、部隊編成が整いしだいに軍用列車にぎっしり乗り込んで長崎県佐世保に着き、上陸用艦に乗艦して朝鮮半島のどこかに上陸していくさまを思いました。

在日米軍基地は朝鮮戦争に参戦していました。そうした間、朝鮮半島は荒廃し、住民のうちの若い息子たちは軍で戦い、殺し殺され、住民の大多数が避難民として逃げまどっていました。


 この文庫本をずっと昔に本屋さんの店頭で買いました。奥付を見ると1991年3月25日印刷 4月10日発行になっています。ということは二十数年前に買ったものでしょうか。
 

1615年 大坂夏の陣、豊臣家滅亡
1637年~1638年 島原の乱
1861年 ロシア軍艦が対馬の一角を占拠
1863年 長州藩が下関海峡通過の外国船を次々砲撃
1863年 薩英戦争 薩摩藩とイギリス艦隊
1864年 下関戦争 長州藩 英仏蘭米艦隊が下関来襲
1868年~1869年 戊辰戦争

1638年島原の乱が終わり、1861年あたりから始まる幕末争乱までの徳川時代220年は、天変地異の災厄や一揆などがあったけれども、天下泰平の平和な時代でありました。

しかしこの時代の日本の天下泰平が、近世歴史世界に誇れる平和日本だったということを発見できたのは、この本のおかげでした。この本を読んだのは25年前くらいだったでしょうか。そのときから、徳川時代の見方が変わり、明治維新の見方は大きく変わりました。

著者ノエル・ペリン氏は23歳のとき、陸軍中尉として朝鮮戦争に従軍しました。その経験が青年のノエル・ペリン氏を変えました。

ペリン氏は1951年に横浜近くの基地に着き、そこから佐世保まで汽車で輸送され、佐世保から海を渡りました。

私は朝鮮戦争時期の日本の世情の雰囲気を経験していませんが、この本を読みながら、ペリン氏や彼と同世代のアメリカ兵の部隊が何百人、何千人とアメリカから軍用船で神奈川県横須賀に着き、トラックか鉄道で順次、米陸軍基地キャンプ座間に着き、部隊編成が整いしだいに軍用列車にぎっしり乗り込んで長崎県佐世保に着き、上陸用艦に乗艦して朝鮮半島のどこかに上陸していくさまを思いました。

本州と九州の陸海空米軍基地は朝鮮戦争に参戦していました。そうした間、朝鮮半島は荒廃し、住民のうち若い息子たちは軍で戦い、殺し殺され、住民の大多数が避難民として逃げまどっていました。

さて、『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』はまだ文庫新本を売っているようです。著者序文と訳者あとがきをここに転載します。


<日本語版への著者(ノエル・ペリン)序文>

 他人の国の行動に口出しすべきでないということは承知しているつもりです。ヘンリー・キッシンジャー氏ほどの外国通、田中角栄氏ほどの実力者にあってさえ他国のことに干渉していません。

 しかし、希望を表明するのは一向に差しつかえないでしょう。わたくしは日本に希望をいだいています。それは、このところアメリカ合衆国が日本に対して次第に強力にかけている自衛隊の規模を増強するようにという圧力に、日本が屈してほしくない、というものです。

 日本が合衆国の陸・海・空軍に「ただ乗り」しているという主張は、アメリカ合衆国政府(ないし合衆国の政府関係筋)における常套句になりつつあります。「ただ乗り」といいますが、いったいどこがその終着駅だというのでしょうか。核戦争ではありますまいか。すでに核を合衆国は広島と長崎に見舞いました。もうたくさんでありましょう。

 日本はその昔、歴史にのこる未曾有のことをやってのけました。ほぼ四百年ほど前に日本は、火器に対する探究と開発とを中途でやめ、徳川時代という世界の他の主導国がかつて経験したことのない長期にわたる平和な時代を築きあげたのです。わたくしの知るかぎり、その経緯はテクノロジーの歴史において特異な位置を占めています。

 人類はいま核兵器をコントロールしようと努力しているのですから、日本の示してくれた歴史的実験は、これを励みとして全世界が見習うべき模範たるものです。ささやかながら、本書もまた日本の経験をめぐって執筆したものです。

 この場をかりて敢えて希望を申し述べることが許されますならば、日本にいま一度新しい模範を示していただけないものか。日本が国の栄誉のために自衛隊の増強を決めたとしても、それはそれで仕方がありません。外部からとやかくいうべき筋合のものではまったくないからです。

 それでもなおわたくしは、ワシントンの野心家の機嫌をとるだけのために日本が新式兵器に金をかけることのないよう、貴国に希望を託しています。

ダートマス・カレッジにて
  ノエル・ペリン
             1984年2月24日



<訳者(川勝平太)あとがき>

 本書は過去の出来事の実証を目的としたものではない。本書は、日本の歴史に教訓を汲みとった反戦・反核の書である。ライトモチーフは「日本語版への序文」に明瞭であろう。背景にある問題は深刻でありまた大きい。核のコントロールは可能であるのか、核兵器を廃棄にもちこむことは本当にできるのであろうか。

 著者ノエル・ペリンは、日本の武器の歴史を語りながら、これらの問いのいずれに対しても、直接的ではないが、明らかに「イエス」という答えを出している。

 本書の一部は雑誌『ニュー・ヨーカー(The New Yorker)』(1965年11月号)に「鉄砲の放棄(Givng up the Gun)」の表題で発表された。本書はそれを下敷にして加筆され、1979年、同じタイトルのもとで「刀へ後戻りをした日本、1543~1879年」という副題をそえて発行されたものである。発行当初より多大の反響を呼び、書評があいついだ。

 同年中だけでも『シカゴ・サン・タイムズ』『ライブラリー・ジャーナル』『ボストン・サンデー・グローブ』『ロスアンゼルス・タイムズ』『ワシントン・ポスト・ブック・ワールド』『カーカス』『ニユー・リパブリック』『フィラデルフィア・インクワイアラー』『タイム』『ニューヨーク・レヴュー』等々の雑誌や新聞紙上でやつぎばやにとりあげられ、いずれも、本書に論述された世界の歴史に類例のない日本の武器の「反進歩の歴史」には率直な驚きをかくさず、そこから核の時代への教訓を説得的に引き出したペリンに讃辞を惜しんでいない。

 アメリカ合衆国の前駐日大使E・0・ライシャワーは「これは極めて重大な物語である。数多くの興味深い史実が盛りこまれ、日本と西洋における技術、軍事、生活の違いが鮮やかに浮き彫りにされている。思考を刺激し、感興をそそる作品である」と歎賞した。

 本書は、すぐれて問題提起の書である。過去の出来事に根拠をもとめつつも、現代さらには未来への指針を探ったところにその価値は見出されるべきであろう。

 現代は科学技術の支配する時代である。技術ないし道具の発達は、遠く人類の生誕にまでさかのばる。以来、道具の発達によって人間の生活の向上がもたらされてきた。

 問題は、技術の発達が同時に武器の発達をともなったことである。この間題の根はふつうに想像される以上にふかい。

 今西錦司博士によれば、人類の最初の道具は外敵から身を守る防御のための棒切れないし石であったという。つまり道具を使う動物たる人間の最初の道具は武器であった。武器は人類の歴史とともに古いのである。

 ノーベル生理医学賞を受賞したK・ローレンツによると、
 動物は原則として同種の仲間を殺さない。
 ところが人間の世界では、殺人が日常的にみられる。
 武器と殺人とは人類のもつ原罪のようにさえみえる。

 人類史が道具ないし技術の発達によって特徴づけられるとすれば、それは同時に武器の発達の過程でもあった。生活の向上を約束する技術の発達が、生存の安全を脅かす武器の発達をともなう。そこに問題がある。

 世界史を繙けば、戦争の繰り返し、いいかえれば相手をできるだ効率的に抹殺する、より優れた武器の発明と改良の歴史であった。この過程は一見不可避に見えよう。

 世界史における武器発達の二大画期は、鉄砲の発明と核兵器の発明とであろう。前者は中世から近代への転換に決定的位置をしめ、後者は近代に終蔦をもたらしかねない危険性をもつ。

  三つ目の画期を成す兵器は、ミサイルに始まり、今どんどん開発されている遠隔操縦無
   人兵器ではありませんか。殺人兵器の操縦はテレビゲームのような感覚でできるでしょ
   う。人体が破壊され、飛び散り、苦しむありさまを見なくてよいのです。これなら命令
    を下す人も、遠隔操縦する人も、殺人感覚が希薄になるでしょう。


 鉄砲の使用が近代を通じて拡大したように、核兵器もそれが発明されて以来、保有国、保有量は拡大する一方である。新式武器が旧式のものにとって代わる。これは武器の歴史の鉄則のようにみえる。しかし例外があった。それがほかならぬ日本における武器の歴史である。

 鉄砲は、天文13年(天文12年という説もある)に種子島に漂着したポルトガル人がもたらして以来、日本中に燎原の火のごとくに広まった。16世紀後半の日本は、非西欧圏にあっては唯一、鉄砲の大量生産に成功した国である。それにとどまらず、同時代の日本は、ヨーロッパのいかなる国にもまさる世界最大の鉄砲使用国になった。

 ときあたかも戦国時代であり、日本中が戦争に明け暮れする中で、鉄砲を前にすれば刀剣が無力であることは証明ずみであった。にもかかわらず、日本人は鉄砲をすてて刀剣の世界に舞い戻った。武器の歴史において起こるべからざることが起こったのである。

 日本史の教科書には「鉄砲の伝来」については必ず書かれている。しかしこと「鉄砲の放棄」については余り注目されていない。ペリンはここに着眼した。

 著者が特に注目している時期は江戸時代である。それは鎖国の時代であり、日本が国際的に孤立した時代であった。だが戦争のなかった時代である。

 ひるがえって同時代の西洋をみれば、地理上の拡大からいわゆる帝国主義列強へと雄飛する時期に当っており、この間、西洋諸国は、植民地に対してはもとより、仲間うちでもドイツ三十年戦争、英蘭戦争、英米戦争、ナポレオン戦争等々、枚挙にいとまのないほど戦争に明け暮れていた。西洋諸国と比べれば、当時の日本の社会は「天下泰平」を謳歌していたといえるのである。

 16世紀後半に西洋と日本とはともに鉄砲の時代を迎えながら、一方においては鉄砲の使用・拡大による戦争への道、他方においては鉄砲の放棄・削減による平和への道という対照的な歴史過程を歩んだ。

 この際立った相違こそ著者ノエル・ペリンのもっとも注目したところである。しかも、武器の発達を止めた近世社会は、それによって貧しくなったのではない。

  経済学においては生産に必要な要素は土地・資本・労働の三つの生産要素に整理されるが、その組み合せによっていろいろな型の経済社会が考えられる。西洋では、獲得した広大な土地に対して労働力が相対的に不足し、労働の生産性をあげるために大きな資本が投下された。

 鎖国下の日本では、土地は限られていたが、労働力の供給は相対的に豊富であったから、労働を集中的に投下して土地の生産性をあげることが課題であった。これは多肥集約型の農法の開発として果たされた。

 西洋では技術の規模の大きい資本集約型、日本では技術規模の小さい労働集約型の経済社会を生み出したのである(社会経済史学会編『新しい江戸時代史像を求めてーその社会経済史的接近』東洋経済新報社、1977年、を参照されたい)。
 ―以下、略―

   1984年4月29日




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