川本ちょっとメモ

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(続続)6月23日は沖縄慰霊の日、『沖縄・八十四日の戦い』 米上陸軍司令官戦死、戦車に轢かれる、日米兵士による虐殺

2020-06-26 04:11:31 | Weblog





引き続き「沖縄・八十四日の戦い」 榊原昭二著を紹介します。原著は1983年5月新潮社刊なので、文中の〇〇年前とか△△歳いう表記は1983年始めごろの時点のものとご理解ください。 文中の沖縄戦体験主の氏名は頭文字表記に、年月日と年齢の表記はアラビア数字に替えました。そのほかは原文通りに写しました。 


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 岩波同時代ライブラリー『沖縄・八十四日の戦い』

 12.両軍司令官の死



 『沖縄・八十四日の戦い』
 12.両軍司令官の死
 【バックナー米軍司令官戦死】

  沖縄攻撃の米軍最高指揮官、第十軍司令官サイモン・B・バックナー
 中将は1945年(昭和20年)6月18日に戦死した。場所は糸満市真栄里。
 米軍の公式発表は、日本軍の砲撃によるものとしているが、「私の部下
 の狙撃によるものだ」と沖縄キリスト教短大教授、MSさん、五十七歳。

  「その日の午後1時すぎ、昼食をすまして壕を出ようとした。久しぶ
 りの好天、新鮮な空気が吸いたかったからだ。壕内の陰気さったらない
 のだ。監視兵のO一等兵に声をかけた。軽い冗談でもいいたいような
 気になっていた。Oは口を閉じ、右手の人さし指を口の真ん中に立て
 た。『見習士官殿、お静かに』の合図だ。と、その人さし指を、右前方
 百数十メートルの小高い岡の上に指さした。見ると、ジープから三人の
 米軍将校が降り立った。『O、鉄帽(鉄カブト)をかぶれとHY主計中
 尉。『撃っちゃいましょうか』とO。『命令がなければ撃つな』と
 私。三人の米軍将校の中で、一番かっぶくのいい、年配の人が左手で帽
 子をぬぎ、右手でズボンのポケットからハンカチを取り出した。頭を下
 げ、顔から額の汗をぬぐい上げながら頭を後ろにそらした。一瞬、Oは
 撃った。その将校はどうと倒れた。二人の若い将校がかけ寄って抱き上
 げ、ジープにのせて、さっと立ち去った」

  「O一等兵は東京出身、翌6月19日戦死した。快活な男で、私は彼
 とは約一週間行動を共にした。狙撃兵ではない。使用したのは九九式歩
 兵銃だ」

  MSさんは沖縄県立三中(現名護高校)を経て東京音楽学校(現東京
 芸大)選科でピアノを学んでいた1944年10月、恩納村の山部隊に入隊
 した。甲種幹部候補生に合格、神奈川県下で予備士官教育を受けるはず
 だった。戦局急転で1945年4月、山部隊の歩兵第三十二連隊(原隊は山
 形市)勤務の見習士官として、首里・石嶺町の連隊本部で働いた。日本
 軍の南部退却で、6月7日か8日に糸満市真栄里の連隊経理部壕に移った。
 壕にはHY中尉、下士官数人、兵十数人の計約二十人がいた。MSさん
 は桜の座金
ざがねに伍長の階級章をつけた見習士官だった。壕の右前方
 百数十メートルにバックナーが戦死した丘、左前方数百メートルに連隊
 本部の壕(現在、山形の塔)がある。

  連隊本部付看護婦だったMAさん、五十三歳。「山形の塔の地下に
 あった連隊本部壕の中で、6月20日ごろ、『うちの連隊の兵隊が敵の親
 玉を撃ち殺した』といううわさを聞いた。それがバックナー中将とは知
 らなかった」

  「あの年配の米軍将校がバックナー中将と確信したのは、1952年
 (昭和27年)3月だ」とMSさん。

  「妹とその夫で沖縄出身のハワイ二世、彼の兄弟二人と車で沖縄本島
 南部の戦跡めぐりをした。私は『山形の塔にも行こう』といい、妹は
 『バックナーの丘にも寄りましょう』といった。その小高い丘に立つと
 記念碑があった。鋼板に日英両文で『1945年6月18日午後1時15分、米
 第十軍司令官バックナー中将は……』とあった。『あれがバックナー司
 令官だったのか』と私は絶句した。時間も場所もピタリ。わが経理部壕
 も、その隣りの墓もよく見える。私は七年前の模様を同行四人の者に詳
 しく話した。『へえ、お兄さん。そうだったの』と彼らは声をそろえ
 た。日米講和のころのことで『米軍がうるさいから、この話は当分伏せ
 ておこう』ということになった」

   1945年6月20日付の朝日新聞(東京)第一面トップ左わき、三段見出
 しの記事によると――グアム放送局は6月19日8時30分、ニミッツ司令部
 18日23時30分の公表として「米第十軍司令官中将バックナー(沖縄本島
 米軍陸上最高指揮官)は海兵第八戦闘連隊の先頭を観戦中、18日13時15
 分日本側砲弾により即死した」と報じている。

  米陸軍省編『沖縄――最後の戦闘』によると――「バックナー中将が
 戦闘の進行を視察していた(18日)午後1時15分、日本軍の両用砲(対
 空兼対地砲の意味か?)の一発の砲弾が観測所(バックナーの丘のこ
 と)の真上で炸裂した。炸裂ではね飛ばされたサンゴ礁の破片が中将の
 胸に当たった。中将はその場にくず折れ、十分後に絶命した」

  C・S・ニコルス二世ら共著『沖縄――太平洋における勝利』による
 と「おそらくは丘の上のバックナーら人びとの動きに注意をそそられた
 日本軍が、丘の上に五発の砲弾の照準を合わせていたのだろう。サンゴ
 礁のギザギザの破片が空中を満たし、バックナー中将に致命傷を与え
 た。彼は数分で死亡した」

  バックナーの丘に立つと実に見晴らしがいい。当時は米軍の砲爆撃で
 一木一草もなくなっていたといわれるから、現在よりももっと見晴らし
 がよかったのではないか。それだけに、どこからでも撃たれる可能性は
 考えられる。バックナー中将はあまりに大胆すぎたのか、あまりに不注
 すぎたのか。砲弾炸裂 → サンゴ礁の岩の破片飛散 → 破片命中という
 説明はまわりくどすぎはしないか。




 『沖縄・八十四日の戦い』
 12.両軍司令官の死
 【戦車に轢かれる】

  米第十軍司令官バックナー中将が戦死した翌日の1945年(昭和20年)
 6月19日午後5時すぎ、糸満市真栄里、OU子さん、88歳。その次男OR
 さん(当時27歳)は米兵につかまり、射殺されたのち、戦車に蹂躙され
 た。場所は同中将戦死の丘から東北約千メートル。 山形歩兵第三十二
 連隊本部壕(現在、山形の塔)と沖縄県立第二高女生集団自決の白梅の
 塔をへた三差路付近だ。

  ORさんの妻OC子さん、55歳。「6月19日夕方5時から6時ごろで
 した。山形の塔の近くの壕にかくれていたのですが、捕虜になることを
 決め、 夫らといっしょに壕を出ました。夫は防衛隊員でした。具志頭村
 方面に行っていたのですが、けがをして村へ帰ってきていました。戦闘
 帽をかぶったままでしたので米兵が日本兵扱いをしたらしいのです。米
 兵はまず日本兵と沖縄の住民を引き離そうとしていたようです。夫はそ
 れに抵抗しようとして鉄砲で撃たれました……」と口をとざした。しば
 らく沈 黙の時がつづいた。

  「撃たれてピクピクと動く夫にとりすがった義弟(OU子さんの四男
 OUさん)は、銃剣を構えた米兵に足蹴にされた。そのとき戦車が夫を
 轢き去って、南の方へ行った。夫はあとかたもありませんでした」
 妻OC子さんは、あまりのむごたらしさに口をとざしたのだろう。

  母OU子さんにとって、戦争は最も身近な人を三人も奪った。夫OR
 さん(当時54歳)は糸満市真栄里で戦死、長男ORさん(当時32歳)は
 首里の戦いで戦死した。そして話が次男ORさんの死にふれようとした
 とき、絶句した。やさしい老女の表情は、一天にわかにかき曇るという
 感じであった。夫、長男、次男とを次つぎに失った悲しみ。わけても次
 男の死を思う痛いたしさ。

  三男ORさん、50歳。「もうその話はさせないで下さい。あの時以来、
 世の中かわってしまった。私の人生観も完全にかわった。ふと思い出す
 だけでもつらいのに、いま語れば、いちぶしじゅうが、こまかく浮かん
 できて、また夜も眠れなくなるのです」

  「わたしはな、左のお尻を鉄砲でやられてな。胸もタマがこすって熱
 かった」とウシさん。身重だった次男ORさんの妻OC代さんは10月、
 沖縄本島北部の東村古知屋(松田)の収容所で長女を出産した。

  この事件は、『沖縄の証言(下)』(中公新書)148ページの戦争体験
 証言集のなかで、三行ほど、真栄里ではORさんという人が米軍の戦車
 にひき殺された、という、話が雑談中にあったと書かれている。地元で
 もうわさ話になってしまっているようだ。ひとつには、次男ORさんの
 遺族が、あまりのむごさのために、事件にふれたがらないでいることに
 もよるのではないか。  
 (注) 男性のイニシャルはみなORです。

  最初OU子さんにお目にかかったが、次男さんの話のくだりで絶句さ
 れた。収穫中のサトウキビの畑をあちこちさ迷い歩いて事件の概要をつ
 かむことができた。妻OC代さんは昭和26年に再婚、儀間姓になってお
 られ、再婚の夫も死去されたとのことであった。糸満市内でたずねあて
 て、お話をうかがうことができた。

  三男ORさんは事前にお話をうかがいたいとお願いしたがことわられ
 た。四男のORさんは、「私は直接の目撃者ではないから、兄の良明に
 聞いて下さい。話したがらないことはたしかですが、よく事情を説明す
 れば、兄貴はお話しすると思いますよ」と親切におっしゃった。

  申訳ないことを承知の上で、三男ORさん宅をたずねた。三男ORさ
 んは泣かんばかりにして本文のようなことを話された。悲しみも、あま
 りの悲しみはふれずにおこうという、遺族のやさしい心情にふれた思い
 であった。





 『沖縄・八十四日の戦い』
 12.両軍司令官の死
 【米兵による虐殺】

  糸満市国吉
くによし、KM、64歳。「そこ、そこ」と指さし ながら恐
 怖のまなざしで米兵による住民虐殺の模様を語る。目付は1945年(昭
 和20年)6月19日と推定される。バックナー米第十軍司令官戦死の翌
 日であり、国吉はバックナー中将戦死の真栄里とは隣接集落である。

  「私は昭和14年徴集の輜重兵しちょうへいで、熊本に教育召集で入隊
 したことがある。戦時中は防衛隊員として糸満市大里の山部隊にいたが、
 首里からの退却部隊とごちゃごちゃになり混乱していた。時どき、自宅
 の壕にも帰っていた。家族は母、私、妻、5歳の長女と3歳の長男の五
 人だった。自宅に帰って四、五日目の午後3時ごろ、五人の米兵が屋敷
 に入ってきて、かくれていた壕の中に黄燐弾を投げ込んだ。妻と長男は
 これがもとで間もなく亡くなった。五人の米兵は南隣りの屋敷へ入って
 行った」

  「パーンと彼らは一発ぶっぱなした。母と長女に集落の壕へ移るよう
 にせかせた。パーンとまた一発。くずれた石垣をのりこえてさらに米兵
 七、八人が隣りの屋敷に入る。メガホンで『デテコイ、デテコイ』とど
 なる。出てきた男たちは一列に並ばされる。パンパン、バタバタ……。
 ひんぶん(犀風=玄関などの前がくし、石やコンクリートでつくる)の
 かげで東の方は見えなかったが、撃たれる人が西へ移るにつれて、バタ
 バタ倒れるのが見えた。女や子どもが泣き叫んだ。何十人もやられたと
 思う。ピストルを持っていた米兵もいたが、撃ったのは小銃だった。背
 すじの凍る思いでぼう然と集落の壕に移った。三日ぐらいして長女とい
 っしょに捕虜になった。母もその時には亡くなっていた。ハワイ帰りの
 人がいて、いまのうちに壕を出ないとあぶない、いま出れば命は助かる
 というので、そのすすめに従った。6月22、23日ごろと思う」

  同じ国吉に住むKYさん、75歳。「うわさに聞いて見に行った。6月
 20日ごろだったと思う。ひどい状態だった。十数人かな。もっと多かっ
 たかな。殺されたのは軍服の人もあり、着物の人もあった。大体防衛隊
 員ではないかと思う。しかも国吉以外の人ばかりだと思った。私は応召
 して昭和13、14年、中国の北、中、南部を転戦した。中国北部で中国
 人の捕虜をあぜ道に並んで腰かけさせ、後ろから日本兵が射殺するのを
 見たことがある。あれだな。あれをこんど日本がやられたと思った。ふ
 たたび、自分の郷里で、しかもこちらがやられる側になったな、と悲惨
 な思いをした」

  「私は大正14年徴集の現役兵だった。昭和13、14年の応召、16年にも
 応召して旧満州にも行き、四度目が沖縄の防衛隊員というわけだ。沖縄
 戦では、やはり6月に敵機の機銃掃射で妻と二人の娘を失った。やけっ
 ぱちになり、手榴弾三発を使って三人の息子ともども自決しようと思っ
 たことがある。父と友人にあやういところをとめられた」




 『沖縄・八十四日の戦い』
 12.両軍司令官の死 

 【日本兵による虐殺】

  米兵ばかりでなく、日本兵による住民虐殺もあった。1945年6月21日
 未明、糸満市真栄平では米軍の要撃で逃げ場を失った日本兵が住民の壕
 を奪い取ろうとして住民十余人を日本刀で虐殺したという。地元の農業
 TKさん、62歳。そのいとこの農業TMさん、46歳。

  TMさん方には二つの壕があった。ひとつの壕にはTMさんとその父
 TUさん、TKさんとその弟TYさんの四人がいた。もうひとつの壕
 にはTMさんの母TUさんと、その長女、次女、四女、孫たちがいた。

  TMさん「様子がおかしいので外へ出て見た。そうすると、母たちが
 いる壕に日本兵三人が手榴弾を投げ込んで、煙がもうもうと立ち1がっ
 ていた。壕から人を追い出すつもりだったのだろう。幸い、死者は出な
 かった」

  TKさん「静かになったので、壕の中の者は死んだ、と三人の日本兵
 は思ったらしい。三人は、私たちの壕へやって来た。『アメリカ兵がそ
 こまできている。おれたちを壕に入れろ』という。外にいた私たちも壕
 の中へ入ろうとすると、彼らは手榴弾を壕の中に投げ込んだ。ひたいに
 けがをしたので、ひっくりかえってバタバタして、そこにあったゴザを
 かぶって死んだふりをした」

  TMさん「戦争って、親も子もなくなるんだ。父親やだれもかも忘れ
 て逃げた。どこをどうして逃げたか全くおぼえがない」

  TKさん「おじの牛さんと弟の幸重は日本兵にひっぱられて、近所で
 すわらされ、日本刀で斬られた」

  TMさん「日本兵は壕を奪うのと、私たちが米軍の掃虜になるのを妨
 害するのと、両方をねらったのか。よくわからない」

  TK
さん「まったく日本兵のやることは意味がよくわからん。こっち
 はひどい目にあっているばかりだ」

  TMさん「三番目の姉とその二人の子は、隣りのMHさん(女性)方
 の壕にいた。日本兵の声に、MHさんのお母さんが返事をして顔を出す
 といきなり首を斬られた。首が姉のところに飛んできたらしい。姉は暗
 がりで何かコロコロしたものが、と思って外へ出たら、体に血のりを浴
 びていた。MHさんの弟と妹三人も日本兵に切り殺された」



コメント

(続)6月23日は沖縄慰霊の日、『沖縄・八十四日の戦い』 11章 摩文仁 から

2020-06-24 08:16:29 | Weblog



前回に引き続いて「沖縄・八十四日の戦い」 榊原昭二著を紹介します。原著は1983年5月新潮社刊なので、文中の〇〇年前とか△△歳いう表記は1983年始めごろの時点のものとご理解ください。 文中の沖縄戦体験主の氏名は頭文字表記に、年月日と年齢の表記はアラビア数字に替えました。そのほかは原文通りに写しました。


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 岩波同時代ライブラリー『沖縄・八十四日の戦い』


 11.摩文仁


 11,摩文仁
 【学徒隊解散】

  1945年(昭和20年)6月18日夜、軍は学徒隊の解散命令を出した。
  沖縄師範女子部・県立第1高女のひめゆり部隊の引率教員だった
  N琉球大学名誉教授、74歳。

  「6月19日午前3時、糸満市
いとまんし南波平みなみなみひらの第一外科壕
 で生徒に解散を伝えた。外は砲弾のあらし、敵襲は迫っている。上、下
 級生が組になって壕を出て行った。 T教頭、O教諭と共に三人で生徒の
 あとを追った。難民が右往左往している。砲弾が破裂し、気が遠くなっ
 た。
国頭にいる、親、妻子の顔が浮かぶ。『N!』と私を呼ぶTさんの
 声。頚動脈から5ミリのところから生ぬるい血が流れていた。壕にひき
 かえして沖縄県立一中の同期生、H軍医の手当てを受けた。『たいした
 ことはないよ』という彼の励ましのことばが、最後の別れとなろうと
 は、どうしても思えないのだ」

  「わずか数ミリの差で私の生命は絶たれたはずだ。生命ほどもろいも
 のはない。生命ほど強いものはないと思う。三十六年間砲弾の破片がま
 だ私の体内にあることが今年になってわかったような始末だ。あの負傷
 以来四年間は耳もほとんど聞こえなかった」

  「ひとり糸満市山城のあぜ道を歩いていた。緑の島は冬枯れの野だ。
 沖縄の終えんだ。日本の終わりだ。なだらかな坂をおりる。海風に吹か
 れる。しばし戦争を忘れた。モクマオウの茂みに腰をおろすと、故郷の
 今帰仁なきじん出身の教え子ら十二人がいた。同行することに決める。
 日暮れて砲声やむ。同僚のHY、HS君の二つのグル-プに会い、一夜
 をすごす。その前に私は一行とはぐれかかったが、運よく三十余人のも
 とへと帰ることができたのだった。われわれ教師三人、生徒たち心づく
 しのかゆをすすった。かゆはとろりとのどを通り、そのまま血液になっ
 て全身を循環するようだった」

  「なぎさの風に当たりながらすごす岩窟の一夜だった。ほかに兵隊が
 二、三十人、民間人が十四、五人いた」

  「6月20日、目前を往来する米舟艇に息を殺した。HM、HY両グル
 ープと別れる。『オヨゲルモノハオヨイデコイ』『ミナトガワヘユケ。
 ミズモショクリョウモアリマス』と米軍が盛んに放送する。アダンのか
 げで、卵大のおにぎりとアダンの若芽を食べた。降服せよというビラを
 破り捨てた。突然生徒 FK子がかけ寄ってきた。彼女は陸軍病院には
 来なかったが、泊の部隊に加わり、那覇方面からここまで迷いこんでき
 たのだった。『先生、いっしょに連れていって下さい』という。こちら
 も途方に暮れているところだったのでしばらくだまっていた。FKはわ
 ずかばかり水の入った水筒を差し出し、『覚悟はできています』と二個
 の手榴弾を示した。みんなといっしょに死なせてくれという気持ちはよ
 くわかった。『では、ついてらっしやい』と同行することにした。生徒
 は十三人になった」

  「夕方、HM君のグループ十二、三人が通りすぎて行った。
 『ぐずぐずしてはいけない。糸満方面へ突破するのだ。明日はこの一帯
 は火焔放射器で焼かれるだろう』。生徒たちは、この私をたよりなく思
 ったにちがいない」

  「6月21日。投降をにくむ友軍が民間人に発砲した。石ノミを拾う。
 岩の壁に十四人の名を刻もうと思った。あとでわかったことだが、この
 日HMグループは自決したのだった


  「6月22日。食糧はあと-、二日分。生徒は制服をつけ『海行かば』
 をうたった。月明かりにアダンの葉の露が光った。6月23日。二キロ先
 で米兵が舟をおろしている。青鬼には見えない。ただの人間だ。午前11
 時、突如米兵が前方の岩の上にあらわれた。アダンのかげに身を寄せ合
 った。小銃弾がビュービュー、アダンの中に飛んだ。『先生、もう覚悟
 の時機です』とFK子。手に手檎弾をにぎっている。
『F、手榴弾
 のセンを抜くんじゃないぞ。死んではいけない』とさえぎった。さっと
 押し寄せる米兵、三、四十人。私は銃をつきつけられ、生徒との間を裂
 かれた」



 11,摩文仁
 【水さかずき】

  「祖父、祖母、父、母、弟、妹の六人を戦争で失い、生き残ったのは
 九州に疎開していた兄、姉、私の三人だけです。
反戦平和は私の活動の
 原動力です。私にとって、反戦平和のためには労働運動がいちばんいい
 場だと考えています。労働運動の中でも、私は賃上げ闘争にはさほど熱
 心ではありませんでした」と語る沖縄県労協議長のNRさん、四十九歳。

  「1944年(昭和19年)8月14日、疎開のため潜水母艦迅鯨に乗って那
 覇港を出発しました。ランチで見送りに釆た父、母、弟と手を振って別
 れました。
家を出るときかわした水さかずきの意味を知ったのは、ずっ
 とあとのことでした。当時私は沖縄県立二中の二年生でした」

  「父は北中城村
きたなかぐすくそん喜舎場きしゃば国民学校長でした。学
 校が閉鎖状態になった1945年春、教育勅語と御真影をささげて、一家
 六人あげて首里の壕に入ったのでした。父は軍司令部のあるところが安
 全で、司令部とともに移動すればよいといっていたそうです。父は首里
 撤退ののち、東風平
こちんだの三差路で荷物を天びん棒でかついで家族
 とともにいた、という情報を聞いたことがあるだけで、一切不明のまま
 です


  「教頭だった前知事のHKさんは、軍の主力がいない所が安全だ、と沖
 縄本島北部へと避難されたそうです。慶良問
けらま列島の前島で、比嘉儀
 清先生という方が日本軍の駐兵をことわって住民の安全を守ったという
 話には、大きな教訓が含まれています。そこに軍隊があるから、そこに軍
 事施設があるから、攻撃を受け、付近の住民も大きな損害を受けるので
 す」


  「私は宮崎県の小林中、宮崎中、態本県の御舟中、福岡県の筑紫中
 (在学中に筑紫丘高となり、卒業)と転校を重ねました。そのころ、芋
 つくり、大豆つくり、ヤミタバコ売り、土方などさまざまな肉体労働を
 して暮らしました。よくもまあ、ひねくれたり、ぐれたりせずに青春を
 送ったものだと思うことがあります。福岡法務局で戸籍の仕事をしてい
 た関係で、1958年(昭和33年)琉球政府法務局の戸籍整備の仕事をす
 ることになりました。組合運動は福岡時代からです」

  「終戦時の首里市長、NYさんは祖父のいとこで、1947年以来、本土
 で『本土復帰期成会』の名のもとに孤独のたたかいをしていました。
 態本にいるとき手紙をもらったことがあります。ていよく本土へ追放さ
 れた形ですが、沖縄の本土復帰直前に沖縄へ帰り、なくなられました。
 私は戦争を防ぐための活動の場を常に労働運動に求めてきました。B52、
 原潜、自衛官募集などあらゆる反対運動がそれです」

  「おふくろ最後の手紙は米軍の沖縄上陸直前の1945年3月でした。私
 が疎開した後に生まれた妹も連れて首里へ行くという内容でした。私は
 その妹の顔を見ずじまいなのです」




 11,摩文仁
 【こわい日本兵】

  社会大衆党書記長のZCさん、48歳。大里村銭又の自宅でこわい
 日本兵を語る。窓から指さしながら「あのあたり 15サンチ砲が四門、
 あの岡の裏側、ここから六百メートルぐらいのところに南風原はえばる
 陸軍病院がありました。あのころわが家には家族、難民のほか十七人
 の兵隊、全部で三十七、八人いました。1945年(昭和20年)3月23日、
 私の国民学校初等科修了を祝ってごちそうの準備をしていました。
 ところが艦砲射撃、空襲があってめちゃめちゃ、 兵隊たちは非常召集
 で陣地へ入りました。この日から壕生活です」

  「5月25日、大雨の中を首里方面の敗残兵があらわれて、『この壕
 は軍が使う。出て行け』と日本刀をひきぬいておどすのです。
気丈な
 私の母親は泥の中にひざまずいて、『もう二、三日待って下さい』と
 たのむのですが、『首を切るぞ』といきまくばかりです。とにかく、
 母親が『どうか明日まで』とがんばり通しました」

  「翌5月26日、壕を出ました。七世帯三十人の大グル-プになってい
 ました。三世帯は糸満へ、われわれ四世帯は玉城へ」

   「糸数、船越をへて、6月4日東風平、後原
くしばる。6月5日富盛、高
 良、与座、大城盛
おおぐすくむい。6月6日国吉に至り、横穴式の壕を掘
 って三世帯十二人が一週間滞在しました」

  「6月13日、国吉の隣りの壕に中部戦線生き残りの専門学校出の少尉
 がいました。『戦争は勝ち目がない。米軍は女、子どもまでは殺しはし
 ないと思います。もし遺族に渡してもらえたら』と懐中時計を差し出し
 ました。この日、昼間おじが機銃掃射にやられた左腕が血だらけにな
 り、近くの壕にかけ込みました。すると、二人の敗残兵にこっぴどくお
 こられました。『壕のありかがわかるじやないか』ということでした」


  「これも同じ日6月13日、壕の外でギーギーという異様な物音に外を
 見ると米軍の戦車でした。犬死するのもいや、捕虜になるのもいや。い
 いよいよ自決しようかという相談になりましたが、母やおじが、『どう
 せ死ぬなら大里村の家へ帰って死にたい』というので思いとどまりまし
 た。 『もし殺されそうになったら相うちしよう』と確認しあいました。
 米兵のクツ音が聞こえる。しかし、彼らは通りすぎてしまいました。ヤ
 レヤレというわけです。その夜ほふく前進で丘を越えて真壁に出ました。
 6月14日未明でした。二十も三十もある死体の間をもぐるような前進で
 した。懐中時計の少尉の遺体もありました」


  「6月14日、真壁も死体がゴロゴロしていました。夜中におじ、おば
 がまた大里村へ帰りたいといい出しました。新垣
あらかきへの移動の途
 中、おじ、おばら四人が艦砲射撃で戦死し、私たちのグループは十一人
 になりました


  「6月15日朝、新垣もまた死体の連続です。道ばたには母親が赤ちゃ
 ゃんをおんぶしたまま倒れていました。母親だけが死んでいるようでし
 た。ふたたび真壁を通って米須に向かいます。日本軍のトラックが 爆撃
 でつぶされていました。またそこへ爆弾が落ちて、死体の手がピクピク
 と動いているのは不気味でした」


   「6月16日。米須から大度
おおどへ移ります。艦砲射撃やB29、グ
 ラマンの攻撃がすさまじい。母が艦砲の破片で頭をやられました。
 をとると艦砲の音のカンがにぶくなるのです。ボンボンヒューという
 のは頭上を越えて行きます。ボンボンヒュツというのはすぐちかくに
 落ちます。ヒユーツというのは前方に落ちます。それによってもかく
 れ方、逃げ方がちがうのです」

  「大度でコンクリート貯水タンクにいる日本兵が親切そうに呼ぶの
 で近寄ると水をくれました。かわりに食料をよこせというのです。夕
 方、別れしなに、みそ、米などの入ったカバンを奪い取られてしまい
 ました」


  「6月17日、摩文仁
まぶにも死体がゴロゴロしていました。全身ほう
 たいをした兵隊が日本刀をかかえてくぼみに寝ていました。ちっとも
 動かないところをみると死んでいたのでしょう。井戸のそばには水を
 ひとくち飲んでこと切れたのでしょうか、死体が横たわっていました。
 畑のすみの岩かげに十一人が身をかくすようにして寝ました」 


  「6月19日、雨が降った。古傘に雨水をためて飲みました」

  「6月20日、海岸の絶壁へ逃げる。上半身はだかの米兵のはだが赤く
 見えました。数百メートル先の岡には米兵の列が見えるが、タマは来な
 い。『戦争は終わりました。降服しなさい。男はふんどし一枚、女は着
 のみ着のまま百名
ひゃくなか知念へ行きなさい。安全な衣食住が与えら
 れます』と米軍が放送します」

  「上着をぬごうとした男を兵隊が日本刀でたたき切りました。『きさ
 まはスパイだ』と叫びながらなおもずたずたに切り裂きます。もう一人
 の男が上着をぬいで逃げた。この男もたたき切られました。私は身動き
 もできず、声も出ませんでした」


  「敵はありとあらゆるタマを撃ち込んできます。迫撃砲弾、楷散弾、
 機銃弾、火焔放射。絶壁を降ります。岩の角、木の根をつかみながら‥
 ‥、しかし海の中へ落ちてしまいました。海岸にたどりついたのは6月
 20日の正午ごろでしょう。八人が集まりました。おじは『港川へ突破し
 よう』といいます。私は『あぶない、行かない』と答えます。おじは
 『子どものくせに』とカンカンにおこります。私だけは岩の上にすわり
 込んで動きませんでした」

  「岩かげにかくれ、ミカンの皮、パンくずなどを食べました。6月26
 日、いま思えば幻覚症状です。6月27日、とにかく食べてから死にたい
 と思 いました。よろけるように米軍の手中に入りました」

  「あの岩の上には毎月一度は行きます。あそこに踏みとどまることに
 よって生き残ることができたからです。あそこでとにかく一週間すごす
 ことで生き残ることができたのです」


 



 11,摩文仁
 【友を見捨てる】

  鉄血勤皇隊沖縄県立一中隊員だった那覇空港ターミナル会社取締役営
 業部長、YYさん、53歳。

  「県立一中隊本部を中心にして、われわれは各一線部隊に分散配置さ
 れた。私は第五砲兵司令部に配属された。首里から撤退するとき、砲兵
 司令官、和田孝助中将のカバンと食用の黒いニワトリなどを持たされ
 た。那覇市識名しきなのダラダラ坂を降りるとき、迫撃砲弾が飛び散
 り、石の坂はズタズタに切断された。兵隊はゴロゴロ倒れる。カバンも
 ニワトリも小銃も捨てた」

  「六月はじめ、糸満市南波平に着いたころは学友の大半が戦死してい
 た。
一日ひとつあるかないかの握り飯、あとはサトウキビのかす、カタ
 ツムリを食べての下痢つづきだった。眠ったという記憶もない。なのに
 将校達は、女性に異常な関心を持っていた」

  「思えば首里の壕。雨にぬれて壕に帰れば壕の壁がしとしとぬれてい
 た。発電機がうなる。ガスが出る。上着をふりまわしてガスを排出させ
 ようとする。ロウソクが消える。ああ、心臓が痛い。『野戦重砲、三発
 撃て‥‥』と怒声がかかる。壕の外へ出る。弾雨はあってもほっとひと
 息できる」

  「喜屋武きやんの県立一中隊本部指揮班から、われわれの摩文仁の壕
 へ連絡にきたMT君が砲弾でおしりに大けがをした。尾てい骨がはみ出
 ていた。
6月19日、彼をささえつつ喜屋武まで送り届けることになった。
 出かける前、ちびれた芋を三つずつもらった。MTのはおれのより大き
 いな、と思いながら。水筒に五分の一ばかりの水があった。負傷者に水
 を飲ますと死ぬというので彼には飲まさなかった。本心は飲ますのが惜
 しくて、飲ませたくなかったのだ。この期において、なんとおれの心は
 いやらしいのだ」

  摩文仁と吉尾武の間には大度
おおどの集落がある。

  「大度のアダン林の根っ子には老人や子どもがへばりついていた。乳
 飲み児が、死んだ母親の乳房にとりすがっていた。ロケット砲の音で、
 ブタ小屋に飛び込んだ。砲撃で手足をもぎとられ、血のりは飛ぶ。泣き
 叫ぶ声ごえ、何十台も押し寄せる米軍戦車を見て摩文仁へと引き返し
 た」


  「夕暮れが迫っていた。米軍のマイクは、投降しなさい、港川へ行き
 なさい、と呼びかける。MTは『投降したおふくろのところへ連れてっ
 てくれ』という。
私には投降する気は全くない。別れよう。彼は『手榴
 弾をくれ』、といった。『どうせ、おれもあとから行くからな』と、最
 後のことばをかけたように思う。腰の手榴弾をはずした。それを彼に渡
 した


  「別れる――それは、友を見捨てることだったのだ」

  「MT君と別れた6月19日夜、摩文仁で斬込隊に加わった。ある大男
 が逃げようという。『いまさら何だ』と短剣を抜いて飛びかかった。
 あやうく上等兵にとめられた」

  「摩文仁の岡の上に五十人が集まった。その中に一中の同期生が三人、
 一期後輩が七人いた。手榴弾を四発持って身構えた。鉄カブトの穴か
 ら入る風がヒユーヒユーと鳴った。跳ね弾がビュンビュンとあがる。
 右手にかん声があがって斬り込んでゆく」

  「明け方、敵の戦車が火焔放射を浴びせかけてきた。背中に火がつ
 く。あおむけにひっくりかえって背中を地面にこすりつけて消す。壕
 に飛び込む。だれかが重傷兵の口に銃口を入れて『天皇陛下万歳』を
 いわせてとどめをさした。いま一人の重傷兵は『アンマヨー』と叫ん
 だ。母親への最後のメッセージだ。米軍の削岩機のひびき。馬乗り攻
 撃をしかけてきたのだ。私は胸に爆雷の衝撃を受けてのたうちまわっ
 た。友軍の兵隊が顔、胸、腹を踏んづけて出ていった」


  「朝。銃声はない。体じゅうが痛い。やっと頭を上げると米兵が三
 人、うむをいわさず私を引きずり出した。6月21日だったか、22日だ
 ったか。生き残りは私一人だった

  YYさんは、みずから車のハンドルをとって、現地を案内しながら
 話をしてくれた。

  「毎年6月20日になると、重い足どりで首里の石だたみを踏むので
 す。MT君のお母さんのもとに線香をあげに行くんです。『戦争だっ
 たんだから、仕方がないさ』と自分に言いきかせ、言いわけをしなが
 ら。そのお母さんも亡くなられました。いまでも夜中にふと目がさめ、
 じっとしていられなくなるのです。そして、このあたりまで車をとばし
 てくることがあるんです」

  「MTと別れたのは、このへんだったなあ。私はこの石ころ道をか
 け出したんだ。ああ、ツワブキも生えている。こいつはにがいが、食
 べられる草はもうこれぐらいしかなかったんだ」

  ツワプキをむしりとってにおいをかぐ。線香をたいて手を合わせる。
 「ここでは、私に三十六年の歳月はない」

  「米軍のとらわれの身となった私はハワイに送られて1947年(昭和
 22年)まで過ごす。送還されて石川の砂地のテント生活を三年。米兵
 にあごで使われた。1951年(昭和26年)高千穂丸で東京へ密航して、
 自由ケ丘の友人の下宿に身を寄せた。あるとき、世田谷・豪徳寺を歩
 いていた。ピアノ曲が耳に入った。ベートーベンの『エリーゼのため
 に』だった。」

  「美しい板塀、大きな松の木に立派な門構え。かわいらしいお嬢さ
 んがピアノをひいているのだろう。いったいこれは何なのだろう。お
 れたちは祖国日本のために身命を捧げた。どうしてここでおれが憤然
 としていなくてはならないのか。おれたちがあんなにがんばって戦っ
 たのに、ここ東京では平和どころか、この豊かさは。この贅沢さは。
 こんなことを考えるのはおれの甘えなのか」

  「そこで、中央大学文学部仏文科に学んだ。名だたる辰野降さんの
 講義も聞いた。やがて就職。大手企業は、あ、第三国人ですか、とい
 う。ああ、琉球人は第三国人だったのか


 



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6月23日は「沖縄慰霊の日」、――岩波同時代ライブラリー『沖縄・八十四日の戦い』

2020-06-22 14:42:18 | Weblog


明日6月23日は「沖縄慰霊の日」です。沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式が毎年行われています。

 

1945年4月1日午前8時30分、沖縄本島の読谷よみたん、嘉手納かでな、北谷ちゃたん海岸一帯の本島中部西海岸で米軍の上陸が始まりました。米軍の上陸作戦兵力は、大小艦船1500隻余、航空機のべ600機、 当日の上陸軍兵力6万余。


沖縄守備軍の兵力温存方針により、米軍は無欠上陸、無抵抗のまま沖縄本島を横断進撃し、上陸日午後のうちに北飛行場(読谷飛行場)と中飛行場(嘉手納飛行場)を占領し ました。4月3日のうちに米軍が東海岸に到達して、沖縄本島が二つに分断されました。

一般には沖縄戦始まりの日は、この沖縄本島に米軍が上陸した4月1日を当てています。しかし、沖縄県と沖縄市のホームページを確認してみると、1945年3月26日慶良間諸島米軍上陸を沖縄戦の始まりとしています。慶良間諸島は那覇市の目の前にある島々です。

したがってここでは、沖縄戦は、この沖縄慶良間諸島米軍上陸の日1945年3月26日から沖縄守備の32軍牛島司令官が自殺した1945年6月23日とします。

沖縄戦の特徴として、沖縄市のホームページに次のような記述があります。



  【沖縄戦の特徴】

  1. 全島要塞化
   ○ 住民総動員―飛行場建設や陣地壕づくり
   ○ 「一木一草といえどもこれを戦力化すべし」

  2. 戦略持久作戦
   ○ 本土上陸を遅らせる時間稼ぎの作戦、捨て石

  3. 軍民混在の戦場
   ○ 日本兵による壕追い出し、食糧強奪
   ○ 砲弾は軍人と住民を区別しない。

  4. 住民虐殺
   ○ 「軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以て談話
    しある者は間謀とみなし処分す」
   ○ スパイ嫌疑により虐殺
      (赤松事件、今帰仁事件、本部校長事件など)

  5. 集団自決
   ○ 壕追い出しと避難拒否、投降阻止
   ○ 日本軍の駐屯-座間味、慶良間、読谷、沖縄市、南部など

  6. 米軍支配の長期化




以下、このブログ記事末尾まで――
岩波同時代ライブラリー『沖縄・八十四日の戦い』 榊原昭二 著 1994.8.18.第1刷から、ほんの一部を抜いて紹介します。

この本は、1983年5月に新潮社から刊行されたものの文庫化と奥付にあります。


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岩波同時代ライブラリー『沖縄・八十四日の戦い』 

10.小禄の戦い
大田電報「沖縄県民斯ク戦ヘリ」 】 P193


 那覇空港周辺の小禄地区は海軍根拠地隊約一万が守備についたが、圧倒的な米軍の前についえ去った。司令官大田實海軍少将は一九四五年(昭和二十年)六月十三日、豊見城村の司令部壕で自殺した。大田少将は六日夜、海軍次官あて次の様な電文を打った。(‥‥の部分は不詳)



     海軍次官宛、大田実海軍少将発 
     1945.6.6.夜打電  
※文章の乱れている部分は受信状況不良による

  左ノ電文ヲ次官二御通報方取計得度


  沖縄県民ノ実情二関シテハ県知事ヨリ報告セラルヘキモ 県ニハ既二通
 信力ナク第三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルニ付 本職県知事ノ
 依頼ヲ  受ケタルニ非サレトモ現状ヲ看過スルニ忍ヒス 之二代ッテ緊急
 御通知申上ク

  沖縄島二敵攻略ノ開始以来陸海軍方面防衛戦闘二専念シ 県民二関シテ
 ハ殆卜顧ミル暇ナカリキ 然レトモ本職ノ知レル範囲二於テハ 県民ハ青
 壮年ノ全部ヲ防衛召集二捧ケ 老幼婦女子ノミカ相ツク砲爆撃二家家屋ト
 財産ノ全部ヲ焼却セラレ 僅二身ヲ以テ軍ノ作戦二差支ナキ場所ノ小防空
 壕二避難 砲爆下‥‥風雨二曝サレツツ 乏シキ生活二甘ンシアリタリ

  而モ若キ婦人ハ率先軍二身ヲ捧ケ看護炊事婦ハモトヨリ 砲弾運ヒ挺身
 斬込隊スラ申出ルモノアリ 所詮敵来リナハ老人子供は殺サルヘク 婦女
 子ハ後方ニ運ヒ去ラレテ毒牙に供セラルヘシトテ 親子別レ娘ヲ軍衛門ニ
 捨ツル親アリ

  看護婦こ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既二出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケ
 テ‥‥真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノト思ハレス

  更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ自給自足 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住
 民地区ヲ指定セラレ 輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之
 ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来終始一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレ
 テ御奉公ノ‥‥ヲ胸二抱キツツ遂ニ‥‥コトナクシテ 本戦闘ノ末期卜沖
 縄島実情形‥‥一木一草焦土卜化セシ 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト
 謂フ

  沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民二対シ後世特別ノ御高配賜ラレンコトヲ

  

   (注) 太田少将の「訣別の辞」といってもよい電報です。
     皇国、天皇陛下ほか軍国用語が一語もないことにご注目ください。
      一週間後の1945.6.13.洞窟壕内で幕僚とともに自殺。
 
 

――岩波同時代ライブラリー『沖縄・八十四日の戦い』―― 

 これは大田海軍少将の最後の電報となったもので、沖縄県民の協力ぶりと、その大きな犠牲をアピール、戦後、県民に感動を与えた。また、軍が地元住民の立場を配慮した唯一の文書ともいわれている。


 昭和五十五年十月二十五日、那覇市企画部市史編集室編集・発行の「今、平和のために――戦災・空襲を記録する会全国連絡会議第十回記念那覇大会報告書」のなかに大田実少将の長男大田英雄氏の文がおさめられているので引用させていただく。この報告書は那覇市史だより第16、17、18号合併特別号として編集されたもので、八月一、二、三日の三日間開かれた大会の記録である。


   今こそ戦争と軍隊の本質を明らかに 1980年8月
              
大田英雄(大田實少将長男)
 
  第一日、我物顔に空に立つ那覇空港のナイキに驚く。三度目の訪沖だ
 が、自衛隊の進出ぶりに心が痛む。

  父の墓参をと、まず海軍壕へ。ここでも父の「県民に後世特別の高配
 あらんことを」の打電の真意がスリかえられ、自衛隊の沖縄での「市民権
 獲得」のために利用されている思いが露骨に伝わりむしろ不快にすらな
 る。

  「県民への国家補償と、平和で豊かな島への具体的で抜本的な施策」
 こそ、「後世特別な高配」になるのではないのか。訪沖の度にその想い願

 いは強まる一方である。  ―― 以下、略 ――

――岩波同時代ライブラリー『沖縄・八十四日の戦い』―― 


10.小禄の戦い
【沖縄語はスパイ語】 P197

海軍の大田電報に対して、陸軍の場合はどうか。1944年(昭和19年)8月、渡辺正夫中将のあとを継いだ第32軍司令官牛島満中将は8月31日、兵団長会同を開き次のような訓示を出した。
 


    第32軍司令官 牛島満陸軍中将 訓示
  
    
1944.8.31. 於. 第32軍兵団長会同


   国歩漸ク難キノ秋
トキ死生ヲ偕トモニスヘキ兵団長ト一同ニ会シ其ノ
 雄風ニ接シテ所懐を開陳スルノ機ヲ得タルハ本職ノ寔
マコトニ本懐トス
 ル所ナリ 嚢
サキニ本職は雲立ツ大内山ニ召サレ乏シキヲ軍統率ノ重責
 ヲ享
ク 恐懼感激何ヲ以テカ之ニ替ヘン

  惟フニ曠古
コウコの危局に直面セル皇国カ驕米ヲ撃滅シテ狂瀾ヲ既倒
 ニ回スヘキ天機ハ今ヤ目睫ノ間ニ在リ 而シテ軍ノ屯スル南西ノ地タル
 正ニ其の運命ヲ決スヘキ決戦会戦場タルノ公算極メテ大ニシテ実に皇国
 ノ荒廃ヲ双肩ニ負荷シアル要位ニ在リ 仍
スナハチ本職深ク決スル所ア
 リ

  恭シク明勅を奉シ慎ミテ前官の偉蹝
イショウヲ踏ミ堅ク部下将兵の
 忠勇ニ信倚
シンイシ荘厳ニシテ雄渾ナル会戦ヲ断行シ誓テ完勝街道ヲ驀
 進シテ聖旨ニ対
コタヘ奉ランコトヲ期ス

  之カ為茲ニ本職統率の大綱を披歴シテ要望スル所アラントス

  第一「森厳ナル軍紀ノ下鉄石ノ団結ヲ固成スヘシ
  常住坐臥常ニ勅諭を奉体シ之カ具現ニ邁進スヘシ
  特ニ上下相共ニ礼譲ヲ守リ隊長ヲ中心トシテ融々
ユウユウ和楽ノ間明
 朗闊達戦闘苛烈ヲ極ムルモ一糸乱レサル鞏固
キョウコナル団結ヲ固成ス
 ヘシ 然レトモ非違アラハ断乎之カ芟除
サンジョニ些カノ躊躇アルヘカ
 ラス

  第二「敢闘精神ヲ発揚スヘシ」
  深刻ナル敵愾心ヲ湧起シテ常在戦場ノ矜持ノ下作戦準備ニ邁進シ以テ
 必勝ノ信念ヲ固メ敵ノ来攻ニ方
アタリテハ戦闘惨烈ノ極所ニ至ルモ最後
 ノ一兵ニ至ル迄敢闘精神ヲ堅持シ泰然トシテ敵ノ撃滅ニ任セサルヘカラ
 ス

  第三「速カニ戦備ヲ整ヘ且訓練ヲ整へ且訓練ニ徹底シ断シテ不覚ヲ取
 ルヘカラス」
  敵ノ奇襲に対シ備へツツ築城ノ重点主義ニ徹シ時日之ヲ許サハ之ヲ普
 遍化シ難攻不落ノ要塞タラシムルト共ニ訓練ヲ精倒ニシテ精強無比ノ鋼
 鉄軍タラシメ以テ敵ノ奇正両様ノ猛攻ニ遇フトモ断乎之ヲ撃滅スルヲ要
 ス

  第四「海軍航空及船舶ト緊密ナル協同連繋ヲ保持スヘシ」
  今次作戦ノ成否ハ陸海空船四者ノ協同ニ懸ルコト極メテ大ナリ 宜シ
 ク進テ関係部隊ト連絡シ特ニ精神的連繋ヲ保持シ之カ統合戦力ノ発揮ニ
 勉ムヘシ

  第五「現地自活ニ徹スヘシ」
  極力資材ノ節用増産貯蔵等ニ努ムルト共ニ創意工夫ヲ加ヘテ現地物資
 ヲ活用シ一木一草ト雖
イエドも之ヲ戦力化スヘシ

  第六「地方官民ヲシテ喜ンテ軍ノ作戦ニ寄与シ進テ郷土ヲ防衛スル如
 ク指導スヘシ」
  之カ為懇
ネンゴロニ地方官民ヲ指導シ軍ノ作戦準備ニ協力セシムルト
 共ニ敵ノ来攻ニ方
アタリテハ軍ノ作戦ヲ阻碍セサルノミナラス進テ戦力
 増強ニ寄与シテ郷土ヲ防衛セシムル如ク指導スヘシ

  第七「防諜ニ厳ニ注意スヘシ」

  右訓示ス

  尚細部ニ関シテハ軍参謀長ヲシテ指示セシム

    昭和十九年八月三十一日

                     軍司令官 牛島 満

――岩波同時代ライブラリー『沖縄・八十四日の戦い』―― 

 「第五」以下は沖縄戦の性格と深く結びついている。
 「第五」は軍の強権による人的、物的動員の強行である。
 「第六」は軍の「民間人蔑視」「沖縄を守ってやる」意識がうかがわれる。

 「第七」の防諜は戦時とあれば当然だが、四月九日第三十二軍司令部が発した命令書「球軍会報」の第五項には「爾今軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ。沖縄語ヲ以テ談話アル者ハ間諜トミナシ処分ス」とある。

 沖縄の人が沖縄語でしゃべるとスパイとみなされるとは、一体どういうことか。すでに書いたことだが、ある陸軍准尉が「お前たちは学生か。英語を知っているな。スパイになるおそれがある」と言ったのと根底においてつながるものだ。


 第三十二軍高級参謀だった八原博通・元大佐(1981.5.7. 78歳で死去)に六年前にインタビューした那覇市松尾、主婦、外間ほかま米子さんによると「軍は住民に対する配慮が足りなかった。これほど多くの犠牲者を出したことを反省すると語った」という。

 八原元参謀の著書「沖縄決戦」の「住民対策」の項を引用しておく。文中「鉄血義勇隊」とあるのは学徒隊「鉄血勤皇隊」のことであろうと思われる。


 以下、元沖縄守備三十二軍参謀大佐・八原博通氏の著書「沖縄決戦」の「住民対策」の項から引用です。 →→ ―『沖縄・八十四日の戦い P200 』から転載――


 津嘉山から摩文仁に至る途中のいたましい避難民の印象は、今なお脳裡に鮮明である。

 各方面の情報を総合するに、首里戦線の後方地域には土着した住民のほか、軍の指示に従い、首里地域から避難してきた者が多数あることは確実である。これら難民を、再びここで地獄の苦しみに陥れ、戦いの犠牲とするのは真に忍び得ない。

 軍が退却の方針を決めたさい、戦場外になると予想される知念方面への避難は、一応指示してあるはずだった。しかし同方面に行けば敵手に入ることは明瞭だ。今やそのようなことに拘泥すべきときではない。彼らは避難民なのだ。敵の占領地域内にいる島の北半部住民と同様、目をつむって敵に委するほかはない。

 そして彼らへの餞
はなむけとして知念地区に残置してある混成旅団の糧秣被服の自由使用を許可すべきである。軍司令官は、この案を直ちに決裁された。

 指令は隷下各部隊、警察機関――新井県警察部長は、首里戦線末期においても、今なお四百名の警察官を掌握していた。住民の保護指導のために、特に軍への召集を免除されていた。――鉄血義勇隊の宣伝班、さらに壕内隣組等の手を経て、一般住民に伝達された。戦場忽忙の間、この指令は各機関の努力にかかわらず、十分に徹底しなかった憾
うらみがある。

――岩波同時代ライブラリー『沖縄・八十四日の戦い』―― 




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持続化給付金の電通受注、デロイトトーマツが落ちたのは官製談合のためではないか 

2020-06-15 22:22:37 | Weblog

安倍政権「黒塗り公文書」の向こうにある悪事の数々

2017年から2018年にかけて、加計学園の岡山理科大学獣医学部新設認可と、森友学園小学校計画に供するために国有地を破格値で処分した問題で、国会が揺れ続けました。

加計学園問題では、獣医学部設置の正式認可が下りる前に韓国で受験説明会を開いた事実があり、それにもかかわらず韓国人の入学者は無かったと聞いています。また、新設学部では「人獣共通感染症リサーチセンター」で最先端の研究を行うとアピールしていました。コロナは中国武漢の野生動物食肉市場を発生源とする人獣共通感染症だと思いますが、岡山理科大学獣医学部の「人獣共通感染症リサーチセンター」の消息を聞いたことがありません。

森友学園の問題は、籠池泰典前理事長夫妻が補助金詐取の容疑で逮捕され、起訴されないままに異例の長期拘置をされました。これは口封じのためだともっぱらの噂になりました。そして起訴。事件の発端になった森友の小学校設置認可権限者(当時)であった松井一郎大阪府知事、安倍昭恵名誉校長(当時)、安倍首相らは籠池泰典氏に全責任を負わせて、被害者面をして逃げ切った。

一方、近畿財務局では森友関連公文書の大規模な変造が行われました。変造を強要されてやむなく変造に手を下した担当官吏の1人が、苦悩の末に自殺。公文書変造の発案者で強要司令塔の佐川宣寿財務省理財局長は財務省国税庁長官に出世した。

大阪府豊中市の木村真市議が2015年のある日、豊中市の問題の国有地の囲いに貼られていたポスターを見ました。それは小学校の新設案内と生徒募集のポスターでした。

木村市議が関心を持って調べ始めました。小学校新設を計画しているのが教育勅語教育で知られている塚本幼稚園であり、籠池理事長が当時、日本会議大阪の代表だと言っていることなどを知りました。

それからは土地登記で所有権者を調べ、そして森友学園への国有地処分の経緯を調べるために近畿財務局に情報公開請求をしました。

情報公開請求の結果得たのが冒頭の「国有財産売買契約書」コピーです。この契約書の金額欄が黒く塗りつぶされています。国有財産の売買処分は公開されているので、木村市議は価格塗りつぶしに疑問を持ちました。

「何かある」。木村真市議は本格的に調査活動を始めました。売買価格欄の黒塗りつぶしの向こうには、国会を揺るがし、安倍政権を揺るがし、安倍昭恵首相夫人は公の席から姿を隠して逃げ一方、安倍首相は国会の激しい追及に弁明と居直りに追われ、大がかりな公文書変造で財務省理財局全体の信用は失墜し、高級官僚への信頼は音を立てて崩れ、挙句の果てに公文書の変造を命じられ強要され実行した末端の誠実な官吏1人が苦悩の果てに自殺した。

冒頭掲載「国有財産売買契約書」の売買価格黒塗りつぶしの裏には、これほどの悪事が広がっていました。

わたしたちは、公文書の黒塗りつぶしとはこういうものだ、黒塗りつぶしの下には悪事が広がっていると、常から心構えしておかねばなりません。




持続化給付金の「電通」迂回受注でも「黒塗り公文書」

さて、二つ目の上の画像は、6月1日野党合同ヒアリングに際して経産省が野党に提出した資料の一つ、「入札調書」です。

入札はたったの2社。仕事を取れなかったデロイトトーマツファイナンシャルアドバイザリー合同会社の金額欄が黒で塗りつぶされています。

この会社のホームページでは、次のように自己紹介しています。

デロイトトーマツ https://dtfacareer.tohmatsu.co.jp/about/

 デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー(DTFA)は国際的なビジネスプロフェッショナルネットワークであるDeloitte(デロイト)のメンバーで、有限責任監査法人トーマツのグループ会社です。

 DTFAはデロイトの一員として日本におけるファイナンシャルアドバイザリーサービスを担い、デロイトおよびデロイト トーマツグループで有する監査・リスクアドバイザリー、コンサルティング、ファイナンシャルアドバイザリー、税務・法務の総合力を活かし、収益構造を変革するためのM&Aや、企業再編・不正調査などのクライシスマネジメントの局面において、企業が直面する重要な課題の解決を支援しています。

 800名規模のファイナンシャルアドバイザーが、国内では東京・大阪・名古屋・福岡を拠点に活動し、海外ではデロイトの各メンバーファームと連携して、日本のみならず世界中のあらゆる地域で最適なサービスを提供できる体制を有しています。


この会社の説明を見ていると、持続化給付金業務を受託した(社)サービスデザイン推進協議会の本体である電通よりは、デロイトトーマツの方が専門性と人材において、持続化給付金や休業補償等の業務適性があると、わたしには見えます。

「持続化給付金業務委託769億円契約」について6月1日、経産省に対する野党合同ヒアリングが国会内で行われました。その一問一答を毎日新聞が伝えています。このうち黒塗り金額に関する一問一答が次の通りです。

毎日新聞2020.6.1. 20:52
<持続化給付金>
 6月1日、野党ヒアリング詳報 相手企業の入札額は黒塗り、政府「公表しない」


〇山井議員
 持続化給付金の入札で、協議会と(黒塗りされた)デロイトトーマツの価
 格は、どっちが高かったのか。
〇経産省
 価格については公表できない。
〇山井議員
 デロイトの方が安かったが、協議会を選んだ可能性もあるということか。
〇経産省
 価格については公表しない。
〇山井議員
 真っ黒にされたら、適正かどうか判断できない。
〇経産省
 ルールとして札入れについて企業に確認を取る。デロイトに確認を取った
 ところ、出さないでくれと。
  

   (注) これは「桜を見る会」で、野党側の見積書提示要求に対して、安倍首相が
    「ホテル側が企業秘密なので見せてほしくないと言っている」として逃げたの
    と同じ手法です。ホテルは安倍首相ににらまれたくありません。デロイトトー
    マツも経産省のごきげんを損ねたくありません。企業としては当然のことで
    す。これは昔の時代劇の悪代官を思わせる手口です。
 


〇川内議員
 公共調達は、少なくとも価格は公表が前提だ。
〇経産省
 私どもの運用でそうしている。会計法や情報公開法を総合的に考えた。


このようにして、経産省はデロイトトーマツの入札価格を公表しません。何か悪事が隠されているに違いありません。

持続化給付金の申請受付が5月1日から始まりました。しかし当初からコンピューターシステムの不具合、何十回かけても電話がつながらない、電話がつながってもこちらが教えてほしいことに相手が答えられない、などトラブル続出となりました。

文春オンラインが769億円という巨額契約の受注者である一般社団法人サービスデザイン協議会について記事を書いています。

週刊文春オンライン 2020/05/27 16:00

 安倍政権がコロナ不況への緊急経済対策として打ち出した「持続化給付金」。約2兆3000億円の予算がついたこの事業を経産省から委託された一般社団法人が、実体のない“幽霊法人”だったことが「週刊文春」の取材で分かった。社団法人の代表理事が「週刊文春」の取材に対し、「何も活動がない」と認めた。

 持続化給付金事業は、昨年より収入が減った中小企業等の法人に最大200万円、フリーランスを含む個人事業者に最大100万円を上限に現金を支給する制度だが、入金が遅れるなどトラブルが相次いでいる。

 登記簿に記載されている所在地は、東京・築地にある9階建てのオフィスビルだ。記者が実際に訪ねてみると、確かにエントランスの案内板には〈2F 一般社団法人サービスデザイン推進協議会 ITプロジェクトルーム〉の文字が。ところが、2階に上がると、膨大な業務に追われているはずのサービスデザイン推進協議会(以下、「サ推進協議会」)のドアは固く閉じられ、インターフォンを何度押しても反応はなかった。(※訪問日は5月26日以前のことになる)

 「週刊文春」の取材に対し、「サ推進協議会」の代表理事である笠原英一氏(アジア太平洋マーケティング研究所所長)が明かす。

「私は電通の友人に頼まれて、インバウンドの研究をやろうと思って入ったんだけど、何にも活動がないから。いつも会議は電通さんでやっていました。電通さんに聞いた方が」

 代理店関係者が言う。

「『サ推進協議会』は、経産省肝いりの『おもてなし規格認証』という制度を運営する団体として2016年5月16日に設立された。主導したのは当時電通社員だったA氏で、電通が国の業務を間接的に請け負うための隠れ蓑として設立された団体と言われています」

「サ推進協議会」設立時の代表理事を務めた、ユニバーサルデザイン総合研究所所長の赤池学氏が言う。

「ご存じのように、『おもてなし規格認証』のために作られた組織です。うちの研究所もいろんなビジネスのネットワークがあったので、経産省の方から立ち上げの直前に代表理事を受けてもらえないかという話があって、それで受けたんですけど」

―― 以下、略 ――


769億円もの巨額事業の受注業者であるサービスデザイン推進協議会を週刊文春記者が訪問したのは5月26日以前。その事務所は誰もいない「もぬけの殻」でした。

6月1日午前11時ごろ、野党議員がサ推進協会の事務所を見に行きました。やっぱり「もぬけの殻」でした。誰ひとりいません。毎日新聞が野党議員のことばを次のように伝えています。

毎日新聞2020.6.1. 20:52
<持続化給付金> 6月1日、野党ヒアリング詳報 サービスデザイン推進協議会は「もぬけの殻」

○原口一博氏
 大変な状況なのに(持続化給付金が)届かない。協議会に朝、視察したら呼び鈴もなければ、電話もない。769億円ものお金を、このようなところがやっている。犯罪に近いのではないか。怒りにふるえた。 ― 後略 ―

○渡辺周氏
 今日11時に現地に伺った。中小企業庁からはテレワークで全員出払っていて誰もいないと。現地に行って、建物2階の協議会行きましたが、呼び鈴すらない。張り紙がしてあって、全く無機質な入り口があって、人が仕事をしている様子もない。 ― 中略 ― 実体はどこにあるのか。正直、怪しいと言わざるをえない団体だ。


上記のように5月26日以前に1回、6月1日に1回、サービスデザイン推進協議会の事務所が閉ざされていて「もぬけの殻」であることが目視されています。

「もぬけの殻」を返上するためか、6月9日、サ推進協議会が報道陣に事務所を公開しました。

時事通信 2020.6.9. 20:33
<持続化給付金>
 サービスデザイン推進協議会が事務所公開 PC十数台、5人が勤務


 新型コロナウイルスで打撃を受けた中小事業者に最大200万円を支給する「持続化給付金」の運営を政府から委託された一般社団法人サービスデザイン推進協議会が9日、報道陣に東京都中央区の本部事務所を公開した。同協議会をめぐっては実態が不透明だとして野党などが追及を強めており、勤務状況を明らかにすることで理解を得る狙いがありそうだ。

 ビル2階の一画(66.5平方メートル)を借り、パソコン十数台や電話機8台を設置。本部には9人の職員がいるが、公開時は5人が書類作成や集計業務に当たっていた。広報担当の武藤靖人理事は「都内に複数の拠点があり、150人体制で支払い業務などを行っている」と述べた。


6月9日のサービスデザイン推進協議会は数人が在勤し、報道陣も訪れました。しかしどう見ても 769億円もの巨額契約事業を仕切る窓口法人には見えません。

明けて6月10日。サ推進協議会の事務所はまたもや「もぬけの殻」。ガードマン2人が門衛を務めていました。 東京新聞が伝えています。

東京新聞 2020.6.11. 07:11
<持続化給付金>
 給付金の受託法人、事務所また無人に 前日に報道公開


  国の持続化給付金業務を受託した一般社団法人サービスデザイン推進協議会の東京都内の本部事務所は十日午後、無人だった。法人は前日九日、報道機関の代表取材に内部を公開したばかり。「実体に乏しい」という疑念の払拭(ふっしょく)に努める姿勢を示したが、訪れた野党議員は「パフォーマンスだった」と批判した。

 事務所の入り口は民間警備会社の男性警備員二人が立ってふさぎ、「中には誰もいない」と説明。いつ戻るのかなどの質問に「分からない」と繰り返した。

  本部事務所はこれまで無人が続いていたが、法人は九日、在宅勤務体制を緩和して本部の使用を再開したと説明していた。野党共同会派の山井和則氏(無所属)は「国民に虚偽の説明をしたことになる」と述べた。

 法人の広報担当者は取材に「午前中は担当者二人が出社していた。午後に都内の別の事務所に外出して不在だった」と説明した。


サービスデザイン推進協議会事務所は平常時には「もぬけの殻」なのです。名義上だけの受注契約機関なのです。平常時に発生するサ推進協議会の事務所維持経費処理などのごくわずかな業務は、電通系列の会社のどこかセクションで代務処理しているのでしょう。

広報担当の武藤靖人理事が「都内に複数の拠点があり、150人体制で支払い業務などを行っている」と言っているのですから、一つの仕事を受注しているときはやはり電通系列の会社のいくつかのセクションで分散処理しているのではないでしょうか。

もともと常任理事は一人もいないということでした。同様に、専任従業員も一人もいないのではないでしょうか。

サービスデザイン推進協議会は、要するに活動実態のない受注特化社団法人なのです。  ……次回につつきます


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最高検が昨秋から広島地検で進めてきた 河井克行前法相・河井案里議員の公職選挙法買収違反捜査の経緯

2020-06-05 11:10:05 | Weblog


2020-04-23
2020-05-13
2020-05-15
2020-05-16
2020-05-17
2020-05-20
2020-05-22
2020-05-25



〇2019.07.04.
   ▷参議院選挙公示日。 広島選挙区定数2。 野党1議席と自民党岸田派・
  溝手顕正氏1議席で安定しているところへ河井案里氏を自民党公認。 
  党の選挙資金配分が河合案里氏1億5000万円、溝手顕正氏1500万円。

〇2019.07.21.
   ▷参議院選挙投票日。 河合案里氏初当選、溝手顕正氏落選。

2019.09.11.
   ▷第4次安倍第2次改造内閣。 河井克行氏、法務大臣入閣。 菅原一秀氏、
  経済産業大臣入閣。

2019.09.25.
   ▷公設秘書が地元支持者の通夜で香典を渡した問題で菅原一秀氏(東京9区)、
  経済産業大臣辞任。 2012年第2次安倍政権発足後10人目の大臣辞任。

〇2019.10.30.
   ▷週刊文春2019.10.30.電子版によると、河井案里氏の陣営は2019年7月参
  院選で、13人の車上運動員にそれぞれ3万円の日当を支払った疑いがあ
  るという。 公職選挙法は施行令で、車上運動員の日当について、1万5
  千円を上限と定めている。  (時事通信2019.10.30. 18:13)

〇2019.10.31.
   ▷週刊文春の河井案里氏に関わる公職選挙法違反報道を受けて、河井克行
  氏が法務大臣辞職。 2012年第2次安倍政権発足後11人目の大臣辞任。

   候補者本人が公選法違反行為に直接関わっていない場合でも「連座制」が
  適用され、当選が無効になることがある。 週刊文春は「選対関係者」と
  される人物の発言を引用する形で、河井克行氏が「選対を実質的に取り仕
  切っていた」としている。 (産経新聞2019.10.31 08:27)

〇2019.12.06 
   10月下旬に閣僚を辞任した自民党の菅原一秀・前経済産業相と河井克
  行・前法相の国会欠席が続いている。 公職選挙法違反の疑いが週刊誌
  で報じられ、河井氏辞任につながった妻の案里参院議員も欠席している。
                     (朝日新聞デジタル2019.12.06. 18:49)

   衆院事務局によると、河井氏と公選法が禁じる寄付疑惑を受けて辞任した
  菅原氏は、11月7日以降の衆院本会議の欠席届を提出。  案里氏は週刊
  誌報道後、公の場に姿を現さず、同月15日以降は本会議に欠席届を出し
  ている。 

〇2019.12.28.
   ▷自民党の河井克行前法相(衆院広島3区)の妻案里氏(参院広島)の陣営
  が、7月の参院選広島選挙区で法定上限を上回る報酬を車上運動員に渡し
  たと報じられた疑惑で、広島地検が捜査に着手したことが27日、関係者
  への取材で分かった。 公選法に違反した疑いもあるとみて、当時の車上
  運動員らから任意で事情を聴いているもようだ。

   ▷陣営の関係者が地検から任意の事情聴取を受けていると、複数の関係者が
  明らかにした。 車上運動員に一斉に聴取が始まったと明かす関係者もい
  る。 今春の県議選の期間中に、案里氏が複数の自民党県議に現金を持参
  したとの証言も明らかになっている。

   ▷初当選した7月の参院選で事務所が13人の車上運動員に、1人当たりの日
  当として法定上限(1万5千円)を超す3万円を支払ったとする、公選法
  違反(運動員買収)などの疑惑が案理氏に浮上している。 疑惑が週刊誌
  で報じられた10月31日に克行氏は法相を辞任した。
                  (以上、中國新聞デジタル 2019.12.28. )
〇2020.01.15.
   ▷広島地検が河井克行前法相と妻の案里参院議員の地元事務所を家宅捜索 
  た。 

〇2020.01.20.
   ▷通常国会が始まった1月20日、国会には菅原一秀前経産相、河井克行前法 
  相、河井案理参議院議員ら「疑惑」が浮上した議員たちも姿を見せた。 
                     (毎日新聞2020.01.20. 19:40)  
〇2020.01.31. 
   ▷黒川弘務東京高等検察庁検事長の勤務延長6カ月を閣議決定した。 閣議 
    決定の 依拠法令は国家公務員法の定年規定の援用であり、検察庁法の定 
    年規定に基づかない閣議決定は違法無効と言える。 この不可解な閣議 
    決定は、安倍首相が黒川弘務氏を検事総長に任用するための手段であ 
    る。 

〇2020.03.03.
   ▷広島地検が3月3日、自民党の河井案里参院議員の公設秘書、夫である前法
  相・河井克行衆院議員の政策秘書、案里氏陣営スタッフの3人を昨年7月  
  参院選に関わる公職選挙法違反(買収)の疑いで逮捕した。 3人が公職 
  選挙法で規定する連座制の対象と判断されれば、案里氏が失職する可能
  性がある。  (産経新聞 2020.03.03. 12:40 )

   ▷また同3月3日、広島地検は河井夫妻の東京・永田町の議員会館にある事 
    務 所を家宅捜索し、2人の携帯電話も押収した。 河井克行氏は事実 
    上、河井案里氏の陣営を指揮していたとされ、地検は関与の有無を慎重
    に見極める。  (産経新聞 2020.03.03. 12:40 )  

〇2020.03.13. 
   ▷検察庁法、「特例任用による定年延長」条項を設定した改悪法案を閣議 
    決定した。 

〇2020.03.24.
   ▷広島地検が24日、自民党の河井案里参院議員の公設秘書と夫である前法  
    相・河井克行衆院議員の政策秘書2人昨年2019年7月参院選に関わ   
    る 公職選挙法違反(買収)の疑いで起訴した。 地検が審理迅速化をめざ  
  して「百日裁判」を 申立て。 3月3日逮捕のもう1人は処分保留で釈放。

〇2020.03.30.
   ▷広島高検に東京地検特捜部長経験者の中原亮一氏が着任。前任検事長は定
  年退官。

〇2020.04.09.
   ▷広島地検が渡辺典子県議と桧山俊宏県議の関係先を家宅捜索 
   ▷安芸太田町長が辞職。 参院選前、河井克行氏から現金20万円を受け 
    取っていた。
   ▷首長や地方議員への現金持参が次々発覚した。

〇2020.04.16.
   ▷広島地検が平本徹県議の事務所などを家宅捜索 

〇2020.04.21.
   ▷広島市の平野博昭元市議会議長らの事務所など家宅捜索 

〇2020.04.23.
   ▷沖宗正明広島市議の自宅を家宅捜索 

〇2020.04.25.
   ▷広島県安芸高田市の浜田一義前市長を聴取、自宅を家宅捜索 

〇2020.04.28.
   ▷広島地検、にある元県議会議長の桧山俊宏氏(75)ら自民党系県議3人の
    広島県議会棟会派控室を家宅捜索。 広島地検は夫妻側が案里氏への票の
    取りまとめを依頼し、現金を渡した可能性があるとみているが、県議3人
    は取材に対し、授受などを否定している。 (中國新聞 2020.05.09.)   

   ▷中国新聞のこれまでの取材で、別の県議7人と広島市議6人、廿日市市議 
    1人の計14人が、参院選前に河井夫妻が現金を持参してきたと証言。 
    県議選などがあった昨年4月の統一地方選前後の時期に30~50万円を持 
    参したケースが多かった。

     首長では安芸太田町長だった小坂真治氏が20万円を受け取ったと認め、
  4月に辞職。 大竹市の入山欣郎市長は現金が入ったとみられる封筒を提
  示されたが突き返したとしている。 (中國新聞 2020.05.09.)     



 ※以下は、河井克行氏・河井案理氏の選挙違反に関係する公職選挙法第221条の
  条文です

 (買収及び利害誘導罪)
第221条 次の各号に掲げる行為をした者は、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。

  一 当選を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて選挙人又は選挙運動
  者に対し金銭、物品その他の財産上の利益若しくは公私の職務の供与、その
  供与の申込み若しくは約束をし又は供応接待、その申込み若しくは約束をし
  たとき。 


 二 当選を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて選挙人又は選挙運動
  者に対しその者又はその者と関係のある社寺、学校、会社、組合、市町村等
  に対する用水、小作、債権、寄附その他特殊の直接利害関係を利用して誘導
  をしたとき。

 三 投票をし若しくはしないこと、選挙運動をし若しくはやめたこと又はその
  周旋勧誘をしたことの報酬とする目的をもつて選挙人又は選挙運動者に対し
  第1号に掲げる行為をしたとき。

 四 第1号若しくは前号の供与、供応接待を受け若しくは要求し、第1号若しく
  は前号の申込みを承諾し又は第2号の誘導に応じ若しくはこれを促したとき。

  五 第1号から第3号までに掲げる行為をさせる目的をもつて選挙運動者に対し
  金銭若しくは物品の交付、交付の申込み若しくは約束をし又は選挙運動者が
  その交付を受け、その交付を要求し若しくはその申込みを承諾したとき。

 六 前各号に掲げる行為に関し周旋又は勧誘をしたとき。

2 中央選挙管理会の委員若しくは中央選挙管理会の庶務に従事する総務省の職
 員、参議院合同選挙区選挙管理委員会の委員若しくは職員、選挙管理委員会の
 委員若しくは職員、投票管理者、開票管理者、選挙長若しくは選挙分会長又は
 選挙事務に関係のある国若しくは地方公共団体の公務員が当該選挙に関し前項
 の罪を犯したときは、4年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金に処
 する。公安委員会の委員又は警察官がその関係区域内の選挙に関し同項の罪を
 犯したときも、また同様とする。

3 次の各号に掲げる者が第1項の罪を犯したときは、4年以下の懲役若しくは禁
 錮又は100万円以下の罰金に処する。

 一 公職の候補者

 二 選挙運動を総括主宰した者

 三 出納責任者(公職の候補者又は出納責任者と意思を通じて当該公職の候補
  者のための選挙運動に関する支出の金額のうち第196条の規定により告示さ
  れた額の二分の一以上に相当する額を支出した者を含む。)

 四 三以内に分けられた選挙区(選挙区がないときは、選挙の行われる区域)
  の地域のうち一又は二の地域における選挙運動を主宰すべき者として第1号
  又は第2号に掲げる者から定められ、当該地域における選挙運動を主宰した
  者




2020.4.29. youtube アップロード
郷原信郎の「日本の権力を斬る!」#10
https://www.youtube.com/watch?v=PNqQ19EmHbA

元検察官の郷原信郎弁護士が熱い期待
広島地検の「河井克行氏・案理氏の公職選挙法買収違反」捜査



現職時代に私は広島地検特別刑事部長を務めていたことがある。
私は広島県政界の大物に何回も独自捜査をしかけて、その古い広島の政治構造と戦ったことがある。

その後輩たちの広島地検特刑部が、今回は東京地検特捜部からも大量の応援が入って大編成の捜査部隊になって、今、広島の古い政治風土の中で起きた選挙をめぐる不正問題に取り組んでいる。これは私、本当に期待しています。

今報道されているところを見ると、十分起訴できると思う。有罪にできると思う。 私は検察を批判してきた方なんだけども、今回は全面的に応援してます。がんばってくれ、と。

河井夫妻の秘書2人が起訴された。これは連座制が適用されるので百日裁判ということで、もう始まっています。

その後、本格的に始まっているのが、河井克之氏本人が、案里氏もいっしょかもしれませんが、県政界の有力者に現金うん十万円という現金を配って、案理氏への支持を呼びかけてたと、こういう問題なんですね。昨年4月ごろ……。

昨年の参議院選挙、問題はそれだけにとどまらない。
なぜ、そんな露骨な、現金を配ってまわるようなことをしたのか。

この広島地方区の参議院議員選挙はそれまで、自民党公認が1人、そして野党が1人。この2人で、ほとんど無風選挙だった。

それが、自民党は溝手氏に加えて2人目の河井案理氏を公認した、溝手氏には1500万円。案理氏には1億5000万円。10倍ですよ。それが原資になって買収資金に充てられた。

これは自民党本部にも直結する問題じゃないか、と疑われるわけですよ。
ちょっとこれまでの選挙違反とはまったく性格の異なる重大な政治案件なんですよ。 つまり政権の中枢に直結するような事件です。

公職選挙法違反。買収・供応。これは非常に単純なんですが、実はこれが厄介なんです。

政治活動なのか、選挙活動なのか、これの弁別が検察実務上非常に厄介なんです。

政治活動に関して何かお願いをする。政治活動のための寄付をする、というのは政治資金規正法収支報告書に記載されていれば合法だし。政治資金であれば、政治資金収支報告に記載されていなくても、それは政治資金規正法の問題なんですね。

政治資金規正法対象になる政治活動、すなわち地盤培養行為と公職選挙法の買収との線引きが難しい。

これまでは、そういう弁解が出てきそうなものは、政治活動に関するお金のやりとりだということで、起訴の対象にしてこなかった。

ところが今回は違う。最高検からも「がんばってやれ」という大号令がかかって、東京地検からも大量の検事が投入されて、大部隊でやってるじゃないですか。

まさに、これまでの検察実務から一歩進めて、やろうじゃないか、ということでやってるんだと思うんですよ。これは起訴すれば、有罪になります。だから、がんばれと言いたいんです。

これは有罪になります。
もちろん供述は取らないといけないですよ。

それは、河井安理氏の選挙でよろしく、支持する活動してください、選挙でも助けてください、運動してください、という趣旨だということは立証しなければいけないですよ。趣旨が立証できれば、有罪になります。

それでは、検察は今までの慣習を破って、今回は起訴しようという方向に向かっているのか。

それは、安倍政権にずたずたにされたからです。なんといっても検事長定年延長の問題ですよ。まちがいない。あれは絶対にやっちゃいけないことをやったんですよ、政権が。

違法に、検察庁法違反をして、定年で退官しないといけない検事長を国家公務員法の定年延長でむりやり、そのまま検事長に置いて、そして検事総長の職まで付けて、そういうことで内閣が政権が検察を支配下に収めようとする。

違法な手段を使って支配下に収めようとするから、世の中から大変な批判を受けました。

で、そんなものをやられてしまう検察は何なんだと。法務省だってそうですよ。というその、国民から検察に対する不信がものすごく高まりつつある。そんな政権にやすやすとされてていいのかという状況で、検察が敢えてこの事件をとことんやろうという方向に行ってるんだと思いますよ。

黒川人事、東京高検検事長の違法な人事に検察が怒ったのか、それともこの広島の事件が官邸に来るかもしれないと恐れを抱いた政権が黒川さんを検事総長にしようとしているのか、どちらなのか。

河井克行氏が県政界の有力者に現金を配ってまわってたいうことが、もし公職選挙法の1号、お金を直接に選挙人や選挙運動者に渡したという供与罪になるとすると、買収罪になるとすると、その資金を提供する行為は第5号の交付罪に当たるんです。

というのは、1500万円と1億5000万円の違いがあるからです。普通の選挙運動に対する直接経費であれば、1500万円ていどで賄えるわけですよ。なぜ、1億5000万円もの多額のお金を渡したのか。それ以上のことをやって支持を取り付ける目的としか考えられないじゃないですか。最も効果的な方法は有力者にお金を配る行為ですよ。これ、誰が考えたってわかるじゃないですか。

そういう意味では、党本部から1億5000万円が河井克行氏の陣営に渡されたこと、河井克行氏と案理氏の両方に入ってないんですよ。それがその最終的に買収と言われる行為に直結した疑いがあるわけですね。

この問題は検察が敢えて河井克行氏本人に向かっていくとすると、政権に直結するんですよ。自民党本部に直結し、もう一つここには安倍首相の個人的な動機があるんじゃないか、と言われてるんですね。

もう一人の候補であった落選した溝手氏に対して積年の恨みがある。週刊文春が書いてます。第1次安倍政権のとき参議院選挙で負けて、そのとき批判されたことをずっと恨みを持っていたという事情があったと言われてるわけです。

しかも1億5000万円もの多額の資金を出すときに総裁が知らないわけないじゃないですか。となると、この事件は自民党本部、そして官邸にまで及びかねない大変な事件なんです。

となると、遡って考えると、あの検事長、違法な定年延長の動機もひょっとするとここにあったのかなというようなことも疑われてくるんですね。

しかも検察がハードルを下げて、こういう、選挙から少し離れた時期の不透明な金のやりとり、それによる支持の拡大を違法だ、公職選挙法違反だ、という風に考えて起訴した、有罪になったということになったら、日本の選挙が変わります。ぐうっと選挙の透明性が増すことになるんです。ですから今回は、検察にがんばってもらいたい。

それじゃ、どうしてこれを東京地検特捜とか大阪地検特捜とかでやらなかったのか。広島地検は広島高検管内です。東京地検特捜部であれば、東京高検管内です。東京高検の検事長は黒川弘務氏です。

  
(注) 黒川東京高検検事長は5月21日辞職。 この郷原弁護士youtube談話は
   その前の4月29日で、黒川辞職が考えられない時期のことです。


いくら官邸の意向を受けてストップをかけようと思っても、残念ながら今の黒川検事長には何もできない。管轄外なんです。人(検事)を出してるだけです、東京から。



〇2020.05.09.
   ▷自民党の河井案里氏(46)=参院広島=の陣営による公選法違反事件で、
    広島地検が案里氏と夫の克行前法相(57)=衆院広島3区=を大型連休中
    に任意聴取していたことが9日、関係者への取材で分かった。
                      (中國新聞 2020.05.09.)     

〇2020.05.19.
   ▷自民党の河井案里参院議員(46)が初当選した昨年7月の参院選で車上運
  動員に違法な報酬を支払ったとして、公選法違反(買収)の罪に問われた
  案里氏の公設秘書立道浩被告(54)の第2回公判が19日、広島地裁(冨田
  敦史裁判長)で開かれ、立道被告は「違法報酬を支払ったのは事実です」 
  と起訴内容を認めた。  (共同通信 2020.05.19. 18:19)

〇2020.05.20.
   ▷週刊文春電子版が黒川弘務氏と新聞記者が賭け麻雀をしたと報道。

〇2020.05.21. 
   ▷黒川弘務東京高検検事長が自らの賭け麻雀発覚により辞職。

〇2020.05.26. 
   ▷法務省は26日付で、東京高等検察庁の新検事長に林真琴名古屋高検検事長
    を起用した。

〇2020.05.27.
   ▷自民党の河井案里参院議員(46)=広島選挙区=の陣営による公選法違反
    事件で、検察当局が自民党本部関係者を任意で事情聴取したことが27日、
    関係者への取材で分かった。 河井案里氏が初当選した昨年7月の参院選
    の公示前、自民党本部が案里氏側に提供した1億5千万円について、目的や
    決定者などを確認したとみられる。

   ▷検察当局は、河井案里氏の夫で前法相の河井克行氏(57)=自民、衆院広
    島3区=が地元議員らに現金を配ったとして、公選法違反(買収)の疑い
    で河井克行氏を立件する方針を固めている。 1億5千万円を使い、広範囲
    に買収行為をした疑いがあるとみている。

〇2020.06.05.
   ▷自民党の河井案里参院議員(46)=広島選挙区=が初当選した2019年参
    院選を巡り、検察当局が、夫で自民党の克行前法相(57)=衆院広島3区
    =に加え、案里氏についても、公職選挙法違反(買収)容疑での立件を検
    討していることが関係者への取材で判明した。通常国会閉会後の本格捜査
    を見据え、2人の共謀関係が問えるかなどについて、最高検が最終的な検
    討を重ねているとみられる。  (毎日新聞 2020.6.5.)




<政治とカネ>安倍内閣シリーズ記事 (2016年6月)
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<政治とカネ> 安倍内閣 甘利前大臣の大臣室現金授受を忘れない(2)
<政治とカネ> 安倍内閣の西川公也元農水大臣 大臣は辞職・議員辞職はなし 痛くもかゆ         くもない面々
<政治とカネ> 安倍内閣の小渕優子元経済産業大臣 大臣辞職したが議員辞職はなし 痛く         もかゆくもない面々
<政治とカネ> 安倍内閣の「政治とカネ」辞職大臣が8名、多過ぎる!
<政治とカネ> 安倍首相 世襲政治資金は相続税免除(合法)、世襲政治団体は認めるべき         じゃない



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